聖書崇拝について説明したが、これにはそれなりの理由がある。現在我が国において盛んに伝えられているキリスト教の間で、仏教や神道を初め、様々な「異教」が、本来悪霊から出ているという主張が真面目に取りざたされているからである。とりあえずここで、ピーター・ワグナー著の『都市の要塞を砕け:霊的地図作成と祈りの戦略』から引用させていただきたい。
他の一冊『霊の闘いの祈り』(邦訳。マルコーシュ・パブリケーション)でも、妻のドリスが実際に悪霊を寝室で目撃したことについてお分かちしました。その後キャシー・シャーラーとジョージ・エッカーが我が家に乗り込んできて、その悪霊を追い出してくれました。キャシーとジョージは我が家の他のどの部屋よりも、居間で多くの悪霊を発見しました。二人は私たちの家を去る時に、一つの悪霊以外は皆追い出すことができたと感じたのです。この最後の悪霊は、石でできたピューマの像についていると、二人は見分けました。このピューマの像は、私たちがボリビアで宣教師として働いていたときに買い求めたもので、インディアンの中でもクエチュア族のものでした。しかしそれでも、目に見えない次元をうごめく存在が、明らかに目に見える世界のこの物体についていたのです。〔ワグナー89〕
お断わりしておくが、わたしがこの著書から引用するのは、この本が極端な偏見に満ちた本だからではない。逆に、この種の本としては、きわめて「穏健」であり、おそらくこの本は、アメリカの聖霊派や福音主義的な教会だけでなく、現在、日本の聖霊運動の指導者たちを始めとして、日本の霊的な諸宗団や福音主義的な諸教会で一つの規範とされていると思うからである。
著者はここで、自分の家に住んでいた「悪霊」を追い出した話しをしている。著者は、それまで「気がつかなった」いろいろな悪霊が、家具や装飾品の形で自分の家に住み着いていたことを「見分けて」、これを「追い出した」のである。その結果「決断を下すのは容易なことでした。ピューマは破壊されなければなりませんでした。私たちはその像を外に出すと、粉々に破壊し、ゴミ捨て場に捨てた」〔ワグナー89〕のである。著者はこれに続いて、さらに徹底した悪霊追放を自分の家で実行している。
これはこの本に書かれているほんの一例である。この著者がインディアンのクエチュア族とその文化をどのような目で見ているのか、これで容易に察しがつくと思う。わたしには、ピューマが美しいと感じた時の著者のほうがはるかに人間的であり、「霊的にも正しい」と思われる。少なくともこれだけは確かである。インディアンに福音を伝える宣教師としてなら、ピューマを買ったときの彼のほうが、これを粉々に砕いたときの著者よりもはるかにふさわしい。このような悪霊追放を行なう目的で、著者が宣教師として再びクエチュア族を訪れることがないように、わたしはイエスのみ名によって祈りたい。アメリカのインディアンたちが、過去に、自分たちの霊性を完全に破壊されるという残酷な仕打ちを受けてきたこと、また現在でもその事態が変わっていないことを改めて知らされる思いがする。
アフガニスタンでイスラム教のタリバンたちがバーミアン洞窟の仏像を破壊したことをわたしたちは知っている。もしもこのようなタリバンの宣教師たちが、イスラム教を伝える目的で日本に来たとすれば、どんなことが起こるだろうか? ところが、現在の日本で、まさにこのことが、現実に起こっているのである! イスラム教のことではない。キリストの御霊を伝えるキリストの福音伝道のことである。現在少なからぬ宣教師たちが、日本において、この著者がアメリカで行なったことを日本でも行なおうとしている。この本の副題にあるように、この人たちは、悪霊の「霊的地図を作成」して、この国から悪霊を「地域ごと」追い出そうと真面目に考えているのである。著者は、韓国の伝統文化が、日本の支配や朝鮮戦争のために破壊されたことが、現在のキリスト教の発展の原因となったと述べてから次のように書いている。
これと比較して、日本の文化は何の妨害も受けずに、3000年もの間継続してきました。ですから、日本文化を織物にたとえるなら、異教的なものがその縦糸、横糸となって織り込まれているのです。つまり日本を支配している悪霊は、日本の文化を利用して、今まで好き勝手なことをしてきました。そして自分の縄張りで、形式的でない本当のキリスト教が現われるのを許す気はないのです。〔ワグナー99〕
日本人をアメリカ嫌いにして、キリスト教に対する憎悪をかき立てようと思えばこれほどうってつけの文章はない。しかも、さきほどお断わりしたように、この本は、この種の異教悪霊文化論の中では、最も穏健で知的な考察に裏打ちされている(わたしの手元にはこれよりもさらにひどいものが複数ある)。著者は、異教の「偶像礼拝的な悪霊」と同時に、アメリカ国内における同様の異教的悪霊の臭いをもかぎつけて、これを絶滅しようとすることを忘れない。
この著者は、現在行なわれているキリスト教の祭りや慣習の中で、かつて異教であったものが混入していないものなど何一つないことをご存じないのだろうか。端午の節句やお雛祭りを異教的だと考えるならば、同様にクリスマスもハロウイーンも異教的だと考えるべきである。クリスマスは聖なる祭りでお盆や正月は悪霊的であるとか、復活節は聖なる祭りで、彼岸や花祭りは悪霊的だとか、感謝祭やハロウイーンは正しいが、お雛祭りや端午の節句は悪霊的だとか、教会への献金は神に喜ばれるが、お寺や神社へのお布施やお賽銭は悪霊に捧げるというような、相対同士を比較対照する誤りは、アメリカの核実験と軍備は正しく、ソ連の核実験と軍備は正しくないというかつての詭弁と同じレベルの驚くべき欺瞞にすぎない。
しかしながら、真の問題点は、キリスト教にも日本文化同様に「どの程度」異教的な要素が混入しているのかを指摘することではないであろう。問題の本質は、そもそも自分たちの宗教以外の宗教を「異教」と呼び、そうすることによってその宗教を基盤とする文化全体を「異教文化」として悪霊呼ばわりするそのこと自体にある。ワグナー氏は自宅にピューマの彫刻を飾っていた。このことは、彼が、自分の信じているキリスト教の信仰がピューマに象徴される文化とこれを担う人たちからなんら攻撃や非難を受けたことがないことを証ししている。もしも彼が、現地でキリスト教への非難や攻撃を受けていたとすれば、彼はそもそもそのようなものをわざわざ土産に買わなかったであろうし、ましてやそれを自宅の居間に飾ったりしなかったであろう。
ところが、ある人たちが訪問してきて、今まで問題を感じさせなかったピューマの背後に「異教的な悪霊」を感じ取ったのである。その結果、ピューマは粉々にされる運命になった。だから、攻撃を仕掛けたのは、ピューマのほうではない。これを悪霊として攻撃したのは、氏の家を訪れたクリスチャンのほうだったのである。「異教文化」のほうは、キリスト教を悪霊呼ばわりすることも批判することも一切しなかった。これに対して、ピューマを「異教文化」と見なして、これに一方的な攻撃を仕掛けたのはクリスチャンのほうなのである。このことをここで確認しておきたい。
わたしの知り合いのクリスチャンの女性が、かつてある寺で竜の天井画を見物した。それからしばらく経ってから、彼女もこの種の本を読む機会があった。すると彼女は、自分が訪れたのは悪霊の絵であったと感じさせられて、恐れを抱き、寺を訪れたことを「悔い改めた」のである。天井画はピューマのように砕くことができなかったが、彼女にもワグナー氏と同様のことが起こったことが分かる。ここに共通しているのは、<ピューマ/天井画→異教→悪霊>という結びつきである。どちらの場合も、「異教」のほうからの非難や攻撃は一切なかった。にもかかわらず、一方的に攻撃したのはキリスト教の側であり、氏も彼女も、異教の人たちからではなく、同じクリスチャンたちによって恐れを抱かされたのである。なぜそのクリスチャンたちは、そのようなことをするのか? なぜクリスチャンたちは、そんなに異教と悪霊を怖がるのか? それは、彼らの聖書の言葉にその原因がある。「『造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕える』ことほど、神を怒らせるものはありません。(ローマ1章25節参照)」〔ワグナー71〕というのがその理由である。
相手が自分たちを攻撃してくる気配もその恐れも一切ないことを知っているのであれば、<ピューマ/天井画→異教→悪霊>という短絡的な結びつきではなく、その彫刻や絵画の背後にある文化的な背景には、どのような考え方や歴史や霊性が潜んでいるのかを観察したり学んだりするだけの余裕をなぜこれらのクリスチャンたちは持つことができないのであろうか? どうやら問題は、聖書の「偶像礼拝禁止」の文言をそのまま字義どおりに受けとめて、かつこれに動かされて「浄化」と「粛正」を実行しようとしていることにある。ここで改めて、聖書解釈の問題が浮かび上がってくることになる。
このような異教文化悪霊論は、旧約の聖絶から新約の悪霊観にいたるまで、偶像礼拝と悪霊に関わる聖書の文言を文字通りに受けとめて、これを忠実に、歴史的、文献学的な批判を加えることをせずに、行なおうとするところから生じている。このような聖書解釈に対して、わたしたちは、こういう短絡的な思考ではなく、まず聖書で攻撃されている「偶像」とは、そもそもなんなのか? その社会的、文化的、宗教的背景を探ることから始めなければならない。その上で、そのような「偶像」がかつて内蔵していた意味を現代に置き換えて、そこに含まれる霊的な意味とこれが指し示す「人類の未来の歴史的方向」を洞察すること、このことが要求されてくるのである。過去への学問的な考察と未来への霊的な洞察、知恵の御霊に支えられた英知とこれに基づく学問的な努力が必要なのはこの理由による。自分たちが知らない文化が生み出した彫刻や絵画の背後に、いったいどのような価値観が存在するのか? どのような宗教的霊性が、その文化を形成しているのか? 過去の人類のどのような思想と知恵がその作品に潜んでいるのか? なぜそのようなクリスチャンたちは、こういうことを霊的な英知と愛によって理解しようと努力しないのだろうか?
日本人が仏像を拝んだり、神社参拝をすることと、欧米の人たちが十字架を担ぎまわったり、聖母像を拝んだりすることとは内容的には全く変わらない。しかも日本人は、そしておそらくは欧米の人たちも、そのような宗教的な行為を絶対化しているわけではない。むしろ、現代においての絶対化とは、経済であり金融であり、マスメディアを巻き込んだ情報戦争であり、自己の価値観やイデオロギーを他の民族や国家のそれよりも優先させようとする宗教イデオロギーなのである。平たく言うならば、武力と知力と金である。これら三つは、古今東西、人間が常に絶対化してきたもので、この事情は現代においても少しも変わらない。
「偶像」という聖書の言葉だけを見て、その言葉が持っていた根源の意味を探ろうともせずに、聖書の言葉を「神の言葉」として崇拝するならば、相対的な人間の言葉を絶対化する危険を犯すことになる。その結果、どのようなことが起こるのかをこの書は証ししてくれる。偶像礼拝の奥には相対的なものの絶対化が潜んでいる。したがって、このような絶対化こそ、悪霊の巣である。聖書の言葉と言えども、これを絶対化するならば、聖書崇拝的な偶像礼拝に引き込まれる恐れがある。異教に立ち向かい、これを絶滅しようと図ることは、相対に対するに相対をもってすることにほかならない。聖書の言葉は、真の絶対性を指し示す指標であるが、指標それ自体は決して絶対ではない。だからこれを本体と区別しなければならない。わたしたちがなすべきことは、指標としての聖書の言葉が指し示してくれる「開かれた未来に」視野を求めることなのである。このような開けの中で、神の言葉の真理の終末的な顕現を志向することなのである。
かつてモーセ律法の「殺すな」は、ほんらい、神の霊に生きる者は、その本性から、人を殺すようなことはしない性質を具有するという意味であって、「殺してはならない」という命令的な響きではなかったと言われる。仮に命令であったとしても、この戒めは、同じイスラエル共同体の中だけに通用する戒めであって、一度外敵との戦争ともなれば、サムソンのような英雄が賞賛されたのである。しかし、新約の時代にいたって、その解釈が変容して、やがては異教徒を殺すことが、神に喜ばれることにはならないという解釈へと進化してきた。現在では、いかなる人間でも、殺人は罪であるという意味として、広く受け容れられるようになった。聖書の言葉は、このように、何時の時代でも指標として、神の開かれた真理への絶対性へと向かう証しであり、このための変容への歩みであった。
聖書の言葉が本来指示していたその根源的な意味へとさかのぼること。その上で今度は、現在自分たちが置かれている状況の下で、その言葉が指示する方向を正しく見極めること。現在の自分たちから、過去へさかのぼることと未来を正しく志向すること。このふたつを同時に行なうことこそ聖霊に導かれる読み方でなければならない。特に「偶像」のような重要な言葉について語る場合には、ことのほか、細心の注意を要することを肝に銘じなければならない。
以上パウロの継承思想とその律法観について観てきたが、ここで改めてその過程を振り返りつつ、これをまとめてみたいと思う。ローマ人への手紙7章13~25節に見るように、「意志する」ことは、すでにその中に、善悪いずれかを選択するという行為が含まれている。したがって、人間は、律法に反して悪を意志することもありえるし、律法に従って善を意志することもありえる。この限りでは、人間の意志は自由である。しかし、律法に従うことを意志しながらも、これを実際に行なう力が湧いてこない。逆に、この「律法志向」は、律法に逆らう悪の力が、己の内に宿っていることを露呈する結果になる。このような「意志する自己」とは、いったい、なんであろうか? というのが7章後半の問いかけである〔Cranfield (1) 358〕。わたしたちはすでに、そのような「意志」それ自体のうちに律法に証しされた御霊の働きを洞察することができた。
8章4節以下の霊と肉は、絶対的なキリストの霊性の働きのもとに置かれている。ガラテヤ人への手紙においては、律法とキリストの御霊とは、いまだ緊張関係をはらんでいた。しかし、ローマ人への手紙8章では、モーセ律法を始めとして、原初のキリスト教会から受け継がれた律法や価値観、及びヘレニズム的な価値観、それにパウロ自身の聖霊体験に基づく価値観、これらがことごとく融合して、キリストの霊法の価値基準を成り立たせている。キリストの霊法は、その絶対性のゆえに相対的なるものと対立することがない。だから、キリストの霊法は、肉と対立することはない。命の霊法は、肉の命と同じではないが、肉の命と異なるとも言えない。同じとも言えない。異なるとも言えない。絶対と相対とでは、比較対照を絶するからである。このキリストの霊法が有する絶対的霊性は、霊と肉との対立自体をも包摂する絶対性であって、一切の人間的な所与に左右されない。ここでは、霊肉の対立自体が、霊法の絶対性によって覆い尽くされている。このような霊性は、言葉を絶した世界、すなわち分別を絶した世界であるから、これをそれ以上推し量ることはできない。
パウロの信仰は、まずユダヤ教の律法遵守に始まる。そこから彼は、キリストとの出会いによる回心を通じて、福音的信仰に達した。この体験的信仰は、彼にキリストの御霊と律法との対立をもたらし、彼は、キリストにある十字架の死を通じて、御霊の働きによって、律法からの自由へと到達した(ガラテヤ3章/ローマ6章)。しかし、問題はこれで終わらなかった。彼はさらに、御霊にある価値観それ自体が、御霊にある自己と肉の罪との間に闘いを生じさせることを知ったのである(ローマ7章)。おそらくパウロの言う「ノモス/律法」には、モーセ律法から発したユダヤ教が含まれており、それに最初期のキリスト教から受け継がれた価値観、さらにヘレニズム哲学が含まれている。それは、当時の世界に共通するもろもろの「善」を代表するものであった。この「善」を最も的確に映し出しているのがヤコブ書の鏡のたとえであろう(ヤコブ1章22~25節)。ただしひとつ確かなことは、そのような「善いもの」すなわち「神の律法」が、肉にある彼を「死に導く」という発見であった。
彼が、自己の内に働く霊と肉との相剋を突き抜けたところに見出したのがキリストの霊法である(ローマ8章)。ここで彼が到達したキリストの霊法には、すでに個人から宇宙にいたる拡がりが秘められている。ガラテヤ人への手紙で異邦人に宛てた「アブラハムの真の相続人」という主題は、キリストの御霊にある個人に、「実存的」とも言える罪の赦しと贖いの信仰をもたらした。そこから、彼の世界は、宇宙的な規模での「悪の力からの解放」へと広がっていく。この「悪の力からの解放」は、全被造物の完成を目指すローマ8章18~25節にすでに表わされているが、このような宇宙観が開花するのはコロサイ人への手紙においてである(1章9~20節)。(この書簡はパウロ系の教会の指導者の手によるものであるが。)
わたしたちはここに、パウロの福音的な信仰に基づく聖霊体験を通じて証しされている「救いの型」、すなわちキリストの御霊にある者の有り様の「タイプ」を見出すことができる。この「タイプ」において語られている霊験は、パウロ以後のキリスト者に繰り返される基本的なパターンとして重要な意味を持つ。わたしたちキリスト者の価値観は、自分たちの生まれ育った伝統的な価値観、モーセ律法、キリスト教の伝統的な価値観、聖霊体験から生まれた価値観など、様々な価値観から成り立っている。人はそれぞれ、その人の達し得た最高の価値観に従って、主の御霊に導かれて歩む。しかしその歩みは、わたしたちを十字架のキリストへと向かわせる。十字架は死をもたらし、死は復活をもたらし、復活は御霊にある創造をもたらす。人は、その価値観に対応する高さにおいて、十字架の体験へと導かれる。その結果、肉の自分が欲してなおできなかったことが、我ならぬ我において「成就されて」いくのを覚える。これが真の意味での「赦し」であり「恵み」であろう。しかもこの恵みは、これを受ける者を与える者に変容させていく。
このように見てくると、パウロの律法概念は、最終的にはキリストの霊法に内蔵されているが、同時に、その霊法の<外にある>律法は、不要なものとして結果的に廃棄される。しかし、問題は単なる破棄では済まないところにあろう。なぜなら、キリストの霊法の外にある律法は、霊法の外にある「わたし」と同じように、人間的な肉と結び付いて、いぜんとして人間の自我発揚の手段として存続しているからである。ここでは律法は、人間の自己正当化を保証してくれる装置として利用される。律法であれ、富であれ、権力であれ、知識であれ、暴力や武力であれ、理性であれ、それらが絶対化されることが偶像礼拝の本質であるとすれば、キリストの霊法の外におかれた律法は、パウロの言う「律法の諸行による者たち」、すなわち律法主義者たちの手によって、再び絶対化された律法崇拝に陥らないという保証はない。
律法は絶対化されることによって、律法主義が極度に否定していたはずの偶像礼拝に、律法主義自らが転じることで悪霊化する。これと同じように、聖書崇拝が、その文字の文言だけを絶対視することによって、聖書が否定するその偶像礼拝の悪霊と同じ性質を聖書崇拝自体が帯びるという、このような倒錯が起こりえるのである。ここに旧約聖書からパウロが継承した嗣業としての信仰が、その正しさのゆえに、逆に律法主義者たちの手によって絶縁される根本的な理由がある。継承された嗣業が、その継承の正統性ゆえに絶縁される(inherited inheritance disinherited)という倒錯した事態が、このようにして生じることになる。
相対的なるものが、絶対的なるものに対するということが、死である。我々の自己が神に対する時に、死である。イザヤが神を見た時、「禍なるかな、我滅びなん、我は穢れたる唇のものにて、穢れたる民の真中に住むものなるに、我眼は万軍の主なる王を見たればなり」といっている。相対的なるものが絶対者に対するとはいえない。また相対に対する絶対は絶対ではない。それ自身また相対者である。相対的が絶対者に対するという時、そこに死がなければならない。それは無となることでなければならない。〔西田358〕
このように相対を絶対化する業からわたしたちを救い出してくれるものこそ、キリストの福音にほかならない。しかもそのようなキリストの福音は、先に指摘したように、「律法と預言者に証しされて」わたしたちに顕わされる。だから、キリストの福音が真の福音として存続し、わたしたちがパウロに倣ってキリストの霊法にあって生きるためには、常に旧約のモーセ律法へと、最初期のキリスト教の「教えと戒め」へと、例えばマタイ福音書5章以下に顕わされたイエス・キリストの教えが指し示す根源へと立ち返り、そこから自分たちの福音的信仰を再吟味し、検証し直さなければならない。