第9章 律法から御霊へ
ガラテヤ5章13~26節
13なぜなら兄弟姉妹、あなたがたが召されたのは、自由になるためである。ただし、この自由を、肉への機会とせず、愛によって互いに仕えなさい。
14なぜなら律法の全体は一言で成就される。すなわち、「あなたの隣人を自分のように愛する」ことである。
15だが、互いに咬み合い、引き裂き合っているなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。
16だからこう言おう。御霊にあって歩みなさい。そうすれば、肉の欲に負けてしまうことは決してない。
17なぜなら肉の欲は霊に反し、霊は肉に反する。これらは互いに対立し、その結果、あなたがたの意志することが実行できなくなる。
18しかし、御霊に導かれるなら、あなたがたは、律法の下にはいない。
19肉の働きは明らかである。それらは、不倫、不潔、ふしだら、
20偶像礼拝、魔術、敵意、競い争い、嫉妬の情念、憤怒、利己的な党派心、派閥争い、仲間割れ、
21ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのもの。先にあなたがたに告げたように、また予告するが、このような仕業に及ぶ者は、神の国を受け継ぐことがない。
22これに対し、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈しみ、善意、誠実、
23柔和、節度で、これらに反対する律法はない。
24だからキリスト・イエスの人たちは、その衝動と欲望もろとも肉を十字架につけてしまった。
25霊に生きるのなら、霊に準じて歩もう。
26うぬぼれに陥らないようにしよう。互いに挑み合い、互いにねたみ合わないためである。

「行ない」から「成就」へ
 ガラテヤ人への手紙の5章4節で、パウロは、「律法によって義とされようとする者はだれでも、キリストから切り離されて、恵みから落ちてしまった」と強い口調で律法からの自由を勧めている。ところが、5章14節では、「律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』という一言によって成就される」とあって、ここでは旧約聖書の律法が引用されている。だから、5章4節と14節とでは、律法についての彼の姿勢が一見矛盾しているように見える。さらに6章2節では、「キリストの律法を成就する」ことが語られている。ガラテヤ人への手紙の5章から6章前半にかけてのわずかこれだけの部分でも、パウロは、「キリストから(人を)切り離す律法」と「成就される律法」と「キリストの律法」について語る。いったいパウロでは、この「律法」の見せる諸相は、相互にどのように関係するのだろうか? この疑問はおそらく、パウロの言う「律法/ノモス」とはそもそもどのようなものかを掘り下げて考察しなければ解明できないであろう。「律法」の問題は、パウロの継承思想の基軸をなしている。
 パウロが、ガラテヤの信徒たちに向かって、割礼を受ける人は「律法のすべてを行なう義務がある」(5章3節)と言う時、彼は律法を箇条的に見て、その総数を考えている。律法の箇条全部を「行なう」ことはとても不可能であるから、「律法の書に書かれているすべてを絶えず守らない者は呪われる」(3章10節)ことになるのであろう。ところが、その彼が、「律法全体は一言で成就される」(5章14節)とも言う。この「一言」とは、レビ記19章18節(七十人訳)の「神と隣人を愛すること」を指す。たとえ「すべてを絶えず守る」ことはできなくても、この「一言」を守ることによって、律法は「全体として成就される」と言うのである。
 イエスからパウロにいたる時代のユダヤ教では、律法を個々の条項に分類して、日常の具体的な行為を諸律法と結びつけて解釈するやり方が一般的であった。このやり方では、人は律法に束縛されてはいるけれども、自分の振舞い方について迷う必要がないから、日常生活においてはかえって便利な面もあった。しかしいったんこのやり方に従うと、信仰生活を含めて、日常のいっさいの行為が、細々した律法に準じて行なわれなければならなくなる。パウロが、「あなたがたが律法のすべてを守らなければならなくなる」と言ったのはこのためであり、こういう律法制度のあり方を彼は「律法の諸行」と呼んで、これを全面的に否定した。
 ただし、パウロがかつて属していたユダヤ教のファリサイ派では、律法は、その全体においてある根本的な命題に基づいていて、律法のすべてにはこの基本命題が含まれているという見方があった。パウロは、ガマリエルの門下で律法を学んだと証言している(使徒22章3節)。ガマリエルは、当時のファリサイ派の主流であるヒレル学派の著名なラビであったが、ヒレル学派では、律法全体を根底で支えているのはレビ記19章18節であるという見方がされていたようである〔Betz 276〕。だからパウロも、この説に従って、ここで律法を「守り行なう」ことと「成就する」こととを区別していると見ることもできよう。しかし、わざわざファリサイ派を持ち出さなくても、律法全体の根底にレビ記19章18節の精神が流れているというのは、原初のキリスト教会でも広く知られていた律法観であったから、パウロは、教会のこの伝承に従っているのであろう。
 律法を個々の条項に分類して、人間の個々の行為に諸律法を適用するやり方と、律法をその全体において隣人愛への勧めと見て、これの成就を求めるやり方、このふたつの律法観の間で、原初のキリスト教会もパウロも後者を選んだことになる。これが、キリストにある恵みの信仰にふさわしい律法観だったからであろう。それにしても、律法をその「すべて」〔原語は「ホロス」〕において「行なおう」とすればキリストの恵みを失うのに、律法をその「全体」〔原語は「パース」〕において「成就する」ことがキリストにあって可能であるというのは、どういうことだろうか? 「すべて」と「全体」、「行なう」と「成就する」、この二組の同義語とも思われる言葉が、それぞれの組み合わせの中で対立しているが、この対立は、何を意味するのだろう? 律法の「すべてを行なおう」とすることが呪いを招くと断言するのであれば、パウロは、どうしてキリストにあって律法の「全体が成就される」と明言することが「できた」のだろう? この謎を解く鍵は「キリストの恵み」にあるだけではない。その謎を解く鍵は「律法」にも潜んでいる、というのがわたしの見方である。 
 パウロはまず、律法を「実行する」ことと律法を「成就する」こととを区別している。次いで彼は「律法」と「聖書」とを区別する。律法は束縛し隷従させる。しかし聖書のほうは、救済史的な視野に立って、キリストの救いを「予見し」「預言する」のである(3章8節)。ガラテヤ人への手紙5章では、キリスト者の生活が「御霊の実」を結ぶことと定義されている。しかも御霊の働きが律法と対立「しない」ばかりか、「キリストの律法」として、御霊に歩む人に律法の本質が「成就する」ことへつながるのである(6章2節)。ローマ人への手紙8章4節や同13章8節でもパウロは「成就する」とは「満たされる」ことだと述べている。「満たされる」とは、律法の目的が、イエスの救いと赦しの御霊にあって、わたしたちに「完徹される」ことである。イエスも「神と隣人を自分のように愛する」ことにまさる戒めはほかにないと言い切っているから(マルコ12章31節)、パウロが「隣人を愛する」ことによって「律法を成就する」と言う時に、彼はイエスと同じところに立っていると言えよう。ただし、ユダヤ教で「隣人」というのは、イスラエル共同体に属する者に限られていたのだが、パウロはこの用語を一般化して、人間全体の意味で引用している。
律法の人格化
 このようにパウロは、旧約の律法を箇条的に「実行」するという解釈から、律法をその全体像としてとらえることによって、律法を「成就する」道へ移行した。この過程において彼は、律法の全体像を「キリスト」としてとらえ直している。「キリストこそ律法の完成/目標」なのである(ローマ10章4節)。彼は、このように律法を人格化(personify)することによって律法の「成就」を目指す。パウロにあっては、一つ一つの律法を実行しようとする「律法の諸行」から、イエス・キリストに託して律法全体を「成就」する過程において、このような「律法の人格化」が生じているが分かる。パウロの言う信仰とは、イエス・キリストというペルソナ(人格)を信じて、その人格的な存在に自分を委ねることなのである。しかも、こういう人格的な信仰は、その人格に「全面的に」信頼すること、言い換えると、信仰するその人格への信託以外の「いっさいを」排除することにつながる。信仰とは、キリストに全信託する時に初めて成り立つ世界だからである。こういう全人格的な信頼関係においては、「律法と信仰」あるいは「行ないと信仰」のような「と」は入り込む余地を持たない。パウロの「行為」から「信仰」への転換は、こうして「律法の諸行」の排除を必然的に伴うことになる。だからパウロにあっては、律法を箇条的に行なわせる「命令」と人格的な信頼から発する御霊の促しとは、本質的に異なっている。後者は「命令」と言うより、「促し」あるいは「迫り」と言うべきであって、宗教改革時代の人たちが「内なる声」(inner voice)と呼んだものがこれに近いであろう。
 パウロはこのように律法全体を「キリスト」において人格化することによって、「律法の諸行」から「律法の成就」へと転換した。この転換を通じて、パウロの律法観は、福音と対立する律法から(5章4節)福音によって成就される律法へと、すなわちキリストの「御霊にある律法」(6章2節)へと変容を遂げたことになる。だからこれは「律法」と言うよりは「キリストの霊法」と呼ぶほうがふさわしいであろう。ただし、この転換の過程は、ガラテヤ人への手紙では表われてこない。「律法」から「霊法」への変容をたどることができるのは、ローマ人への手紙(7~8章)においてなのである。
パウロの律法観の波紋
 律法主義的なユダヤ人キリスト教徒たちは、ガラテヤの信徒たちを訪れて、割礼を強要したが、彼らは、その際に伝統的なユダヤ教の「律法」をパウロの福音「と」並列させようとした。彼らは、いわゆるモーセ律法とキリストの福音の両者を相互補完的な関係において理解していたからである。少なくともこれが、割礼を受けようとするガラテヤの信徒たちの姿勢であったと見ることができよう。だが、パウロが彼らに割礼の拒否を勧告したために、結果としてパウロの福音は、「モーセ律法」と対立する印象を与えることになった。この拒否によって、パウロの言う「律法」が、何を意味するのか、あるいはしないのか、これが改めて問われることになったのである。
 律法主義的なユダヤ人キリスト教徒が口にする「律法」は、パウロの目から見れば、かつてサウロであった頃の自分が見ていた「律法」に近い。だが、パウロはもはや、ユダヤ教に組み込まれたモーセ律法をイエス・キリストを信じる以前に見ていたようには見ていない。フィリピ人への手紙3章6節で、彼は「律法について言えばファリサイ派の一員」であったと回顧しているが、そこでの「律法」が、「サウロの律法」に近いのかもしれない。だが、ここガラテヤ人への手紙でパウロが「律法」という時には、福音と対立する律法のことであって、この段階でパウロが言う「律法」は、もはやユダヤ教徒たちが見ている「律法」のことではなく、律法主義的なユダヤ人キリスト教徒たちが見ている「律法」のことでさえもない。
 パウロが、キリストにあって「成就している律法」と言う時に、それは彼がキリストの御霊にあって見ている「律法」のことであって、言わばパウロの福音そのものにすでに内蔵されている「律法」のことなのである。こういう律法観は、「パウロ的な」律法観であるから、モーセ律法に根ざしてはいるものの、キリストの御霊にあってすでに変容を遂げていると見なければならない。だから、キリスト者の内に御霊にあって律法が成就している場合の「律法」は、むしろ「キリストの霊法」と呼ぶほうが適切であろう。こういう律法観は、もはやユダヤ教徒あるいは律法主義的なユダヤ人キリスト教徒たちの律法観とは相容れないものに変容している。律法主義者たちが、自分たちの律法観とパウロのそれとの違いをどこまで認識していたのかは明かでないが、同様に、パウロの側も彼に対立するユダヤ人キリスト教徒たちの律法観と自分のそれとの違いをはたしてどこまで自覚していたのか、この点は必ずしも明確でない。
 なぜなら、パウロ自身は、わたしがここで提示しているように、ユダヤ教の「律法」とイエス・キリストの御霊に啓示されて把握している「律法」の諸相とを区別しては<いない>と考えられる。彼にとって「律法」は一つであり、それゆえにこそ、自分の律法理解に背く者は、ユダヤ教徒であろうとユダヤ人キリスト教徒であろうと、神の律法に背く「呪われるべき」存在なのである。これを言い換えるなら、ガラテヤ人への手紙もローマ人への手紙も、そのテキストそれ自体は、ユダヤ教の律法とキリストにあって理解される律法とを区別してはいない。だから、わたしが「キリストにあって理解される律法」と言う時、それは筆者が導入している視点であって、パウロのテキストが自体がそのような視点を主張しているという意味ではない。ただ、このように区別して見るほうが、ユダヤ教の律法観からガラテヤ人への手紙の律法観へ、さらにそこからローマ人への手紙への律法観へと、パウロの律法の内実がどのように<継承されつつ変容して>いくのか、その過程を明らかにする上で有効だと考えるからである。
 同じ「律法」をば、このように相互に異なる律法観に基づいて論じ合うならば、非難の応酬もいたずらに誤解を生じるだけで、正しい認識から生まれる和解に到達することができなかったと思われる。
とりわけガラテヤの信徒たちの場合には、問題がいっそう複雑である。彼らはここで、ふたつの異なる律法観の狭間に立たされることになったからである。彼らの目から見るならば、パウロの福音は「律法なし」の福音であり、律法は福音にとって不要であるとさえ思われたであろう。だからパウロが「律法それ自体は正しい」と言う時に、その真意を彼らは理解できたであろうか? いったいパウロは、律法をどのようにとらえなおしたのだろう? この疑問は、ガラテヤの信徒たちにとって、切実な問いかけとなったに違いない。わたしたちもまた、パウロの福音を正しく理解するために、彼の律法観の変容過程を探る必要に迫られる。パウロの律法観を正しく認識することなしに、彼の福音を正しく知ることができないからである。この問題を探るために、今回はガラテヤ人への手紙から、次回はローマ人への手紙から、特にその律法観の変容に焦点を当てながら考察していきたいと思う。

 結論を先取りするようであるが、ここでキッテル編集の『新約聖書神学辞典』の「ノモス」の項目から引用させていただきたい。「十字架につけられたイエスがキリストであると宣言することに、パウロの思想全体を支配する中心が存していて、彼が律法について語ることもこれに含まれる。この光に照らした場合にのみ、彼の律法への肯定と否定との関係が、意味のある内面的な必然性を持つ。そうでなければ、(律法について)一方は保守的で肯定的であり、他方は否定的で急進的なふたつの無関係な思考の流れが(パウロにあって)平行していると結論せざるを得ない。パウロにあっては、律法の否定は十字架の帰結である。律法からの自由はこの方法によってのみ達成される。このことは、御霊の特有の性質と働きに根ざしている。律法の性格については、律法は神の善い意志であると要約して宣言される。したがって、律法に服しないことは神への敵対である。・・・・・パウロがレビ記(18章5節)の『これらを実行する者はこれらによって生きる』という宣言を引用する時、その強調点は『実行する』に置かれているのである」〔Theological Dictionary of NT. Vol. .1071〕。
「肉」と「霊」
 パウロは、ガラテヤ人への手紙5章1節~15節で、キリストによって与えられた自由に堅く立って、「律法の奴隷」にされてはならないと信徒たちに強く勧めている。しかしこれに続く御霊の実のカタログに「自由」自体は含まれていない。自由はこれらの実を成らせる樹だからである(第二コリント3章17節)。パウロの伝える自由は、ヨハネ福音書の「自由」や「命」と同じように、イエスの贖いによって「すでに存在している」。したがって、この自由は、すべての人に向かって開かれていて、人間がこれ以上なにかをつけ加える必要がない。この自由は、キリストの復活から降る御霊にあってすでに成就されているからであろう。こういう自由へいたる過程をパウロは「御霊に導かれる」と言う(5章16節)。
 ところがパウロは、御霊にある自由を逆に「肉の働く機会」としてはならないと警告するのである。原語の意味からすれば、キリストの自由が、肉的な情念の働く「拠点」となってはならないということである。自由が「肉の働く拠点/機会」となるのは、人間が、神の御霊の働きにあっても、なお弱くてもろく、欲や情念に動かされやすいからであろう。したがって、キリスト者は、「この世のもろもろの霊力」に動かされる自分の「肉」と御霊にある「霊」の働きと、このふたつが互いに葛藤する場に置かれることになる。「キリストにある者」も、この世では、いぜんとして肉にまつわる誘惑を免れることができない(6章7~8節)。「霊」と「肉」とのこの相剋は、ガラテヤ人への手紙では比較的簡単に扱われているが、この問題は、ローマ人への手紙で、律法の問題と絡んで、より掘り下げて語られることになる。
 パウロはここで、人が自由な状態に「ある」ことと自由に「なる」こととの間に、「御霊に導かれる」という大事なステップがあることを指摘している。このステップを妨げようとするのが「肉の欲」である。人は、自分に授与された自由を「行使しない」ことによって、その自由を失う危険があるのだ。ただしここガラテヤ人への手紙では、「肉」それ自体については、「肉の働き」のカタログとして列挙されるだけで、この問題がどういうことかは、それ以上は語られない。ローマ人への手紙7章にいたって、このことが明らかにされることになる。
 このように、ガラテヤ人への手紙5章16節以下では、「霊」と「肉」という二元論的な人間観が表われる。しかし、このような「霊肉」の二元論は、必ずしもパウロだけでなく、ヘレニズム時代のユダヤ教にも、例えば、アレクサンドリアの著名なユダヤ人哲学者フィロンにも見ることができる。だからパウロは、ヘレニズム時代の人間観に基づきながら、「霊」と「肉」との関係から独特のキリスト教的な人間観を形成していると言えよう。ただし、彼の人間観は、キリストの御霊の導きにあって、「霊」と「肉」とを統合したところに形成されているから、いわゆる「霊肉」の二元論とは言えないであろう。
 「霊」と「肉」との関係は、主として、ここガラテヤ人への手紙5章16~25節とローマ人への手紙7章14~8章14節とで語られている。ただし、ガラテヤ人への手紙とローマ人への手紙とでは、採り上げ方が必ずしも同じではない。ローマ人への手紙のほうでは、「欲望」を起こさせるのは「律法を通して」働く「罪の力」であるが、ガラテヤ人への手紙では「欲望」は「肉を通して」働く。ガラテヤ人への手紙では、「肉の欲」が「霊に反する」とあるが、ローマ人への手紙7章8節では、戦場は、どちらかと言えば「肉の場」に移される。そこでは「罪」が、律法を通じて、欲望を引き起こす。言わば、「霊」の領域と「肉」の領域との間の大きな戦場において、肉に潜む罪が、律法を悪用して肉を襲うという小さな戦闘が、あちこちで行なわれることになる。
 パウロは、こういう「霊肉」の相剋の中で、「あなたがたの意志すること、それが実行できなくなる」と言う(ガラテヤ5章17節)。この「あなたがた」を「わたし」で置き換えてみると、「わたしの意志することが実行できない」ことになる。この「わたし」は、「霊のわたし」ではない。しかし「肉のわたし」でもない。この「わたし」は、肉に支配される可能性もあり、霊に支配される可能性もある。ところが、そのどちらにも所属しないもうひとりの「わたし」がいるのである。とすればここに「わたし」が三人存在することになろう。「どちらでもない」三人目の「わたし」は、「霊のわたし」とも「肉のわたし」とも関わり合う「わたし」である。だから「わたし」という存在は、「霊のわたし」と「肉のわたし」とこれらと関わり合う「わたし」の三者の「関わり合い」によって形成されていることになろう。5章17節でパウロは、「あなたがたの意志することが実行できなくなる」と言うが、この「意志する」主体は、こういう関わり合いに存していることになる。17節ではこれ以上深い分析がなされないが、次の18節では、この「意志する」が「御霊に導かれる」ことへとつながる。
 ちなみに5章17節の解釈では、このようないわばどっちつかずの「わたし」ではなく、人間は、「霊」と「肉」とのどちらかの「わたし」を主体的に「自分で選び取る」ことができるという解釈も成り立つであろう。この場合、人間の意志は「選び取る自由」を持つことになる。宗教改革の頃に、オランダのアルミニウス(15601609)という人が、こういう「自由意志」に基づく人間観を提唱した。それでこの解釈は「アルミニウス主義」と呼ばれている。一方でルター(14831546)は、人間の意志は弱く無力で、御霊の導きに従うことさえできないほどに原罪に深く染まっていると考えた。したがってルターによれば、人間は、その意志さえも罪の奴隷にされていることになる。これがルターの言う「奴隷意志」である。アルミニウス主義の「自由意志」とルターの「奴隷意志」とが、このようにして対照されて来ることになる。
 5章18節では、「御霊に導かれる」が表われる。パウロは、人が、たとえ肉にある弱い存在でも、御霊に「導かれる」なら、その人は「律法のもとにはいない」と言う。律法の「もとにいない」とは、律法に「束縛されない」、あるいは律法によって「裁かれない」ことであろう。だからパウロは御霊に従って「歩もう」と言う(5章25節)。「導かれて歩もう」と言うこの「られて、する」という受動と能動との表裏一体の組み合わせは、律法と関連づけるなら、律法にそそのかされて肉の我意を通すのではなく、律法に縛られて御霊の導きを抑えることでもない。「られる」受け身には、御霊の働きかけが前提になっている。だがその御霊の働きかけに応じて「する」能動のほうは必ずしも単純ではない。しかもパウロは、この歩みのために神はわたしたちに御霊をお与えになったと言う。これがパウロの言う「アブラハムを通してわたしたちに授与される」祝福であり約束の御霊であると言う(3章14節)。しかもパウロは、約束の御霊が「律法」に反するものではないと言う(3章21節)。こういう御霊に「導かれ」て、だんだん深く御霊の世界に沈潜すると、異言が出たり預言が与えられたり、ヴィジョンが見えたりする。だから御霊に「導かれる」にはいろいろな段階がある。御霊によってエクスタシー(恍惚状態)へ「導き入れられる」場合もある。キリストにある赦しと恩寵の御霊とは、肉であり罪人であるわたしたちにもかかわらず、「働きかけてくださる」御霊のことである。しかし、そのような導きに従う主体それ自体がどのようなものかは、ガラテヤ人への手紙ではまだ語られていない。
悪徳と美徳
 以上を踏まえた上で、5章19節以下の「悪徳と美徳のカタログ」に入ることにしよう。結論を先取りして言えば、ここで語られている悪徳も美徳も大筋においては、パウロの時代のヘレニズム世界に通じるものである。したがって、このカタログも、そこにあげられている項目も、必ずしもキリスト教独自のものではない。パウロが、美徳について、「これらに反対する律法はない」(5章23節)と言っているのも、こういう広がりを意識するからであろう。ただし、パウロは、ヘレニズム世界と言うよりも、原初教会からの悪徳と美徳の伝承を基にしていて、そこには、ヘレニズム化したユダヤ教、特に聖書の知恵文学の影響を読み取ることができよう。
 一般に、悪徳の最初の三つは性的なことに関わるもの、次のふたつは偶像礼拝と迷信に関するもの、次の七つは党派的な不和と争いに関するもの、最後のふたつは酒に関係するものとして分類される。要約すれば、「不倫と偶像礼拝と敵意と酒」ということになろうか。逆に言えば、個々の悪徳や美徳の内容が、「この分類によって」理解されているとも言えよう。例えば、「不潔」という言葉は、性的な意味以外にも広い内容を指すが、ここでは、性的な意味に限定されて解釈される傾向がある。ちなみにパウロの悪徳のカタログは、ここ以外にローマ人への手紙1章29~31節と第一コリント人への手紙6章9~10節にも表われる。
肉の働き
 5章18節の「御霊の導き」に続いて、パウロは、5章19節において「肉のもろもろの働きは明らかである」と言う。留意しなければならないのは、ここで言う悪徳と美徳が、律法のもとにいる人たちにではなく、「キリストの御霊に導かれて」歩む人たちに向けられていることである。「明らか」とあるのは、「隠れていたものが明るみに出る」という意味で、ほんらいは終末的な意味を持つのであるが、ここでは「明るみに出る」が、御霊の働きによって、肉にある現在の人間において生じるのである(第一コリント3章13節)。パウロはすぐ前で、御霊に導かれるなら「律法のもとにはいない」と言っているから、肉の働きである「悪徳」は、「御霊に導かれている」状態のもとで生じていることになる。「律法のもとにいる」場合には、これらの悪徳は、「律法違反」として直ちに裁かれ、罰を受ける。ところが「律法の下にいない」場合には、悪徳の罪は律法違反としては出てこないから、この場合、律法によって悪徳が罰せられることはない。この段階では、悪徳はもはや律法から切り離されていることになる。おそらくパウロに批判的なユダヤ人キリスト教徒たちは、この点でもパウロの律法観を批判したのであろう。
 しかし、たとえ律法違反の罪で処罰されなくても、「キリストの御霊のもとにある」者は、自分の罪が「明るみに出る」ことを知らなければならない。御霊は「心の闇」を照らすからである(エフェソ5章11~14節)。こうして自分の内に隠された罪が露わになり、御霊に導かれることで、罪が罪として「心に自覚される」ことになる。その結果、たとえ「律法のもとにいない者」でも、罪を犯すなら、御霊の喜びと平安と愛が失われて、「御霊を悲しませる」事態に陥ることになるのであろう(エフェソ4章30節)。
 このような御霊の働きをさらに考察してみよう。御霊は、まずなにが「肉の働き」なのかを探り出すことから始める。次にそれらの肉の働きを「悪徳」として自覚せしめ、これを忌避する心を生じさせる。とすれば、罪を罪として認め、悪徳を悪徳として自覚することが、御霊の重要な働きであることが分かる。だから、パウロの言う「御霊の働き」は、たとえ律法の下にいなくても、「殺すな」「盗むな」「姦淫するな」とあるモーセ律法と同様の価値基準をその働きの中に含んでいなければならない。たとえ律法違反による処罰を伴わなくても、旧約聖書の律法に匹敵する価値観があって初めて、善悪を見わけることができるからである。このように見るなら、5章19節以下の御霊の働きとそこから生じる悪徳意識と美徳意識は、「律法の働きを通じて罪を自覚する」(ローマ7章7~12節)ことと密接に関連しているのが分かる。
 「肉の働き」とあるのは、言い換えると、生身の人間的な心の有り様とそこに生じる情念のことであろう。クムラン宗団のように宇宙論的な二元論の世界では、神の霊と悪の霊との闘いのもとに人間を見ているから、これらの悪徳が、「悪霊の仕業」と見なされる傾向があった。しかしパウロは、悪徳を直ちに悪霊の仕業とは見ていない。彼は罪を「肉の働き」として、すなわちあるがままの人間の性質に巣くうものと見なしているからである。「御霊に導かれる」者たちは、人間の罪や欠陥をしばしば「悪霊的」だと見なす傾向があるから、「肉の働き」を直ちに「悪霊の仕業」だと誤解しないように、この点はよく注意しなければならないであろう。わたし自身は、「悪霊」を狭い意味に限定して、人の人格全体をあやつる深く恐ろしい悪魔的な存在と関連させて見ている。あるいは国や民全体を覆う恐ろしい闇の支配力として理解している。
不倫
 ではここで、パウロのあげている悪徳と美徳の中から、幾つかをとりあげて考察してみたい。「不倫、不潔、ふしだら」の三つの悪徳は、第二コリント人への手紙12章12節でも同じ組み合わせで出てくる。「不倫」の原語は「ポルネイア」で(現在の「ポルノ」の語源)、モーセの十戒で禁じられている「姦淫」の罪が、この悪徳の背後にあるのは間違いない。旧約では、「姦淫」は、夫、妻ともに死罪に当たるが、これは特に家系を重んじたからでもあろう。パウロの場合、律法違反の罪として死罪になることはないが、不倫(姦淫)が重い罪と見なされているのに変わりはない。ここでは、既婚者同士の「姦淫」だけでなく、独身者の「淫行」も同じ「ポルネイア」に含められているのかもしれない(第一コリント7章1~4節)。また父の妻と関係すること(第一コリント5章1節)、兄弟でひとりの女性と関係することなども含まれている(レビ記18章を参照)。
不潔
 「不潔」は、「浄い」の反対である。旧約では、儀礼的な意味の「不浄」がレビ記11章~15章に出ていて、そこでの「不浄」には、豚などの動物、重い皮膚病など病気や身体的に障害のある人たち、生理の後の女性、性交に関わるもの、人の死に関わるもの、動物では、傷のあるものなどが、神の前に「不浄なもの」と見なされた。「不浄」が比喩的に理解されると倫理的な意味を帯びる。イスラエル周辺の民の異教の神々に関わること、また性的に「忌まわしい」こと、家族同士の相姦、同性愛などが不浄に当たる(レビ記18章6~23節)。逆に「聖なる行為」については、レビ記19章にあげられている。時代が降って、クムラン宗団では、無割礼の者、神の言葉に従わない者、神の御名を「汚す」行為、エルサレム神殿の聖所を「汚す」こと、その他「汚し事」を口にすることが「不浄」とされた。
 新約聖書では、使徒教令で「血と絞め殺した動物の肉」を禁じているが(使徒言行録15章29節)、それ以外に儀礼的な意味で言う「不浄」はほとんど存在しなかったようである(マルコ7章18~22節/使徒言行録10章15節)。だから「不潔」は、主として倫理的な意味に限られていて、「不倫」と対になって出て来る。性的な意味では、例えば娼婦と関係することがこれに当たる(第一コリント6章16節)。キリスト者の「からだ」は、キリストの御霊の住む神殿として、これを「聖なるもの」として「きよく」保つことが大切とされる(第一コリント6章19節)。神の定めた秩序に反することとして同性愛も「不潔」と見なされた(ローマ1章24節)。
  「不潔」がそのほか具体的にどのような行為を指すのかはっきりしないが、パウロでは、神に受け容れられないこと(第一コリント7章14節)、行為の動機が不純なこと(第一テサロニケ2章3節)など、心の内面的な有り様とも関わっている。このように見ると、旧約時代の倫理的な「汚れ」が、新約の「不潔」の背後にあるのは確かであろう。特にパウロ系の文書で「不潔」が警告される場合が多いようである(第二コリント12章12節/エフェソ5章3節/コロサイ3章5節)。ただし、「不潔」は「汚れた」霊としても出て来るが、この場合は、性的な意味ではなく、さらに広い意味を帯びている(マタイ10章1節/マルコ1章23節)。
偶像礼拝
 旧約聖書(ギリシア語七十人訳)には「偶像」は出て来るが、「偶像礼拝」は出て来ない。「偶像」とはほんらい「存在しない偽りの神」という意味である。ギリシアを始め、ヘレニズム世界にも、またユダヤ教にも「偶像礼拝(者)」という言葉は出て来ない。しかしこの言葉は、ユダヤ教から生じたと考えられる。ユダヤ教では、聖書に基づくユダヤ教だけが、「真の礼拝」(ローマ9章4節)を行なっているという考えから、それ以外の異教の礼拝を「偶像礼拝」と呼び、これを行なう者を「偶像礼拝者」と呼んでいたからである。ユダヤ教の律法では、偶像に捧げたものを食べることも買うことも禁じられた。
 「偶像礼拝(者)」は、新約聖書では、パウロ系文書に比較的多く出てくる(第一コリント5章11節/同6章9節/同10章7節と14節/ガラテヤ5章20節/コロサイ3章5節/エフェソ5章5節)。パウロは、偶像に捧げた肉類は、愛と良心に照らしてこれを食する自由を認めているが、偶像礼拝に参与することは禁じている(第一コリント10章14節以下)。また、コロサイ人への手紙では、偶像礼拝が、「貪欲」すなわち金銭(マモン)礼拝と結びつけられている。このように、パウロは、旧約聖書の「偶像」を「存在しない神」として、モーセ律法の「偶像」の本質的な意味を受け継ぎつつも、「キリストにある自由」によって比較的柔軟に対応しているのが見えてくる。しかし彼は、ほんらい偶像礼拝を悪徳とは見なさないヘレニズム世界にあって、偶像礼拝を悪徳のカタログに載せることによって、ユダヤ教の伝統をヘレニズム世界へと拡大させているのが分かる。
魔術
 ここで言う「魔術」は、ほんらいは医療(主として薬草・薬剤)や医術に関するものである。旧約では、「呪(まじな)い/魔術」が禁じられているが、実際は、民間でかなり一般的に行なわれていたらしい(サムエル記上28章)。「魔術師」は、出エジプト記(7章)で、モーセに対抗する敵対者として出て来る。また知恵の書の12章4節と同18章13節では、「神に頼らない者が頼りにする呪(まじな)い/魔術」として表われる。新約では、この言葉は、5章20節とヨハネ黙示録(9章21節/18章28節/21章8節/22章15節)に出て来る。パウロは、第一回伝道旅行の時に、キプロス島のサラミスで、魔術師で偽預言者のバルイエスというユダヤ人と魔術師エリマと出会い、聖霊の働きによって、エリマの目を見えなくした(使徒言行録13章6節以下)。また、第二回伝道旅行では、エフェソで福音を語った結果、大勢の人が信仰に入り、魔術を行なっていた者たちが、その書物を焼いたとある(使徒言行録19章19節)。パウロはここでも、モーセ律法の伝統を踏まえることによって、ヘレニズム世界では悪徳とは見なされなかった魔術を「悪徳」のリストにあげている。
敵意
 敵対する者への憎しみとしての「敵意」が、古来悪徳のカタログに加えられるのはまれである。新約では、イエスが「敵を愛せよ」と教えているから(マタイ5章44節)、ここの「敵意」は、「イエスの愛」に対立するものと見なされているのであろう(ローマ12章20節)。いわゆる友達同士の「仲良し」の反対とは意味がやや異なっている。ここでの「敵意」は、後の美徳のカタログの最初に出てくる「愛」と対照されているのである。「敵意」も「愛」も、ほかの項目と並ぶものではなく、敵意はこれに続く悪徳の根となり、愛も同様にこれに続く美徳の源となるのであろう。パウロはここで、ガラテヤの信徒たちの間で生じている「敵意」や「争い」、さらにはパウロ自身に対する「敵意」をも示唆しているのかもしれない(4章16節)。
 ただし、「敵意」と関連する「敵対者」という言葉は、個々の人間同士の敵意よりもさらに広い意味を帯びてくる。旧約聖書では、「敵/敵対者」は、ダビデとサウルのように、同じイスラエルの民の中での個人的、あるいは公的な対立を表わす場合もある。しかし「敵対者/敵」は、主としてイスラエル民族に対する敵を意味する。イスラエルの民は「神の民」であるから、イスラエルの敵は「神の敵」でもある。ところが、イスラエルの民が、偶像礼拝に陥ることによって神に背いた時には、逆に神がイスラエルの「敵」にまわることになるのである。こういう場合の「敵」は、背教のイスラエルに対する神からの罰として、具体的な「敵」となって表われる(エレミヤ21章7節/同34章20節以下)。また「圧制者」「憎むべき者」も「敵」と同じ意味を帯びてくる。
さらに興味深いのは、詩編に出てくる「敵」である。これについては諸説があって解釈が別れるが、詩編の敵は、基本的には「わたし」に「敵対する者」である。この「わたし」は、半ば公的な意味を帯びているが、個人的な意味をも含めて、「わたし」への「圧制者/敵対者」(3篇2節/6篇8節他)、「中傷する者」(5篇9節/27篇11節他)、「迫害する者」(7篇2節/31篇16節他)、「邪悪な者」(17篇9節/55篇4節他)、「血を流す者」(55篇24節/59篇3節他)、「欺く者」(43篇1節/59篇6節他)などである。
  先に述べたように神がイスラエルの敵に回ることもある。「イスラエルに敵対する」このような神の姿は、異邦人の側に立ってイスラエルと「敵対する」方として、パウロが描いている神の姿に通じるところがあるのではないだろうか(ローマ9章19節~10章4節)。また、詩編に描かれる「敵対者」の姿は、パウロの「福音の真理」に敵対する者たちにそのまま重ねられていることも指摘しておきたい。
 新約での「敵対者」は、主としてキリスト者と教会の「敵」を指しているから(第一コリント15章25節)、神に敵対する「悪魔」の意味にもなる(使徒言行録13章10節)。キリストは、これらいっさいの「敵意」と「敵対者」を滅ぼすために来られたのである(ルカ10章19節/ローマ5章10節/第一コリント15章26節/エフェソ2章14節)。
 このように見てくると、パウロの言う「敵意」は、旧約聖書の「敵/敵対者」の伝統を受け継ぎつつも、これをさらに内面化して、目に見える敵から霊的な意味での「敵」へと意味を拡大しているのが分かる。だから彼がここで悪徳としてあげている「敵意」も、宇宙論的な規模での「敵意」から、きわめて個人的な「恨み」を意味する「敵意」にいたる幅広い内容を含むことになろう。敵意は、ユダヤ教でもヘレニズム世界でも悪徳と見なされることがなかったから、パウロは、イエスと共に、これの内容を深めることによって、ヘレニズム世界の通常の価値基準を超えるところへ達していると言えよう。
競い争い
 「競い争い」と「嫉妬の情念」は、パウロでは対になって出て来る(ローマ13章13節/第一コリント3章3節/第二コリント12章20節)。「競い争い」のギリシア語「エリス」は、単数と複数のふたとおりの写本があるが、それほど違いはない。七十人訳では娼婦が男の「欲情をそそる」という悪い意味にも用いられた(エゼキエル23章5節、12節)。しかしこのような意味合いは新約では失われて、パウロは「エリス」を「競い争い」の意味で用いている。この語は、神と「競い争う」人間の反抗的な罪を意味するだけでなく(ローマ2章8節)、同時に人間同士が「競い争う」ことによって、党派的になることをも指している(第二コリント12章20節)。ガラテヤ人への手紙では、パウロの説く福音の真理に従わず、反抗的になり分裂させようとする人たちを指すのかもしれない。フィリピ人への手紙1章17節では、「自分の利益を求めて」(これは「党派心から」〔岩波訳〕のこと)キリストを伝えようとする人がいて、獄中のパウロを苦しめている。だからパウロは、「競い争い」ではなく「へりくだって、人を立てる」ように勧めるのである(フィリピ2章3節)。この悪徳は、パウロ自身の伝道と集会形成の体験から出ていると考えられよう。
嫉妬の情念
 「嫉妬の情念」の原語「ゼーロス」は、ほんらい「熱意」の意味である(ヨハネ2章17節/第二コリント9章2節/フィリピ3章6節)。旧約(七十人訳)でも「熱意」を意味し、ヤハウェは「熱情の神」(出エジプト20章5節)である。しかしこの「熱情」は、ほかの神々と「競い争う」ので、イスラエルの民が偶像を拝む場合には、ほかの神に対するヤハウェの「嫉妬する熱情」ともなる(申命記29章19節/エゼキエル16章38節/ヤコブ4章5節)。嫉妬の情念は、しばしば人を誤らせるから(民数5章11節以下)、特に知恵文学では、人と競い争って嫉妬する「情念」を戒めている(箴言17章4節/コヘレトの言葉4章4節)。
 パウロの場合も「熱情」は必ずしも悪い意味ではない。彼も旧約の「嫉妬する神の熱意」を受け継いで、「わたしは、嫉妬するほどの神の熱情を抱いて」信徒たちを想っていると言う(第二コリント11章2節)。またコリントの信徒たちの彼に対する「熱情」を喜んでもいる(第二コリント7章7節)。しかし、先のフィリピ人への手紙(3章6節)の場合のように、激しい「情念」は、しばしば自己追求のあまり人を毒して、競い争う対象が、事柄や物の場合には「ねたみ」となり、これが例えば女性のような人間の場合には激しい「嫉妬」になる。このためにガラテヤ人への手紙では、「(嫉妬の)情念」が「競い争い」と結びついて肉の働きとされているのであろう。このように、ほんらいは「悪徳」に入らない「熱情」が、「肉の働き」として戒められているのは、「過度」を恐れて「節度」を尊ぶヘレニズム的な価値観が、その背後にあると見てよいであろう。
仲間割れ
 「仲間割れ」(ギリシア語「ハイレシス」の複数形)は、ファリサイ「派」などの「派閥」のことである(使徒言行録5章17節)。これから「異端」(英語の“heresy”)の派を指す言葉になった(第二ペトロ2章1節)。旧約聖書では、このギリシア語に当たるヘブライ語は「ネダバー」で、この言葉は「自由な気持ちで/自発的に」行なうことを意味する。旧約では、この言葉は特に「自発的で自由な献げ物」の意味に用いられ(民数記15章3節/レビ記22章18節)、このような献げ物は、社会的に身分の高い人たちが個人的に神への感謝を表わすものであった。同時にこの「自由な献げ物」は、エルサレム以外のベテルやギルガルなど、定められた聖所以外の場所で献げる「随意の」献げ物の意味にもなった。したがって、旧約については、この言葉に悪い意味はない。
 ヘレニズム世界では、「ハイレシス」は、ほんらいは「選ぶ/選択する」の意味で、特に自由な学派とその集まりを意味したが、これから転じて、権威主義的で勝手な教師、自称自薦のもぐりの教師、個人的/私的な学派の意味にもなった。ユダヤ教ではファリサイ派やサドカイ派を表わし、ヨセフスはこのギリシア語をエッセネ派に対して用いている。この言葉が、ユダヤ教の正統派に反対するグループ、例えばグノーシス的な派を指す場合には、悪い意味を帯びることになる。
 新約聖書の「ハイレシス」は、ヘレニズム世界とユダヤ教の用法とほぼ同じであるが、原初キリスト教の内部では、まだ「分派」や「異端」を特定することはできない。福音の「正統派」が固まるにしたがって、ほかのセクトを「分派」と呼ぶようになったから、「異端」の概念は、「教会」(エクレーシア)の概念の発達と呼応している。パウロの場合、彼に反対するユダヤ人たちから、パウロは「異端の分派」を作っていると訴えられているが(使徒言行録24章14節)、これは言うまでもなく、正統ユダヤ教の立場から、彼を異端者と見たからである。しかし、キリスト教の内部では、このような「異端」はまだ明確ではない。
 ただしコリントの教会の場合は複雑である。第一コリント人への手紙1章10節でパウロは、「あなたがたの間に<分派>がないように」と、ここでは「分派」(ギリシア語「スキスマタ」)という言葉が用いられている。「ケファ派」「パウロ派」「アポロ派」のような分裂があってはならないと言うのである。さらに第一コリント人への手紙11章18節には「あなたがたの間に<分派>が生じている(その危険性がある)」とあり、これは聖餐の解釈をめぐって、かなり深刻な対立があったことをうかがわせている。ただしパウロは、これに続けて、聖餐について正しい意見が形成されるためには、ある程度の「仲間割れ」はやむを得ないとして、ここで「ハイレシス」を用いている。これは、まだ「異端」という段階ではなく、せいぜい「仲間割れ」という程度の意味で使われているようである(第一コリント11章19節)。だからコリントの集会は、単なる「仲間割れ」と「分裂/分派」との間で揺れていたことになろう。コリントの教会では、聖餐に対して異なった見方があり、意見が分かれて聖餐を共にすることができない状態にあったから、パウロは「分裂/分派」状態になるのを心配して、ひとつにまとまるように勧めているのである。ガラテヤでも、「割礼」をめぐって、同じ危険があったのだろうか。

 次に美徳の中から主なものを見ることにしよう。「愛」のギリシア語は「アガペー」であるが、これの名詞形は古典ギリシアでは比較的まれで、ギリシア語の「アガペー」は、ほんらい目上の人からの意図的な好意として、選びによる愛を意味した。ギリシア語ではこの語のほかに、異性を含む美しいもの、気高いものを愛する言葉で「エロース」があり、親しみや友情などを表わす「フィロス」がある。旧約聖書では、「愛」は、男女や夫婦の間に働く性愛として表わされ、これの最も強い表現が雅歌(例えば8章6節)にある。また友情ではダビデとヨナタンとの愛がよく知られている(サムエル記上18章1節)。宗教的な意味では、イスラエル共同体の間に命じられている「隣人愛」があり(レビ記19章18節)、さらに父としての神の愛(箴言3章12節)があり、神がイスラエルへ向ける深い愛と憐れみがある(ホセア書2章21節)。ホセアでは、神とイスラエルの間の愛が、夫と妻の愛として語られる。宗教的な意味で最も大切なのは、神を愛する心で、これは申命記10章12~13節で語られている。契約関係に基づく神とイスラエルの間の愛は、律法への愛ともなる。特に「律法」は、上辺だけでなく、民の「心に記(しる)す」神の律法として啓示されることが預言される(エレミヤ書31章33節)。さらに、神から授けられる「知恵」を愛する心も大事な「愛」とされている(シラ書4章12節)。
 新約時代に近い頃のユダヤ教では、ヘレニズム世界の影響を受けて、異邦人をも含む広い人間愛や「自分にしてほしいと思うとおりに人にもしなさい」という黄金律に基づく隣人への愛が説かれていた。イエスも旧約の隣人愛と神への愛を受け継いでいるが(マタイ22章37~39節)、同時に、「敵に対する愛」や「罪人への愛」を教えた。これは、人間から出る愛ではなく、神によって「創造される愛」であり、それが憐れみから出る「赦しの愛」となる(マタイ5章43~48節)。イエスは愛のあり方に新しい時代をもたらしたと言えよう。
 パウロの愛もこのようなイエスの愛に基づいている。彼にとって愛とは、なによりもまず、十字架のキリストから注がれる愛のことである(ローマ8章31~39節)。この愛は、彼の内で信仰と結びついて、「愛となって現実に働く信仰」(ガラテヤ5章6節)となる。パウロにとって、この「キリストにある愛」こそが、永遠に残るものであり、なによりも大事なキリスト者の命なのである(第一コリント13章13節)。
喜び
 「喜び」は旧約聖書にもヘレニズム世界にも共通する。そこには、結婚の喜びがあり(エレミヤ25章10節)、収穫の喜びがあり(イザヤ9篇2節)、祭りの喜びがある(申命記16章13節)。しかし旧約聖書には、このほかに特に神による「救いの喜び」がある(詩編5編12節/同16篇8~9節)。注意しなければならないのは、この喜びが、「終末の救い」の喜びを待ち望むことであり(詩編14篇7節)、それが、メシアの到来を期待する喜びとなることである(ゼカリア9章9節)。イエスがエルサレムへ入城した時の人々の喜びがこれである(マタイ21章5節)。また「知恵」を与えられた喜び(知恵の書8章2節)や「律法の喜び」もある(詩編119篇16節)。新約時代前後のユダヤ教では、哲学者フィロンが、神に向かう「恍惚の喜び」について語っている。
 イエスの喜びの最大の特徴は、「聖霊にある喜び」である(ルカ10章21節)。使徒たちもこの喜びに与っていて(使徒言行録13章52節)、パウロも聖霊にある「神の国」の喜びを語っている(ローマ14章17節)。そのほかに「伝道の喜び」があり(第一テサロニケ1章6節)、信徒との「交わりの喜び」がある(フィリピ1章25節)。パウロは、牢獄で死を覚悟する時にも「苦難にある喜び」を語っている(フィリピ2章17節)。
平安
 古代における「平安/平和」(ギリシア語で「エイレーネー」)は、「戦争状態」や「騒乱状態」と反対の意味で用いられた。旧約聖書でも「平和/平安」(ヘブライ語で「シャローム」)は、基本的にこの意味で用いられている(ゼカリア書6章13節)。「平和」は特に神との「平和の契約」と結びついて(エゼキエル書34章25節)、神は「平和の主」である(士師記6章24節)。このように、この言葉は、「心の安心」を意味するよりも、人と人、民と民、国と国、人と自然との間の平和な関係を表わす場合が多いようである。しかし、預言者たちの時代には、平和が失われるのは、民の心に宿る罪の結果と見なされるようになった。このために、「平和」を社会的・政治的な意味でしか理解しない預言者たちは、「偽預言者」として厳しく批判された。捕囚の前後からは、「平和」は終末的な意味を帯びるようになる(イザヤ2章1~5節)。さらに、新約の時代に近い七十人訳の頃には(紀元前3世紀頃から)、「シャローム/エイレーネー」は、個人の健康や日常の安否をも意味するようになる(箴言3章17節)。パウロはこの「シャローム」とギリシア人の間で交わされる「カリス」(感謝/恵み)とを組み合わせて「恵みと平和/平安」として、手紙の挨拶で用いている。
 新約聖書も旧約の「平和」を受け継いでいて(ルカ1章14節)、イエスは、「平和」とは「造り出す」ものであると教えた(マタイ5章9節)。しかし福音書によれば、「平和/平安」は、復活したキリストの御霊によってもたらされる(ヨハネ20章19~23節)。またパウロの「平和」には、「神との和解」の意味がこめられているのを見落とすことができない(ローマ5章1節)。彼にとって「平和/平安」は、「肉の思い」と対照される「霊の思い」として大事な意味を持つから(ローマ8章6節)、このような「平和」は、人間の霊魂を支配する「心の平安」に近いであろう(コロサイ3章15節を参照)。このようにパウロでは、「平和」は聖霊と切り離すことができない(ローマ14章17節)。ローマ人への手紙14章17節の「聖霊にある平和」は、神の国の完成を目指すものであるが、同時に社会と共同体の平和を「造り出す」力ともなる。このような「平和」は、何よりもひとりひとりの内面から湧き上がるものであるから、「心の平安」なしには成り立たない。「愛と喜び」という心の内面から出る霊的な働きと共に「平安/平和」が出ているのはこのためであろう。
寛容
 「寛容」のギリシア語は「マクロスミア」で、「広やかな心」「我慢強い心」のことである。ヘレニズム世界では運命を「忍耐して受け容れる」こと、あるいは「諦め」を意味していた。しかし旧約聖書では、「寛容」(ヘブライ語の「アプ/エレク」)は深い内容を帯びている。主なる神は、「憐れみ深く忍耐強い」からである(出エジプト34章6節)。この言い方は、聖書の神の特質を表わす言葉として、旧約聖書から新約聖書へ、さらにキリスト教会へと受け継がれている。「寛容」は知恵文学によく用いられて、人間の弱さやはかなさに対する神の憐れみを表わす(シラ書18章11節)。神の憐れみと忍耐を最もよく表わしているのが知恵の書(11章23~26節)である。しかしここのすぐ後に、「神の懲らしめ」が出てくるのを忘れてはならない(知恵の書12章2節/シラ書5章4節)。神のこの忍耐は、異邦人に対しても向けられる(ヨナ書4章2節)。このように旧約聖書では、神の「寛容」は常に神の「怒り」と裏表を成して語られる。
 新約聖書では、イエスは、神の寛容について、罰を降すことや借金の返済を「忍耐する」たとえで語っている(マタイ18章26節)。この言葉は、なかなかとりあげてもらえない訴訟を受け容れて公平な裁判を行なう場合にも用いられる(ルカ18章7節/使徒言行録26章3節)。「寛容」の名詞形は、新約聖書に全部で14回出て来るが、そのうち10回がパウロである。ただし「忍耐する」(動詞形)は、新約聖書で10回のうちパウロは2回である。神の寛容は、決して神の甘やかしでも「見過ごし」でもない(ローマ2章4節)。異邦人が救われるために、イスラエルに降されるべき「怒り」を神は「寛容」をもって抑えているとパウロは言う(ローマ9章22節)。パウロでは、このように旧約聖書の「怒りと寛容」の神が、異邦人とイスラエルの民のそれぞれに対する神の「憐れみと厳しさ」(ローマ11章22節)として、受け継がれていると言えよう。このような神の特質は、キリストの御霊の働きとして、キリスト者にも受け継がれ、「すべての人に対して忍耐強く接する」心が大切とされる(第一テサロニケ5章14節)。
節度
 最後に「節度」が出てくるのは、最初の徳目「愛」と同じように、これが大事だからである。「節度/自制心」は古代ギリシアの時代から大切な徳と考えられてきた。ほんらいは「力を持って支配する」ことであるが、これが人の内面の「心の王国」について言う場合には、「自分の心を支配する」「自制して節度を失わない」ことを意味する。要するに「過度にならない/行き過ぎない」ことである。こういう考え方は、プラトンやストア派の哲学で大事にされ、フィロンやエッセネ派にも受け継がれて、以後「理性によって欲望を制する」ことは、ルネサンス時代を経て、ヨーロッパの倫理観の大事な美徳になった。もっともこれは西洋だけでなく東洋でも同じであろう。
御霊にある価値観
 以上をまとめると、パウロの悪徳のカタログは、モーセ律法を中心とする旧約聖書の信仰とその教えを基準としながらも、これにユダヤ教と原初キリスト教の価値観とヘレニズム世界の価値観を採り入れることによって、「キリストの御霊にある」価値基準としているのが分かる。例えば、「嫉妬」が悪であることは、洋の東西を問わず広く認められているが、それが罪悪のカタログに入ることは、旧約聖書の律法のもとではなかったことであり、ヘレニズム世界でも刑罰の対象にはならなかった。だがパウロは、一般常識の意味で「嫉妬」を悪としているのかと言えば、決してそうではない。彼は、「キリストの御霊にある者」には、「これらのこと」が「明るみに出る」と言う。したがって、御霊の働きのもとでは、「嫉妬」が、旧約聖書よりもヘレニズム世界よりもさらに先鋭化されて、心に意識されることになる。「偶像礼拝」や「魔術」も、旧約聖書から受け継がれたものであって、ヘレニズム世界では悪徳とされなかったものである。しかし、「敵意」のように、旧約時代でもヘレニズム世界でも、必ずしも「悪徳」とされなかったものも加えられている。しかもこれらは、内面化されて「心の中の罪」として自覚されるのである。旧約時代では、このような外に行為として現われない「罪」が、律法違反に問われることはなかった。ユダヤ教では、内面的な「罪」と外に現われた「犯罪」あるいは「律法違反」とは区別されていたからである。また「分派」や「利己的な党派心」のように、パウロの伝道活動の体験から出た「悪徳」もある。性的な逸脱と言い、他宗教とのけじめのなさと言い、分派や分裂と言い、酒食に耽ける傾向と言い、ここには、御霊の体験に身を委ねた人がとかく陥りやすい誤りが提示されているのを見る思いがする。
  特にここで、旧約では問題とされなかったことが、キリストの御霊にあって内面化され、「悪徳」として浮上していることに注目したい。したがって、パウロの言う「律法の下にいない」状態では、すなわち、旧約の律法に代わるキリストの霊法のもとでは、律法が存在しない無法状態とはむしろ逆に、悪徳の罪が内面化されて、いっそう「鋭く」その悪徳が意識されて、自分の心の内に「明らかにされる」ことになる。
 一方の美徳のほうでは、「愛」や「平安」のように、旧約聖書に深く根ざしていながら、その内容がヘレニズム世界へと普遍化され、さらにヘブライの世界にもヘレニズム世界にも見ることができないほど高められているものがある。また「節度」のように、旧約聖書にはあまり出てこないが、ヘレニズム世界では尊ばれる美徳もある。要するにパウロの悪徳と美徳の世界は、旧約聖書を基準としながらも、これをヘレニズム世界の価値観と融和統合することで、当時の世界全体に通用する普遍性を有するものとなっている。しかもそれが、終末的な視野の下で、それまでの人類が到達できなかった価値基準へと高められているのを見いだすのである。
御国の霊法
 パウロは、悪徳と美徳を列挙した後で、「これらに反対する律法はない」(5章23節)と言う。注意しなければならないのは、ここでの「律法」が、モーセ律法を中心とする旧約聖書の律法全体だけでなく、ヘレニズム世界の様々な「掟」や「法律」、さらに宗教的な価値観をも含んでいることである。パウロはこのようにして、御霊の結ぶ善い実の普遍性を改めて確認する。ただし、「反対する律法はない」と言うのは、ここで語られる美徳を「律法として」守りなさいという意味ではない。そうではなく、キリストの御霊に導かれるなら、世界のどこにあっても通用する美徳を「律法を意識せずに」自ずと体得することができると言うのである。通常は、ある行為が「律法に反する」と言うが、ここでパウロは、「御霊の働きに反する」律法も戒律もないという言い方をしている。判断の基準は、律法ではなく、イエス・キリストの御霊のほうなのである。だからここでは、従来パウロが語っている「律法」とは、違った意味での「法」、すなわち「御霊の霊法」とでも言うべきものが語られていることに注意する必要があろう。
 マタイ福音書(5章~7章)は、「天の御国」に入るのはどのような人なのかをイエスの教えを通じて鮮明に描き出している。パウロもまた、神の国に入るのはどういう人たちかを具体的な悪徳と美徳をあげることで示している。ただし、マタイのほうは、より行動的で実践的な描き方をしているのに対して、パウロのほうは、やや抽象的で、心の内面に及ぶ表現になっている。それはここでの項目が、「霊的な有り様として」述べられているからであろう。だからこれは「キリストの御霊の国」を「受け継ぐ/相続する」(5章21節)ための「キリストの霊法」なのである。
  マタイの山上の教えでもここでのパウロの戒めや勧めでも、パウロは、キリストの教会で一般に行なわれていた伝承から決して逸脱してはいない。おそらくこういうカタログは、原初の教会で洗礼を授けるときの教えにさかのぼるのであろう。しかも洗礼は御霊のバプテスマと一体になって理解されている。したがってここでの悪徳と美徳は、パウロ独自の発案ではない(それぞれの項目には多少の入れ替わりがあると思われるが)。パウロは、悪徳のカタログを性的な乱れによって始めて、終わりに酒に酔ってみだらな行為をすることで終わっているが、おそらくこれが、当時のヘレニズムの人たちの(そして現代の日本でも?)注意しなければならない「肉の働き」だったからであろう。同じように、美徳のカタログも「愛」で始めて「節制」で終わっていて、これもヘレニズム世界の人たちにとって、最も受け容れやすい大事な美徳とされていたからで、彼はこのカタログによって、それまでに人類が到達し得た知恵のすべてをまとめていると言えるかもしれない。ちなみに、このようなカタログやリストによる列挙は、叙事詩の場合によく見られる手法で、これは、徳目や地名や病名や人物名や動物名など、当時の知識のすべてを網羅して語り伝えるときに用いられる手法である。
肉を十字架する
 パウロは、「御霊にあって歩みなさい」(5章16節)と述べてから、御霊の働きに背く悪徳と御霊の実のカタログをあげて、その後で、再び「御霊と肉」との関係に戻る。5章19節には、「キリスト・イエスの人たちはその肉を十字架につけてしまった」とあって、今度は「肉」の側から悪徳を見ている。ここはガラテヤ人への手紙2章19~20節で語られたことに通じている。2章19節では、わたしは「十字架につけられてしまった」と受け身の完了形になっていて、ここでは洗礼と同時に聖霊体験も伴ったことが推定されている。ヘブライ語の動詞では、完了形は、起こった事態がそれ以後も現在まで持続していることをも含んでいるから、2章で「律法によって死ぬ/殺される」ことで、十字架されてしまって(完了形)からは、その状態がそれ以後も持続していることになり、しかも、その持続は、「され続ける」という受け身の状態が継続することなのである。3章1節では「十字架されたままのイエス・キリスト」が目の前に顕現する。ここでのイエスも、やはり受け身の姿で顕現しているから、パウロもガラテヤの信徒たちも、キリストの御霊にあって、受け身の「される」状態にあるのが分かる。
 ところが5章16節になると、御霊に導かれて「歩みなさい」と命令形に変わるのである。だからここでは、今までの「られる」形ではなく、自分で「導かれる」ように意図することになる。さらにこの24節で、自分の肉を「十字架につけてしまった」と能動形に変わり、25節では「御霊に準じて歩もう」と促しの命令となる。しかも、この事態が「律法のもとにいない」状態で生じるのである。「導かれて歩もう」と言い、「肉を十字架する」と言い、これを命じられるままに「律法として受けとめて」、それを守るよう意図的に努力することだと理解/誤解するなら大きな誤りを犯すことになろう。そもそも語られている内容をよく考えてみるなら、どちらもほんらい自分の意志や努力でできることではない。だからこれは、「られる」事態を「意図的にする」という不思議な状態を表わしていることになる。御霊に導かれるように勧めてから、パウロは、悪徳と美徳のカタログを提示して、なすべきこと、なすべきでないことを具体的に示す。「十字架につけてしまった」という能動形は、これの後で出て来るから、パウロは明らかにこのカタログを意識している。肉の働きを意図的に避けて、御霊の働きを意図的に選び取ること。これが今ここで求められている。いったいこのような御霊の「受け身の能動形」とは、どのような事態なのだろう? 
 注意してほしいのは、ここでの悪徳と美徳が、「御霊の導きに従う」(5章16節)ことと「肉の欲情を十字架につけてしまう」(5章24節)こととの、このふたつの事態の間に挟まれて生起してくることである。もしもこの事態を律法的に受けとめて、これら内面化された悪徳を、自らの内面において、自力で処理しなければならない、あるいは肉の欲情を十字架につけなければならない、このように考えるなら、恐ろしい誤解を招くことになろう。御霊の働きを「律法」と同様に受けとめるとすれば、これは恐ろしく厳しい「律法」になるからである。
御霊と律法
 しかも、「律法のもとにいない」者が御霊に導かれている状態にあっても、「律法」それ自体はなくなったのではない。律法は存在している。ただし、楽園の知恵の樹のように、そこに存在していても、これに「触れてはならず」「食べてはならない」のである。「触れる」なら律法を破ろうとする律法違反の罪になり、「食べる」なら、神の知恵それ自体を神から奪おうとする「律法主義」の罪を犯すことになる。だが、律法に「触れるな」、律法を「食べるな」と言っても、肉の存在としての人間は、律法を破る罪から、あるいは律法を追求する傾向からいぜんとして抜け切れてはいない。パウロが、ローマ人への手紙7章で、「機会を捉えて肉にむさぼりを起こす律法」と言っているのがこれである。
 ではわたしたちはいったい御霊にあって、どうすればいいのだろう? 律法に触れない。律法を食べない。この状態をパウロは、「律法<に>死ぬ」(2章19節)と言い表わした。この言い方については、先に2章19節の解釈で説明したからここでは繰り返さない。こういう聖霊の働きをヨハネ的な言い方で語るなら、キリストの御霊は、ちょうど胎児を出産する母親のように働き続けていることになる。この働きに応じて、胎児のほうも生まれ出ようと努力する。すなわち、この御霊の事態とは、「生まれる」こと、言い換えるなら、新しい命を創造する働きを意味しているのである(ヨハネ福音書3章3節)。働くのは、神の御霊ご自身である。その働きに呼応してわたしたちのほうも「意図的に」これに合わせて努力する。「律法のもとにいない」状態において、キリスト者は、「御霊の下にあって」、このような働きかけに応答する努力が求められることになろう。
 ガラテヤ人への手紙5章19節以下の悪徳と美徳のカタログには、パウロが「律法の下にはいない」と言ったその「律法」が、「御霊の霊法」の内に取り込まれているのをわたしたちは見てきた。この段階では、モーセ律法が、言わば御霊の働きそれ自体へと吸収されている。後に彼が、ローマ人への手紙8章で、「キリストの霊法」と呼んでいるものが、すでにここで始まっているのである。だからここで言う「御霊に導かれる」は、御霊の働きを律法として受け取るのではなく、御霊に「とらえられる」こと、あるいは御霊の働きに「乗せられる」ことである。これをある種のエクスタシーと呼ぶことができるかもしれないが、そこには御霊の風に吹かれて「陶然(とうぜん)となる」、なにかこのような境地が開かれることになるのだろうか。
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