(2)神の律法と罪の律法
罪と律法の分離
 「律法は霊的である」という証言は重要である。なぜなら、7章8~11節で指摘された罪と律法との「結びつき」が、この7章14節から「わたし」という場において、今度は罪と律法との「対立」へと転換されるからである。それゆえに14節以下の部分は、「肉の働き」と「霊の働き」とが相争うガラテヤ人への手紙5章16節以下に対応している。ただし、ガラテヤ人への手紙の「肉」がここでは「罪」となり、「霊」が「霊的な律法」となることによって、葛藤がいっそう深められてくる点に注意しなければならない。ここで、過去形から現在形へと時制が移る。今まで罪は、律法を梃子にして罪の支配を確立し、「わたし」に死をもたらしてきた(完了形)。今やその事態が、「霊的な律法」と「自分の罪性」との相剋となって、「わたし」の内に深化し、深化することで己の正体がいっそう明らかにされる。ここを「わたしたちは、律法が霊的であることを知っている」ではなく、「それでわたしは、・・・知っている」と一人称単数で読む説があるが、内容的に見ればそのほうがより適切なのかもしれない。だがパウロは、御霊の内に律法が含まれていることが、ユダヤ人キリスト教徒たちだけでなく、ローマの異邦人キリスト教徒をも含めて、キリストにある人たちにすでに広く知られていることを言いたいのであろう。
  厳密に言うならば、ガラテヤ人への手紙6章2節の「キリストの律法」とここでの「霊的な律法」とは同じとは言えない。ガラテヤ人への手紙6章2節でパウロは、御霊にある価値観を「キリストの律法」と総括したが、そこでの「キリストの律法」が、ここ7章14節では、「霊的な律法」としてより深められて、「肉」との対立がより鮮明に提示されているからである。ほんとうの意味での「キリスト者の闘い」がここから始まり、これが、7章24節でのパウロの祈り求めの叫びへとつながる。律法が霊的であると悟ることによって初めて、自分が肉的であることがいっそう明らかにされる。しかも、まさにこのことが、霊的な律法という姿で授与される「神からの恵み」となるのである。
  またここでの「霊的な律法」は、8章2節の「キリスト・イエスにある命の御霊の律法」とも同じではない。なぜならここ14節では、「罪のもとに売られているわたし」と「霊的な律法」とが対立関係に置かれていて、「霊的な律法」が「罪に売られているわたし」を苦しめている。これに対して8章2節では、「罪と死の律法」が「キリストにある命の霊法」と対立し、かつ、ここが重要であるが、キリストにある霊法が、罪と死の律法を圧倒しているからである。7章14節の霊的な律法は、もはや罪との共犯者ではない。そうではなく、「神の御言葉」である。しかしこの段階で、それは、裁きをもたらす神の御言葉である。したがって、ここ7章14節から8章2節へいたるまでには、まだ大事な過程が潜んでいることをこの14節は示唆している。
善と悪の相剋
  パウロは、神が与える律法/戒めが「聖であり正しく善いもの」であると表明することによって、神による一元論的な支配を確立することができた。神の聖なる律法の支配のもとでは、神と対立するサタン、正義と対立する邪悪の力という「宇宙的な」二元論は影を薄めるからである。しかし彼は、これの代償として、「霊」と「肉」との相剋という「人間論的な」二元論の淵に立たされることになったと言えようか。わたしたちは、「使徒によって指摘されたこのような(人間論的な)葛藤が、神の御霊によって聖くされて初めて存在することに注目しなければならない」〔Calvin 148〕人間性に潜む悪は、善と対立するものの、その正体を容易に露わにはしてくれない。だからわたしたちは、その悪をあぶり出す律法自体を悪と見なす誤りを犯すことになりかねない。善いものに対立するのは罪であり、律法はその真犯人の居所を追跡してくれるにもかかわらずである。
  それゆえに7章15節では、「わたしは自分が望むことはこれを実現せず、かえって憎むことはこれを行なっている」という事態になる。このようなパウロの霊肉二元論とも見える人間性は、律法を内面化して「霊的な」ものとして己の内面に徹底していくところに初めて明らかになる。ただし、律法を内面化することが「霊的な」解釈であると言うのであれば、パウロ以前のユダヤ教がすでに知っていたことであろう。したがって、律法を人間の内面性と結びつけると言うのであれば、パウロがキリストと出会う前から、彼にはそのような律法理解の素地があったと見なければならない。
  ではユダヤ教とパウロとの違いはどこにあるのだろうか。ヴィルケンスはこの点について次のように言う。パウロに敵対する律法主義者たちから見れば、「神の恵み」は本質的にトーラーと結合されている。したがって、もしもパウロの言うように、罪からの解放が「律法からの解放」であるとすれば、彼等にはそのような「解放」とは、「罪を犯す自由」としてしか理解できない。それゆえにここでパウロの理解する「律法」と律法主義者たちの言う「律法」とは、「恵み」と「律法」との関わり方において本質的に異なっている。だから彼らから見れば、パウロの言う「律法からの自由」とは、「罪の側に属して神と対立する冒涜的なテーゼとしか聞き取ることができない」〔ヴィルケンス114
  ヴィルケンスのこの指摘は正しい。ユダヤ教徒あるいは律法主義的なユダヤ人キリスト教徒たちが理解している「モーセ律法」を指す限りにおいては、ヴィルケンスの指摘するとおりに、律法からの自由とは、罪への自由としてしか理解されないであろう。しかし、パウロの場合は、律法主義者たちとは、その事態が全く異なる様相を見せる。彼の「律法」は、必ずしもユダヤ教的なモーセ律法に内容が限定されてはいない。パウロの言う「神の律法」は、トーラーを含みつつもキリストの御霊にあってこれを越える内容へと変容しているからである。だから、パウロが理解している意味での「律法」についても、「神の恵みは本質的に律法と結合されている」。なぜなら、神の律法が人間の内面を裁く/判断するその働きを通じて、神の恵みが働くからである。己の罪性を認識させてくれない霊は、したがって己の罪性と真剣に闘うことも克服することもしてくれない霊は、御霊でもなければ恵みでもないからである。
トーラーとパウロの律法
  確かにパウロも「律法が霊的である」というその律法理解において、ユダヤ教徒や律法主義者たちと共通している。しかしながら、律法主義的なユダヤ人キリスト教徒たちは、モーセ律法をひたすら遵守しようと努めることによって救いが達成されると考えている。したがって彼らは、この目的での律法遵守を彼らなりの「キリストの御霊」を通じて実現しようと努力するのである。これに対してパウロは、律法を守ろうとする努力それ自体をキリストの御霊にあってあえて放棄する。こうすることによって初めて、律法が真の意味で自分の身に成就すると考えるのである。律法を自力で実行しようとすることと、自己努力を放棄してキリストの御霊により頼もうとすることとは方向が全く逆なのである。彼らは、律法を行なおうと自己努力するがゆえに律法を成就することができない。パウロは、自力で律法を行なうことを放棄することによって律法を成就しようとする。神の恵みは本質的に霊的な律法と結合している。しかし、まさにその神の恵みへ達する過程において、「霊的な律法」は、パウロと彼らとでは、人間の側から見ると正反対の方向に働くのである。まさにこのことが、14~15節の律法理解において生じていることである。
 クムラン宗団での「律法の成就」についてケーゼマンは次のように注釈する。クムランでは、ふたつのアイオーンのせめぎ合いが、敬虔な人間をして罪の支配下にあることを悟らせる。クムランでは、トーラーがより先鋭化して、これに伴って、悪が人間の本性であることがより鮮明に意識されるほどに、まさにそのトーラーを成就したいという願いに駆り立てられる。クムラン宗団においては、このようにして、トーラー成就への願望そのものこそが、「神の恵み」にほかならないのである。敬虔な者は、まさに「この恵み」に頼りつつ、終末の成就を目指して、肉にある罪の力とどこまでも戦い続ける〔『宗規要覧』XI、9〕。これに続けてケーゼマンは、パウロとトーラーとの関係をクムランのそれと対照させて、パウロにとってトーラーは恵みでもなければ成就の対象でさえもないと指摘する。トーラーはむしろ肉にある人間の「自己主張の宗教的様式なのである」と〔ケーゼマン382
  しかしながら、わたしは今ここで、ユダヤ教のトーラーとパウロとの関わり合いを観ているのではない。そうではなくて、キリストの御霊にあって示される神の「霊的な律法」とパウロとの関わりを観ている。パウロにあっては、「霊的な律法」それ自体の聖なる性質は見失われていない。また、この意味での「神の律法」への真の意味での成就が見失われているのでもない。7章後半では、かつてのユダヤ教のトーラーは、キリストの御霊にあって、神の律法としての霊性へと統合され、そうなることで、この神の律法は、キリストの御霊にあって、神の憐れみと恵みを顕わすよう人間に働きかける。マタイ福音書(5章43~48節)やルカ福音書(6章36節)が伝えるイエスの「完全への教え」とパウロがここで見ている「神の霊的な律法」とは、このように見るときわめて近いところにある。
  パウロにとって、神の律法は、その成就においてもクムランの仕方とは異なっている。なるほどどちらも、「罪」とは「創造者に対する被造物の反逆」にほかならない。創造の営みとその権能を被造物者が奪取しようと欲することにほかならない。罪が暴かれるとは、まさに「この罪が」暴かれることであり、これが暴かれるのは創造者の御霊の働きによる。したがって、律法の真の成就は、人間の側に託されているのではなく、終末において初めて実現する。ところがパウロにおいては、イエスの到来とその復活において、すでに終末が始まっている。終末は、キリストの御霊の働きによって、新しい創造の業となって顕われているのである。ここでは「霊的な律法」は、裁きと表裏一体の恵みとして働く。創造においては、否定と肯定とが表裏を成すからである。人間の罪性を真の意味で裁くこととこれを赦しの恵みへと導くこと、これこそが、「肉における」人間が欲してできなかったことであり、御霊が、創造の営みとして達成することなのである。
 パウロは、律法をキリストの御霊にあって「人格化」してとらえた。こうすることで、律法は、外面的な行為や倫理的な決断を個別化して条文的に処理するいわゆる決疑論的(casuistic)な適用から、人格化された霊性の宿りへと転位されることになった。個々の行為を規制するための律法ではなく、個々の行為や決断を自己の内面的な人格に基づいて「自由に」決断する「キリスト者の自由」が生まれる基が、このようにして出てきたのである。「ノモス」(律法/法律/法則)には、このように、外面的な行為や倫理的な決定を規制する「実践的な規定」と「霊的な人格性」から生じる知性的な判断と、ストア哲学やヒンズー教の言う「宇宙の理法」という三つの相がある(旧約聖書でも、律法は、倫理的なもの、あるいは内面的のものとしてだけではなく、宇宙の理法と同一視される場合がある)。
  パウロの場合のように、人格化された「霊的な律法」によって露わにされる人間の二面性は、律法の働き、すなわちその「機能」によって克服することはできない。なぜなら律法は、人間の罪を暴き、人間を殺すことはできても、人間にある「肉の働き」それ自体を殺すことができないからである。これができるのはキリストの御霊のみであり、しかも御霊にそれができるのは、キリストの十字架と復活と御霊の降臨というこの贖いの業が、「律法によって証しされている」というまさにその理由による。これこそ、パウロが「律法が霊的である」と言う意味である。キリストの御霊にあって啓示されるこのような「律法」は、モーセ律法と切り離すことができない。キリストの律法がモーセ律法にその根源を有する以上、わたしたちは次のような言葉に耳を傾ける必要があろう。「単に旧約が普通の意味でキリストに先行したばかりではない。むしろキリストご自身が旧約の中に生きていたもう。言い換えれば、旧約は、(救済史的に見た)キリストの(生まれる以前からの存在である)史前的生に直接随伴し、かつ言わばこれ(新約以前のキリスト)を模写しつつ、これを証言するものであった」〔バルト(上)215。バルトはここでオーフェルベックを引用している〕
モーセ律法とキリスト
 このように、キリストがモーセ律法に「証しされて」顕われたという意味において(ローマ3章21節)、キリストの御霊の働きは、モーセ律法によって絶えず再吟味されることになろう。しかし、その再吟味は、キリストの御霊が、常に新たな価値基準を形成し、これに基づく創造の働きを続けるためにほかならない。モーセ律法がキリストを証しするとは、律法が、御霊にある新たな価値基準を創造する「この過程」に参与することであり、同時にこのような参与を通じて、律法それ自体が終焉へと向かうことを意味する。なるほど律法は、肉に働きかけて、律法違反の罪へと、あるいは律法主義の誘惑へと、「肉なる人」を誘うかもしれない。なぜなら「わたしのほうは肉的であって、罪のもとへ売り渡されている」からである(7章14節)。その結果、「罪が、罪として露わになり、善いものによってわたしに死を引き起こす」(7章13節)という事態が生じるかもしれない。それにもかかわらず、モーセ律法と預言者とによって証しされたキリストにある価値観が、ここでは「霊的な律法」としてキリスト者パウロに迫る。このような迫りの中からしか、8章2節でのキリストにある命の霊法へ到達する道は開けてこないのであろう。だからこそ「霊的な律法」は「神の律法」(7章22節)なのであり、人はその律法にあって、これを「喜ぶ」ことができるのであり(7章22節)、神は「このような仕方で」恵みを顕わすのであろう。
立派な価値観
 7章15節には、「自分が望むことはこれを実現せず、憎むことはこれを行なっている」とある。だがこれは罪に支配されている姿ではない。たとえ肉の支配の下にあっても、そのような自分の状態を否とするまさにそのことによって抵抗を表明している姿である〔Dunn7:15〕。肉にありながらも「霊の新しき」(7章6節)に歩もうとする意志がここにはある。望むこと、意志するとは、具体的な行為とその結果を「生み出そう」とすること、「つくりだそう」とする力がすでに己の背後に働いていることである。この意志は、それの行為をも含めて、御霊に歩む自分自身を新しく「つくりだそう」とする御霊の意志にほかならない。
  このような「抵抗の意志」に支えられている限り、彼は「律法が立派だと賛同しつつ」(7章16節)、しかも自分の自己努力ではその律法に到達し得ないことを認知する。ここで言う「立派」とは、人が、キリストの御霊にあって、授与されたいっさいの価値観をそこに見いだすという意味である。それゆえにこの意志は、自分の現実を憎み、これに失望し、自己を否定することはあっても、キリストの律法が与える価値観それ自体を放棄したり、悪霊的なものとみなしてこれを否定したりすることは決してない。彼は、この律法が、自分自身の内に真の意味で成就するという望みを捨てないからである。だからここで「賛同し同意する意志」とは、単に律法の価値基準を正しいと認めることではなく、人がその全人格をもって心からこの価値を「告白する」ことであり、「心からの熱い願いで律法に賛同すること」〔Calvin 150〕なのである。このような真摯な願いそれ自体も「外からの」聖霊の働きによって与えられるものであるが、律法の成就を「意志する」ことにおいて、その人は、全人格的に御霊の求めに応答しているのである〔Cranfield(I) 360〕。
  だからここで言う律法は、有益であり善であるばかりでなく、「立派なもの」として幅広い価値基準を含むことを確認したい。まさにそれゆえに、人は、御霊が指し示す「立派な」価値を自分では「創り出す」ことができないこと、それどころか、御霊に導かれる自分の意志によって、「わたしに宿る罪」がいっそう露わになるという現実に直面することにもなる。だが、「こういう結果を生み出させるのは、このわたしではない。わたしに宿る罪のほう」なのである(7章17節)。これは言い訳ではない。そうではなく御霊に歩もうとする者が、どれほど深く自分自身の内に罪が「宿っている」のかを洞察することができた証しである。ここでは、罪が「照らし出されて暴露される」(7章13節)ことで、自分の正体が決定的に啓示される。
肉にある「わたし」
 7章18節から20節までは、13節~17節で提起された「霊的な律法」において生じる「霊」と「肉」の相剋を引き継いでいる。『継承思想』の第10章で指摘したように、14節~17節は、18節~20節と並列関係にある。だが並列は同列ではない。この18~25節で、パウロは、先の段落で語った霊肉の関係をいっそう深め、そうすることによって、人間論的な二面性を克服する道を探り求めている。
 7章18節は、前節の「悪が自分に宿っている」ことを受けながら、自分には「善が宿っていない」ことを裏側から確認している。キリストの律法の光に映し出されて初めて、彼は肉の真相を「知っている」と言うことができる。しかも彼は、その真相が、キリストの律法の光に照らされて「知っている」ことをも知っている。なぜならパウロはここで、「肉にあるわたしにおいては」と限定することによって、肉には「善なるもの」が宿っていないと告白すると同時に、そのような告白が、ほかならぬキリストの御霊の価値観に照らされることでなされていることを証ししているからである。「肉にあるわたしにおいては」というこの限定は、御霊に歩むことによって初めて認知できる洞察だからである。御霊の価値観を希求する意志は自分に具わっている。しかしそのような価値観に沿う自己を「つくりだす」こと、すなわち実現することができない。「意志する」ことと「実現する」こと、この間に横たわる溝は深い。この亀裂への洞察は、17節から24節へ向かうに連れていっそう深まっていく。ただしここで注意しなければならないのは、わたしたちは、「肉」を「肉体」から、すなわち「からだ」から明確に区別しなければならないことである。ここで語られる二元論は、「霊」と「肉」との間に生じている二元論であって、「からだ」はこのような二元論を越える存在だからである〔Dunn7:18〕。
「霊」と「肉」
 ここで露呈されている「霊」と「肉」との相剋において、両者がどのような関係にあるのかを注釈者たちはいろいろ解説してくれる。人間の魂の中で、神のみ姿が輝き出る部分とそうでない部分とに分けられるのか〔Calvin 151〕、あるいは律法が罪を呼び覚ます部分を肉の領域と限定して、これに対する霊の自分が存在すると考えるのか〔Cranfield(I) 364-65〕、あるいは来るべきアイオーンに属する霊の自分と古いアイオーンに属する肉の部分とその両方につながる「からだ」というように分けられるのか〔Dunn7:25/8:3〕、あるいは人間の低級な部分だけではなく、人間の最高級の宗教的な資質も、いわゆる「キリストにある聖霊体験」も、いっさいが人間の肉に属する部分であって、それらは肉として裁きを受けなければならないものであり、人間をこのような存在として照らし出すのがキリストの啓示の光であるのか〔バルト483〕、この辺をつまびらかにするのは容易でない。しかし、わたしがここで問うのは、「この」問題ではない。魂の輝く部分にせよ、来るべきアイオーンに属する自分にせよ、啓示の光にせよ、そのような「霊」の世界において、そもそもここでは「律法」がどのように関わっているのか? これが今問われている問題である。ローマ人への手紙6章~8章が、パウロ書簡全体において最も中心的な箇所であるかどうか、わたしには確信がない。しかし、パウロの律法観を探る上では、これらの章が最重要であるのは確かであろう。
深まる善悪の対立
  7章19節に「わたしの意志すること、すなわち善を行なわず、かえってわたしの意志しない悪、これを実行している」とあるのは、15節の「わたしの望むこと、これを実現せず、かえってわたしの憎むこと、これを行なう」と並列する。これは繰り返しではない。15節では、「望むことはこれを実現せず」「憎むことはこれを行なう」とあり、19節では、「望む善は行なわず」「望まない悪を実現する」とある。「望むこと」と「憎むこと」から「望む(意志する)善」と「望まない(意志しない)悪」へと移行するのに対応して、「実現する」と「行なう」のふたつの動詞が入れ替わるのである。15節の「望む」と「憎む」という内面的な視点から、律法が明示する「善」と「悪」へ移行することで、己の内面性を注視する視点から、御霊によって啓示される価値基準それ自体へと視点が移っているのが分かる。
  パウロは7章18節で、「善への意志は自分に<具わって>いる」と述べて、たとえ「立派なこと」を「実現する」までには至らなくても、キリストから授与された価値の「実現への可能性がすでに(自分に)宿っている」〔ヴィルケンス132〕ことを示唆している。だが19節では、律法の善を意志することはできてもそれを「行なう」ことがなく、かえって意志しない悪を「実現する」という悲しい現実に出逢う。善を意志することによって成就の可能性が強まるほどに、悪の現実がその前にはだかって、苦悩がいっそう深まるという矛盾がここにはっきりと浮き彫りされてくるのを見る。
  このように、たとえキリストの御霊と言えども、ノモス(律法/規範/基準)としては、モーセ律法と同じように機能するのである。すなわち、御霊の働きは「罪の自覚」を生み出す。このような状況の下におかれた人は、これに対して反逆するか、あるいは自分の力でその霊的なノモスを達成しようという誘惑に陥りやすい。人がそのような誘惑に動かされる時、まさにこの時点で、御霊のノモスは、キリストの御霊としての働きを失う。なぜならそのように悪用されたノモスは、人間が自己義認の手段として利用しようとする肉的な業へとその働きを変質させるからである。このような状況の下での肉の業は、幻想によって霊の装いをつけた人間の自我発揚によって死を産み出すだけである。あるいは逆に、「罪の自覚」を媒介としない、無条件の安易な人間肯定を十字架の赦しと結びつける傾向に走ることになろう。
  しかしながら、キリストの御霊の働きによって暴かれた自己の罪性を、あえて神の裁きと断罪に委ねる者は、その否定の裏側に潜む神の肯定に出逢う。すなわち、彼は、自分が、イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪について死に、死ぬことで命へと甦り、イエスの御霊の内を歩む者とされていることを知るのである。このような過程において初めて、イエスの御霊は御霊であり続ける。このような歩みにあって、人は「御霊で始まり肉に終わる」という悲惨な結果に陥らずにすむのである。
「肉の罪」と「神の律法」
  7章20節は、16節から19節までを受けているが、この20節にいたるまでの過程を圧縮すると見えてくるのは「律法が立派である」(7章16節)という認識である〔Dunn7:20〕。この認識はすでに13節から始まったのであるが、20節の後半で、この認識に基づいて、改めて「悪の根源は(律法ではなく)自分の罪である」ことを確認する。そこから「悪の行為の主体は、自分ではなく罪である」という次の展開が始まる。ここでは、「わたし自身」は(たとえこの主語が後の挿入であっても意味をいっそう明確にするためであろう)、自分の望まないことを行なっている。だから「わたしの内に潜む罪」がその行為の主体であって、望まないことを行なう「わたし」それ自体は、行為の主体としての罪への責任から除外されている。しかもこの除外されている主体の「わたし」こそ「律法を喜ぶ」主体なのである。「悪は自分が行なうのではなく、自分にあって働く罪が勝手に行なう」というこの認識は、バルトに言わせると言い逃れにすぎない〔バルト482〕。自分も罪も結局は同じことであると彼は言う。だがバルトのこの見解は重大なことを見落としている。ここでパウロが言いたいのは、自分の罪のことではない。そうではなく、16節にあるように「律法がそれ自体で正しい」ことを言うためなのである〔Dunn7:16-17〕。「律法は罪であろうか?」(7章7節)と問い、「善なるものが死をもたらすのか?」(7章13節)と問い返してきたパウロは、ここにいたって「罪」と「律法」とをはっきりと分離するだけでなく、この両者を改めて対立させ、そうすることによって「肉に宿る罪」と「神からの律法」という対立の図式がここで確認される。このパラダイム・シフト(図式の転換)こそが、これまでの到達点であり、これ以後の展開の鍵となる。
キリスト者と知性
 この項を始めるに当たって、くどいと思われるのを覚悟の上でもう一度繰り返させていただきたい。7章後半で描かれているのが、入信以前のかつてのサウロの状態であれ、現在のパウロの状態であれ、そのどちらにも当てはまらない人間一般の姿であれ、事態をこのようなものとして認識し、かつ語っているパウロ自身は、紛れもなく現在のパウロである。言い換えると「キリスト者」とされ「御霊に導かれつつ」語るパウロである。そうであれば、ここで語られている「律法」「肉」「罪」「わたし」は、すべてパウロ自身が「キリストの御霊の相のもとで」観ている事態であり、かつてのサウロの観点ではない。このことを確認していただきたいのである。ここで語られている事柄が、「御霊の相のもとで」観られていることが重要なのであって、その事態が古いアイオーンに属するのか、あるいは新しいアイオーンにあるのかは、この「御霊の相のもとで」という前提に立って考えられるべきであろう。言うまでもなくパウロの論述には、かつてのサウロの体験も継承されている。しかしその体験は、キリストの御霊にあって、「救済史的な視点」に立って語られていると見るべきであろう〔Calvin 151〕〔内村注解上243〕〔バルト477〕〔Cranfield(I) 365-66
  以上のことを踏まえた上で、7章13節から24節までに述べられているのは、パウロ自身も含めて「まだ救われていない」人間の姿なのか? それともキリスト者として、御霊に導かれている者の状態なのかを問うことにしたい。例えば、23節から25節までの間に表われる「知性/理性」では、「救われていない人間の理性が問題になっている」〔ケーゼマン391〕と見る説がある。後で述べるように、わたしはケーゼマンの律法理解に賛同するところが多い。しかし、7章21~23節で語られる「知性」が、キリストの御霊を知らない人間について述べられているという見解をわたしは支持することができない。むしろこれらの節では、「ここでもまた(7章18節)、パウロは、人類一般のことを指しているのではなく、肉の残滓と聖霊の恵みとのゆえに自己の内面が分かれている信仰者のことだけを述べていることを確認する」〔Calvin 151〕というカルヴァンの解釈に賛同する。
  7章18節で「肉にあるわたしには」とパウロが言う場合でさえ、「肉にある」と観る判断それ自体は、聖霊の宿るキリスト者として初めて観ることができる視点であって、御霊の導きにありながら、それでもなお、彼は肉的な存在から免れることがないという意味である。同様に7章19節の「自分の望まないことを行なう」とあるのも、「わたしたちは、カルヴァンと共に、これらの言葉を次のように理解すべきであろう。すなわちクリスチャンが抱くのは全く無力な願望にほかならないという意味ではなく、彼の行なうことが現実には彼の意志とぴったり一致しないことを意味する。彼には、時には自分の意志を全く実行できないこともあろうし、また時には、彼は自分の意志と正反対のことをしさえするが、彼の善い意志が到達できたとする最良の行為においてさえも、それは常に自己中心的な自我のしみによって汚れているのである」〔Cranfield(I) 361〕。だから「罪を持たず、また感じもしない者は、キリスト者ではない。そのような者がいるなら、それは反キリスト者であって、真のキリスト者ではない」〔バルト(上)477〕のである。
7章21節の「律法」
  パウロが、御霊の導きに与るキリスト者として語っていることを確認した上で、7章21節で語られている「律法」とは、どのような意味なのかを問うことにしたい。21節から23節までの「律法」の用法は複雑である。だがこの複雑さは、「ここで問題にされているのがまさにこの『律法』である」〔Cranfield(I) 361〕ことを証ししている。
 7章21節には、「なんとここで分かった律法とは、自分は立派なことを行なおうと思っても、その自分に悪が宿ることである」とある。ここの「ノモス」を「律法」の意味ではなく、一般的な「法則」の意味に理解する場合があるが〔新共同訳〕、この点についてケーゼマンは次のように言う。21節の「律法」はトーラーに対する考察ではない。21節では、「律法」とは「転義的に法則または必然的拘束を意味する」。22節の「神の律法」も肢体の中の法則と対立する一般に妥当する神の意志を意味すると。ケーゼマンはさらに、23節には、「モーセ律法」と「神の律法」と「知性の律法」と「肢体に働く別の律法」(これは「罪の律法」と同じ)とが表われるが、「律法概念のこの四重の変容はそれぞれの差異を示しつつ、一つの根本的な対立関係を囲んでいる」〔ケーゼマン39091〕と見ている。
  確かに7章21節の「~というノモスを発見する」という言い方は、「~という律法を発見する」と訳すよりも「~という法則/理法を発見する」の意味に理解するほうが自然であろう。多くの解釈者たちがここで戸惑うのは、ここでの「ノモス」の意味が、今までのパウロの用法とはいささか違った内容を帯びている点に気づいているからである。ただし、7章21節の「ノモス」を「法則」と受けとめるだけでは、この「ノモス」を正しくとらえているとは言えないであろう。「立派なことを望む自分に悪が宿るという律法を発見する」という言い方は、7章10節の「命にいたる戒め/律法が自分にとって死にいたることを発見する」と対応した言い方でもある。だから、ここでの「ノモス」もやはり「律法」の意味に理解すべきだと見ることもできよう〔Dunn7:22〕〔市川296〕。冠詞がついていることから見ても、パウロが、今まで論じてきた「律法」とは何か全く違ったことを意図しているとは思われない。このように見てくるなら、ここの「ノモス」は、「法則」の意味に限定はできないが、モーセ律法をも含めて、これまで表われた「律法」のどの意味にも限定することができない。ここの「ノモス」は、「モーセ律法ではないが、必ずしも一般的な『法則』の意味に限定してはならない」〔ヴィルケンス133〕のであろう。
 わたしたちはここで、今までのパウロには見られなかったひとつの新しい律法観に出逢っているのである。意図的であるにせよ、ないにせよ、パウロはここで、「ノモス」に自然法則に通じる意味を含ませることによって、「ノモス」に「律法」と「法則」のふたつの意味を重ね合わせていると見ることができる。ここでは、「律法」か「法則」か? と問うよりも、むしろパウロが、律法を語るに際して、律法それ自体にもある種の法則性が宿っていることを示唆してくれていることに気づくべきではないだろうか。パウロの「律法」の意味は多様で一貫性がないと言われるが、このような見方は、おそらくパウロの「律法」の意味する内実自体に変容が生じていて、しかもその変容が、ある種の法則性を帯びていることを見逃しているからではないだろうか。この箇所は、わたしたちをこのような「律法それ自体に潜む法則性」へと導いてくれる。もしも何らかの意味で、律法それ自体の働きとこれの変容が、救済史的な視点から見て、ある種の法則性を帯びているとすれば、それは、どのようなものであろうか? わたしたちは、この段階で、パウロの「律法」について、こういう洞察へと導かれるのである。
神の律法
 7章22節に「わたしは内なる人では神の律法によって喜ぶ」とある。ヴィルケンスは、この「神の律法」とは「モーセ律法」のことであると言う〔ヴィルケンス134〕。この「神の律法」がモーセ律法を内包していることに異論はない。しかし、たとえそうであっても、パウロはその「モーセ律法」をもキリストの御霊の相のもとで観ていることを確認しておきたい。そうでないと、「モーセ律法」と言う場合に、その内容がいったい何を意味しているのかが一向に見えてこないからである。それは例えば、ユダヤ教徒が意味するモーセ律法のことなのだろうか?  あるいはかつてのサウロの観ていたモーセ律法なのか? ユダヤ人キリスト教徒たちの言うモーセ律法なのか? それともガラテヤを訪れていたユダヤ人キリスト教徒たちの言う「律法」だろうか? もしもそうだとすれば、パウロは、ガラテヤ人への手紙で否定したモーセ律法を今ここで神の律法として再び立てることになりはしないか? そうだとすれば、「自分で打ち壊しておきながら再びそれを建てる」(ガラテヤ2章18節)ことになりはしないか? 
 ケーゼマンによれば、ここは「一般的な意味での神の律法」のことである〔ケーゼマン390〕。ケーゼマンが「一般的な意味での」と言うのは、おそらく旧約のモーセ律法よりも広い視野に立ってこの「律法」を観ているからであろう。おそらくこのほうがより適切であろうと思われる。なぜなら、パウロがここで言う「神の律法」は、キリストを通じてパウロに示された価値観に基づくものであって、この価値観は、ユダヤ教の狭義の律法観をはるかに超える広がりを持つと考えられるからである。ただし後述するように、この「一般的な意味での神の律法」とは、単に普遍性を帯びた律法を意味するだけではなく、その「普遍性」は、ガラテヤ人への手紙5章の悪徳と美徳のカタログに表わされているように、キリストの御霊にあって示された普遍性のことであり、この御霊に含まれる価値観のことを指すとわたしは見ている。
内なる人
  ここで注意してほしいのは、7章22節の「神の律法」が、パウロの言う「内なる人」と深く結びついていることである。ここでの「内なる人」は、おそらく第二コリント人への手紙4章16節に出てくる「外なるわたしたちは朽ちていくが、内なるわたしたちは日々新たにされていく」と関連づけることができよう。「日々新たにされていく」のは、キリストの御霊の働きによると考えられるから、ここでも聖霊の働きによって、「内なる人」が形成されていると見ることができる。「外なる」と「内なる」とのこの対比は、「日々新たにされる」とあることから分かるように、先に表われた「文字の古き」と「霊の新しき」(ローマ7章6節)という時間的な対比をも同時に含んでいて、キリストの御霊は、「内なる人」としての「新たなパウロ」を彼に顕わしていることが読み取れる。「内なる人」が聖霊の働きによるというこの信仰は、「神がその豊かな栄光に従って、神の聖霊によるその力によって(あなたがたの)内なる人が強くされるように」(エフェソ3章16節)とあるように、パウロの後継者へと受け継がれている。
  注意しなければならないのは、第二コリント人への手紙の「内なるわたしたち」とは違って、ここでは「内なる人間」とあるように「人間」の有り様として明言されていることである。この違いは微妙でも大事な意味を含んでいる。「内なる人間」は、「神の律法を喜ぶ」のであるから、その人間と神の律法とは同一ではないであろう(ここは「神の律法<にあって>喜ぶ」という読み方もできる)。したがって、ここ22節での「内なる人間」は、聖霊の働きに与ることによって形成されるとは言え、聖霊それ自体と同一視されてはいないことに注目したい。聖霊の「働き」と聖霊それ自体とが区別されなければならないのは、例えば異言を語る人間を通じて現われる聖霊の「働き」と聖霊それ自体とを区別する必要があるのと同様である(第一コリント14章14節)。
  ところでギリシアでは、「内なる人」とは霊魂を指していて、霊魂には神性が宿ると考えられていた。新約聖書の時代よりも少し下がるが、この思想は『ヘルメス文書』によって次のように述べられている。「人間はすべての地上の生き物と異なり二重性を有している。すなわち、身体のゆえに死ぬべきで者であり、本質的人間のゆえに不死なる者である。」〔『ヘルメス文書』(Ⅰの15)62〕ここでは創世記の神話がプラトン的にあるいはストア的に変容して取り込まれていて、臨終の際には、「内なる人」が分離して天上の神的本性へと帰還する。だからここでは、「外なる人」である「からだ」と「内なる人」としての霊魂が対立関係にあることが分かる。第二コリント人への手紙4章16節でパウロはこの思想を継承していると見る説があるが、わたしはこれに賛同できない。「ヌース」(知性)との関連で言えば、『ヘルメス文書』では、「ヌース」とは、この意味での「内なる人」である。だから「ヌース」自体は、苦しみや死を味わうことがない。この考え方は、グノーシスの二元論的な人間観と宇宙観へ発展するが、『ヘルメス文書』それ自体は、必ずしもグノーシス的とは言えない。
  これに比べると、パウロの「内なる人」は、このような人間性への二元論的な観点からでは正しく理解できない。なぜならパウロにあっては、「内なる人」とは、御霊にあって形成される「新しい人間」として理解されているからである(ローマ7章6節)。だから、彼の言う「内なる人」は、存在論的な視点と同時に時間的な視点、言い換えると救済史的な観点から考察されなければならない。パウロの人間観は救済史的な人間観に基づいていて、そこでは「古い人」とキリストにある「新しい人」との二重性が存在している。このような救済史的な見方からするならば、ギリシア的な意味での「内なる人」もまたキリストの十字架の死によらなければ「新しい命」とはなりえないことになろう。
  このように見てくると、7章22節の「内なる人間」は、ギリシア的な霊魂とも同一視できないが、同時に神の聖霊それ自体とも区別されているという不思議な位置を占めているのが分かる。このような「神の聖霊によって感化された人間の新たな霊性」は、ここローマ人への手紙7章の後半に現われるが、律法の内容の変容を知る上で大事な意味を帯びていると言えよう。
英知の律法
 カルヴァンは7章22~23節に表われる「律法」を次の四つに分類している〔Calvin152〕。
(1)「神の律法」:これはわたしたちの生活が律せられるべき義の規範であるから、これのみがまさしく律法と呼ばれるべきである。
(2)「知性/心の律法」:進んで神の律法に従おうとする誠実な心のことである。
(3)「罪/不義の律法」:これは「知性の律法」と対立し、生まれ変わっていない者たちだけではなく、生まれ変わった者たちにも働きかける不義の力のことである。すなわち暴君的な律法であるが、いかに不義であるとは言え、不適切ながら律法と呼ばれる。
(4)「肢体に働く律法」:人間の肢体に宿る欲情のことである。これと不義の間には一致が存在するからパウロはこれを「罪の律法」と呼応させている。
 クランフィールドは、カルヴァンのこれら四つの律法を二つに整理して、23節に出てくる「わたしの肢体に働く別の律法」と「わたしの肢体に働く罪の律法」とを同一視する。さらに「知性の律法」を22節の「神の律法」と同じと見る。その上で、彼は、この「知性」を22節の「内なる人」と同一視している〔Cranfield(I) 633〕。だから彼は、「神の律法」と「知性の律法」とを同一視して、その上で「知性」を「内なる人」と同一視していることになる。したがって、彼によれば、ここでは「知性/神の律法」と「肉に働く罪の律法」とのふた種類の律法が語られていることになる。わたしは「知性」と「内なる人」とを同一視することに異論はないが、「神の律法」を「知性の律法」と同一視するのは問題であろう。カルヴァンは、「神の律法」を厳密に神から授与された律法の意味に解釈している。もしもクランフィールドが、「知性」と「内なる人」とが同じであると考えるのであれば、しかも彼自身が言うように、この「知性」を「心が認める/認知する」働きの意味に理解するのであれば、「神の律法」を「知性の律法」と同一視することにわたしは賛同できない。
 先に指摘したように、「内なる人」は、キリストの御霊の働きから生まれたとは言え、それは人間に具わる霊性として理解されている。「内なる人としては神の律法によって/にあって喜ぶ」(7章22節)とある「内なる人」は、続く23節の「わたしの知性の律法」へとつながる。しかし、この「知性」は、御霊の働きのもとにあるとは言え、キリストの御霊それ自体のことではない。先に「内なる人」の場合で指摘したように、キリストの御霊それ自体と御霊の「働き」とは区別する必要があるからである。
 「ヌース」(知性/理性/英知)はほんらい人間に具わるものとして、例えばプラトンでは、人間に具わる至高の能力を意味していた。フィロンは、ギリシア哲学とヘブライ的な宗教との神秘な融合によって、「知性」は「神の息/霊」によらなければ正しくありえないと考えた。「ロゴス」は、宇宙に宿り人間の思考/理性にも宿るが、「知性」のほうは人の心に宿るからである。だからこの「知性」が宇宙の理法を抱くことができるとすれば、それは神からの賜にほかならない。パウロの「知性」は、おそらくこのフィロンの考え方に近いのであろう。「ヌース」とはこの場合、神の御霊によって感化された人間の能力を指していて、パウロはこの言葉によって、「新しいアイオーン」に属する信仰者の「心/知性」を示そうとしている。だから「ヌース」をここでは「英知」と訳すほうが適切ではないかと思う。この「英知」は、7章25節の「英知」でもあり、さらに12章2節の「新たにされた英知」へとつながることになる。なおグノーシス思想にあっては、この「ヌース」は、「ヌース神」と呼ぶことができるまでに神格化されて、それは宇宙の創造者である神の上に立つ存在として崇められるが、ここではこの問題に立ち入らない。
 7章23節をこのように見ると、「罪の律法」に対する「英知の律法」は、7章22節の「内なる人」と結びついている。しかもこの英知の律法は、キリストの御霊にあって授与されるものであって、ほんらいわたしたちキリスト者の一人一人に具わるものなのである。ここで、7章20節以降に「わたし/自分」が繰り返し表われることに注目したい。この「わたし」とは、英知の律法に支えられる内なる人のことであり、これこそが、キリストにある者のアイデンティティであることを示している。キリスト者は、と言うより人間は、「英知」によって初めて、「神の律法」の真価を悟り、心からこれを喜ぶことができる。彼は、この「英知」によって初めて、「自分自身を発見する」のである。パウロが21節で「立派なこと」と呼んでいるのは、このような英知によって認知された価値観のことであり、この意味で、「英知の律法」とは「英知による価値観」と言い換えるほうが分かりやすいかもしれない。
 ただし、第一コリント人への手紙2章16節には「誰が主の霊知(ヌース)を悟って主に教えるのか? だがわたしたちは主の霊知を持っている」とあってイザヤ書40章13節が引用されている。ここはローマ人への手紙9~11章で語られる神の救済史的な意図を悟るところであり、最終的には、ローマ人への手紙11章の終わりに表われる神の知恵としての「神智」へとつながる。第一コリント人への手紙で、「わたしたちはキリストの霊知を抱く」(2章16節)とあるのは、これに関連して見過ごすことができない。ここで語られている「霊知」とは、神の御霊と最も近いところまで高められていると思われるので、わたしはあえてこれを「霊知」と呼ぶことにする。しかし、このような霊知は、おそらく一般のキリスト者のことではなく、第一コリント人への手紙3章1節にあるような特別に霊的な人たちのことであろう〔Conzelmann 69〕。
罪の律法と英知の律法
 7章23節に表われる「罪の律法」は、「肢体に働く別の律法」と同じである。この「罪の律法」は、7章7節で「律法は罪なのか?」という問いで始まる罪と律法との結びつきから発している。「律法なしには罪は死んでいる」(7章8節)のである。7章11節で見たとおり、罪は人間の肉のうちに宿っていて、普段は顕在化しないが、常に待ち伏せして機会をうかがっている。そこへ、妬みやそねみや争いなどの「機会」が加わるとたちまち顕在化することになる。だが罪が言葉や行為となって現実するかどうかは、理性によるコントロールの力に負うところが大きい。しかし、意志や努力は、人間の本性に潜む罪性を取り除くことができないから、努力するほどに罪はますます激しく抵抗することによって顕在化するのである。
 したがって23節全体の主旨は次のようになろう。「わたし」は、肉にあって肢体に働く罪と対立するが、英知にあって神の律法に賛同する。こうして「わたし」という人間存在にあって、罪が生み出す肢体の律法と神の律法が生み出す英知の律法との間に対立が生じることになるが、どちらも「わたし」という人間に具わる属性であることに変わりはない。御霊によって内なる人に与えられる英知は、神の律法を喜ぶが、罪の律法が、この英知に逆らう結果、英知はしばしば罪の律法にとらわれる事態に陥ることになる。神の律法は、イエス・キリストの御霊によって啓示される価値基準にほかならないから、この基準に照らされることで、英知と罪との対立がいっそう明らかに自覚されてくるというのが、ここでのキリストにある人間存在の真相であろう。
 この事態をパウロは、「心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕える」と言う。「神の律法」とは神の意志のことであるから、神と罪との狭間におかれた人間は、神の意志との出会いにおいて自分の意志の有り様が問われることになろう。しかも神の意志は、キリストにある価値基準のことであれば、人はキリストに深くつき従うことによって、ますます自己の意志の有り様を深く自覚することになろう。罪は神の律法に反逆することにおいて甚だしく罪となるのであるから(7章13節)、神の律法への反逆という意味で、罪は、神の律法を喜ぶ「わたし」の意志に対する反逆でもある。「わたしが悪を実行するのではない。そうではなく、わたしに宿る罪のほうである」(7章17節)とパウロが言うのはこの意味であろう。律法は「神の律法」、すなわち創造者の律法である。ところが「わたし」は被造物なのである。パウロは、この相剋の谷間にあって、まさにこのことを悟らしめられる。これこそが、神の律法とキリストの御霊に照らされた英知の働きなのである。
 このように見てくると、「罪の律法」と「英知の律法」という二つの対立する「律法」が存在するかのように見えるが、問題はそれほど単純ではないであろう。クランフィールドは、バレットの次のような説を紹介している。「罪の律法と神の律法とは同じであり、前者は罪によって誤用された律法のことである。この場合、『罪』とは現存する宗教のことである」〔Cranfield (I) 364〕。バレットのこの見解が注意を惹くのは、「神の律法」と「罪の律法」とを同じ律法の表裏をなす二つの相としてとらえていることである。すなわち、「罪の律法」は、ほんらいの「神の律法」が、肉の働きによって誤用された結果生じるもので、言わば「神の律法」の歪曲版である。バレットは、人間が自己正当化の目的で組織化した「宗教」の有り様にこの歪曲された律法の姿を観ているようである。ここでは「律法」は、その内容において、現代における「宗教」へと変容し、しかもそれが、神の律法と対立するものと見なされているのである。
 神の律法とは、キリストの御霊によって示される価値観のことであるから、英知の働きはこれを喜び、これを受け容れる。ところがその価値観が、人間の自己正当化の対象とされる時に、人を罪に陥れるだけでなく、逆に罪を増幅し、罪へのむさぼりへと人を誘うという図式がここに浮かび上がってくる。たとえキリストの御霊から来ると思われる価値観と言えども、まさにそのような思いこみのゆえに、危険はいっそう大きい。人の肉的な意欲によって誤用されるこのような「堕落した律法/宗教」は、キリストの御霊にある英知によって初めて、それが「罪の律法」であるという洞察にいたることが可能になるのであろう。だからここで言う「罪の律法」は、もはやユダヤ教の律法理解を超えた領域へと移行していることを知らなければならない。
「ユダヤ人」と「ユダヤ教」について
   ここで現在でもしばしば語られるいわゆる「ユダヤ人」について考えてみよう。7章23節の「罪の律法」について、ケーゼマンは、「第一義的に敬虔なユダヤ人について考えられているのではない」〔ケーゼマン390〕と述べている。この指摘は重要である。わたしたちはこの部分にユダヤ人、あるいはユダヤ教徒のモーセ律法主義を性急に読み込むべきではないからである。総じてここでは、異邦人キリスト教徒とユダヤ人キリスト教徒とを問わず、キリストの御霊に与ったキリスト者のことを述べているのであって、問題はむしろ「わたしたちキリスト者」のほうなのである。
 それゆえに、7章21節で指摘した「律法」から始まって、この23節~25節で語られている「律法」は、旧約の律法あるいはユダヤ教の律法と直接に関連づけられてはならない。パウロはここでユダヤ人あるいはユダヤ人キリスト教徒たちに向かって、あなたたちの旧約聖書の律法は「罪の律法」であると言っているのではない。むしろその逆に、律法は聖にして正しいと言う。彼は、キリストの御霊の相のもとで見る時に、人間に与えられている善いもの(律法)が、罪のために「悪い」働きへと転じてしまうことを指摘しているのである。先に指摘したように、「キリストの律法」によって表わされる価値観は、モーセ律法によって証しされてはいる。しかし、今この段階で、先のガラテヤ人への手紙でパウロが弾劾したユダヤ教徒やユダヤ人キリスト教徒の律法主義を持ち込むべきではないであろう。特に現代では、わたしたちキリスト者にとって、ガラテヤ人への手紙で問題にされている割礼も食物規定ももはや何の関係もない。ここで言う「罪の律法」は、パウロの言葉を借りれば、わたしたち自身にあって、「わたしの肢体に働いて」「自分自身の望まないことを行なわせ」ようとして働く「悪/罪」の働きのことであり、わたしたちをそのように誘う「罪の正体」なのである。
 パウロは先に、ガラテヤ人への手紙において、肉による「アブラハムの子孫」を内面化してとらえ、「信仰によるものこそ真のアブラハムの子孫である」と解釈し直すことによって、「アブラハムの子孫」が受け継ぐべき嗣業を「肉」から「霊」へと普遍化させている。彼はこうすることによって、「アブラハムの子孫」をユダヤ人から異邦人をも包含する信仰へと拡大した。内面化とは、この意味で普遍化することにほかならない。同様にパウロは、ローマ人への手紙2章で、「隠れた/内面的な」ユダヤ人こそ真のユダヤ人であるとして(2章29節)、「ユダヤ人」を内面化する。彼はそこでも、「たとえ(モーセ)律法を持たない異邦人でも、自然に導かれて、(神の創造の秩序に従う)行為をする人たちにとっては、それぞれ(の内面/良心)が律法となる」(2章14節)として、律法の働きを肉から霊へと転換させる。彼はこのようにして、律法に含まれる内容自体を旧約の枠を超えて普遍化する。
   ここでパウロは、真の意味で神の律法を守る「隠れたユダヤ人」を意図しているが、この普遍化は、同時に律法を授与された「ユダヤ人」の概念それ自体をも全世界の人たちへと拡大する結果となることを見抜かなければならない。ローマ人への手紙2章においては、「ユダヤ人」は、全人類の「内なるユダヤ人」へとその意味が拡大されているのである。それゆえに、もしも律法主義的な「ユダヤ人」を弾劾するのであれば、それはほかならぬわたしたちの「内なるユダヤ人」に潜む律法主義を弾劾しなければならない。「アブラハムの子孫」が異邦人へと普遍化されることと「律法主義的なユダヤ人」が異邦人へと拡大解釈されることとは、パウロにおいてこのように並行して生じているのである。
 したがって、パウロがここで言う「罪の律法」が、もしも何らかの意味で「ユダヤ人」の律法主義と関連づけられるのであれば、それは「わたしたち自身の内に潜む律法主義」とそこから生じる罪の働きを指すものと解釈されなければならない。パウロがこの手紙をユダヤ人キリスト教徒たちをも含むキリスト教の諸集会に宛てているという「歴史的な状況」とここでのテキストが「指し示している」キリストの福音への道とは、このようなつながりにおいて理解されなければならない。ここでの「ユダヤ人」は、例えばルカ福音書に出てくる「ファリサイ派」や「サドカイ派」などと同様に、表象化された「ユダヤ人」である。だからこれを扱う場合に、人種的あるいは民族的な意図をこめた釈義であってはならない。これらの表象は、人間存在それ自体の正体を暴くための記号に過ぎない。これが、ユダヤ民族から異邦人世界へとパウロが引き継いだ嗣業であり、彼は、この引き継ぎによって、全人類をアブラハムの子孫とし、同時に全人類に向けて、律法違反と律法主義の罪を警告するのである。
変容と排除
 先のガラテヤ人への手紙で、パウロは、モーセ律法に関する律法違反のみならず民族的な優越意識に固執する律法主義をも厳しく批判し排除しようとした。このような排除の論理は、彼がキリストの御霊の相のもとにユダヤ教の律法制度をも含めて観ているところから生じている。パウロの言う「キリストの律法」(ガラテヤ6章2節)には、すでにモーセ律法それ自体が新たな普遍性を帯びて含有されているからである。キリストの律法が、ユダヤ教のモーセ律法を含むのなら、なぜ彼は、ユダヤ教のモーセ律法をキリストの福音から排除しようとするのか? その答えは、問いに含まれている。キリストの御霊にある価値観には、旧約の律法がすでに含まれている。だからこそパウロは、「古い」律法主義を大胆に排除「できる」のである。しかもパウロ自身は、ユダヤ教の律法に従う生活を捨ててはいない。対立はキリストの御霊に含まれるいっさいの価値観と、これに対立する悪用され誤認された古い「堕落律法」、この両者の間に存在している。だからパウロは後者を厳しく排除する。それでいて、彼自身はモーセ律法を遵守する生き方を捨ててはいない。しかも同時に、キリストの御霊にある異邦人キリスト教徒にモーセ律法を課すことを拒否することが可能なのである。
 このように見てくると、パウロにあっては、神の「ノモス」は、本質的に一つでありながら、背反する相を見せることが分かる。一方では、キリスト→キリストの御霊→聖なる律法→これを喜ぶ英知という「命の系列」があり、他方では、サタン→悪霊→罪を誘う堕落した律法→罪の肉にある自我という「死の系列」がある。大事なことは、これらふたつの相が、同時存在的に働いていることである。ガラテヤ人への手紙では、パウロは、ちょうど三位一体(父→子→聖霊)における経綸的な理解と同じように、彼は、モーセ律法→キリストの信仰→御霊の福音を経綸的な視野のもとで救済史的に把握していた。だが現実には、これらの相は、同時存在的な構造をも成しているのである。だから、ガラテヤの信徒への手紙では、パウロは、経綸的な関係において、キリストの御霊を福音として説いたが、ここローマ人への手紙7章では、古きアイオーンと新しきアイオーンとの同時存在的な狭間にあって〔Dunn8:2〕、律法の諸相を説いていると言えよう。
  ちなみに、ファンダメンタリズムにおける聖霊の働きと御霊のバプテスマ理解の仕方について触れるなら、ファンダメンタリズムでは、いわゆる「聖霊のバプテスマ」のとらえ方において、これを肉と霊との同時存在的な関係においてではなく、経綸的な図式に基づいて理解していると言えるのではないだろうか。その結果、現代は全面的に聖霊の時代であり、律法の時代は既に過ぎ去ったという結論に達することになる。このような結論からは、御霊のバプテスマを受けた者が、「完全な聖化」を達成するはずだという錯覚に陥るおそれがあろう。これに対して、ローマ人への手紙7章においては、御霊の福音の裏面に、今なお、肉による律法主義と罪と死の系列が働いているのを観るのである〔タイセン272~273〕。肉的な働きと霊的な働きとのこのような相剋は、カルヴァンの指摘するとおり、人がキリストの御霊の導きに与って初めて体験できる事態であって〔Calvin 148〕、これがいわゆるキリスト者の闘いと呼ばれるゆえんであろう。だがこの闘いは、ローマ人への手紙7章23節までの段階で語られていることであって、この相剋を乗り越える道が、24節以下で示されてくる。
パウロの叫び
 24節の終わりを「一体誰が助けてくれるのか!」という絶望の叫びと解釈する説がある〔アルトハウス191〕。しかし、このような悲鳴は、いまだキリストを知らないところから出た人間の吐露だと判断するわけにはいかないであろう。なぜなら、キリストを知った人間にして初めて、キリストの律法に照らされて、このような人間の実相を洞察することができるからである。この叫びを「キリストを知らない人間の真実の姿」〔アルトハウス191その他〕とする説から判断するなら、パウロは、「かつての自分」やいまだキリストを知らない人間を「現在自分が知っている」キリストの御霊に照らして見ることで、このような叫びを発していることになろう。しかしながら、いったいキリストの律法を知らない者が、このような叫びを発するだろうか? また、キリストの律法を知った者はこのような叫びを免れることができるだろうか? もしもいまだキリストを知らない者の叫びだとすれば、この悲痛な叫びは、「だれが」発するのだろうか? 
 「霊」と「肉」との相剋は、ガラテヤ人への手紙の場合、明らかに御霊に導かれている者の姿であった。また7章のここの描写に続く8章5~8節でもやはり霊肉の関係が語られている。とすれば、ガラテヤ人への手紙の場合もローマ人への手紙8章の場合も「7章に描かれたそれ(霊肉の相剋)とはやはり異なるものと言わざるをえない」〔アルトハウス189〕として、これらと区別できるのだろうか? さらにここ7章22節の「内なる人」も第二コリント人への手紙4章16節で語られている「内なる人」とは異なるもの〔アルトハウス189〕と見なさなければならないのだろうか? 第二コリント人への手紙では、この言葉は明らかに現在救われた状態にあるパウロの姿を述べているのにである。
 だから7章24節の「叫び」が「いまだ回心していない者の心情からしか出ないとして、使徒の現在の心情ではなく、回心しない人間の体験を思い出しつつ描いているという主張は、全くの誤りである」〔Cranfield(1)366〕ということになろう。「惨めだ」という叫びは、「絶望を少しも意味することなく、悩み、苦しみ、苦悩を指すことができる」〔Cranfield(1)366〕ただしわたしは、ここでの苦しみの描写がパウロのどのような体験を指し示しているのかを二者択一的に判断するよりも、おそらく彼は、キリストの御霊を通じて発見したかつての自分を含む人間の有り様から、キリストの御霊に導かれて8章の「恵みと平安」へいたるその過程全体を見通す中で、この部分をも語っていると観ている。
 「わたしを助け出してくれるのはだれなのか?」、これは「わたし」に潜む罪と「わたし」が到達した英知との間の葛藤が、最終局面に達したことを言い表わしている。「最終」とは、この段階で、「モーセ律法」がキリストの御霊の内に吸収され同化される過程が完了したことを意味する。ここでのキリストの御霊は、キリストの律法として、その要請する基準を実現させようとして働く。24節の「だれか?」という問いに対する答えは25節の「神」である。わたしたちは、創造主と被造物との出会いが何をもたらすのかをここに読み取ることができる。24節の「助け出してくれる」は、25節の「わたしたちの主イエス・キリスト」へと続く。ちなみに、改訂英訳聖書(REB)では、25節は“Who but God? Thanks be to him through Jesus Christ our Lord!”(神のほかだれがいようか? わたしたちの主イエス・キリストによって神に感謝する!)とあって、「だれ?」という疑問に対する答えをあえて明確に訳出している。
造り主と造られた者
 25節後半では「英知」と「神の律法」が対になり、「肉」と「罪の律法」が対になる。この組み合わせはすでに見てきた。しかし24節が、「わたし」の神への切実な呼びかけであるとすれば、25節の「わたし自身」は、神に創られた人間としての自分の有り様を確認していると言えよう。被造物としての人間と創造主との出会いがここにある。その出会いの場で働く神の創造のみ業、これこそが24節の叫びに対する答えなのである。(25節前半の「神に感謝する」は、原文が名詞形とも読めるから、「神による恵み」と読むこともできる。なおここを「神<の>恵み」と読む写本がある〔A Textual Commentary on the Greek New Testament. 515Cranfield(1) 367を参照〕。とすればこれが前節の「だれか/なにか?」という問いへの答えとなろう。)また25節の後半を挿入と見なす説があるが〔Cranfield(1) 368〕、この問題は『継承思想』の第12章で触れることにしたい。
 「惨めな人間」、この言い方は、マタイ福音書5章以下の山上の教え(キリストの律法!)が、わたしたちにとって必ずしも「恵み」だけではないことを示している。わたしたちは、英知のほうではこれらの教えを「喜ぶ」。しかし肉のほうではこれらの教えはわたしたちを「惨め」にする。山上の教えは、わたしたちがこれを「律法」として受けとめている間は「助けてくれない」。「善いことを行なう意志はあるが、これが実現できない」からである。わたしたちは、キリストの御霊によって、この教えが神からのものであり、かつ「立派なもの」であることを深く知るほどに、わたしたちには「別の律法」があって、その「立派なこと」が実現できないことを知る。だがこの「わたしたち」とはだれのことなのか? キリストの御霊を受けた者たちのことなのか? そうでもあろう。しかし、ローマ人への手紙7章の「わたし」はそれだけではない。「わたし」とはアダムのことであり、人間全体のことでもあるからである。キリストの律法としての山上の教えは、「善いこと」「立派なこと」を人類全体に提示し続けている。人間は「善いことを喜ぶ」ことができる英知を具えることができるのである。しかし人間は「善いことを追求する」ほどに「罪」が働くことを知らしめられる。
 英知の律法と呼ばれる価値観には、旧約のモーセ律法を始め、パウロにとっていっさいの善なるものが含まれている。それゆえに「立派」なのであり、それゆえに十全である。だからそこにはもはや、キリストの御霊以外の価値観を付加したり、あるいはそこから削除したりする必要がない。パウロの伝える御霊にあるこのような価値観は、パウロの後継者によって、「神の神秘であるキリストを悟る」と言い表わされている。そこには「知恵と知識のいっさいの宝が、キリストの内に(啓示されるべく)隠されている」からである(コロサイ2章2~3節)。したがってここでは、パウロに反対するユダヤ主義者たちの律法主義はもはや入り込む余地を持たない。だからローマ人への手紙12章2節では、「この世の力に流されないで、御霊の導きに従い続ける」ことによって、「変容されつつ日々心/英知を新にする」ことが求められているのであろう。これはわたしたちの「からだ」を主に捧げて「霊的な真実の礼拝をする」ためであるが、ここでも「変容」は、御霊にある「創造」に関わっている〔Cranfield(I) 607にここの詳細な注釈がある〕。
 英知によるこの変容は、徐々にではあるが確実に、キリストの道を歩む人の人生を通じて生起する。言うまでもなく、英知が新たにされるのは聖霊の働きによるのであって、自力によるのではない。このような英知に生きることによって初めて、「それぞれが、自分の英知に従って、具体的な行為について判断を下す」(ローマ14章5節)ことが可能になるのであろう。「あなたたちは、朽ちゆく古い人を、以前のような振舞いと共に、また偽りの欲望と共に脱ぎ捨てて、あなたたちの霊的な英知によって新しくされ、神に象(かたど)って創造された新しい人をまとう」(エフェソ4章22~24節)ことがこのようにして成就するのであろう。

 大事なのは、ここの「英知の律法」が、8章の「キリストの律法」へとつながることである〔Cranfield(I) 361〕。認罪の御霊から赦しの御霊へ、赦しの御霊から解放の御霊へという流れがここに見られるが、この点は次の第12章に譲ることにしたい。ここに至るまでには、一方では、旧約の律法に証しされ、その証しによってキリストの御霊にある価値観が創造される過程があり、他方では、旧約の律法が肉的な欲によって堕落した律法主義へと歪められ、その結果として排除される過程があった。パウロにあっては、この二つの過程が並行して同時に進行しているのである。
霊能とキリストの律法
 以上見てきたように、パウロの言う「神の律法」には、モーセ律法に証しされつつも彼と同時代の普遍的な価値観を包含していて、さらにそれらが、キリストの御霊にあって総合され独特の霊的なレベルへ到達している。先に述べたように、わたしたちは、キリストの御霊にある「神の律法」の典型をマタイ福音書の5章以下で語られるイエスの山上の教えに見ることができよう。
 人は、このような神の律法に出会う時に、己の罪性に目覚めると同時に、そのような自己の正体から逃れようともがいたり、逆に開き直ってこれにあえて刃向かおうとする誘惑に曝されることになる。そのような悪あがきは、ある時は神の律法への「律法違反」となり、また別の時には「律法主義」の姿を採ることもあろう。留意しなければならないのは、この状態は、回心以前の人間の状態ではなく、キリストの御霊に与ったまさにその人において生じ得ることである。癒しや奇跡やその他の霊の賜を授与された霊能の人たちが、「恵みから堕ちる」という事態が生じるのは、まさにこの理由による。人は霊能に恵まれつつも「律法違反」を犯したり、それ以上に「律法主義」の過信へと走る傾向を免れることができない。「霊能者が語る説教壇には、悪魔もその傍らにいる」と言ったのは、往年の大伝道者で神癒の賜に恵まれたオーラル・ロバートであった。このような霊能者について、その霊能の真偽を見分けるのは人間には難しい。「樹はその実によって見分ける」ほかはない。だからこそマタイは、山上の教えの終わりに、「悪霊を追い出したり奇跡を行なった」者たちが、「不法な者」として追い出される危険性を警告しているのであろう(マタイ7章22節)。たとえどのような霊能の人と言えども、彼は、この二つの誘惑から免れるわけにいかない。
 さらにまた、御霊の価値基準によって、自分の罪を示されても、もしもその罪を自分の力で取り除こうとするなら、ローマ人への手紙7章13~23節でのパウロのような苦しみを味わうことになろう。パウロは、たとえキリストの御霊にある人間でも、御霊の示す認罪を人間の自己努力によって解決しようとするなら、どのような事態が生じるか、これを身をもって語ってくれている。そういう自己努力を全く放棄して、あるがままに、イエス・キリストの贖いと赦しの御霊に己を任せるところに、ローマ人への手紙7章25節のような感謝が湧き上がるのであろう。
7章後半について
 ヴィルケンスによれば、初代のギリシア教父たちは、7章をキリスト者の体験として、そこに「パウロの牧会的教育学」を読み取った。しかしアウグスティヌスは、419年にいたるまでは、7章を洗礼以前の人間に向けられた回顧的な描写であると解釈していた。しかしながら、ペラギウス主義と出合うに及んで、彼の解釈は変更されて、7章をキリスト者の体験と見なすようになった。彼はローマ人への手紙7章をガラテヤ人への手紙5章17節への説明と考えたのである。そこには、ローマ人への手紙7章14節での時制の転換、14節以下の霊と肉との対立、7章22節と第二コリント人への手紙4章16~18節との並行関係、7章24節と8章23節との関係などがある〔ヴィルケンス145169〕。
 ルターは、ローマ人への手紙7章の解釈において、後期のアウグスティヌスの解釈をほぼそのまま継承した。しかし彼は、アウグスティヌスの霊と肉の二元論的な解釈ではなく、キリストにおいて人間性と神性とが相互の交流によって結合されていると考え、霊と肉とは人間の<ひとつの人格において>互いに結合されていると理解した。この点が、ルターとアウグスティヌスとの違いである。キリストはまったき神性と同時にまったき人間性を採られたから、アダムの人間性を受け継いでいるわたしたちもキリスト者として同時に全く霊的となり、肉である自分を克服することが可能なのである。ルターのこのような解釈は、そのキリスト論によって、同時にまた救済史的な視野によって、二元論を色あせたものにしてしまう。ルターの義認は、この意味でキリストの御霊による「創造的義認」なのである。神の赦しと憐れみから発する愛敵の慈愛に基づく創造的な働きなのである。わたしは、アウグスティヌスとこれを基本的なところで受け継いだルターの7章の解釈が、現在でもなお根源的なところで正しいと信じている。
 御霊にある新しい自己発見と肉にある自我発見は、人間存在を動かす両輪となって相互に切り離すことができない。パウロは言う。彼自身は、肉の自我を「憎み」、これには従わず(15節)、御霊を通して啓示された新しい自己の可能性に全面的に従おうと意志すると。だがその意志それ自体が、肉にある自我の姿をいっそう露呈させる結果になる。ここには、キリスト者の現実の姿が、ありのままに描き出されているとしか思えない。だからこそ彼は、自我の行なっていることは、わたしの罪の仕業であって、決してわたし自身の選んだ業ではないと大胆に言い切ることができるのであろう(7章17節)。このような発言は、倫理を超えた信仰者として始めて可能なのであろう。しかも彼は、この発言を7章の最終段階でもう一度はっきりと確認する(7章20節)。善いものを選ぶ「わたし」と悪いことを行なう「わたし」、「わたし」の根源に潜む人間の実相を「神の律法」と「罪の律法」とが、両刃の剣となってえぐり出してくれる。神の裁きと赦し、否定と肯定、このふたつを同時に体験するキリスト者の姿は、人間存在に潜む矛盾を明らかにする最もふさわしいモデルであるとカルヴァンは喝破した〔Calvin 148〕。この対立と矛盾は、23節~24節にいたってクライマックスに達する。神の聖霊に照らされるとは、人間が神ご自身に出会うことにほかならない。「わたしは滅びる」(イザヤ6章5節)とイザヤがあげた叫びを人間パウロもまたここで発する。これこそ被造物が創造主に出逢う時に避けられない叫びなのであろう。
  だから、7章24節の「いったいだれが助けてくれるのか」は、絶望を表す反語ではない。むしろ「助けてくれる方はだれなのか? それこそ・・・・・」と読むほうがより適切であろう〔内村注解(上)245〕。繰り返すが、「わたしは惨めな<人間である>」というこの嘆きは、神の前に立たされた人間の発する叫びであり、同時にこれは現に御霊を有する人の叫びである(ローマ8章23節)。「死に渡されたからだ」とあるのは、肉体の死をも視野に入れていると思われるが(ローマ5章12節/8章10節)、パウロの希望はこの「死」からの救いである(第一コリント人への手紙15章26節)。これに続く25節前半の「わたしたちの主イエス・キリストによって神に感謝する!」は、あえてこう言うことが許されるとすれば、パウロによるキリストへの「第二の回心」の告白であると言えようか。
 「英知では神の律法に従いつつも肉では罪の律法に従う」とある25節後半の扱いについては、8章の解釈で述べたいと思うのでここでは控えたい。ただし、この一文が混入であろうとなかろうと、「神の律法」と「罪の律法」の狭間に立たされた人間存在をみごとに浮き彫りにしていることに変わりはない。ここでは人間は「英知」の存在であり、同時に「肉」の存在でもある。人に具わる最高の英知を尽くしても、そこに見えてくるのは二律背反であり、二者択一の世界なのであろう。けだし人間は、理性を尽くしても知性を働かせても、たとえ英知に到達しても、これ以上の認識に到達することはできない。「分ける」こと、言い換えれば分裂こそ人間のヌース(理性/知性/英知)の本質だからである。裁きと赦し、断罪と救済、これがひとつであることは、人間にはこれを正しく英知することができない。人はこのような事態をほのかに霊知するだけである。7章25節の後半は、このことを見抜いていて、この意味で7章全体を締めくくるのにまことにふさわしいと言えよう。
7章の「律法」について
  以上のことを踏まえ上で、改めて「律法」の内容を整理することにしたい。7章後半で語られている「律法」とは、モーセ律法のことであるとする説がある。ここでパウロの語る律法がモーセ律法を含んでいることに異論はないが、この段階でのパウロの律法概念をいわゆる狭義の「モーセ律法」に限定することには賛成できない。むしろここでの律法が、より一般的な内容を含むという説のほうに賛同する。しかしわたしは、この段階ですでにモーセ律法そのものが、パウロの語る「律法」に完全に同化していることに注目したいのである。ここ7章後半では、パウロが到達した最終的な律法観が表明されている。ガラテヤ人への手紙においては、モーセ律法とキリストの御霊にある福音とは、いまだ緊張関係にあった。ローマ人への手紙7章後半のこの段階において初めて、モーセ律法がキリストの御霊の福音に吸収されるという律法観が明確に打ち出されているのである。
  だからガラテヤ人への手紙とローマ人への手紙とでは、パウロの律法に対する姿勢それ自体に基本的な変化はない。ローマにおいて福音を受け容れた初期の人たちが、シナゴーグ(集会)に属するユダヤ人たちおよびユダヤ教に共感する異邦人たちであったのは事実であろう。また彼らが、エルサレム教会とつながりが深かったこともおそらくその通りであろう。しかし、パウロがこの書簡を宛てている頃には、ローマに滞在するユダヤ人の追放期間が介在しているから、ローマでのキリスト教の諸集会の様相は、かなり複雑なものに変容していたと見ることができる。パウロが知っているローマのクリスチャンたちの数は比較的少数で、またその大部分がユダヤ人キリスト教徒であったのは事実であろう。しかし彼は、この書簡をそのような少数のユダヤ人キリスト教徒たちのみを念頭において書いているのではない。この書簡は、それよりもはるかに多様で幅広い読者を想定して語っているというのがわたしの見方である。彼はユダヤ人として以上に「人間パウロ」としてあえて「わたし」言葉で語っているのは、このことを裏書きしている。
  ガラテヤ人への手紙とローマ人への手紙では、パウロの律法観に変化が生じていて、前者においてはモーセ律法を厳しく排除しながら、後者においてはモーセ律法を肯定的にとらえようとしているという見方がある。いかなる言説にもそれなりの戦術があるから、エルサレムの教会を慮って彼がこのような戦術を用いたこと、ローマ人への手紙にこのようなテキスト戦略を読み取ることに異論はない。しかし、たとえそのような戦略が潜むにせよ、パウロの律法観と彼の霊性を判断する上で、その影響は限定的であると見なすべきであろう。彼のテキストには、それ以上により根源的な意図がこめられていることを見逃してはならないであろう。むしろ彼が、旧来のモーセ律法を厳しくかつ大胆に否定していること、さらに言えば、「律法なしに」と言えるほどにキリストの福音から旧来の律法をほとんど排除していることのほうに目を向けるべきであろう。そこに見られるパウロの姿勢は、ガラテヤ人への手紙のそれと基本的に変わらない。彼が置かれていた諸般の事情の中で、なぜ彼がこれほどまでに大胆に律法を批判することが「できた」のか? 少なくとも相手のユダヤ人キリスト教徒たちが、彼のこのような律法批判を受け容れることが「できる」となぜ彼は考えたのか? この問題のほうが重要なのである。
  彼は彼の律法観をキリストの御霊の働きに沿って一貫して推し進めつつ、その内容を発展させ変容させているのである。こうすることで彼は、モーセ律法を彼の御霊の福音の中へ完全に組み込んだ。だからこそ彼には、ローマのユダヤ人キリスト教徒たちに対しても、従来のモーセ律法を厳しく批判しつつキリストの福音を語ることが可能だったのであろう。ユダヤ人キリスト教徒たちがこのような福音を受け容れることができると、少なくともパウロ自身は、こういう確信のもとに、あえて旧来の律法に対する批判を大胆に述べることができたのであろう。そもそもモーセ律法とは、ほんらいヤハウェの御霊にあるイスラエルの民の交わりを形作るための指標であって、決して律法それ自体の遵守が目的であったわけではない。パウロが、キリストにある神の御霊の働きを「律法」として指標化したとしても何ら不思議ではないのである。だから7章22節の「神の律法」には、旧約から引き継いだユダヤ教のモーセ律法(トーラー)が、新しい相のもとに組み込まれている。ガラテヤ人への手紙6章2節の「キリストの律法」と7章14節での「霊的な律法」と7章22節の「神の律法」とは、互いにつながりながら、アダムの罪から発展してより広い律法の内容へと変容しつつ、8章2節の「キリストにある命の霊法」へ達する。
   モーセ律法に証しされることによって、神の律法へ、さらにキリストの霊法へといたるパウロの体験は、パウロという人物に生じた一回限りのことではないであろう。このパターンは、それ以後のキリスト者によって繰り返される基本となるパターンであろう。わたしたちは、証しするもの(モーセ律法)から証しされるもの(キリストの霊法)へのこのような律法の変容過程として7章全体を見ることができる。パウロは、キリストにある神の恵みが、律法の諸行を促す方向ではなく、逆に、律法の諸行を放棄させる方向へと人を導くことを7章後半で強調している。この点で、律法主義者たちとパウロとは決定的に異なると言えよう。
  7章後半で語られているパウロの姿とその律法観について解釈が分かれるのは、おそらく律法が、イエス・キリストの福音を指し示す「証し」であるというパウロの律法理解から出ていると思われる(ローマ1章2節/3章21節/〔16章25~26節〕/なお第一ペトロ10~11節を参照)。福音を証しするモーセ律法とこれによって指し示されているキリストの御霊の福音、「指し示す律法」と「指し示されている福音」、そして、この律法によって暴かれる人間の肉性と神の律法によって救われる人間の霊性、このどちらのほうに目を向けるかによって、解釈が分かれるのであろう。だから、7章後半で、キリストの御霊に照らされているパウロが、その光のもとに観ている人間存在を「救われていない人間」の姿だと観るのは、それ自体誤りとは言えないのであろう。なぜなら、ここでは、指標とそれが指し示す標的とのどちらに目を向けるかによって、解釈の階層が分かれるからである。だから、どちらが正しくどちらが誤りかという問題提起それ自体が、正鵠を得ていないことになろう。聖書の解釈をめぐるこのような事態は、霊的な事柄を扱う際には避けて通ることのできない理解/誤解なのである。
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