38章 手の萎えた人の癒やし
マルコ3章1〜6節/ルカ6章6〜11節/マタイ12章9〜14節
【聖句】
■マルコ3章
1イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。
2人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。
3イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。
4そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。
5そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。
6ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、
どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。
■ルカ6章
6また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。
そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。
7律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、
イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。
8イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。
その人は身を起こして立った。
9そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。
命を救うことか、滅ぼすことか。」
10 そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。
言われたようにすると、手は元どおりになった。
11ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。
■マタイ12章
9イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。
10すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、
「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。
11そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、
手で引き上げてやらない者がいるだろうか。
12人間は羊よりもはるかに大切なものだ。
だから、安息日に善いことをするのは許されている。」
13そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。
14ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。
今回は、一連の安息日問題の締めくくりになるところです。ここでの癒しは、ファリサイ派の人たちが言うような狭い律法主義に立つのではなく、安息日でも隣人に愛を行なうことが大切だと教える場面です。ここで、イエス様は、わざと安息日の律法を破って、律法主義的な人たちに挑戦しておられる。こうすることで、福音と律法との違いをはっきりさせようとしておられる。このように受け取られているようです。それはそれで間違いではありませんが、それだけでは、ここでの癒しの出来事とイエス様の言われていることをほんとうの意味でとらえているとは言えません。もっと深いところからとらえてほしいのです。
イエス様は決して旧約聖書の律法を無視したり、ユダヤ教の指導者たちを意図的に挑発しているのではありません。三つの福音書を注意して読めば、そのようなことを言っていません。イエス様が律法に違反したとか、律法を無視しているという解釈は、表面的で、深い洞察ではないと言えます。そうではなく、イエス様は、律法の根源へさかのぼって、神様がお与えになった律法のほんらいの意義を提示してくださるのです。
創世記1章1節〜2章3節の安息日までで語られる創造する神、「命を創り出す」その御業こそ、神様が定めてくださった律法の真義です。イエス様による癒しは、このことを証しする「しるし」として生じるのです。「命を救うこと」と「善いこと」は安息日にふさわしい。決して難しいことではない。健康で、幸いで、喜びと命にあふれる生き方。これが、神様がくださった休息の日であり、安息日ほんらいの意義です。ところが、神様がくださる単純で「善いもの」を人間はややこしくて歪めてしまう。命を救うことが命を殺すことに転じてしまうのです。創世記の安息日は、神様の創造と結び付いています。命の御霊は創造する御霊です。生きて働く神様の御霊です。
イエス様は、口先だけではない。創造の御業を現実に起こされる。ほんとうの<神様の法>に従っておられる。これを邪魔しているのが、人間がこしらえらた安息日の細々した規定です。これらを押しつける学者やファリサイ派たち宗教的指導者です。彼らのほうが、人を「殺す」「悪いこと」をしている。イエス様は人を「生かし」「救う」「善い業」をされているのです。ここでは、律法制度の上辺(うわべ)と裏の真実とがちょうど反対に見えます。イエス様は律法に違反している。宗教の指導層はこう主張し、人々もそのように思いこんでいます。ところが真実は逆です。律法を現実に守り、神様の御心に従って「実行している」のはイエス様のほうです。口先では「いいこと」を言いながら、自分はそれを「現実」できない。律法の実現を律法を守れと指導する当人たちが妨げるのです! だから、彼らこそ、最悪の律法違反者です。だからイエス様は「憤った」。だから彼らは、イエス様を「殺そう」と謀るのです。イエス様が提起しておられる問題は、「彼らの」律法に照らして、どこまでが「許されるのか、許されないのか」ではありません。神様の創造の御霊の働きが、どこまで「許されるか」などと、そんなおかしな「律法制度」を根本からひっくりかえされた。これが創造する神様のなさることです。神様の御霊は、命を造り出す創造の御業を実現します。これがそのまま「律法制度への批判」になる。最大の批判は、言葉による非難ではない。最大の批判は、新たに創造する現実の出来事です。
■「しるし」としての御言葉
イエス様は、人々の心が頑(かたく)なだと嘆かれています。どうして彼らの心は頑なになったのでしょうか? ユダヤの民は、神様を知っています。聖書の御言葉も知っています。それなのにどうして心が頑なになったのか。それはユダヤ人のことであって、わたしたちクリスチャンのことではない。こう考える人がいるとすれば、とんでもない誤解です。ではどうして、彼らの心がそんなに頑なになったのでしょう。安息日の教え、創世記の2章の初めに出てくる安息日律法と、モーセの十戒の第四番目(出エジプト記20章8節)です、この教えを彼らが正しく受けとめることができなかった。どうして正しく受けとめることができなかったのか? 創世記2章もモーセの十戒も、神様のお心を「指し示す」ことが理解できなかったからです。これらは、御心を示す「しるし」です。「しるし」は「道しるべ」です。聖書の御言葉は、神様のお心を示す道標です。道標は目的地ではありません。道標と目的地との間には、長い距離がある。だから道標を見ただけで安心してはいけない。それは行く先を示す「しるし」ですから。「しるし」の側で安住していては、いつまでたっても目的地へは行けません。灯台の燈火を見た船が、その合図のしるしを目的地だと間違えて、その方向へ向かったら、船は灯台と衝突します。しるしは、指し示す<方向に目を向けさせる>ためにあるのです。
神様が何を望んでおられるのか、神様の御心を深く知ることが大事です。これが<御霊の導き>です。だから、わたしたちは、聖書を読む時に聖霊の導きを求めて祈るのです。学問的な勉強もいいです。でも、いくら道標を確かめても、それが「指し示している」方向を的確にとらえて、その方向へ<歩き出す>。これをしなければ、せっかくの道標も意味がありません。ヨハネ9章で、イエス様は、盲人の目を開けた奇跡の最後に、締めくくりとして、「上辺で人を裁かない(判断しない)で、正しい裁き(判断)をしなさい」と言われたのはこの意味です。
聖書の御言葉を読む場合、人によって様々に解釈の開きがあります。当然です。それぞれが、自分に与えられたところに従って読めばいいのです。だからイエス様は、神の御国をたとえでお語りになった。聞く人それぞれに応じて、聞き分け、洞察するためです。傲慢な人は、自分こそが正しいと思い上がるだけで、せっかくの御言葉が心に届かない。
今回の癒しも、ファリサイ派が正しく受けとめることができなかった。安息日律法の字義的な「言葉だけ」にとらわれていたからです。聖書の御言葉は、霊的なことを指し示しているのに、書かれている文字だけに目を奪われると、大事なことを見失います。安息日を守りなさいと書いてあるから、これを絶対化して律法化すると、いろいろと細かな規則を作る。それをみんなに厳しく守らせようとする。その結果、あれもしてはいけない、これもしてはいけないことになります。一生懸命にやることが、逆に人を縛って、人の生き方を殺す結果になってしまう。これは宗教だけではありませんが、ここでは宗教と律法が問題です。だから、パウロは、書かれてある言葉の字義にとらわれると、その言葉が指し示す霊的な世界を見失っ、神様の御心とは逆のことをしてしまうから怖いと言います。「文字は殺し、霊は生かす」とパウロは言うのです(第二コリント3章6節)。聖書の言葉それ自体を人間的な思いから絶対化してはいけません。それは御霊が働くための御言葉です。人間の言葉であることに変わりはありませんが、常に祈りながら、その根源的なところから読んでください。御霊は、人を生かす命の御霊です。そこのところから読んでください。