【注釈】
■イエス様語録
イエス様語録のこの部分の復元での1はマタイ福音書からです。ただし「覆い隠したりしない」と(升の下に置いたり)はルカ福音書からです。(升の下に)はギリシア語版イエス様語録では省かれていますが、英訳版では採り入れられています。2と3もほぼマタイからの復元ですが、ルカと重なる部分がかなりあります。マルコとは、(升の下)を除いてイエス様語録と共通する用語がほとんどありません。
この断片は光としての灯火と人体のたとえが重なっていて、内容は、信仰者が御霊の灯火を失ったら闇の中を迷うと警告しているのです。しかし、「家の中の者たちすべてを照す」とありますから、個人の信仰だけではなく、集会の交わり全体を「家」と「人体」にたとえていると解釈できます。集会が御霊の灯火をともし続ける限り集会の全員がこれによって照らされるが、灯火が消えてしまったらひどい暗闇の中に取り残されることを警告しているのです。
【ともし火】これは、光それ自体のことではなく、粘土で造った手持ち用の小さなオイルランプのことで、油をいっぱい入れて芯に火を灯すものです。
【升の下に】「升」とあるのは、穀物類を量る時に用いる升で、8リットル以上も入る大きなものです。「升の下に置く」というのは、この大きな升をかぶせることで、升の中に灯を隠すことです。これは灯火を消すためにも使ったのでしょう。指を汚さずに済みますから。ですから、ここには、明かりを「灯す」ことと「消す」こと、人々の前に「表す」ことと「隠す」こと、この二組の対照が重ねられています。
【家の中】パレスチナの貧しい家は、ほとんどが一部屋ですから、ここでの「家」は「部屋」と読み替えてください。ちょっとした明かりでも、部屋全体が明るくなるのです。
■マタイ福音書
マタイはイエス様語録を二つに分けて、1を5章で、2~3を6章で用いています。5章14節と16節はマタイが加えたもので、16節にはマタイの意図がはっきりと示されています。マタイは、イエス様を信じる者が、その教えを実行することで「立派な行ない」を世に「輝かせなさい」と命令しているのです。マタイ6章22~23節のほうはルカ11章34~36節とほとんど同じですが、この段落は「天に宝を積む」ことと「神と富とに兼ね仕える」ことができないことの間に挟まれてでてきます。ですから、私たちが富の誘惑や思い煩いに惑わされることなく、「まっすぐな目で」正しい方向に歩むことで、与えられた富を神のみ心にかなうように用いることを勧めていると解釈できましょう。
マタイ5章
[14]【世の光】ここにはマタイの教会へのメッセージがはっきりと語られています。旧約で「光」とは「神の律法」であり、イスラエルの民であり、義人のことであり、神の都市エルサレムのことです。しかしマタイは、イエス様の民の義が「律法学者やファリサイ派の義にまさる」(5章20節)と考えていますから、イエス様の民の発する光は「全世界を」照すのです(ヨハネ福音書8章12節)。
【山の上にある町】特にエルサレムを指すのではなく、高台にある町が、その灯りによって周囲を照らすことです。
同6章
[22]【目が澄んで】神の前に誠実にまっすぐ歩むこと。これを施しや慈善に関連づけて「寛大で思いやりがある」という解釈もあります。
[23]【濁っていれば】原語は「悪い」です。黄疸のような病気を指すと思われます。これは「妬みや悪意」の目と解釈することもできます。
■ルカ8章16~17節
ルカ福音書は、8章16~17節の灯火の譬の前に、種播きの譬を置いています。譬というのは、聞く人によって分かる人と分からない人とがいますから、せっかく神様の言葉の種が播かれても、「見ても見ず、聞いても悟らない」人が大勢います(ルカ8章10節)。神の国は霊的なことです。ヘブライ語で言う「マーシャール」(譬・謎・秘密)なのです。だから、実を結ぶ人には分かるけれども、結ばない人には分かりません。ルカはこれに続けて、この灯火の譬を出すのです。塚本訳では、ここの始めに、「外の人たちに神の国が隠されるのは、ただしばらくの間だけです」と説明があります。
イエス様の在世当時は、イエス様の語る言葉が人々から隠されていた。でもそれはしばらくで、やがてはっきりと分かる時が来るという意味です。十字架にかかり復活されて、それから聖霊が降って働き出すと、語られる言葉の意味が人々に分かるようになるのです。だから御霊にあって「灯火をともした人は、光が見えるように燭台の上に置く」のです。マルコ福音書とマタイ福音書では「升の下に隠す」とありますが、ルカ福音書では「器で覆い隠す」となっていて、これは壺や鉢のようなもので、灯火を消すことでしょう。言っていることはマタイ福音書と同じで、「誰も明かりをつけてから、これを隠したり消したりする人はいない」ことです。
ルカ福音書はマタイ福音書ともマルコ福音書とも異なっていて、照らすのは「家の中」ではなく、「入ってくる人たち」です。だから、この灯火は家の入り口にあって、外から入ってくる人たちを招き入れる光です。家の外の人たちが内へ入るために照らす灯火なのです。ルカの言う「家」は、マタイ福音書のようにパレスチナの貧しい一部屋の家ではありません。玄関のあるギリシア・ローマ式の家のことです。ですから、
マタイ福音書では「家の中」の人たちのことだったのですが、ルカでは「家の外」の人たちのことです。イエス様をまだ知らない人、福音を聞いたことがない「外の人たち」、そういう人たちを招き入れるのが、御霊の灯火の役目です。
ところで、ルカ8章17節は、マタイ福音書にない重要なことを言っています。明かりをともして光が部屋全体を照らすと何が起こるかです。ルカ福音書では「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」とあって、すべての人のあるがままの姿が、ごまかしなくはっきりとその光に映し出されるのです。イエス様の御霊の働きが集会全体を照らすと、それまで「隠れていたこと」が、ひとりひとりの内にはっきりと示されて、それまで自分でも気づかなかった心の深いところが、自分にもはっきりと見えてくるのです。ルカ福音書は続けてこう言います。「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」(ルカ8章19節)。ここのところは、マルコ福音書では、「何を」聞くかですが、ルカ福音書は「どのように」聞くのかです。神様の言葉を聞く、その聞き方が大事だと言うのです。
同11章33~36節
ルカ福音書はイエス様語録とほぼ同じ構成をとっています。ただし、用いられている語句は、マタイ福音書ともイエス様語録とも必ずしも同じでありません。イエス様語録は、マタイとルカとでは、それぞれに異なった版が伝えられたと考えられるからです。ルカは8章16節の灯火のたとえをここの33節で繰り返して用いています。しかし、灯火と「目が体の明かりである」こととのつながりがはっきりしません。このためルカは、36節で再び灯火を出して、この点をわかりやすく言い換えています。「澄んだ目」とあるのも「濁った目」も意味はマタイ福音書と同じで、霊的な意味が込められています。しかしルカ福音書では、目が澄んでいる「時は」、また濁っている「時は」とあって、マタイ福音書のように「~であれば」とはなっていません。また「光が消えていないか調べなさい」とありますから、人は自分の目の付け所に注意して、絶えず修正するように勧めていると言えましょう。
ルカは、この段落をイエス様が行なう業の「しるし」を見分ける知恵を語るすぐ後に置いていることが注目されます。だからルカは、「体を照らす目」のたとえで、マタイとは違って、より内面的な「知恵の目」を意味していると思われます。ギリシア思想には、人がものを見るときに、目から発した光がそのものに反射して、再び見る人に戻ってきて認識をもたらすという考え方がありました。ここには、このような見方が反映しているのかもしれません。
■マルコ4章21~22節
マルコ4章は、一連の「神の国」についての奥義を語っていて、この灯火のたとえもその一環として語られています。ですから、ここでは「神の国」の秘義としてこのたとえが用いられているのです。まず、灯火を「持って来る」とあるのが注目されます。これから判断すると灯火はだれかが「もたらす」ものです。ここでは、灯火を人に「見せる」ことと「隠す」ことが問題なのではなくて、「隠れていたもの」が「あらわになる」こと、あるいはこれまで「秘められていたもの」が「公にされる」こと、すなわち「啓示される」ことが問題なのです。マルコ福音書は、神の国の秘義が、今まで隠されていたのが、今イエス様の到来によって「公に」なると言うのです。ただし、21節のたとえも22節の「公にならないものはない」も、現在において完全に成就した出来事ではなくて、これから生じる出来事でもあることを示しています。神の国は半ば隠されつつ密かに到来を待っている。そのことを悟る「灯火」が与えられるように語っているのです。