【注釈】
■十二使徒の選び
マタイは十二使徒の選びと彼らの派遣を一つながりにして語りながら(10章)、これに伝道のためのイエスの教えを続けています。イエスは先ず、悪霊追放と病気の癒しの権能を弟子たちに与えます。「イエスに見習う」ためです。しかし弟子たちが選ばれた理由は一切語られません。イエスのお心だけから出たことだからです。マルコ福音書の場合は、先ず4人の召命があり(1章16〜20節)、次に十二弟子の選びがあり(3章13節以下)、次に十二人の派遣があって(6章6節以下)、それぞれが、イエスの伝道活動の新たな出発として語られます。ルカ福音書では、マルコ福音書に準じて、4人の召命があり(5章1節以下)、十二人の選びがあり(6章12節以下)、十二人の派遣があります(9章1節以下)。ところがルカ福音書では、これに加えて、72人の派遣が語られています(10章1節以下)。
ルカ福音書の場合、使徒の選びは、続くイエスの教えの大事な「序の部分」なのです。ルカ福音書のリストは、マタイ福音書やマルコ福音書のとは異なるところがありますので、ルカは別の伝承を持っていたのかもしれません。このように、師のもとにいる弟子たちの名前を列挙するのは、ヘレニズム時代でよく用いられる手法でした。以下では、マルコ福音書のリストに順じて、共観福音書全体を見ていくことにします。
おそらくマルコの手元には、弟子たちの召命(13〜14節)と十二人のリスト(16後半〜19節)の二つの伝承があったのでしょう。マルコはこれをひとつにして、15節と16節前半とを編集のために加えたと考えられます。この十二人の選びに続いて、イエスの家族の無理解な振舞いと律法学者たちのおぞましい非難が語られます。イエスの「心にかなう人たち」(13節)、その中からさらに選ばれる弟子たち、イエスに批判的な家族、敵対する者たち、このようにイエスをめぐって様々な人たちが登場します。しかも、これらの前後には(3章7〜12節と4章1節)、大勢の群衆が控えています。マルコはこういう状況の中に十二人の選びとその名前のリストを置いているのです。
■マルコ3章
[13]【山に登って】先にイエスは大勢の群衆と海辺にいましたが、ここでは弟子たちだけと山に登ります。群衆と十二人の選びとが対照して描かれているのです。ガリラヤ湖の西岸の町ティベリアスの北方に、ハッティーン丘陵地帯の突端があって、そこにはマルコ3章13節を刻んだ碑文が現在建っています。ただしこの場所は推定に基づくものです。
【これと思う人々】原文は「イエス自身が望んだ人たち」です。群衆と区別してイエスが選んだ弟子たちのことです。彼らの中から、さらにその中核となる12名が選ばれます。イエスは、巡回伝道をしていましたから、十二弟子を中心にしたこれらの「弟子たち」が、イエスと行動を共にしていたのです。これら男性のほかに、女性たちも行動を共にして奉仕をしていました(マルコ15章41節)。マルコはこのように、イエスを中心にして、「内」の人と「外」の人とを区別しています。
[14]【十二人を任命し】十二人は、例えば、共に小舟に乗るなど、常にイエスと行動を共にできた人たちの数を表わす意味もあります。「12」にはイスラエルの12部族の数も関係していると言われていますが、こういう象徴的な意味は、マタイ(19章28節)やルカ(22章30節)では、はっきりと語られていますが、マルコには表わされていません。なお「任命する」の原語は「つくる」「(人を)立てる/用いる」です。この言い方は、七十人訳から出ていて、ヘブライ的な意味で「神がモーセをつくる/用いる/任命する」(サムエル記上12章6節)のように用いられています。
【使徒と名付けられた】「使徒」は「遣わす」という動詞から出た称号です。この呼び方は、ルカ福音書と使徒言行録にはしばしば出てきますが、マルコ福音書では、ここと6章30節だけで(ただしそこでは「使徒」という称号よりも「遣わされた者たち」の意味に用いられていると言えましょう)、マタイ福音書でも10章2節だけです。「使徒」という言葉は、キリスト教会以前にはあまり用いられませんでした。ヘブライ語の語源では「手を伸ばす」「延長する」の動詞から、王などが全権を与えて派遣する場合に用いられました。これは旧約で、神が預言者たちを遣わす場合に相当します。しかし「使徒」の資格が具体的にどのような条件かを決めるのは難しいようです(例えばパウロの場合のように必ずしも生前のイエスと共に過ごした者とは限りません)。マルコ福音書の「使徒」の原文がルカ6章13節と全く同じなので、ルカ福音書から採って後でここへ挿入したのではないかとも考えられます。しかし「使徒」は、マルコ6章にもマタイ福音書にも出てきますので、『新約聖書原典テキスト』では、マルコ福音書のこの部分を〔 〕に入れています。
【自分のそばに置く】原文は「自分と共にいる」で、これは巡回しながらイエスと行動を共にすることです。その時々に、それぞれの所で集まる大勢の群衆とこの弟子たちとが、はっきり区別されているのです。
【派遣して宣教させ】十二人を選んだ目的は、「宣教し悪霊を追い出す権能」を与えて「遣わす」ためです。ただし、弟子たちがこれを実際に行なうのは6章7節以後です。それまでは「訓練」の期間だったのでしょうか。「宣教」と「悪霊追放」は、イエスの自身の伝道と同じで、いわばイエスの伝道の延長です。ただし、マタイでは含まれている「病気の癒し」がマルコでは抜けているのが不思議です(15節)。マルコはこれも「悪霊追放」に含めているのでしょうか。
[16]【十二人を任命された】この文は、14節の始めと同じなので、誤って重複して写されたのではないかとも考えられますが、ここはそうではなく、以下の十二人の名前を続けるために、もう一度繰り返したのです。だから「十二人<を>立てた、ヤコブ<を>、ヨハネ<を>・・・」のようにつながります。『新約聖書原典テキスト』では〔 〕に入れてあります。
【シモンにはペトロという名をつけた】この部分だけが独立していますから、これの前後と構文的にうまくつながりません。「名を付けた」とありますが、原語は英語のepithetの語源になりますから、(1)「ペトロ(石/岩)のようなシモン」「雷のようなゼベダイ兄弟」という意味にもなります。(2)「ペトロ」があだ名だとすれば、「シモン」という本名の代わりに「石/岩」とニックネームで呼んだことになります。(3)ヘブライでは、神によって召し出された時に、アブラム→アブラハム、ヤコブ→イスラエルのように、全く新しい名前を神から戴く伝統があります。これはあだ名ではなく、「新しい名前」です。キリスト教会では、伝統的に「ペトロ」を(2)あるいは(3)の意味で扱ってきました。だからイエスがシモンに「岩」というあだ名を付けたとも考えられています。マタイは、イエスがシモンに「ペトロ」という名をつけた理由を伝えています(マタイ16章16〜19節)。「この<岩>の上にわたしの教会を建てる」というここでのイエスの言葉が、カトリックの本山であるヴァティカンの聖ペトロ大聖堂が、ペトロの墓の上に建てられているという根拠になっているのはここから出ています。
したがって、キリストのこの第一弟子には、大きく三つの名前があります。(1)ヘブライ名「シモン」(正しくは「シメオン」)。(2)アラム語で「石」を意味する「ケファ」。これはイエスが実際に遣った呼び名でしょうか。(3)ギリシア語で「岩」を意味する「ペトロ」。この三種類です。
マタイは、始め「ペトロと呼ばれるシモン」という言い方をしていますが、マタイ16章でイエスが「ペトロ」と名付けてからは、一貫して「ペトロ」と呼んでいます。マルコ福音書も始め「シモン」と呼んでいますが、ここ十二人の選びの時から、一貫して「ペトロ」と呼んでいます。ところが、イエスは、彼を「シモン」と呼んでいる箇所があります(マルコ14章37節)。ルカは、始め「シモン」と呼んでいます(5章8節では「シモン・ペトロ」)。8章45節からは「ペトロ」に変わります。使徒言行録では一貫して「ペトロ」です。ルカ福音書と使徒言行録には、「熱心党のシモン」「ファリサイ派シモン」「キュレネ人シモン」「魔術師シモン」などが出てきますから、これらとの混同を避けるためでもあるでしょう。しかし、ルカはなによりも、イエスの第一弟子である「ペトロ」が、教会の土台となる「礎石」であることをはっきりと示したかったのだと思います。ところがルカ福音書でも、イエスは彼を「シモン」(22章31節)とも「ペトロ」(22章34)とも呼んでいます。ここでのイエスの「シモン」と「ペトロ」との両方の呼び方が注目を惹きます。ヨハネ福音書では「シモン・ペトロ」が多く、「ペトロ」も出てきます。ただ、イエスは彼を「ケファ」と呼ぶことにするとあります(1章42節)。パウロはほとんどの場合「ケファ」です。ただしガラテヤ人への手紙では、異邦人キリスト教徒を念頭において「ペトロ」を用いるところがあります(ガラテヤ2章7〜8節)。
マルコ福音書のここでは、マタイ福音書やヨハネ福音書のように、なぜ「ペトロ」と呼ぶのかその由来が語られていません。構文的にもつながりませんので、「最初にペトロを」という句を挿入した写本がありますが、これは後からの編集です。おそらくこの3章16節では、マルコは、弟子たちの名前のリストの伝承をそのまま変更せずに用いていると思われます。ペトロだけ最初に出てきて、文が独立しているのは、マルコを含めて読者の間で、ペトロがイエスの第一弟子であることが知られていたからでしょう。マタイ福音書やヨハネ福音書の場合とは異なって、マルコは、「ペトロ」という名前の由来よりも、むしろ十二弟子の選びの場で、イエスがシモンに「新しい名前」を与えたことだけを語っているのです。イエスが彼を「シモン」と呼んでいたとすれば、「ペトロ」という呼び方は、もとは「ケファ(石)のようなシメオン」という意味だったのかもしれません。これが基になって、イエスの復活後の教会において、マタイ16〜19節のような伝承となったとも考えられます。
[17]【ボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」】ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネについては、先の召命の場面ですでに出てきました(マルコ1章19節)。このヤコブは、同名のほかの使徒と区別するために「大ヤコブ」と呼ばれています。この人と、「主の兄弟」と言われていて、同時に「義人ヤコブ」とも呼ばれる人と混同しないでください。またヤコブの兄弟ヨハネのほうは、ヨハネ福音書の著者であるという伝承があります。しかしこれは、現在では否定されています。ただし、ヨハネ福音書を生み出したヨハネ共同体とこの使徒とはつながりがあるのかもしれません。このリストでは、「雷の子ら」という呼び名が、兄弟一緒につけられています。しかし「ペトロ」と違って、「雷の子ら」は、ここだけで、ほかには出てきません。また「ボアネルゲス」がヘブライ=アラム語の「雷の子ら」(ブネ-ラーガム)の原語の発音とうまく一致しないところもあって、マルコもこの呼び名のほんらいの由来を知らなかったと考えられます。「ラーガム・雷」のほかに「ラガシュ」というヘブライ語があって、これも「騒動」「振動」「地震」などの意味がありますので、こちらの方がギリシア名の発音に近いのですが、確かなことは分かりません。この二人は、イエスの名前で悪霊を追い出している者が、イエスに従わないと怒ったり(マルコ9章38節)、サマリアの人たちがイエスを歓迎しなかったので、ふたりが「天からの火で焼いてしまおう」と言ったりしていますから(ルカ9章54節)、この辺から出た呼び名だと思われます。以上の3人だけ呼び名が出ているのは、この3人が、十二人の中でも特に中心的な立場にいたからです。
[18]【アンデレ】「アンデレ」とは「勇気」を意味するギリシア名で、紀元前3世紀頃からユダヤ人の間で一般に用いられました。彼はペトロの兄弟でベトサイダの出身です。共観福音書では、ペトロたちと共に漁をしていてイエスの召命を受けて、十二人の中で四番目にその名前が出てきます。また、アンデレを加えた4人がイエスに質問しています(マルコ13章3節)。しかし共観福音書ではそれ以上なにも語られていません。以後のキリストの教会では、「ペトロとヤコブとヨハネ」が教会の中心的な存在とされていたので、この使徒のリストでは3人から区別されているようです。ヨハネ福音書では、彼は洗礼者ヨハネの弟子で、最初にイエスの弟子になりペトロをイエスのもとへ連れてきます(1章44節)。また5000人への供食では、イエスにパンと魚のことを伝えるのがアンデレです。彼はフィリポと共にギリシア人をイエスに紹介しようとしています。トゥールのグレゴリウス(538〜594年)が著わした『祝福された使徒アンデレの奇跡』(別名『アンデレ行伝』)によれば、彼はアカイア(現在のギリシア)から、マケドニア、ガラテヤ、カパドキア(現在のトルコ)の地域で伝道しました。しかしアカイア州のパトラエでローマの総督によってX形の十字架(「聖アンデレの十字架」と呼ばれています)にかかって殉教したと伝えられています。この使徒は、スコットランドの守護聖人で、そこにはゴルフの発祥地として有名なセント・アンドリュースの町があります。アンデレはギリシアとの関わりが深いので、パトラエで殉教したアンデレとローマで殉教したペトロとが兄弟であることから、ギリシア正教とローマカトリックは、姉妹関係にあるとされてきました〔Pope
Benedict XVI. The Apostles.
63〕。
【フィリポ】アンデレと同じくギリシア名で、彼はペトロやアンデレと同じベトサイダの出身です。共観福音書では、十二人のリストに名前が出てくるだけです(1章43節/6章5節/12章21節)。アレクサンドリアのクレメンスという神学者(150〜215年頃)は、マタイ8章21〜22節とルカ9章59節に出てくる「弟子」は、フィリポのことだと伝えています。
ただし、使徒フィリポと使徒言行録6章5節に出てくる伝道者フィリポとは別人です。ところが、1世紀の終わり頃に使徒たちの証しを伝えたパピアス(60〜130年頃)やエフェソのポリクラテスは、使徒と伝道者とを混同して、使徒フィリポをサマリアで伝道したフィリポと同一視しています。どちらのフィリポもギリシア人などの異邦人への伝道に貢献したと伝えられているからでしょうか。なお、ナグハマディ文書群の中に『フィリポによる福音書』(2世紀後半の作?)がありますが、これはヴァレンティノス派のグノーシス主義者の著作で、使徒とは関係ありません。
【バルトロマイ】「タルマイの子孫」という意味です。ですからこれは呼び名ではなく部族名とも考えられます(ヨシュア15章14節/サムエル記下3章3節参照)。もしもそうだとすれば、この使徒の名前はなんだろう? という問題が生じます。このことから、バルトロマイをヨハネ福音書に出てくるナタナエルと同一視する伝承が生まれました。使徒バルトロマイは、共観福音書の使徒名のリストに出てくるだけです。いっぽうナタナエルは、ヨハネ福音書に出てくるだけです。ナタナエルは、フィリポを通じてイエスのところへ来て、イエスから「もっと偉大なことをあなたは見る」と告げられますから(ヨハネ1章45節以下)、彼もフィリポと共に使徒と認められたと考えられます(ヨハネ21章2節では彼は使徒たちの仲間です)。ヨハネ福音書によれば、彼はガリラヤのカナの出身です。使徒たちが、二人以上のペアで語られることが多いので、使徒のリストで、フィリポの次にバルトロマイが来るのは、このふたりがペアと見なされたとも考えられます。もしもこの推定が正しければ、この使徒の名前は「ナタナエル バルトロマイ」(タルマイの子孫のナタナエル)となるでしょう。ヨハネ福音書によれば、この使徒は、イエスがイスラエルのメシアであることを最初に証ししたことになります。ただしこの推定に対しては、「バルトロマイ」は部族名ではなく本人の名前ではないか? などの反論もあります。バルトロマイ伝承に基づいて、3世紀から4世紀にかけて、『バルトロマイによる福音書』(現在残っていません)や『バルトロマイによるイエス・キリストの復活の書』などがギリシア語で書かれました。
【マタイ】マルコ福音書とルカ福音書では「マタイ」とあり、マタイ福音書では「徴税人のマタイ」となっています。「徴税人」とあるのは、彼がイエスから召命を受けるまでは収税所にいたからです(マタイ9章9節)。ただし、マルコ福音書では、収税所にいたのは「アルファイの子レビ」(マルコ2章14節)であり、ルカ福音書では「レビという徴税人」(ルカ5章27節)とあります。ですから、教会の伝承では、アルファイの子レビが、イエスの召命を受けて使徒とされた時に、「罪人を招く」神の恵みを覚えるために、「マタイ(神の賜)」という名前をイエスから与えられたとされています。マタイ福音書の記者は、この福音書の著者が、この徴税人(マタイ)であることをイエスの召命と使徒のリストとによって示唆しているのかもしれません。
けれども、「シモン」が「ペトロ」へと名を変えた場合のように、「レビ」から「マタイ」に名前が変わったことは、四福音書のどこにも出てきません。ペトロの場合は、同じ福音書の中で名前が変わったことが記されていますが、収税所にいた人の名前は、「マタイ」(マタイ福音書)、「アルファイの子レビ」(マルコ福音書)、「レビという徴税人」(ルカ福音書)と福音書によってまちまちですから、同一人の名前が途中で変えられたことにはなりません。さらに問題なのは、マルコ福音書では、「アルファイの子レビ」(3章14節)の代わりに「アルファイの子ヤコブ」という読み方もあることです。
もしも使徒のリストの「マタイ」が、この徴税人でなかったとすれば、しかも、もしもこの徴税人が、イエスの召命を受けて使徒になったとすれば、「13人目の使徒レビ」が存在したことになります。この矛盾を避けるために、マタイ福音書の記者は、収税所の「レビ」を「マタイ」に変えて、使徒名を「徴税人のマタイ」として一致させたのでしょう。いっぽうマルコ福音書では、「マタイ」とだけありますが、この使徒が、収税所の「アルファイの子レビ」と同一かどうかは語られていません。もしも同一でなかったとすれば、マルコ福音書の著者は、アルファイの子レビが、使徒ではなかったと考えていたことにもなります(後のオリゲネスもそう考えました)。この問題を避けるためでしょうかに、マルコ福音書では、「アルファイの子レビ」とあるのが「アルファイの子ヤコブ」へと変更された形跡があります。これによって、同名の使徒と一致させようとしたのでしょう。またルカのほうは、収税所の「レビ」から「アルファイの子」を省いています。おそらく使徒の「アルファイの子のヤコブ」との混同を避けるためでしょう。ルカは、収税所の「レビ」が、使徒とされて「マタイ」に名を変えたと考えたのでしょうか。イエスの当時のパレスチナのユダヤ人は、ヘブライ名とギリシア名を合わせ待つことが珍しくなく、さらに、「ヨセフ・カイヤファ」「シモン・ケファ」のように、二つのヘブライ名を持つ場合もありえました。イエスを信じた際に洗礼名「マタイ」が与えられたとも考えられます。この場合、「レビ・マタイ」という名前もありえたことになりますから、使徒マタイと徴税人レビは同一人物になります。もっとも現代では、二人が同一人物であることを否定する説もあります。
マタイ福音書の著者については、使徒マタイが「ヘブライ語で」(アラム語のこと)福音書を著わしたという証言がパピアスによってなされていて、エウセビオスも『教会史』で同様の証言を紹介しています。しかし、これらの証言と立派なギリシア語で書かれた現在のマタイ福音書とでは、文体やその神学的思想などから判断して、あまりに違いすぎるので、使徒マタイによるマタイ福音書著作説は現在では否定されています。マタイ福音書の著者問題と使徒マタイとは関連しますが、著者問題は複雑なので、使徒マタイの名前とひとまず切り離して考えるほうがいいでしょう。
【トマス】共観福音書と使徒言行録では、十二使徒のリストに名前が出てくるだけです。マタイ福音書では「トマスと徴税人のマタイ」として二人がペアになっています。トマスが使徒としての働きをするのはヨハネ福音書においてで、ここでは「ディドモと呼ばれるトマス」とあります。「ディドモ」はギリシア語で双子のことですが、ヨハネ福音書にはそのことについての理由は語られていません。トマスは、ラザロの復活の前に、イエスと共にユダヤへ行こうと、決死の覚悟を示します(ヨハネ11章16節)。彼はイエスが十字架にかかる前の夜に、「主よ、どこへ行かれるのですか?」と尋ねます(14章5節)。また弟子たちが、最初のイエスの復活顕現に接した際に、たまたま居合わせませんでした。このために疑いを抱いたところ、再度の顕現に接して、「わたしの主よ、わたしの神よ」と告白します(20章28節)。また彼は、ガリラヤのティベリアス湖畔で、ペトロたちと親しくイエスの顕現に接します(21章2節)。
トマスに関しては、『トマス福音書』があります。この福音書は、ナグ・ハマディの文書群の中で初めて、全貌が明らかになりました(1945年)。『トマス福音書』は、「ディドモ・ユダ・トマスが書き留めた秘密の言葉」で始まり、イエスの語られた言葉と、それにペトロやマグダラのマリアとイエスとの問答などが語られています。この福音書が書かれたのは、共観福音書やヨハネ福音書と同じ頃、すなわち70年〜100年の間と考えられます。そこに含まれている内容は、イエスの言葉にさかのぼると言われるほど古いものがあり、このために、四福音書と並ぶ重要な福音書と見なされています。さらに後の時代に(遅くとも紀元250年以前に)書かれた『トマス行伝』があります。『トマス福音書』も『トマス行伝』も、北シリアのキリスト教の共同体から生まれたと考えられますが、ヨハネ福音書を生み出した共同体も、ほぼ同じ地域にあったと見なされています(ヨハネ共同体は後にエフェソのほうへ移った可能性があります)。『トマス行伝』では、この使徒がインドへ伝道して、そこで殉教したことが語られていて、現在でもインドの南西部にトマス派のキリスト教が残っています。なおこの行伝では、「ディドモ(双子)・ユダ・トマス」は、イエスの兄弟として語られています(「トマス第一行伝」の11)。
【アルファイの子ヤコブ】「ヤコブ」の名を持つ人物は新約聖書中に数人いますが、「アルファイの子ヤコブ」は、共観福音書のこの箇所と使徒言行録1章13節に使徒として出てくるだけです。先に出てきたゼベダイの子ヤコブは、使徒の中で区別するために「大ヤコブ」として知られていますが、これに対して「アルファイの子ヤコブ」は、教会では同じ使徒でも「小ヤコブ」(英語で”the lesser James”)と区別して呼ばれています。ところでマルコ15章40節には「小ヤコブ」(英語で”little James”)と呼ばれる人がでてきます。マルコ福音書では、この「小ヤコブ」は、ヨセと兄弟で母マリアの息子だとあります。ところがマルコ福音書6章3節によれば、ヤコブとヨセとはイエスの母マリアの息子で、イエスの兄弟になります。さらに、このほかに、聖書には「主の兄弟」と呼ばれるヤコブがいます(ガラテヤ1章19節)。彼は「義人ヤコブ」と呼ばれてエルサレム教会で重要な働きをして殉教します。この義人ヤコブは、新約聖書のヤコブ書の著者だという説もあります。
マルコ15章の「小(little)ヤコブ]という呼び方からアルファイの子ヤコブを「小(the lesser)ヤコブ」と呼ぶようになったと思われますので、この場合、この二人のヤコブは同一人物になります。ところがマルコ15章の小ヤコブが、マルコ6章のマリアを母とするイエスの兄弟だとすれば、主の兄弟である義人ヤコブとも同一人物になります(イエスの兄弟にヤコブが二人いたとは考えられません)。このことから、カトリック教会の伝承では、アルファイの子ヤコブ=ヨセの兄弟ヤコブ=主の兄弟である義人ヤコブという伝承が生まれました。しかし、プロテスタントでは、このように3人を同一視するのを疑問視する説があります。アルファイの子ヤコブ(使徒の「小ヤコブ」)とマルコ福音書15章の「小ヤコブ」とは同一と見ることができます(これを否定する説もありますが)。しかし小ヤコブと義人ヤコブとは別人とする説が有力です(ただしこの場合マルコ6章3節のヤコブとの関係が問題になります)。
さらにややこしいのですが、ルカ福音書(6章16節)と使徒言行録(1章13節)の使徒のリストに「ヤコブの子ユダ」とありますが、この使徒は、カトリックの伝承では、使徒の「小ヤコブ」の弟とされています。兄が著名な人の場合、弟が「その子」と名乗ることは、ヘレニズムの世界では珍しくないからです。このユダが、新約聖書のユダ書の著者とされています。だから、カトリック教会の伝承によれば、アルファイの子ヤコブ=マルコ15章の小ヤコブ=義人ヤコブとなり、しかも彼は、「ヤコブの子ユダ」と共にイエスの兄弟になります(ヨハネ14章22節を参照)。ただし、このようなアルファイの子ヤコブとイエスの兄弟である義人ヤコブとの同一視や、使徒の小ヤコブとユダとの兄弟の関係は、新約聖書のどこにも記されていません。さらに弟が兄の名を借りて「その子」と名乗るのも不自然であるとして、プロテスタントの教会では、これらの関係を否定する説が強いようです。もしもアルファイの子ヤコブと主の兄弟ヤコブとが同一人物でなかったとすれば、主の兄弟ヤコブ、すなわち義人ヤコブは、使徒ではなかったことになります。しかしカトリックもプロテスタントも、どちらの説も「確かな根拠」に基づくとは言えません。
【タダイ】この使徒名はマタイ福音書とマルコ福音書で、ここだけに出てきます。ルカ福音書と使徒言行録の使徒名には、この使徒の代わりに「ヤコブの子ユダ」が出ています。マタイの「タダイ」には、この読み方のほかに「レバイ」「タダイと呼ばれたレバイ」があります(「レバイ」はヘブライ語で「親しい」の意味)。さらに「熱心党のユダ」という読み方もあります。このような読み方は、ルカ福音書の「ヤコブの子ユダ」の場合と同じように、この使徒を裏切り者のユダと区別するためでと考えられます。このためでしょうか、後に「ユダ タダイ」と呼ぶ伝承が生まれました。タダイは、シリアのエデッサやメソポタミアで伝道したことが、後の『タダイ行伝』に出ています。
【熱心党のシモン】「シモン」はシメオンのギリシア化した名前で、ごく普通に用いられていました。マタイとマルコは、「熱心党」を「カナナイオン」とアラム語をギリシア読みにしています。ルカ福音書(と使徒言行録)では、「ゼローテース」(熱心党員)とギリシア語を用いています。ただし、熱心党は、ユダヤ戦争が近づく紀元65年〜70年頃に出てきた反ローマ的で宗教色の強い政治的な党派でした。だから、イエスの頃にはまだ「熱心党員」はいなかったと思われます。したがって、この使徒が、どのような意味で「熱心党」であったのかが、よく分かりません。彼は、おそらくまだ政治色の強くない宗教的な愛国者であったと思われます。
[19]【イスカリオテのユダ】ユダは、巡回伝道の使徒たち一行の中で、献金箱を与り、金銭の出し入れをしていました。イエスを「裏切った」者として、その名前は何時も使徒たちの最後に置かれています。原語の「ユダス」はヘブライ語の「ユダ」のギリシア名です。マルコとルカは「イスカリオト」とヘブライ風に記していますが、マタイは「イスカリオーテース」とギリシア読みにしています。なおヨハネ福音書では、「イスカリオテのシモンの子ユダ」(6章71節)となっていますから、これは「カリオテ出身のシモンの子であるユダ」という意味になります。「イスカリオテ」は、シカリ派という過激なテロ集団のことで、短刀をいつも忍ばせていたという説、「偽り者」あるいは「裏切り者」からでたという説、ケリヨトという村の出身(ヨシュア15章)、あるいは「都市の人」特にエルサレム出身の人などの説があります。彼が「偽り者」となるのは、イエスの十字架以後のことですから、「イスカリオテの」という呼び方が、イエスの在世当時からなされていたとすれば、これは地名か「エルサレムの人」の意味でしょう。だから、使徒たちの中でユダだけが、ガリラヤ出身ではなく、ユダヤから出たことになります。
現在では、ユダはイエス一行の中で仲間として親しい関係にあったと考えられていて、「裏切り者」という呼び名は、イエスの十字架以後にアラム語を話す教会の間で広まったと考えられています。イエスの処刑に際しては、使徒たちのほとんどが「逃げ去った」のですから、必ずしもユダだけではありません。しかし、ユダがその最初の人であったことが、イエスを敵に「渡した」張本人だとされたのでしょう。彼の行状について、共観福音書の扱いをここで述べることは控えますが、マタイはユダが首を吊ったことを伝え、マルコはユダを「裏切り者」としており、ルカはユダに「サタンが入った」と述べており、ヨハネは彼が「金銭を盗んでいた」と記しています。はたして彼がほんとうに金でイエスを売り渡したのか。あるいはその後で自殺したのか。これを疑問視する説もあります。彼がユダヤの出身で、反ローマ的な傾向が強かったとすれば、イエスが、最後までローマの支配に抵抗しなかったことに「失望」したとも考えられます。この意味で彼もイエスに「裏切られた」と思ったのかもしれません。