第14章 律法崇拝の偶像性
律法主義と偶像礼拝
 ローマ人への手紙7章において、神の律法は、アダム以来の人間性を照らし出すことによって、これにまつわる悩みと悲しみ、欲望と願望、罪性と聖性を露わにする。さらにこの律法は、露わにされた人間存在を救いの祈りへと導く。そこに暴露される人間の欲望の中には、過去から現在にいたるもろもろの宗教もまた渦巻いている。それら大小の渦の中に、人間の欲望と祈願が作り出したもろもろの偶像が浮き沈みしながら、それらの渦の核をなしている。あたかも絶対性を誇るように見える大小の偶像が、互いに競い合っている様相を見れば、それらの偶像の相対性が見えてくる。旧約聖書の宗教でさえもそのような相対の渦にあることが、ほかならぬその旧約によって証しされたキリストの霊法によって啓示されるとすれば、現在のわたしたちのキリスト教でさえも、これら相対の渦の一つにすぎないことをわたしたちは認めざるをえないのであろうか? わたしたちのキリスト教も、これの源流であるユダヤ教と同様に、何らかの偶像と無関係ではないのだろうか?
 「神と富とに兼ね仕えることができない」(マタイ6章24節)とイエスは教えているが、この言葉について、八木誠一氏は次のように述べている。

 「神と富」についての八木氏のこの説明は決して独自のものではない。むしろ標準的な解釈を代表すると言ってよい。にもかかわらず、わたしが氏の説明を引用したのは、それなりの理由がある。氏はここで、「自我は富によって自分を守ろうとするとき、富に対する異常な関心を抱く」と述べてから、富が自我発揚の手段となることを指摘して、このことが逆に、自我をして富に仕えさせる原因になると指摘する。自我を守ろうとするために富を用いることが神によって否定されるのであれば、自我を発揚する手段として富を用いることは、人を神から引き離すさらに強い誘惑となろう。人間が自我発揚あるいは自我追求のために富を追い求めることを「貪欲/むさぼり」と呼ぶのであれば、富は最も顕著な「貪欲」の表われであろう。富への欲望がマモン崇拝へとつながる所以である(コロサイ3章5節/エフェソ5章5節)。富は、このように偶像礼拝へつながる。これを敷衍すれば、富に限らず、人間が自我発揚の手段とするあらゆるものは、それ自体が目的と化すときに偶像礼拝へつながることになろう。
 人間の自我発揚と偶像とのこのような結びつきは、パウロの言う「律法主義」についても新たな考察を誘うことになる。なぜなら律法主義とは、己の身の安全を守るために神の律法を用いることであり、さらに言えば、自己の正当性を発揚するための手段として律法を追求し、そうすることによって、自らを律法に仕える奴隷へと貶めることになるからである。律法を自我実現の手段とするところに生じる律法の絶対化は、律法を偶像化する律法崇拝にほかならない。このように律法主義は、それが律法崇拝となる時には、偶像礼拝の様相を帯びてくる。パウロが強く批判する「律法主義」とは、人間の自我発揚の手段として悪用されるこのような「律法崇拝」のことである。律法が悪用されるときに、悪用する者を逆に律法の奴隷として仕えさせる。
  パウロは偶像礼拝の背後に悪霊の働きを観ているが、律法主義には悪霊が潜んでいるという説は〔Hübner 29〕、こういう視点から観るなら必ずしも誤りとは言えない。ただし、パウロが攻撃したユダヤ教の「律法主義」は、ユダヤ人が律法を遵守しようとすることではない。そうではなく、自己の律法解釈をあたかも律法それ自体の正当性であるかのように絶対化し、そうすることによって、これを異邦人にも強制しようとしたからである。ガラテヤ人への手紙でパウロが攻撃しているのは、まさにこれであって、この点が、ローマ人への手紙の場合との違いである。律法をめぐる両方の書簡の違いは、ふたつの書簡に挟まれた時期の間に「事情が変わった」と説明されているが、変わった事情とはこのことであって、パウロ自身の律法観が変わったからではないことを改めて指摘しておきたい。
聖書崇拝と偶像礼拝
 一部のユダヤ人キリスト教徒に見られる律法主義は、律法遵守と言うよりも律法そのものを絶対視することによる律法崇拝に近いと述べた。このような「律法」の偶像化は、パウロが指摘しているように、聖書の文言を字義どおりに解釈し、書かれた文字そのままにこれを厳守しようとする彼らの聖書解釈と深く結び付いている。だが、聖書の文言のこのような絶対化と字義どおりの聖書解釈は、そのまま現在の聖書解釈にもつながるところがあるのではないだろうか? これがわたしの提起したい問題である。
 宗教改革以来のプロテスタント諸派が、聖書主義を貫いてきたのはそれなりの理由がある。けだし聖書は、イエス・キリストの福音を証しする書として、今もなおキリスト者の信仰を導くほとんど唯一の導きの書であることに変わりはない。しかし、最初期の律法主義的なユダヤ人キリスト教徒たちのように、聖書の文言それ自体を絶対視して、これを信奉するならば、わたしたちもまた聖書主義ならぬ聖書崇拝(Bibliolatry)へと陥る危険を犯すことにはならないだろうか。歯痛の治療の目的で患部に聖書を当てて祈祷するという呪術的な聖書崇拝のことではない。聖書の言葉それ自体をその書かれてあるとおりに信奉することは、聖書の文言を絶対化することによって、その言葉を偶像化することにつながりかねないと言うのである。富であれ、権力であれ、収穫物であれ、相対的なものを崇拝し、崇拝することで絶対化するところに「偶像」が生まれる。聖書の文言と言えども例外ではないであろう。
 相対性とは、あるものとあるものとが、相互に対立し合う場において、双方が帯びる属性のことである。偶像礼拝は、相対的な偶像を絶対化することによって、他の相対的な偶像を否定する傾向を帯びる。聖書の文言を絶対視する者もまた、これに対立する思想や文化や宗教を攻撃する傾向に走りやすい。だから複数の偶像が、互いに絶対性を主張し合い競い合うところには、必ず烈しい争いが発生する。キリスト教の歴史において言えば、福音を否定する律法主義を始めとして、これに対する反動としてのキリスト教会による反ユダヤ主義、グノーシスなどの「異端」に対する教会の側からの行き過ぎた弾圧、イスラム世界への侵略的な十字軍遠征、植民地政策に伴う南米や北米での原住民の殺戮とこれに続く奴隷の輸入と酷使などがあげられよう。これらは、「異端」「反キリスト」「異教徒」「野蛮人」「不信仰者」などの差別的な分類によって正当化されていた。わたしの見方では、このような数々の「悪い実」は、聖書の文言それ自体を無批判的に信奉するところに起因する。だからわたしたちは、聖書崇拝という偶像礼拝の変種が発生する危険性に対して警戒を怠ってはならないのである。
 聖書崇拝は、聖書の文言それ自体も人間の言葉であって、当然これに伴う相対性を免れえないことを忘れるところに起因している。だから聖書の言葉を絶対視する人たちは、いつの間にか、人間の言葉に支配される奴隷となり、パウロが恐れたとおり、「文字は殺し、霊は活かす」という、その「文字」の虜(とりこ)に陥るのである。聖書の言葉は、無限の神を指し示す有限の人間の言葉であり、この意味で「しるし」である。「しるし」にとらわれて「しるし」それ自体を追い求める者は、「しるし」の奴隷となり、「しるし」それ自体を偶像化するにいたる。物質的な賜であれ、病の癒しであれ、霊的な賜であれ、「しるし」それ自体を求めてこれらを信奉するならば、神が与える祝福を神の代わりに拝むというかつてのイスラエルの民が犯した過ちに陥ることになる。かつてのイスラエルは、「しるし」を求めて神を求めず、与えられた物を求めて与える方を忘れた。彼らは、相対的な「しるし」を絶対的なものと取り違えるという誤りを犯したのである。相対の言葉を絶対化して他の相対を非難するという禍が、このようにして生じることになった。それゆえに、わたしたち「人間」が、「神」の言葉である聖書を解釈する際には、その大きな可能性と同時に大きな危険性をもはらむことを知っておく必要がある。
聖書の学問的解釈
 聖書の文言それ自体を絶対化する危険について述べたが、聖書解釈に伴う危険性は、書かれた「文字」を絶対化する誤りだけではない。いわゆる「学問的な」聖書解釈の場合にも、それなりの危険があることを忘れてはならないであろう。
 聖書を学問的に批判することに伴う危険性とは、なんであろうか? ひとつには、知的な判断に基づいて聖書の言葉を分析し批判する場合に、知的な判断を絶対視するならば、神の御言葉としての聖言にたいする人々の信仰を崩壊させる危険が生じることである。こうなると「御言葉を解釈しながら、自らは神の国に入ることをせず、入ろうとする者を妨げる」ことになりかねない。
 もうひとつは、学問的な聖書解釈においては、聖書に書かれている言葉の語義や内容を「過去の出来事」として正確に見極めようとする考察が働くことである。聖書解釈とは、このような作業を通じて、現在の視点から未来に向けて、「しるし」としての聖書の言葉が指向する先を洞察することである。この場合は、過去にさかのぼる学問的考察と未来を読み取る霊的な洞察とは、決して矛盾しない。学問的な考察は、霊的な聖書解釈を「正しく方向付ける」ためにあるのであって、霊的な読みそれ自体を破壊することにその意味があるのではない。したがって、学問的な考察それ自体は、聖書解釈のほんらいの目的ではない。それ無しには、正しい霊的な方向を探知できないからこそ、学問的な考察が必要なのである。人間の言葉でありながら、これが指し示す霊的な次元を聴き取り読み取ることこそ、神の言葉にいたる聖書解釈である。だから、このふたつが伴わないところには、真の聖書解釈の場は成り立たない。
 聖書の言葉が本来指し示していたものがなんであったのか、その指標の意味を探り当てることが学問的な努力の必要な理由である。だが、そのことを探り当てたときに、それが現代において、どのような指標となりえるのかを読み取るためには、学問的な手法は必ずしもその正しさを保証してはくれない。卑近な例で申し訳ないが、経済学的な分析は、株価の未来を正しく読み取る保証にはならない。未来への方向性を読み取るためには、霊的な洞察と知恵が不可欠なのである。祈りが必要な理由がここにある。
 それゆえに、聖書解釈者には、聖書の文字の絶対化を防ぎ、同時に、聖書批判をその奢りから救うという二重の誤りを防ぐ仕事が課せられていることになる。右に曲がれば聖書崇拝、左に逸れれば信仰衰弱。この両方共が、実は指し示す言葉と指し示されている霊的なものとの間に横たわる距離を見誤るところから生じる。一方では、書かれた文字にこだわり、これに執着することで文言を絶対化する者あれば、他方では、聖書を人間の言葉として知的に批判することを求めて、歴史的社会的な文脈の中で聖書の言葉を「非霊性化」しようとする。どちらもしるしとしての聖書の言葉をそれが指示する霊的な本体から切り離して観るところに生じる誤りである。聖餐のパンとぶどう酒は、キリストのからだと血の現実の化体であると信じるか、それともこれをただのパンとぶどう酒と見なしてその霊的な意味を剥奪するか、このどちらも、「しるし」とそれが指示する霊的な本源を見失うところに併発する同じ誤りの裏表なのである。
 かつての宮廷詩人たちは、自分が仕える王侯の結婚やその他の祝賀の際には、その王侯へ祝いの詩を献上するのが務めであった。その際に詩人は、言うまでもなく、自分が仕えている当の王侯について謳いかつ語らなければならない。すなわち当の王侯を自分の詩の主題(subject)としなければならない。詩それ自体は、これを作る詩人の手に委ねられる以上、その主題は、これを作る詩人に従属する。すなわち詩人は、臣下 (a subject) として、自分自身も所属する主体である王侯(the Subject) に対して、その王侯を主題 (subject) として歌うことで、その主題である王侯を自分に所属(subject)せしめるという立場におかれるのである。これがいかに危険な仕事であり、一つ間違えば、自分の命を危うくすることを宮廷詩人たちは心得ていなければならなかった。この辺の事情は、千利休が、茶道の師として秀吉に仕えることで、命を犠牲にしなければならなかった事情と相通じるところがあるのかもしれない。このように、主語に従属する述語とは、The Subject(主語/主体)にsubject(従属)することによって、そのSubjectを規定することができる。すなわち、subject(従属)する述語が、実は自分のthe Subject(主体)を「従属させる」潜在的をも秘めているのであり、その潜在性は、大きな可能性と同時に大きな危険性と表裏なのである。
「悪霊的文化」について

 聖書崇拝について説明したが、これにはそれなりの理由がある。現在我が国において盛んに伝えられているキリスト教の間で、仏教や神道を初め、様々な「異教」が、本来悪霊から出ているという主張が真面目に取りざたされているからである。とりあえずここで、ピーター・ワグナー著の『都市の要塞を砕け:霊的地図作成と祈りの戦略』から引用させていただきたい。

  他の一冊『霊の闘いの祈り』(邦訳。マルコーシュ・パブリケーション)でも、妻のドリスが実際に悪霊を寝室で目撃したことについてお分かちしました。その後キャシー・シャーラーとジョージ・エッカーが我が家に乗り込んできて、その悪霊を追い出してくれました。キャシーとジョージは我が家の他のどの部屋よりも、居間で多くの悪霊を発見しました。二人は私たちの家を去る時に、一つの悪霊以外は皆追い出すことができたと感じたのです。この最後の悪霊は、石でできたピューマの像についていると、二人は見分けました。このピューマの像は、私たちがボリビアで宣教師として働いていたときに買い求めたもので、インディアンの中でもクエチュア族のものでした。しかしそれでも、目に見えない次元をうごめく存在が、明らかに目に見える世界のこの物体についていたのです。〔ワグナー89

 お断わりしておくが、わたしがこの著書から引用するのは、この本が極端な偏見に満ちた本だからではない。逆に、この種の本としては、きわめて「穏健」であり、おそらくこの本は、アメリカの聖霊派や福音主義的な教会だけでなく、現在、日本の聖霊運動の指導者たちを始めとして、日本の霊的な諸宗団や福音主義的な諸教会で一つの規範とされていると思うからである。
 著者はここで、自分の家に住んでいた「悪霊」を追い出した話しをしている。著者は、それまで「気がつかなった」いろいろな悪霊が、家具や装飾品の形で自分の家に住み着いていたことを「見分けて」、これを「追い出した」のである。その結果「決断を下すのは容易なことでした。ピューマは破壊されなければなりませんでした。私たちはその像を外に出すと、粉々に破壊し、ゴミ捨て場に捨てた」〔ワグナー89〕のである。著者はこれに続いて、さらに徹底した悪霊追放を自分の家で実行している。
 これはこの本に書かれているほんの一例である。この著者がインディアンのクエチュア族とその文化をどのような目で見ているのか、これで容易に察しがつくと思う。わたしには、ピューマが美しいと感じた時の著者のほうがはるかに人間的であり、「霊的にも正しい」と思われる。少なくともこれだけは確かである。インディアンに福音を伝える宣教師としてなら、ピューマを買ったときの彼のほうが、これを粉々に砕いたときの著者よりもはるかにふさわしい。このような悪霊追放を行なう目的で、著者が宣教師として再びクエチュア族を訪れることがないように、わたしはイエスのみ名によって祈りたい。アメリカのインディアンたちが、過去に、自分たちの霊性を完全に破壊されるという残酷な仕打ちを受けてきたこと、また現在でもその事態が変わっていないことを改めて知らされる思いがする。
 アフガニスタンでイスラム教のタリバンたちがバーミアン洞窟の仏像を破壊したことをわたしたちは知っている。もしもこのようなタリバンの宣教師たちが、イスラム教を伝える目的で日本に来たとすれば、どんなことが起こるだろうか? ところが、現在の日本で、まさにこのことが、現実に起こっているのである! イスラム教のことではない。キリストの御霊を伝えるキリストの福音伝道のことである。現在少なからぬ宣教師たちが、日本において、この著者がアメリカで行なったことを日本でも行なおうとしている。この本の副題にあるように、この人たちは、悪霊の「霊的地図を作成」して、この国から悪霊を「地域ごと」追い出そうと真面目に考えているのである。著者は、韓国の伝統文化が、日本の支配や朝鮮戦争のために破壊されたことが、現在のキリスト教の発展の原因となったと述べてから次のように書いている。

 これと比較して、日本の文化は何の妨害も受けずに、3000年もの間継続してきました。ですから、日本文化を織物にたとえるなら、異教的なものがその縦糸、横糸となって織り込まれているのです。つまり日本を支配している悪霊は、日本の文化を利用して、今まで好き勝手なことをしてきました。そして自分の縄張りで、形式的でない本当のキリスト教が現われるのを許す気はないのです。〔ワグナー99

 日本人をアメリカ嫌いにして、キリスト教に対する憎悪をかき立てようと思えばこれほどうってつけの文章はない。しかも、さきほどお断わりしたように、この本は、この種の異教悪霊文化論の中では、最も穏健で知的な考察に裏打ちされている(わたしの手元にはこれよりもさらにひどいものが複数ある)。著者は、異教の「偶像礼拝的な悪霊」と同時に、アメリカ国内における同様の異教的悪霊の臭いをもかぎつけて、これを絶滅しようとすることを忘れない。
 この著者は、現在行なわれているキリスト教の祭りや慣習の中で、かつて異教であったものが混入していないものなど何一つないことをご存じないのだろうか。端午の節句やお雛祭りを異教的だと考えるならば、同様にクリスマスもハロウイーンも異教的だと考えるべきである。クリスマスは聖なる祭りでお盆や正月は悪霊的であるとか、復活節は聖なる祭りで、彼岸や花祭りは悪霊的だとか、感謝祭やハロウイーンは正しいが、お雛祭りや端午の節句は悪霊的だとか、教会への献金は神に喜ばれるが、お寺や神社へのお布施やお賽銭は悪霊に捧げるというような、相対同士を比較対照する誤りは、アメリカの核実験と軍備は正しく、ソ連の核実験と軍備は正しくないというかつての詭弁と同じレベルの驚くべき欺瞞にすぎない。
 しかしながら、真の問題点は、キリスト教にも日本文化同様に「どの程度」異教的な要素が混入しているのかを指摘することではないであろう。問題の本質は、そもそも自分たちの宗教以外の宗教を「異教」と呼び、そうすることによってその宗教を基盤とする文化全体を「異教文化」として悪霊呼ばわりするそのこと自体にある。ワグナー氏は自宅にピューマの彫刻を飾っていた。このことは、彼が、自分の信じているキリスト教の信仰がピューマに象徴される文化とこれを担う人たちからなんら攻撃や非難を受けたことがないことを証ししている。もしも彼が、現地でキリスト教への非難や攻撃を受けていたとすれば、彼はそもそもそのようなものをわざわざ土産に買わなかったであろうし、ましてやそれを自宅の居間に飾ったりしなかったであろう。
 ところが、ある人たちが訪問してきて、今まで問題を感じさせなかったピューマの背後に「異教的な悪霊」を感じ取ったのである。その結果、ピューマは粉々にされる運命になった。だから、攻撃を仕掛けたのは、ピューマのほうではない。これを悪霊として攻撃したのは、氏の家を訪れたクリスチャンのほうだったのである。「異教文化」のほうは、キリスト教を悪霊呼ばわりすることも批判することも一切しなかった。これに対して、ピューマを「異教文化」と見なして、これに一方的な攻撃を仕掛けたのはクリスチャンのほうなのである。このことをここで確認しておきたい。
 わたしの知り合いのクリスチャンの女性が、かつてある寺で竜の天井画を見物した。それからしばらく経ってから、彼女もこの種の本を読む機会があった。すると彼女は、自分が訪れたのは悪霊の絵であったと感じさせられて、恐れを抱き、寺を訪れたことを「悔い改めた」のである。天井画はピューマのように砕くことができなかったが、彼女にもワグナー氏と同様のことが起こったことが分かる。ここに共通しているのは、<ピューマ/天井画→異教→悪霊>という結びつきである。どちらの場合も、「異教」のほうからの非難や攻撃は一切なかった。にもかかわらず、一方的に攻撃したのはキリスト教の側であり、氏も彼女も、異教の人たちからではなく、同じクリスチャンたちによって恐れを抱かされたのである。なぜそのクリスチャンたちは、そのようなことをするのか? なぜクリスチャンたちは、そんなに異教と悪霊を怖がるのか?  それは、彼らの聖書の言葉にその原因がある。「『造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕える』ことほど、神を怒らせるものはありません。(ローマ1章25節参照)」〔ワグナー71〕というのがその理由である。
 相手が自分たちを攻撃してくる気配もその恐れも一切ないことを知っているのであれば、<ピューマ/天井画→異教→悪霊>という短絡的な結びつきではなく、その彫刻や絵画の背後にある文化的な背景には、どのような考え方や歴史や霊性が潜んでいるのかを観察したり学んだりするだけの余裕をなぜこれらのクリスチャンたちは持つことができないのであろうか? どうやら問題は、聖書の「偶像礼拝禁止」の文言をそのまま字義どおりに受けとめて、かつこれに動かされて「浄化」と「粛正」を実行しようとしていることにある。ここで改めて、聖書解釈の問題が浮かび上がってくることになる。
 このような異教文化悪霊論は、旧約の聖絶から新約の悪霊観にいたるまで、偶像礼拝と悪霊に関わる聖書の文言を文字通りに受けとめて、これを忠実に、歴史的、文献学的な批判を加えることをせずに、行なおうとするところから生じている。このような聖書解釈に対して、わたしたちは、こういう短絡的な思考ではなく、まず聖書で攻撃されている「偶像」とは、そもそもなんなのか? その社会的、文化的、宗教的背景を探ることから始めなければならない。その上で、そのような「偶像」がかつて内蔵していた意味を現代に置き換えて、そこに含まれる霊的な意味とこれが指し示す「人類の未来の歴史的方向」を洞察すること、このことが要求されてくるのである。過去への学問的な考察と未来への霊的な洞察、知恵の御霊に支えられた英知とこれに基づく学問的な努力が必要なのはこの理由による。自分たちが知らない文化が生み出した彫刻や絵画の背後に、いったいどのような価値観が存在するのか? どのような宗教的霊性が、その文化を形成しているのか? 過去の人類のどのような思想と知恵がその作品に潜んでいるのか? なぜそのようなクリスチャンたちは、こういうことを霊的な英知と愛によって理解しようと努力しないのだろうか? 
 日本人が仏像を拝んだり、神社参拝をすることと、欧米の人たちが十字架を担ぎまわったり、聖母像を拝んだりすることとは内容的には全く変わらない。しかも日本人は、そしておそらくは欧米の人たちも、そのような宗教的な行為を絶対化しているわけではない。むしろ、現代においての絶対化とは、経済であり金融であり、マスメディアを巻き込んだ情報戦争であり、自己の価値観やイデオロギーを他の民族や国家のそれよりも優先させようとする宗教イデオロギーなのである。平たく言うならば、武力と知力と金である。これら三つは、古今東西、人間が常に絶対化してきたもので、この事情は現代においても少しも変わらない。
 「偶像」という聖書の言葉だけを見て、その言葉が持っていた根源の意味を探ろうともせずに、聖書の言葉を「神の言葉」として崇拝するならば、相対的な人間の言葉を絶対化する危険を犯すことになる。その結果、どのようなことが起こるのかをこの書は証ししてくれる。偶像礼拝の奥には相対的なものの絶対化が潜んでいる。したがって、このような絶対化こそ、悪霊の巣である。聖書の言葉と言えども、これを絶対化するならば、聖書崇拝的な偶像礼拝に引き込まれる恐れがある。異教に立ち向かい、これを絶滅しようと図ることは、相対に対するに相対をもってすることにほかならない。聖書の言葉は、真の絶対性を指し示す指標であるが、指標それ自体は決して絶対ではない。だからこれを本体と区別しなければならない。わたしたちがなすべきことは、指標としての聖書の言葉が指し示してくれる「開かれた未来に」視野を求めることなのである。このような開けの中で、神の言葉の真理の終末的な顕現を志向することなのである。
 かつてモーセ律法の「殺すな」は、ほんらい、神の霊に生きる者は、その本性から、人を殺すようなことはしない性質を具有するという意味であって、「殺してはならない」という命令的な響きではなかったと言われる。仮に命令であったとしても、この戒めは、同じイスラエル共同体の中だけに通用する戒めであって、一度外敵との戦争ともなれば、サムソンのような英雄が賞賛されたのである。しかし、新約の時代にいたって、その解釈が変容して、やがては異教徒を殺すことが、神に喜ばれることにはならないという解釈へと進化してきた。現在では、いかなる人間でも、殺人は罪であるという意味として、広く受け容れられるようになった。聖書の言葉は、このように、何時の時代でも指標として、神の開かれた真理への絶対性へと向かう証しであり、このための変容への歩みであった。
 聖書の言葉が本来指示していたその根源的な意味へとさかのぼること。その上で今度は、現在自分たちが置かれている状況の下で、その言葉が指示する方向を正しく見極めること。現在の自分たちから、過去へさかのぼることと未来を正しく志向すること。このふたつを同時に行なうことこそ聖霊に導かれる読み方でなければならない。特に「偶像」のような重要な言葉について語る場合には、ことのほか、細心の注意を要することを肝に銘じなければならない。

内在性と変容性
 キリストの御霊は、パウロのように大きな時代の転換期においてだけでなく、わたしたちの日常的な個人レベルにおいても、それぞれが到達しうる新たな価値観の創造へと導き、わたしたちに「英知の律法」を指し示してくれる。しかし、神から与えられるこのような英知の律法は、旧新約聖書が伝える「過去からの律法」に証しされて初めて可能なのであろう。パウロの言う「神の律法」は、ここからしか生まれてこない。まさにそれが、わたしたちに授与された律法であるがゆえに、わたしたちにとっては全身全霊を傾ける価値を有する。この意味で旧約聖書は、何時の時代でも、わたしたちの主イエス・キリストを証しし続けてくれる大事な源泉なのであろう。しかも、パウロによれば、この価値観こそがわたしたちをして己の「肉の無力」を悟らしめて、十字架の死へと向かわせる。己の肉を克服し、己の罪を覆い尽くしてこれに克つことができるのは、キリストの御霊をおいてほかにはない。それゆえに赦しの御霊であり、それゆえに恵みの御霊であり、神智の御霊であり、真理の御霊である。これ以外のものは御霊と呼ぶに値しない。自分の罪と闘ってくれない霊は、御霊でもなければ、恵みでもない。御霊にあるこのような自己否定こそ、キリストの御霊にある恵みの源である。「自己否定」とは変容のことであれば、このような創造的変容性こそ、キリスト者に内在する御霊の働きである。それゆえに、

 わたしたちの歩みは、このように、大きな時代のうねりにおいても、日常の個人個人の歩みにおいても、常に御霊の創造的変容性と内在性にあって生かされる歩みであり、一歩一歩と主のみもとに近づいていく歩みである。このような御霊の働きは、超在の永遠性を指標する歩みであり、この意味で、ヨハネ福音書が証しする救いの型、内在の御霊を通じて御子へ、御子を通じて御子の父へと「真理と命の道」へと引き寄せられるパターンが、ここでのパウロの体験と重なり合ってくる。それは、無と有、死と復活、裁きと救いが表裏を成しつつも、「恵みから恵みへと」(ヨハネ1章16節)変えられている過程である。
モーセ律法からキリストの霊法へ

 以上パウロの継承思想とその律法観について観てきたが、ここで改めてその過程を振り返りつつ、これをまとめてみたいと思う。ローマ人への手紙7章13~25節に見るように、「意志する」ことは、すでにその中に、善悪いずれかを選択するという行為が含まれている。したがって、人間は、律法に反して悪を意志することもありえるし、律法に従って善を意志することもありえる。この限りでは、人間の意志は自由である。しかし、律法に従うことを意志しながらも、これを実際に行なう力が湧いてこない。逆に、この「律法志向」は、律法に逆らう悪の力が、己の内に宿っていることを露呈する結果になる。このような「意志する自己」とは、いったい、なんであろうか? というのが7章後半の問いかけである〔Cranfield (1) 358〕。わたしたちはすでに、そのような「意志」それ自体のうちに律法に証しされた御霊の働きを洞察することができた。
 8章4節以下の霊と肉は、絶対的なキリストの霊性の働きのもとに置かれている。ガラテヤ人への手紙においては、律法とキリストの御霊とは、いまだ緊張関係をはらんでいた。しかし、ローマ人への手紙8章では、モーセ律法を始めとして、原初のキリスト教会から受け継がれた律法や価値観、及びヘレニズム的な価値観、それにパウロ自身の聖霊体験に基づく価値観、これらがことごとく融合して、キリストの霊法の価値基準を成り立たせている。キリストの霊法は、その絶対性のゆえに相対的なるものと対立することがない。だから、キリストの霊法は、肉と対立することはない。命の霊法は、肉の命と同じではないが、肉の命と異なるとも言えない。同じとも言えない。異なるとも言えない。絶対と相対とでは、比較対照を絶するからである。このキリストの霊法が有する絶対的霊性は、霊と肉との対立自体をも包摂する絶対性であって、一切の人間的な所与に左右されない。ここでは、霊肉の対立自体が、霊法の絶対性によって覆い尽くされている。このような霊性は、言葉を絶した世界、すなわち分別を絶した世界であるから、これをそれ以上推し量ることはできない。
 パウロの信仰は、まずユダヤ教の律法遵守に始まる。そこから彼は、キリストとの出会いによる回心を通じて、福音的信仰に達した。この体験的信仰は、彼にキリストの御霊と律法との対立をもたらし、彼は、キリストにある十字架の死を通じて、御霊の働きによって、律法からの自由へと到達した(ガラテヤ3章/ローマ6章)。しかし、問題はこれで終わらなかった。彼はさらに、御霊にある価値観それ自体が、御霊にある自己と肉の罪との間に闘いを生じさせることを知ったのである(ローマ7章)。おそらくパウロの言う「ノモス/律法」には、モーセ律法から発したユダヤ教が含まれており、それに最初期のキリスト教から受け継がれた価値観、さらにヘレニズム哲学が含まれている。それは、当時の世界に共通するもろもろの「善」を代表するものであった。この「善」を最も的確に映し出しているのがヤコブ書の鏡のたとえであろう(ヤコブ1章22~25節)。ただしひとつ確かなことは、そのような「善いもの」すなわち「神の律法」が、肉にある彼を「死に導く」という発見であった。
 彼が、自己の内に働く霊と肉との相剋を突き抜けたところに見出したのがキリストの霊法である(ローマ8章)。ここで彼が到達したキリストの霊法には、すでに個人から宇宙にいたる拡がりが秘められている。ガラテヤ人への手紙で異邦人に宛てた「アブラハムの真の相続人」という主題は、キリストの御霊にある個人に、「実存的」とも言える罪の赦しと贖いの信仰をもたらした。そこから、彼の世界は、宇宙的な規模での「悪の力からの解放」へと広がっていく。この「悪の力からの解放」は、全被造物の完成を目指すローマ8章18~25節にすでに表わされているが、このような宇宙観が開花するのはコロサイ人への手紙においてである(1章9~20節)。(この書簡はパウロ系の教会の指導者の手によるものであるが。
 わたしたちはここに、パウロの福音的な信仰に基づく聖霊体験を通じて証しされている「救いの型」、すなわちキリストの御霊にある者の有り様の「タイプ」を見出すことができる。この「タイプ」において語られている霊験は、パウロ以後のキリスト者に繰り返される基本的なパターンとして重要な意味を持つ。わたしたちキリスト者の価値観は、自分たちの生まれ育った伝統的な価値観、モーセ律法、キリスト教の伝統的な価値観、聖霊体験から生まれた価値観など、様々な価値観から成り立っている。人はそれぞれ、その人の達し得た最高の価値観に従って、主の御霊に導かれて歩む。しかしその歩みは、わたしたちを十字架のキリストへと向かわせる。十字架は死をもたらし、死は復活をもたらし、復活は御霊にある創造をもたらす。人は、その価値観に対応する高さにおいて、十字架の体験へと導かれる。その結果、肉の自分が欲してなおできなかったことが、我ならぬ我において「成就されて」いくのを覚える。これが真の意味での「赦し」であり「恵み」であろう。しかもこの恵みは、これを受ける者を与える者に変容させていく。
 このように見てくると、パウロの律法概念は、最終的にはキリストの霊法に内蔵されているが、同時に、その霊法の<外にある>律法は、不要なものとして結果的に廃棄される。しかし、問題は単なる破棄では済まないところにあろう。なぜなら、キリストの霊法の外にある律法は、霊法の外にある「わたし」と同じように、人間的な肉と結び付いて、いぜんとして人間の自我発揚の手段として存続しているからである。ここでは律法は、人間の自己正当化を保証してくれる装置として利用される。律法であれ、富であれ、権力であれ、知識であれ、暴力や武力であれ、理性であれ、それらが絶対化されることが偶像礼拝の本質であるとすれば、キリストの霊法の外におかれた律法は、パウロの言う「律法の諸行による者たち」、すなわち律法主義者たちの手によって、再び絶対化された律法崇拝に陥らないという保証はない。
 律法は絶対化されることによって、律法主義が極度に否定していたはずの偶像礼拝に、律法主義自らが転じることで悪霊化する。これと同じように、聖書崇拝が、その文字の文言だけを絶対視することによって、聖書が否定するその偶像礼拝の悪霊と同じ性質を聖書崇拝自体が帯びるという、このような倒錯が起こりえるのである。ここに旧約聖書からパウロが継承した嗣業としての信仰が、その正しさのゆえに、逆に律法主義者たちの手によって絶縁される根本的な理由がある。継承された嗣業が、その継承の正統性ゆえに絶縁される(inherited inheritance disinherited)という倒錯した事態が、このようにして生じることになる。

 相対的なるものが、絶対的なるものに対するということが、死である。我々の自己が神に対する時に、死である。イザヤが神を見た時、「禍なるかな、我滅びなん、我は穢れたる唇のものにて、穢れたる民の真中に住むものなるに、我眼は万軍の主なる王を見たればなり」といっている。相対的なるものが絶対者に対するとはいえない。また相対に対する絶対は絶対ではない。それ自身また相対者である。相対的が絶対者に対するという時、そこに死がなければならない。それは無となることでなければならない。〔西田358

 このように相対を絶対化する業からわたしたちを救い出してくれるものこそ、キリストの福音にほかならない。しかもそのようなキリストの福音は、先に指摘したように、「律法と預言者に証しされて」わたしたちに顕わされる。だから、キリストの福音が真の福音として存続し、わたしたちがパウロに倣ってキリストの霊法にあって生きるためには、常に旧約のモーセ律法へと、最初期のキリスト教の「教えと戒め」へと、例えばマタイ福音書5章以下に顕わされたイエス・キリストの教えが指し示す根源へと立ち返り、そこから自分たちの福音的信仰を再吟味し、検証し直さなければならない。

法の境地
 被造物である人間が、創造主である神から啓示を受ける時に、人間の英知は、これを「ノモス」(法則/律法/霊法/法)として認識する。人間が神からの啓示をそれ以外の仕方で認識することはできない。「律法」は例えば詩編119篇では、「戒め」「掟」「定め」「裁き」などの言葉で、互換的に言い表わされるが、これらは「律法」の諸相にほかならない。所詮わたしたちの知性は、それがたとえ英知と呼ばれる分別であっても、神の啓示をこのような「律法」の諸相としてしかとらえることができない。キリストの霊法でさえも、英知から観る限りにおいては、「法」としてしかとらえることができない。
 このような人知を超えた境地は、人間の言葉に絶した世界であるから、そこに顕われるのは、もはや「霊法」としか言い表わすことができない。この認識によって、己の業により頼む律法志向を放棄して、主の御霊に己を委ね、ただあるがままの無心に導き入れられるなら、その行き着くところに開けるのは、諸法ことごとく消え失せて、ただ主の御霊の慈愛のみ輝く法有りて法の見えない「霊法の世界」へと入境することになるのであろうか。
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