第13章 西田宗教哲学と心霊上の事実
主語的主体性と述語的主体性
 先に述べた主語“the Subject”の主体性と述語の主体性“subjectivity”に戻ることにしたい。わたしは、キリストという主語/主体に属する述語としての「わたし」は、もはや「わたし」でない「わたし」であると述べた。バルトが、その『ロマ書』で、「『我々』とは『我々ならぬもの』を意味するに過ぎず、『もっている』とは『もっていない』を意味するに過ぎない」〔バルト(下)17〕と言う時、また「(キリストの御霊にある)この新しい創造においては創造者と被造物とが二分せず一体なのである」〔バルト(下)24〕と言う時、わたしが今述べているのと同様のことを語っているのであろう。しかし彼の釈義は、「神と人間との間の無限の質的な区別」〔バルト(下)21〕を貫くあまり、キリストの御霊にある働きが、具体的にどのような現象あるいは事実をもたらすのかを語ってはくれない。彼によれば、「それは神によるものである!」からであり、「したがって、これもまた熱狂や神秘体験や依存の感情に関する問題ではない」〔バルト(下)57〕のであろう。「神は神である」「真理が真理であること」〔バルト(下)57〕という超在的な御霊の働きから見るなら、「我々の心理的状態はどのようなものであっても、それは問題ではない」〔バルト(下)5758〕からであろう。しかし彼は、御霊の働きには「熱狂や神秘体験や依存の感情」が必然的に伴うこと、しかも御霊の働きが、そのような感情を伴うだけでなく、現象として、事実として、出来事として生起するというそのこと、これについては語ってはくれない。だからと言って彼の釈義の意義がそれだけ失われると言うつもりはないが。
 ローマ人への手紙8章に潜在する主語と述語をめぐる主体性の問題を掘り下げて語ってくれる論文で、わたしが出逢ったのは、西田幾多郎の最晩年の論文「場所的論理と宗教的世界観」(1945年)である。主語と述語との関係について、西田幾多郎は、その論文において次のように述べている。
 わたしはここで西田哲学それ自体を論じるつもりはない。またそのようなことができる立場でもない。しかし、わたしなりの解釈によれば、西田はここで、パウロの「わたし」を理解する上でとても重要なことを言っている。
 先に見たように、8章1節においては、「裁き」が主語であると言っても、語法的に見ても内容的に判断しても、主語と述語の関係が明白に表われているとは言い難い。むしろ「キリスト・イエスにある」という場だけが、裁きのない「場」として浮かび上がってくる。1節に潜むこの主語と述語の曖昧な関係は、2節になると、「キリスト・イエスにある命の霊法」が、「あなたを罪と死の律法から自由にする」とあって、主部と述部との関係がはっきり表われてくる。  
 ここで西田に従って、述語である「わたし/あなた」のほうに目を留めて見ることにしたい。主語に属する述語としての「わたし/あなた」は、キリストにあるすべての者たちに当てはまるから、「キリストの霊法」という主語(主体)は、ありとあらゆる「わたしたち/あなたたち」という述語をとる。このことによって、主語/主体は、これに従属するそれぞれの述語的主体性とひとつになる。しかもこれら無数の述語的主体性は、ことごとく「わたし」は「わたし」でないという否定の上に成り立っている。と言うより、主体であるキリスト(の霊法)が、「わたし」は「わたし」でないという無数の「わたしたち」を成り立たせている。だから主語キリストの主体性は、述語によって無数に広がっていく。
 ところが主語(主体)の固有性が無数の述語的主体をとることによって、今度は逆にそれらの述語的主体性によって、主語的主体性が規定されることになる。キリストという主体が、キリストにある「わたしたち」という主体となる時に、それらの「わたしたち」は、それぞれがキリストという主体(the Subject)に従属することによって、それぞれが固有の主体性(subjectivity)を有することになるからである。しかも、この場合の「わたし(たち)」の主体性とは、「わたし」は「わたし」でないという関係において成り立っている主体性なのである。
 こうして、キリストにあるわたしたちそれぞれの固有の主体性は、相互に相対的な関係にありながら、キリストという絶対的な主体に従属することになる。キリストの命の霊法にあっては、「わたし」は「わたし」でなくなる。このように自己否定する「わたし」とはすなわち動的な「わたし」である。「わたし」は「わたし」であって「わたし」でないというように、動的な場において、すなわち空間的な場だけではなく時間的な場において成り立つ「わたし」である。楽園にある命の樹と死をもたらす知恵の樹とは、神の律法がそもそもの初めから、生死の二相を秘めていたことを意味している。しかしながら、神の律法の死の相から命の相への変容は、空間的な移行だけでなく、時間面での変容でもあることをここで想い起こさなければならないであろう。二相が表裏一体という空間的なとらえ方だけでなく、変容という時間面での考察もなされなければならないであろう。
 キリストの御霊に照らされた「わたし」が、主語ではなく何処までも述語であることで、「わたし」が「わたし」でなくなる。「わたし」が8章において消えているのはこのためである。しかしながら、「わたし」が「わたし」でなくなるとは、「わたし」がなくなることではない。例えば「その光は紫である」と言う場合に、主語の「その光」は、述語の「紫」によって規定される。しかしこのことは逆に言えば、述語もまた主語を規定する働きを有することを意味している。主語である「光」は、無数の述語をとることができるから、主語の「光」は、無限の固有性を帯びる可能性を秘めている。しかも、述語的主体である「わたし」もまた、「わたし」が「わたし」でなくなることによって、主語の主体性を規定し返す働きを持つことになる。
 わたしの見るところでは、西田は、このように、主語から述語への働きかけを逆にして、述語から主語への働きかけ、あるいは主語によって与えられる述語の主体性によって、今度は述語が主語に働きかけるという関係を読み取っている。「何処までも自己の中に主語的自己限定を含む述語面的有である。アリストテレスの何処までも主語となって述語とならない主語的有に対して、何処までも述語となって主語とならない述語的有ということができる」〔西田349〕と西田は言う。
 通常わたしたちは、全宇宙という広大無辺の「主体」のほうに目を向けるのであるが、これを逆にして、「わたし」という一点から宇宙を見るならば、言い換えると世界の歴史に存在する「わたし」という存在を自分の意識の中から洞察するならば、全世界/宇宙に存在するあらゆる要素が統合されて、世界がこの「わたし」という場に焦点を造りだしているのが洞察される。言わば「わたし」は、全宇宙の場所的で時間的なひとつの焦点であり、世界が主体/主語であり、自己はこれに従属する述語であるが、西田はこれを逆にして、自己という述語的主体の立場から、世界という主語的主体との関わりを観ているのである。したがって、「わたし」の主体性は、その主語である宇宙に潜む無限の主体的な固有性のひとつとして、「わたし」の固有性を発揮することになる。このようにして述語の主体性は、無限の可能性を秘めた宇宙それ自身の主体性によって規定されつつ、同時に逆に宇宙を規定していく。このようにして、時間的空間的に限定された主体である「わたし」は、時間的にも空間的にも限定されないキリストの霊法を指し示す指標となりうる。西田は言う。「故に宗教的教義は、どこまでも象徴的でなければならない。而してそれは我々の歴史的生命の直接的な自己表現であるのである。そのかぎり、象徴が宗教的意義を有するのである」〔西田409〕。
 述語としての指標は主語本体を指し示すが、その主語本体は無限の可能性と拡がりを有する。だから指標としての述語は、ある固有の者(キリスト)を指し示す指標でありながら、この意味において、述語である固有性の中にも、本体の霊法の絶対性が宿っていると見なければならない。これがおそらく、主語と述語について、西田幾多郎の言う意味であろう。自分という個に宿る絶対的なものが、同時に全宇宙の造り主に宿る絶対的なものへの指標となるということであろう。西田のこの観点は、「わたし」の存在をめぐって、さらに宇宙的な拡がりへと達している。「キリストの御霊にあるわたし」ということを何らかの言葉で規定するならば、このような規定の仕方以外に言い表わすことができないのであろう。

「わたし」の創造的主体性
 先にわたしは、キリストの御霊を通して神に出会うとは、わたしたちが、自分たちの「からだにおいて」神の御霊と出会うことであると指摘した。神が、キリストの霊法を通じて、罪の性質の宿る「肉のからだ」において罪を罰するとは、「からだ」としての人間存在を「肉の罪性」から贖うことにほかならない。これによって人間の「からだ」は、キリストの御霊の働きによって、贖われ新たに創られていく。パウロが「霊のからだ」が創られていくと言うのは、このような事態のことであろう。「からだ」にある人間において、「わたし」ならぬ「わたし」が創造されることであろう。
 キリストにある者は、自己の主体がもはや自己のものではない。「キリストにある」の「ある」こと、それが「わたし」である。主語は「キリスト」である。もしも「キリストにあるわたしがある」と言うならば、主語が二重性を帯びてくるから、そこには自己分裂が入り込むことになろう。7章後半での「わたし」に生じているのは、まさにこのような自己分裂にほかならない。だから8章では、「わたし」は消えて、述語の「ある」だけになる。「ある」がわたし、あるがままのわたしである。自分という主体は、もはや自分ではない。キリストが自分の主体である。しかもこのキリストという主体は、「(キリストが)わたしたち/あなたたちである」という述部を採ることによって、無限に多様性を帯びてくる。キリストという主語(主体)が、それが宿る無数の述語によって、あらゆる姿形に変幻しうる。
 「柳は緑、空は青」のように、固有を表わす主語(「柳」「空」)は、一般的な概念としての述語(「緑」「青」)と組み合わせられる。それはちょうど目に見えない光が、森羅万象のあらゆる色に現じることができるのと同様である。「光が柳を緑に染める」ように、光は無限の色を反映させることによって、それぞれの述語に宿り、それぞれの述語に固有性を賦与する。「絶対性」とは、光が無数の述語に宿り、それぞれに述語的主体性を与えることである。柳は光に照らされて、固有の主体性を与えられる。光はこうして柳に固有性を与える。絶対は固有の中にしか存在しえない。「絶対」は相対的なもののほかには宿らない。だから「絶対」は「相対」とは決して対立しない。なぜなら、「相対」と対立するものはすべて相対に過ぎないからである。それゆえに光は無限に自由なのである。
 「わたし」が「わたし」でないことを直覚する「わたし」、このような「わたし」のあり方は、主観と客観を超えた一つの「場」としての「わたし」である。「でない」という否定は、「わたし」が常に動いていることを意味する。だから「わたし」とは、キリストの霊法にあって「わたし」が形成される場それ自体において、「場所的」でありながら、同時に動いていることにおいて時間的な場である。言わば「わたし」は、時空一如の「場」となる。そこから「わたし」の創造がはじまる。造られた「わたし」が、創られつつある「わたし」となるという事態がここに生起する。このような場には、主観と客観、肉体と精神、心の内面と外面の世界という区別は意味を失う。こういう場にあって初めて、祈りが肉体の癒しとなって現象する。神の創造の御霊が働く事態が生じる。述語的主体性が、「ただ信じる」ことによって、「キリストにあるわたし」という新たな霊的主体として働くところ、そのような場では、異言やその他の様々な霊的なしるしが生起する。また、人それぞれに具わる固有の主体性の間に、コイノニア(交わり)が臨在するという不思議が霊験されてくる。
内在的超越
 西田はこのようにして、超在する神を内在する御霊から観ることを指標する。小野寺氏によれば、西田に「超越的内在」よりも「内在的超越」を基本とするように勧めたのは、鈴木大拙であったと言う〔小野寺59〕。「内在的超越」とは「我々の自己は個人的意志の突端において絶対者に対するのである」ということで、自己否定的に神を見る方向であると小野寺氏は指摘する〔小野寺59〕。近代西洋哲学に共通する主語主義的、対象論理的思考の一面性に対する不満は、彼〔西田〕をしてついに場所的論理を構想させる根本動機となったと述べてから、小野寺氏は次のように言う。「従来の哲学は実在というものを唯対象的に考えてきた。そういう意味においてそれはどこまでも主知主義的であった。併し私はそういう立場においては真に社会的、歴史的実在というものは考えられないのではないかと思う。社会的、歴史的実在というのはその外に立って之を見るのではなくして、我々はその内にあって之を見るのである。知るということそのことが既に社会的、歴史的事実であるのである。我々は物の見方、考え方を一変しなければならないのではないかと思う。そこに論理の新たなる構造が要求せられるのではないかと思う」〔小野寺35〕。
 氏はさらに、西田の思想を三位一体論と関連づけて次のように言う。「カトリックの宗教哲学者であった吉満義彦が常に強調していたように、キリスト教はその本質において『超越的内在』の立場をとり、その究極の原理は、天の、あるいは聖書の、教会の啓示を伝える論理として三位一体論に帰着するものをもっている。これに反して、西田哲学は大乗仏教の自覚につながるものとして、『内在的超越』を原理とし、論理的には、絶対矛盾的自己同一の構造をもち、絶対無の場所が究極の根拠である。これまで日本の多くの思想家は、この両者を相対立し相排斥する方向でのみ思索することに腐心してきた。しかし西田自身は、自らの立場を堅持しつつも、事実に忠実な鋭敏な真理感覚から、晩年ついに自己の立場を『場所的論理的神学』と呼ぶにいたり、絶対矛盾的自己同一の論理をキリスト教的三位一体の論理と結びつけて論ずるまでに接近してきている」〔小野寺18〕。
 確かに西田は、「場所的論理と宗教的世界観」の結びの部分で、『カラマーゾフの兄弟』に描かれている老審判官とキリストとの出会いを引いてから、「終始影の如くにして無言なるキリストは、私の言う所の内在的超越のキリストであろう。・・・新しいキリスト教的世界は、内在的超越のキリストによって開かれるかもしれない」〔西田416〕と述べている。西田は驚くほど正確に実在の本質に肉薄している。「事実に忠実な鋭敏な真理感覚から」という氏の指摘は適切な表現であると思う。われわれの自己は、どこまでも述語的主体でありながら、同時に主語的主体性を内に含むものでなければならない。主語的主体と述語的主体とのこの矛盾的自己同一において、われわれの人格的な自己が初めて成り立つ。「無」は、このような人格的自己形成の媒介であり、この意味での「無」の自覚は、世界の一焦点として自己の形成に向けて創造的に働くのであろう〔西田363〕。西田はさらに、絶対矛盾的自己同一をキリスト教的三位一体論と関連させて次のように言う。

 西田の説く三位一体論は、決して流出の世界から出たものではない。また、自然生成的に生まれたものでもない〔西田364〕。そうではなく、どこまでも人格的な自己としての個の創造的な形成に焦点を合わせているところにその特徴がある。このような三位一体論においては、「父なる神を超越の極とすれば、聖霊は内在の極である」「絶対的に超越的な神が、絶対的に内在的であり、創造された『世界』において、神が、絶対的自己否定的に内在し、世界の中で、逆対応的に遍く神に出会う」〔小野寺101〕ということが生じるのであろう。
 わたしにとってとりわけ興味深いのは、小野寺氏が、三位一体の聖霊論をロシアの思想家ソロヴィヨフのソフィア論を踏まえつつ、これを批判的に徹底させることによって導き出していることである。ソロヴィヨフにおいては、キリストにおいて肉化された神に対する信仰と忠誠が、「母なる大地」の人格化とでもいうべき「永遠の女性」であるソフィアとの出会いの体験から生じている。ソフィアは、「絶対」と「相対」の統合として、「神・人のおいてある場所」と考えられているから〔小野寺84〕、ソフィア論は「場所論」である〔小野寺78-79〕。ソフィアが、神の身体とされ、世界霊魂とされ、英知とされ、神・人の媒介者とされる。このような矛盾的実体は、創造行為における神の「場所」(霊性)を指すものにほかならない〔小野寺90〕。
西田哲学と「心霊上の事実」
 西田幾多郎は、その「場所的論理と宗教的世界観」(1945年)の冒頭で、「宗教は心霊上の事実である」と述べてから、「哲学者は、この心霊上の事実を説明せなければならない」と言っている〔西田299〕。これは、この論文を読み解く上で、きわめて大事な視点である。下村寅太郎は、『善の研究』(岩波文庫)への「解題」の中で、西田の初期の著作、『善の研究』にでてくる「純粋体験」という言葉は、おそらくウィリアム・ジェイムズから由来すると述べている。西田がジェイムズの純粋体験説に共感したことは、明治39年7月に在米中の鈴木大拙に宛てた西田の書簡に書かれている〔上田172〕。しかし、下村寅太郎も上田閑照も、西田とジェイムズとのつながりはそれほど強いものではなく、西田の思想は、彼の座禅から生まれたことを強調している〔上田172〕。哲学者としての西田とジェイムズとのつながりを論じる資格はわたしにはないが、「場所的論理と宗教的世界観」から判断するなら、西田とジェイムズとは、その宗教思想において深く通底するものがあると思われる。ジェイムズは、その『宗教経験の諸相』(William James, The Varieties of Religious Experience. 1901---1902) において、西田の言う「心霊上の事実」について数多くの例をあげて説明している。ジェイムズはそこで、例えばディヴィッド・ブレイナードの回心に伴う聖霊体験やさまざまの神癒体験、ジョージ・ミュラーの祈りとこれの実現例、さらにリバイバルなど、多種多様な「宗教的事実」を例示してこれらの解明に努めている。ウィリアム・ジェイムズは、その『宗教経験の諸相』において、まさに西田の言う「心霊上の事実」を説明しようと努めているのである。
 西田が彼の最晩年の論文において追求しているのは、ウィリアム・ジェイムズのこの問いかけに対する宗教哲学的な答えではあるまいか。もとよりわたしは哲学者ではないから、西田が、これらの「事実」をどのような哲学的な論理によって行なっているのか、また彼の哲学理論が論証としてどこまで成功しているのか、この辺のところを判断する資格はない。しかし、確かなことは、西田はここで、少なくともウィリアム・ジェイムズが「説明」しようとした「心霊的な出来事」を真正面から見据えて、これを解き明かそうとしていることである。西田の「論証」が成功しているかどうかはわたしには判断できないが、彼がこの問題を「説明」している、あるいは説明しようとしていることは間違いない。しかもこの論文に見る西田の「説明」は、わたしには、ほかのどのような神学的、心理学的、社会学的な説明よりも、癒しの問題や異言の問題やその他の聖霊体験をよく「説明」してくれるように思われる。西田においては、「心霊上の事実」としての「実在とか実在の世界と言う時には、そこには心とか霊が身体と物質と一体であると、つまり、両者が不可分離に存していると考えられている」〔川村66〕からである。わたしはいまだかつて、西田がこの論文で追求している以上の解説や説明を日本の内外の聖書注解や外国からの伝道者たちの口から聞いたことがない。聖書の言葉自体を信じることによって、異言や癒しが現実に生じることを伝えたり証しする伝道者たちは多くいて、わたしもそのような体験をしたり神癒が実際に生じるのをしばしば見てきた。現在でも、我が国の内外の伝道者や牧師たちによって、異言や神癒やその他の聖霊体験が現実している。だが、そのような聖霊の出来事をだれひとり納得のいく言葉で「説明」してくれる人に出会ったことがないのである。西田のこの論文は、まさにそのことをわたしにしてくれる。わたしにとっては、自己の体験を的確に「説明」してくれるかどうかが大事なのであって、論証の仕方やその論証の根拠を哲学的な観点から的確かどうかを判断することではない。
 キリストにある者が霊的に成長するために必要なのは、祈りによって導かれ、現実の状態の中で、霊的に総合されて働く知恵である。もしわたしが、西田幾多郎の思想に共鳴するところがあるとすれば、それは、主体と客体あるいは主観と客観、あるいは主語的主体と述語的主体とを一体として把握する仕方、彼の言う「場所的論理」としての認識の仕方にある。ウィリアム・ジェイムズは、エディンバラ大学で、キリスト信者の間で生じる病気の癒しに注目して、そのような現象がなぜ生じるのかについて説明しようと試みた。それは、当時の神学が説明できないことだったからである。「当時」のというよりは、現代の神学も、なぜ癒しが起きるのか、なぜ異言や預言のような現象が生じるのかを説明してはくれない。異言や預言や癒しを完全に無視するか、あるいはそのような現象がありえることをかろうじて認めてはいても、これらの「事実」についての「論理」は愚か「説明」さえもない。だから、祈るとなぜ病気が治るのかを今の神学は問題としてとりあげることをしない。少なくとも西田幾多郎の思想は、こういう問題と真剣に取り組むための足がかりを与えてくれることをわたしは直覚する。
 西田哲学においては、主語的主体の絶対性は、超在すると同時にその絶対性を自己否定することによって述語的主体に内在する。「創造者としての神あって創造物としての世界あり、逆に創造物としての世界あって神があると考える」からである〔西田328〕。このように考えることは、「神を絶対的超越と考えるバルトなどの考えに悖るかもしれない」と西田は言う。「絶対はどこまでも自己否定において自己を有(も)つ」のである。だから述語の主体に内在する絶対性は、今度は逆に主語の主体性を規定するものとして創造的に自己を表現する。キリストの御霊の絶対的な主体性は、これが宿るもろもろの相対的な主体性において、それらもろもろの固有性を成り立たせるだけではなく、それら述語的な主体性の有する固有性が、キリストとさらにその上の神を逆に規定していく働きをする。このような絶対性は、それ自体の中に自己否定を含みつつ、空間的だけではなく、時間的な相のもとに動く。自己否定を含まないものは、ことごとく相対にすぎない。これこそ、ローマ人への手紙8章で、パウロがキリストの御霊について語っていることを正しく開示する鍵であろう。
相対と絶対
 パウロのテキストへ戻ることにしたい。「わたし」であって「わたし」でないという「わたし」とは、このような無数の「わたしたち」が、キリストという主語(主体)の述語として相対化される時に初めて、「わたしたち」の間において、互いが「隣人」として立ち現われる。すなわちお互いを相対的なものとして認識し合うことができる。これが「わたしたち」に与えられる「固有性」の特徴である。しかし、そのような固有性は、キリストの御霊における絶対的な霊性に支えられなければ生じてこない。キリストにある自由という無限の諸相が、述語的主体である「わたしたち」に顕われる。絶対が個々の固有性と対立することはない。個々の相対性を喪失させ抽象化することが、すなわち絶対ではない。絶対は相対と対立するものではなく、絶対は相対を受け容れつつ絶対それ自体をも否定することによって、真の意味での絶対性を確保し続ける。

 このようにして一人一人の固有性にこそ絶対性が宿る。言い換えると、個々の相対性の中にこそ主語的主体であるキリストの絶対性が宿る。したがってキリストの御霊は、一切の固有性を除外しない。キリストの御霊の領域は、人間性だけでなく有情無情の全宇宙をも包摂するからである。
 一見すると8章5~7節で語られている霊肉の二元性は、7章後半における霊肉の葛藤と同じであるかのように見える。しかし、ここでは、霊肉が依然存続しているとしても、そこにはキリストの御霊の絶対的な霊性が働いている。聖霊は創造の御霊として、わたしたちの「からだ」に働く。「からだ」はその人の人格を現わす形姿である。肉の身体において、からだを生かしている霊的な命は、肉体を生かしている生命と同じであって同じはでない。もしもこのふたつの命を区別することができるなら、そのようなものは絶対性を有する聖霊とは言えない。なぜなら絶対は相対的なものと比較することも対立することもないからである。比較し区別できるものはそれ自体相対であって絶対ではない。創造の御霊が働く時は、わたしたちの肉体も心霊も、すべてが御霊にあって導かれ、御霊にあって造られていく。しかし「霊」は「肉」ではない。しかし「霊」は「肉」でないということでもない。絶対性とはそういうものであろう。したがって、御霊の働く場においては、「肉」の人間において、身体的、物理的な変化と創造が起こりえるのである。このような霊性の場にあって、人は、皆既日食のコロナのように、己の全存在の周辺にほのかに顕現する創造の御霊の働き英知する。
 パウロは、「霊によるものは霊を思い」「肉によるものは肉を思う」と言う。人間の言葉では、「霊」と「肉」とは、このようにしか言い表わすことができない。言葉それ自体が相対性を抜け出すことができないからである。しかしながら、神の御霊が、「霊」には働くが「肉」には働かないということではない。そのような「霊」は聖霊ではない。キリストの御霊は、霊肉一如の場で働く。しかし、これを人間の言葉で言い表わすことはできない。人知は、たとえ御霊に導かれた英知と言えども、このような御霊の場を解明し論証することができない。解明し論証する知性の営みそれ自体が、知性の限界を露呈するからである。このような曰く言い難い御霊の働く「場」について、小池辰雄師は、その「聖意体現」の中で次のように言い遺している。

 自然界においては統一場の理法があって、それが現実に働いている。精神界の人間の現実はどうであろう。これは何とも言い難き複雑なそして惨憺たるものではないか。非常な危険性を蔵していることをつらつら認めたならば、その統一場の霊法を問わねばならない。そしてその霊法がたとい究められたとしても、これが体得体現へと個人も社会も人類も投入してゆかなければならない。〔小池249〕

 さらに師は、その統一場の霊法を一言で次のように言い表わしている。

 ルカ福音書では、『父の慈悲なるが如く慈悲なれ』(ルカ6章36節)とある。この『父の慈悲』が極まって十字架の愛となった。この愛にあがなわれて、わが自我が砕かれてあることを信受するとき、われは根源的に無我の者、無者とされる。そこに、正にそこにのみ聖霊が突入してくる。おどろくべき愛の力、生命の力である。この無者に無限無量者の質が与えられる。十字架即聖霊降臨のこの場こそ霊的統一の場である。〔小池351〕

   7章後半から8章にいたる過程を回心以前から回心以後への移行と見る説、両方を通じて、一貫して変わらない律法の二面性を読み取る説、これを律法から霊法へと変容する第二の回心説などの諸説が可能である。これらの諸説は、旧約の律法が証しするキリストと、キリストの霊法が、旧約の律法を受容し、受容することによって律法を変容せしめ、変容せしめることによってキリストの霊法それ自体が新たな創造の働きを続けていくという、この一連の過程をどの段階で読み取るのか、あるいはどの位相に視点を据えて読み解くのか、言い換えると、キリストを指し示す律法をば、その指標の本体である福音を証しする比喩構造のどの相にあって解釈するかによって、解釈に様々な差異が生じるのであろう。
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