2章 遣唐使
■1回目の遣唐使
 
遣唐使の1回目は、舒明(じょめい)天皇の2年(629年)のことです〔大津前掲書23頁〕。『日本書紀』第二十三巻には、舒明2年のまた「秋八月(あきはつき)の癸巳(みづのとのみ)の蒴丁酉(ついたちひのとのとりのひ)に、大仁犬上君三田耜(だいにんいぬかみのきみみたすき)・大仁薬師恵日(だいにんくすしえにち)を以(も)て、大唐(もろこし)に遣わす」とあります。中国の善隣国宝紀には、この使者の到着が「太宗貞観五年」(舒明3年にあたる)とありますから〔前掲『日本書紀』(4)173頁(注)11〕、使者一行は、日本を出て2年以上かかって、唐の皇帝太宗の時に長安に着いたことになります。『日本書紀』によれば、「(舒明)四年の秋八月(あきはつき)に、大唐(もろこし)、高表仁(こうへうじん)を遣(まだ)して、三田耜(みたすき)を送(おく)らしむ」とあり、一行は対馬に泊まり、難波津(なにはのつ)に泊まったとあります。大和朝廷は、船三十二艘に鼓(つづみ)や笛や旗をもって出迎え、大歓迎を受けて、(舒明)5年に唐へ戻ったとあります。
 三田耜/鋤(みたすき)は、前回目的を果たせなかった遣随使の人です。恵日(えにち)については、『日本書紀』に、推古31年(?)に、学問僧恵斎(えさい)・恵光(えこう)と共に薬師(くすし)の恵日(えにち)と福因(ふくいん)らが渡来したとあります。恵日は、百済を経て渡来した僧ですが、彼は、おそらく高句麗の仏僧で、隋/唐?で医学を学び、百済を経て日本に渡来しました〔前掲書『日本書紀』137頁(注)18・19参照〕。倭国の伝統的な医療は、巫女などのシャーマンによって、汚れと呪(のろ)いを「おはらい」してもらう「みそぎ」のような呪術によるものでした。これに対して、大陸から半島を経て倭国にもたらされた医術は、始めの頃は、主として僧侶による医療でしたから、恵日もそのような医療を行なう僧であったと思われます。恵日たちは、「是(か)の大唐(もろこし)の国は、法式(のり)備(そなわ)り定(さだ)まれる珍(たから)の国(くに)なり。常(つね)に達(かよ)うべし」と上奏して、唐は国家の律令も医術もその技術が定まっている優れた国であるから、これを学ぶよう朝廷に進言しています。
 中国の『旧唐書(くとうじょ)』は、その時の太宗の言辞を伝えていますが、これによると、「太宗その道の遠きを衿(あわ)れみ、所司に勅して歳貢(さいこう)せしむることなからしむ」とあり、さらに、太宗は、高表仁(こうひょうじん)を唐からの使者として大和朝廷に派遣します。ところが、「王子と礼を争ひ、朝命をのべずして還(かえ)る」とあります。これによると、太宗は、日本が遠国なので年ごとの朝貢を免除したとも受け取れます。しかし、そもそも「朝貢」とは、冊封(さくほう)による従属関係を表現しますから、「これを免除する」とは、冊封そのものを免除することではなく、逆に冊封を促しているとも受け取れます。また、高表仁が「王子と礼を争った」とあるのも、唐から勅命を述べるに際して、皇帝の使者が上位に立ち、倭王は、これを下位で承(うけたまわ)るという上下の関係で、日本の王子と唐の使者とが折り合いがつかず、その結果、太宗の勅命を述べずに終わったことを意味します〔大津前掲書24~25頁〕。大和朝廷は、唐の太宗との対等な関係を通そうとしたために、太宗に遣唐使を派遣することが難しくなったようです。
 『日本書紀』は、推古朝の末期から第1回の遣唐使にいたるまでの大和朝廷の出来事を詳しく伝えています。622年に聖徳太子が没っした後、推古天皇は、推古36年(628年)に、皇位継承の皇太子を指名することなく没しました。推古天皇の没後、敏達天皇(推古天皇はその后)のもう一人の后であった広姫(ひろひめ)との間にできた敏達天皇の孫にあたる田村皇子(たむらのみこ)と、推古天皇の孫(天皇の弟の子である聖徳太子の息子)である山背大兄王(やましろのおおえのみこ)と、この二人のどちらを皇位継承者とすべきかが問題になります。蘇我馬子の息子である蘇我蝦夷(そがのえみし)は、その時の大臣(おほおみ)で、彼は、田村皇子を皇位継承者として推(お)します。廷臣たちの間に動揺が拡がり、いずれとも決めかねていると、境部摩理瀬(さかいべのまりせ)独(ひと)りが、「山背大兄(やましろのおおえ)を挙げて天(すめらみこと)とせむ」と主張します。摩理瀬(まりせ)は、蘇我馬子の弟ですから、馬子の弟と息子、すなわち蘇我氏の叔父と甥とが、皇位継承者をめぐって争うことになったのです〔前掲『日本書紀』(4)396頁補注(23)の1〕。『日本書紀』には、二人の後継者の言動と、これをめぐる廷臣たちの動揺が詳しく記されています。山背大兄は、「天下乱(あめのしたみだ)るべし」と内紛を危惧して、馬子に従って、皇位継承を田村皇子に譲るよう摩理瀬を説得します。これを「泣く泣く」受け容れた摩理瀬は、甥の馬子によって親子共に殺されます。この事件は、後に、蝦夷(えみし)の息子蘇我入鹿(そがのいるか)によって、山背大兄の一族が滅ぼされ、聖徳太子の血統が絶える出来事へつながりますが(643年)、さらにその後で、蘇我馬子が、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)によって殺される大化の改新(645年)へつながることになります。田村皇子は、このように、内紛寸前の出来事を経て、新たに舒明天皇になり、第1回の遣唐使を派遣したのです。
 推古朝と聖徳太子に始まる7世紀は、平城京の「奈良時代」に先立つ「飛鳥時代」と呼ばれています。この時代は、蘇我馬子による法興寺、通称飛鳥寺(あすかでら)の造営が終わります(推古4年/596年)。飛鳥寺は、広い正方形の回廊に囲まれて、三棟の大伽藍が建ち、その真ん中に五重の塔がそびえ、これらの大伽藍を中心にして、回廊の外にも、大小の伽藍が点在していました。『日本書紀』には、蘇我馬子の息子善徳がこの寺院を管理し、渡来した「慧慈(えじ)・慧総(えそう)、二(ふたり)の僧、始めて法興寺に住(はべ)り」とあります〔週刊朝日百科『日本の歴史』(46号)45頁図参照/60~61頁〕。こうして、7世紀には、聖徳太子の指導による国際性豊かな仏教文化が花開いたのです。7世紀は、まさに日本の建国の「黄金の世紀」と呼ぶのにふさわしい時代です。
 唐との関係が緊張したにも関わらず、大和朝廷は、百済、新羅、任那との交流を絶やすことなく、また、以前渡来した漢の僧たち恵隠(えおん)や恵雲(えうん)が、唐で学んだ後で、新羅の使者たちと共に日本へ戻ってきたとあります。舒明11年には、「百済川(くだらがわ)の側(ほとり)に、九重(ここのこし)の塔を建つ」とあります。「九重の塔」は他に例がありません。舒明12年には、無量寿経を講じて、「大きに設斎(をがみ)す」とあります。大和朝廷は、大陸の隋や唐と冊封関係に入ることを拒みつつも、半島を通じて仏教を採り入れ、「宮」と「寺」との習合を図ることで、独立を保ちつつ朝廷を中心とする国作りを進めていたことが分かります。
■2回目の遣唐使
 
孝徳天皇の白雉(はくち/びゃくぢ)4年(653年)に、20年以上途絶えていた遣唐使(2回目)が、二つに分かれて派遣されます。孝徳天皇は、皇極天皇(斉明天皇と同一の女帝)の実の弟で、『日本書紀』には「仏法(ほとけのみのり)を尊び、神道(かみのみち)を軽(あなづ)りたまふ。生国魂社(いくくにたまのやしろ)の樹を斬りたまふ類(たぐい)、是(これ)なり。人と為(な)り、柔仁(めぐみ)ましまして儒(はかせ)を好みたまふ。貴(たふと)き賤(いや)しきと択(えら)ばず、頻(しきり)に恩勅(めぐみのみことのり)を降(くだ)したまふ」とあります。
 二手に分かれた遣唐使の一つは、吉士長丹(きしのながに)を「大使(おほつかい)」(団長)として、道厳(どうごん)、道通(どうつう)などの学問僧13人、さらに仏教や医療(?)を学ぶ者たちを含めて、総勢121人が一つの船で、従来の半島を経由する北回りの航路をとります。もう一組は、高田首根麻呂(たかたのおびとねまろ)を「大使」とし、道福(どうふく)、義向(ぎきやう)などの学問僧を含む120人が、東シナ海を渡る南回りの航路で派遣されます〔前掲『日本書紀』(4)320頁〕〔大津前掲書32~33頁〕。出立は夏五月(なつさつき)ですが、ところが、『日本書紀』には、「秋七月(あきふみづき)に」高田首根麻呂の南回りの船が、薩摩(九州)の遙か南で遭難して、5人だけが助かって「竹嶋」に流れ着いたとあります。これに限らず、派遣された多くの人たちが、途中で遭難したり、帰還することなく、大陸で亡くなったとあります。その一方で、吉士長丹(きしのながに)の一行は、翌5年の「秋七月(あきふみづき)」に、百済と新羅の使者たちと共に帰還して、「唐国(もろこし)の天子(みかど)に奉対(まうむか)ひて、多(さわ)に文書(ふみ)・宝物(たからもの)得たるを褒美(ほ)めて」、吉士長丹は「少花下(せうくゑげ)」に昇進したとあります。「天子」とあるのは唐の高宗帝のことで、日本の使者が大いに歓迎されたことが分かります。唐から熱心に学ぶと同時に、仏教を受けれることで、日本の国威がようやく認められたことが分かります。しかし、この遣唐使派遣の前に、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)によって、蘇我入鹿(そがのいるか)が、その横暴のゆえに殺されて、皇極天皇から孝徳天皇へ代替わりする「大化の改新」(645~650年)があったことを忘れてはならないでしょう。
■3回目の遣唐使
 
『日本書紀』によれば、孝徳天皇の白雉(はくち/びゃくぢ)5年(654年)に、3回目の遣唐使として、「押使大錦上高向史玄理(すべつかいだいきむじょうたかむくのふびとぐぇんり)」と「大使小錦下河辺臣麻呂(おほつかいしょうきむげかわへのおみまろ)」と「副使大山下薬師恵日(そひつかひだいせんげくすしえにち)」と、その他5名を派遣したとあります。高向史玄理(たかむくのふびとぐぇんり)と河辺臣麻呂(かわへのおみまろ)と薬師恵日(くすしえにち)の上下関係は、この順の役職位です。一行は、「二船(ふたつふね)に分(わか)れ乗(の)らしむ。留連(つたよ)ふこと数月(あまたつき)。新羅道(しらきのみち)を取りて、莱〔原文は異字体〕州(らいしゅう)に泊(とま)れり。遂(つひ)に京(みやこ)に至(いた)りて、天子(みかど)に覲(み)え奉(たてまつ)る」とあります。玄理の一行は、いわゆる「北路(ほくろ)」をとり、朝鮮半島へ渡り、船で現在の中国の山東半島に渡り、そこから、はるばる唐の都長安にいたる旅をしたことが分かります。「天子」とあるのは唐の高宗のことです〔前掲『日本書紀』(4)327頁(注)31参照〕。玄理は、「高向漢人玄理(たかむくのあやひとぐぇんり)」とあり、推古16年に第3回目の遣隋使として派遣されています。彼は、早い時期に、おそらく隋から朝鮮半島を経由して渡来した人で、「高向」とありますから、現在の大阪府河内長野市に在住していました。大化の改新の時に「国博士(くにのはかせ)」に任じられ、大和朝廷において国政に関与する地位にある人です。この玄理が、今回の遣唐使で最高位の人です。恵日(えにち)は、唐から来日した医療の心得がある仏僧で、第1回の遣唐使にも随行しています。『日本書紀』では、この第3次遣唐使の記事に続いて、これらの記事が伊吉博得(いきのはかとこ)という人の遺した文書によると述べて、さらに、玄理はそのまま唐で亡くなったこと、続いて、唐で亡くなった日本からの学僧たちや海で死んだ学僧たち、新羅の船で無事帰国した幸運な学僧のことが書かれています。
 実はこの年の前年に、孝徳天皇と国政を司る皇太子との間が不仲(ふなか)になり、皇太子とその随員たちは「飛鳥河辺行宮(あすかのかはらのかりみや)」に移り、天皇はこれを恨(うら)んで、「宮(みや)を山埼(やまさき)〔現在の京都の山崎〕に造らしめたまふ」とあります。
 天皇と皇太子との不仲の原因については、当時の朝鮮半島の情勢を知る必要があります。大和朝廷の大化の改新に先立つ640年頃から、唐が、朝鮮半島にその領有の版図を拡大しよとして、高句麗征服を目指したことから、半島の情勢が緊迫し始めます。唐は、太宗と高宗の二代にわたり、644年頃から大軍を送り、高句麗を征服しようとしますが失敗し、第3回目(666年)と第4回目(668年)の派兵によって、遂に高句麗が滅びます。唐と高句麗とのこの情勢が、新羅と百済と日本とに大きな影響を与えました。この間に半島では、高句麗と百済が新羅を侵し始め、百済は、日本と同盟を結んで、新羅から新羅南部の加羅諸族の領土を奪います。新羅は、唐と手を結んで、これに対抗します。唐と冊封関係を結んだ新羅は、今度は隣国の百済を侵し始め、百済は、唐と新羅の連合軍にによって滅ぼされ(660年)、高句麗も唐の攻撃で滅び(668年)、8世紀に入ると半島は新羅によって統一されます。
 『日本書紀』には、この時期に、百済と新羅だけでなく、高句麗からの使者が度度(たびたび)訪れたことが記録されていますから、朝廷は、唐と半島諸国の情勢を逐一把握していたと思われます。この時期、大和朝廷は、新羅と百済のどちらを援助するのかをめぐって緊張していました。こういう半島の情勢から見て、事は国の安全保障に直接関わるからです。もっとも、百済でも、新羅憎しの根強い部族心情を抱く豪族あり、反対に、密かに新羅に通じる勢力もあり、王権は、それらの諸豪族の勢力に上に成り立っていましたから、百済の実態も倭国とそれほど変わりません〔韓国映画「階伯(ケベク)」より〕。孝徳天皇は、遣唐使を派遣することで、新羅・唐との関係を深めようと図ったのでしょう。これに対して、皇太子のほうは、これまで通り、伝統的な親百済政策を保持しようとしたと思われます。唐の高宗は、遣唐使に対して、新羅を援助するよう求めたと思われますが、『日本書紀』には、この時の遣唐使と高宗との謁見がごく簡単に記されているだけで、新羅への援助のことには触れていません。玄理が唐で亡くなったこともあり、孝徳天皇の外交は挫折したのでしょう〔大津前掲書33頁〕。大和朝廷は、この時も、唐とは、軍事的にも政治的にも距離を置いて、朝貢関係のみに留め、唐との冊封関係に入ることをしなかったのです。
■4回目の遣唐使
 
『日本書紀』によれば、斉明5年(659年)の「秋七月(あきふみづき)」に、4回目の遣唐使が派遣されています。第四次の遣唐使は、「坂合部連石布(さかひべのむらじいはしき)」と「津守連吉祥(つもりのむらじきさ)」とあり、石布(いわしき)と吉祥(きさ)の二人が、それぞれ二艘の船で、現在の博多から出港して百済の南方の島に立ち寄り、そこから、二艘共に東シナ海へ出る航路を取っています。これは、当時、新羅と百済が戦争状態にあったからでしょう〔前掲書『日本書紀』(4)351頁(注)11〕。ところが、石布(いわしき)の船は、横波に流されて、「爾加委(にかい)」という島に流れ着いて、一行はそこの住民に殺されたとあります。しかし、5人だけは、「嶋人の船に盗み乗りて」、現在の上海の遙か南方の沿岸にたどり着き、そこから川に沿って現在の麗水に着いたので、そこの宦官が、彼らを洛陽(らくよう)まで送ったとあります。洛陽は唐の京(みやこ)の長安の東にあって「東京(ひがしのみやこ)」と呼ばれ、当時、高宗帝はそこに居ました。一方、石布一行の船も風に流されて、現在の杭州の南東にある紹興に着きました。
 『日本書紀』には、遣唐使と高宗との会見の様子が語られていて、皇帝が「日本国(やまとのくに)の天皇(すめらみこと)、平安(たひら)かにますや」と問い、また「国内(くにのうち)平(たひら)かなりや否(いな)や」と問い糾(ただ)しています。第四次の遣唐使に先立って、大和朝廷は、「阿部臣(あへのおみ)を遣わして、船師(ふないくさ)一百八十艘を率(ゐ)て、蝦夷国(えみしのくに)を討つ」とあります。北陸と津軽から北海道まで(?)を支配下に置こうとしたのでしょうか。遣唐使は、「蝦夷男女(えみしのおのこめのこ)二人を以(ゐ)て、唐(もろこし)の天子(みかど)に示(み)せたてまつる」とあり、皇帝は、二人を見て珍しがり、「蝦夷(えみし)」のことをいろいろ尋ねたと『日本書紀』にあります。
 白雉5年(654年)に孝徳天皇が没すると、その翌年(655年)に、孝徳天皇の姉であり、先の女帝皇極天皇が、重祚(じゅうそ)して、今度は斉明天皇として即位します(在位655年~661年)。斉明天皇は、続く天智、天武の両天皇の母です。蝦夷征伐と第四次遣唐使は、斉明5年(659年)のことになります。
 実は、大和朝廷の代替わりの654年に、半島では、高句麗と百済が連合して新羅の北部を侵略します。そこで新羅の武烈王は、王子を唐に派遣して救いを求め、これに応じた唐は、唐の蘇定方(そていほう)将軍に命じて、658年と659年の二度に渡って高句麗を討たせますが、高句麗の頑強な反抗に出逢って撃退されます。そこで唐は、行き詰まった高句麗征伐を打開するために、今度は新羅と組んで、高句麗の同盟関係にある百済を征伐することにします。660年に、蘇定方は、13万の兵と新羅の武烈王の軍5万とを併せて百済を攻撃し、百済の義慈王は、唐と新羅に降伏し、義慈王とその太子たちは、唐の洛陽へ引かれて行きます。遣唐使が高宗帝に謁見したのは658年ですから、皇帝は、この時すでに百済侵攻を計画していました。高宗帝は、遣唐使との謁見の終わりに、「国家(くに)、来(き)たらむ年に、必ず海東(わたのひむがし)の政(まつりごと)有らむ。汝等(いましたち)倭(わ)の客(まろうと)、東(ひむがし)に帰るを許さず」と述べています。「海東」とは、唐の東の朝鮮半島のことであり、「政」とは、出兵して征伐することですから、高宗は、遣唐使が、帰りに百済に立ち寄ることを許さなかったのです〔前掲『日本書紀』(4)427~428頁(補注)4を参照〕。
 ただし、百済のほうは、挙国一致して新羅とその背後にある唐との戦いを望んでいたわけではありません。百済の豪族の中には、新羅(と唐)との和解を通じて、全面対決を避けようとする一派もいて、この時期の百済の実情はきわめて複雑でした。しかし、新羅との全面的な対決を望む国王は、新羅との和解を拒否する部族意識の強い豪族と結び、新羅と唐の勢力に対抗するための手段として、倭との連合政策を打ち出さざるを得ませんでした。百済王は、唐と新羅に降伏します。しかし、百済の王権は、諸豪族の合議の上に成り立っていましたから、国王の降伏に承服できない百済の豪族の福信(ふくしん)、道?(どうちん)たちは、山城を築いてなおも抵抗を続け、唐の蘇定方と新羅の武烈王の唐・新羅軍を襲います。661年に、新羅は大兵力で鎮圧しようとしますが、戦線は膠着状態が続きます。唐は、再び高句麗征伐を開始して、新羅にも高句麗への出兵を命じます。その間に、百済の福信は、大和朝廷に百済の王子豊璋(プヨプン)の帰還と日本からの援軍を求めてきます(661年)。彼らは、当時日本に人質となっていた豊璋を迎えて王に立て、百済の多くの残存勢力もこれに呼応して、泗耕(しひ)城(扶余)などに駐屯する唐軍を包囲して唐・新羅軍を苦しめました〔平凡社『世界百科大事典』木村誠〕。662年に、唐は高句麗征伐をあきらめたので、新羅軍も帰国しました。663年に、新羅の武将欽純(きんじゅん)と天存(てんそん)らは、百済の城を襲って多数の斬首を行ない、このために、百済軍と日本の援軍は、後退を余儀なくされます。新羅は、唐からの援軍を得て、さらに攻撃を続けます。この間に、百済軍の間に内紛が生じて、福信は豊璋に殺されるという事件が起こり、百済の復興軍の勢力は弱まります。同じ663年に、唐・新羅軍の総攻撃の前に周留城は陥落します。次いで、日本の軍船と唐・新羅の軍船との間で白村江で海戦が行なわれ、日本の艦隊は全滅しました。『日本書紀』に、「官軍敗続(みいくさやぶ)れぬ。水(みず)に赴(おもぶ)きて溺(おぼれ)れ死ぬる者衆(おほ)し。艫舳廻船(へともめぐら)すこと得ず」とあります。その後も百済の抵抗が続きますが、豊璋も逃亡して百済の復興は挫折しました〔前掲『日本書紀』(4)430~432頁(補注)9〕。日本が百済に援軍を送ったのは、当時の大和朝廷が、大陸と半島の情勢を読み取って、羅唐同盟が百済を滅ぼした後には、高句麗への侵攻が予定されており、「その次は倭国へ」という読みがあったと思われます。「幸いにして」、羅唐関係はそれほど緊密ではなく、新羅の朝廷内では、親唐派と反唐派の確執が続いていましたから、百済と高句麗の敗北以後も、羅唐関係は不安定で、両者の抗争が続くことになります〔韓国映画「大王の夢」〕〔大津前掲書49~50頁〕。百済の王室が降伏した後も、なお頑強な抵抗が百済で続いていたのは、唐が百済を属国にしたからだという理由では説明できません。百済の抵抗勢力を背後で支える高句麗の政策があったことが知られています。それだけでなく、新羅の朝廷さえも親唐派と反唐派に別れていたという複雑な事情があります。新羅自体も羅唐同盟に背くなら、百済と同様の運命をたどる危険性があったと思われます。大和朝廷は、大陸と半島のこういう複雑な軍事的・政治的情勢を「読み誤った」と言うのは容易ですが、事ほそれほど単純ではなかったのです。
 高句麗に関しては、孝徳天皇の大化元年に、高句麗からの使者を応対した巨勢徳太臣(こせのとこだのおみ)は、「天皇(すめらみこと)の遣(つか)わす使(つかひ)と、高麗(こま)の神(かみ)の子(こ)の奉遣(まだ)せる使(つかひ)と、既往短(いにしかたみじか)くして、将来長(くるかたなが)けむ」と述べています。高句麗王を「神の子」と呼んだのは、建国の祖とされる朱蒙(ちゅもん)が天の神から三種の神器を授かったという伝説があり、これが大和朝廷にも伝わっていて、高句麗と大和とを同類と見なしていたのでしょう。大和朝廷は、高句麗の健闘振りと百済の諸豪族の意気盛んな状態を目の当たりにして、あえて唐に逆らって、百済へ援軍を派遣したと思われます。その結果、海戦で大敗北を喫(きっ)しますが、この戦いは、以後の日本の対外政策に大きな影響を及ぼしたと言えますが、それ以上に、倭国日本が、百済に援軍を送ったのは、当時それだけ多くの移民が百済から渡来していたこととも関わっています。派遣された倭国軍には、渡来の百済氏族たちが多数居たのは確かです。しかし、大陸と半島から学び取った文明による国力を過信して、時期を失しているにもかかわらず、百済復興軍を派遣したこと、一方で、対照的に、羅唐同盟からの危機にもかかわらず、百済と倭の連合を背後で支えることを「しなかった」高句麗の政策と、これらにおいて、白村江の戦いは、以後の東アジアの歴史に大きな影響を及ぼすことになります。あえて言いえば、倭国日本は、国力を過信してアメリカの国力とその軍備の力を見誤った昭和初期の日本の軍部と同じ読み違いを犯したのです。
■5回目の遣唐使
 
天智天皇は、その皇太子の時代に、通称「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」と呼ばれています。中大兄皇子の父は舒明天皇で、母は皇極(=斉明)天皇です。中大兄皇子は、斉明天皇の時の皇太子です。『日本書紀』には、斉明7年(661年)に、百済救援に向かう途中で斉明天皇が没すると、皇太子が「称制(まつりごときこしめ)す」とあります。「称制」とは、正式に即位せずに、麻の衣を着て政務を摂(と)ることです〔前掲『日本書紀』(5)17頁(注)10〕。『日本書紀』では、斉明7年の翌年(662年)を「元年(はじめのとし)」としていますが、天智天皇は、661年~668年までは、摂政のまま国政を担いましたから、天智天皇としての正式の在位は668~671年です。
 『日本書紀』には、天智元年(662年)の「五月(さつき)に」、大和朝廷は、豊璋(ほうしょう)と共に「船師(ふないくさ)一百七十艘」を百済に派遣し、豊璋と福信(ふくしん)は大いに感激したとあります。しかし、その「夏五月(なつさつき)」には福信が罪を犯したとあり、六月(みなつき)に豊璋と福信とが対立し、「秋八月(あきはづき)」には、「白村江 (はくすきのえ)」での戦いでの日本の船団の大敗北が記されています(実際は663年のこと)。
 天智4年(665年)の「秋八月(あきはづき)」に、半島から逃れてきた多数の「百済人(くだらびと)」に田を賜わったとあります。しかも、同年の九月(ながつき)には、唐から、使者として劉徳高(りゅうとくこう)が来日し、歓待を受けています。『日本書紀』には、「是歳(ことし)、小錦守君大石等(しょうきんもりのきみおおいわら)を大唐(もろこし)に遣わすと、云々(しかしかいう)」とあり、これが5回目の遣唐使になります。
 大津透氏の『律令国家と隋唐文明』によれば、唐の高宗は、白村江で勝利(663年)した後に、666年に山東省の泰山(たいざん)で、封禅(ほうぜん)の儀を執り行なうことを予告して、その旨を劉徳高(りゅうとくこう)を遣わして大和朝廷へ通告してきたと考えられます。「封禅」とは、天子自らが、盛り土の壇上で天を祀る儀式のことで、国威を発揚するための希な儀式だったようです。この泰山封禅には、百済、新羅、高句麗から、王の弟や王子などが参列していますから、倭国からは、百済救援軍の大将であった大石(おおいわ)が参列したのです。倭国は、唐と冊封関係に入らない代わりに朝貢することで、唐に恭順(きょうじゅん)の意を表わしたのでしょう〔前掲書39~41頁〕。
■6回目の遣唐使
 
『日本書紀』によれば、天智8年(669年)に「是歳(ことし)、小錦中河内直鯨等(せうきむちうかふちのあたひくじらら)を遣(つかわ)して、大唐(もろこし)に使(つかひ)せしむ」とあり、これが、6回目の遣唐使になります。唐の京(みやこ)への到着は翌年(670年)です。ところが、この遣唐使にすぐ続いて、「又大唐(またもろこし)、郭務?等(くわくむそうら)二千余人(ふぁたちたりあまり)を遣(まだ)せり」とあります。これだと遣唐使と唐からの使いとが入れ違いになります。実は、天智10年(671年)に、対馬の国造(くにのみこともち)から筑紫(九州)の太宰府に使者が来て、その伝言の中に、「唐(もろこし)より来たりて曰(まう)さく、『唐国(もろこし)の使人郭務?等(つかひくわくむそうら)六百人(むももたり)、送使沙宅孫登等(おくるつかひさたくそんとうら)一千四百人(ちあまりよほたり)、総合(す)べて二千人(ふたちたり)、船四十七隻(ふねよそあまりななふな)に乗りて、倶(とも)に泊まりて、相謂(あひかた)りて曰はく、今吾輩(いまわれら)が人船、数衆(かずおほ)し。忽然(たちまち)に彼(かしこ)に到らば、恐るらくは彼(か)の防人(さきもり)、驚き駭(とよ)みて射戦(いたたか)はむといふ。云々』」とあります(郭務?は先に百済の鎮守府の長として唐から派遣されています)。だから、天智8年の唐の使いの記事は、天智10年の使いとの重複ではないかと考えられます〔前掲『日本書紀』(5)53頁(注)8〕。
 天智8年の第六次の遣唐使に戻りますと、その前年(667年)に、新羅と唐の連合軍が、ついに高句麗を滅ぼします。今回の遣唐使は、この勝利を祝うことで、唐への恭順を表わすための使いだったのです〔大津前掲書41頁〕。これ以後、遣唐使は、しばらく途絶えます。2年後に、唐から郭務?が太宰府へ派遣されますが、これは今回の遣唐使への返礼(?)だったのでしょうか。これがあまりの大軍団だったために、逆に大和朝廷のほうは緊張したようです。
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