【注釈】
■イエス様語録
 今回のイエス様語録は、イエスの言葉としては、もともと別個の伝承であったものをまとめたと考えられます。イエスの当時の諺が含まれていますが、これらもイエス自身にさかのぼる(dominical)と考えていいでしょう。ここを(A)1~4行(B)5~10行(C)11~14行のように分けることができます。今回も、マタイとルカとでは、かなり異なりますので、以下に順番にイエス様語録と両者との関係を指摘します。
(A)3行目は、マタイでは「わたしが(闇の中で)言ったこと」とあって、主語がイエスになっていて、続いて「あなたがたは(光の中で)言いなさい」と命令法アオリスト形の2人称複数が来ます。ところがルカでは主語が抜けていて、「何でも暗闇の中で」とあるだけです(新共同訳では「あなたがたが闇の中で~」と「あなたがたが」を主語として補っています)。しかも続く動詞は「(光の中で)聞かれるだろう」と未来の受動形になっています。マタイを採れば、イエスが語ることを「あなたがた」が言い広めるのですから、これは宣教に関わる内容になります。ルカのほうを採るとすれば、隠れたことも必ず露見するという偽善に関わる内容になります。ルカ12章3節は、マルコ4章22節と並行していて、マルコとイエス様語録とのつながりを示す興味深いところです。またルカ12章3節の「闇/隠れたこと」と「光/明るみ」は、内容的にルカ11章33~34節とも関連すると言われています。マタイとルカとの違いは、マタイでは、イエスを言い表わす/告白することに重点が置かれているのに対して、ルカでは、人に隠れて偽善を行なうことに関連することです。この変化は、マタイではなく、ルカの編集によると思われます。
 4行目は、マタイでは「耳元で聞く」"listen into the ear"ですが、ルカでは、「耳元で言った/ささやいた」〔新共同訳〕です。ただし「あなたがたが耳元で聞いた」"What you hear as a whisper"〔英訳『イエス様語録』〕と読む異本もあります。またここは、『トマス福音書』に次のような並行箇所があります。「イエスが言った、『あなたが自分の耳のところで聞くであろうことを、あなたがたの屋根の上でほかの耳に宣べ伝えなさい』」〔クロッペンボルッグ他編、新免貢訳『Q資料・トマス福音書』日本基督教団出版局〕。「聞く」とあるように、『トマス福音書』も、ルカよりはマタイのほうに近い言い方です。
(B)では、7行目が、マタイでは「2羽の雀が1アサリオン」となっていますが、ルカでは「5羽の雀が2アサリオン」です。したがって、イエス様語録の復元としては、どちらの可能性もあります。
(C)終わりの11~14行は、ほんらい(A)(B)とは異なるグループに属するもので、「人の子」が鍵語となって並行する一連の言葉です。だからルカ12章8~12節では、ここが「人の子」に言い逆らう者へのイエスの批判へとつながっています。ルカの12章8~12節のまとまりが、ほんらいのイエス様語録だと考えられます。しがたって、イエス様語録の12行目と14行目とは、ほんらい「人の子」によって並列していたと見ることができます〔D・ツェラー著、今井誠二訳『Q資料注解』教文館〕。この点でルカはイエス様語録に従っていますが、マタイは、「人の子」をイエスと同一視して「わたし」としたのでしょう。また、ルカには「天使たち」とありますが、マタイにはこの句が抜けています。14行目は、マタイの「わたし」ではなくほんらいの「人の子」を採り入れ、さらにルカの「天使たち」を活かして、「人の子も天使たちの前で~言い表わす」と読むことができましょう。(C)が加わることで、ここでのイエス様語録全体が、恐れずにイエスを言い表わすための勧めとなっているのです。
 
■マタイ12章
[26]【人々を恐れるな】「人々」とある原語は「彼ら」です。ここで言う「彼ら」とは、すぐ前の25節にある「家の主人をベルゼブルと呼ぶ」人たちのことでしょう。だとすればマタイ12章17節にでている指導者たちのことであり、同時にマタイの時代のユダヤ教の学者やファリサイ派の指導者たちを指します。今回の箇所全体は、迫害の下でも恐れずにイエス・キリストを言い表わすように勧めていますが、マタイたちの頃は、まだローマ帝国による国家的、組織的な迫害は行なわれていません(64年のネロ皇帝の迫害は偶発的で、組織的ではありません)。今回の箇所を第一ペトロの手紙(特に3章14節)と関連づけることもできますが、この書簡は、ペトロの名による偽書で(異論はありますが)、おそらくローマによる組織的な迫害の下にある信徒たちに宛てられていると考えられます(執筆は、早ければ70年代。85~95年頃か)。福音書が成立した頃を境にして、キリスト教への迫害は、ユダヤ教からローマ帝国による国家的で組織的な迫害へと移行します。ただしこの場合も、地域によって必ずしも一様ではありませんでした。
【現わされないものは】原文の「隠されてきた」(完了形)と「啓示される」(未来形)は、終末における神の啓示と、その時に暴露される人間の罪への裁き意味します(第一コリント4章5節/ラテン語エズラ記16章63~67節)。ここで「恐れるな」とあるのは、終わりのその時まで、迫害に耐えて待ち望みなさい、という意味になりますが、同時に、29~31節にあるように、父なる神は、「今この時」において、すべてを知り、かつすべてを掌握しているとあります。「終末」は単なる時間的な「未来」とは異なります。だからここは、終末と現在とを重ね合わせて、神の全知全能を信頼するように勧めているのです。
[27]【屋根の上で】パレスチナの家の屋根は、通常平らでしたから、屋上でいろいろなことができました。
【言い広めなさい】「暗闇」と「明るみ」の原語は「闇」と「光」です。また「言い広める」の原語は「宣教する」です。イエスは、終末での出来事を根拠に現在の行動を弟子たちに命じるのです。ここでの「わたし」はイエスを指し、命じられるのは弟子たちですから、命じるのは復活以前のイエスであり、宣教するのは復活と聖霊降臨以後の弟子たちを指すという解釈があります。しかし、このように時期的な差をここに持ち込むのは不適切でしょう。むしろイエスは、「最後の審判で起こる最終的な啓示に一致して(今の時に)振る舞うべきである」〔ウルリッヒ・ルツ『EKK新約聖書註解・マタイによる福音書』〕と言うのです。イエスの御霊は終末と現在とを一つに結んで働きます。そもそも終末に起こる出来事とは、「今のこの時に」行なわれている罪や不正に対する神の裁きから来るものです。福音を「宣べ伝える」という現在の行動が、「終末」と「現在」という二重性を帯びていることに注意してください。
[28]【体を殺す】ここでは殉教の死が予想されています。かつてギリシア人の王アンティオコス4世の下で殉教した人たちは、律法と神殿を守るために「死を覚悟して」、実際に武器を取って闘いました(第二マカバイ13章14節)。クムラン宗団の人たちもまた彼らと同じ信仰に生きたと考えられます。終末の裁きを待ち望む黙示思想は、このような背景から生まれました。イエスも、その伝道開始の時から、すでに受難を覚悟していたと考えられます。しかしながら、はたしてイエスの念頭には、このような人たちに同調する考えがあったのでしょうか? 律法も神殿も武装蜂起もイエスの霊性とは一致しないところがあります。武装蜂起については、マタイ26章52節/ルカ22章36節を参照してください。
【魂も体も】アレクサンドロス大王のヘレニズム帝国(前330年頃成立)の支配の下で、パレスチナでは厳しいヘレニズム化が推し進められて、その結果マカバイ戦争が起こりました。ヘレニズム化はその後も続き、キリスト教がヘレニズム世界に広まるに伴って、教会とヘレニズム文化との関係もいっそう深くなりました。一般にギリシア思想は、人間を魂と肉体とに分けて、肉体は消滅しても魂は永遠に存在するという人間観に基づいています。
 これに対して旧約聖書では、人間は「神の似姿」に従って創造されていますから(創世記1章26節)、神と交わることのできる人格 "personality"を具えています。この場合、魂(「命」の意味もあります)と肉体とは分離することなく、肉体は人の霊性の宿りの現われだと考えられました(例えば人の霊はその人の骨に宿ります)。だからヘブライの思想には、人の肉体は汚れていても魂は美しい、あるいは、肉体は滅んでも魂は救われるという思想はありません。
 この27節でも、魂と肉体の両方が滅びますから、不死の魂を信じるヘレニズム思想とは異なっています。マタイ福音書のこの27節の思想は、ヘレニズム化したユダヤ教から来ていると考えられます。人間の魂も、終末においては、地獄で最終的に「滅びる」とありますが、これは「魂」を肉体から分離したものと見なすのではなく、霊性とからだが一つになった人間の人格そのものが消滅する、という意味でしょう。しかも地獄へ落とされる前に、至高の神による最終の裁きが行なわれますから、終末に際しては、人類はことごとく復活するという「万人復活」"universal resurrection" の思想がここにはあります(第一コリント15章12~13節/ヘブライ9章27節/ヨハネ黙示録20章11~15節)。だとすれば、その死によって一度肉体から離れた人間の魂は、終末での肉体の復活に際して再び肉体に戻ることになります。しかし、最後の審判が、人間の全人格への裁きを意味すると考えるなら、魂と肉体とを区別して、それらの死後の関係を必ずしも厳密に解釈する必要はないでしょう。
【地獄】これのヘブライ語は「ゲ・ヒンノーム」(ヒンノムの谷)で、ギリシア語は「ゲヘナ」です。ヒンノムの谷は、旧約時代のエルサレムの城壁の南にある深い谷で、そこは、モロクの神へ幼児が犠牲として捧げられた場所として、忌み嫌われていました(列王記下16章3節)。なお、現在では、ヒンノムの谷は、エルサレムの旧市街の城壁の南にある斜面を降りた所で、自動車道路が通っています。紀元前2世紀頃から黙示思想が興ると、この谷は終末の裁きが行なわれる場を意味するようになりました(エレミヤ7章32節/『第一エノク書/エチオピア語エノク書』90章26節)。この考えから、この谷は、最終の裁きにおいて悪霊と罪人が罰せられる地獄の火の谷を意味するようになりました。ただし「ゲヘナ」は、四福音書にあるのみで七十人訳にはでてきません(マタイ25章41節/マルコ9章43~44節)。新約では、「地獄」(ゲヘナ)とは別に「黄泉/陰府(よみ)」(ハデース)があります。これは本来ギリシア世界の冥府のことですが、そこは、死者たちが、死から最後の審判までの中間の期間を過ごす場所とされました(マタイ16章18節/第一コリント3章15節)。
【恐れなさい】人を「恐れる」ことと神を「畏れる」こととが対照されています。すべてを知り、かつすべてを行なう「力ある神」への畏れこそ、他の一切の恐れを取り除く鍵となります(第二マカバイ記6章30節)。
【滅ぼす】「滅びる」が「絶滅する」ことだとすれば、魂は消滅します。一方では、邪悪な者の魂は、地獄(ゲヘナ)において永遠の責め苦に遭うとも言われています(マルコ9章48節)。ただしマルコのこの節はイザヤ書66章24節を反映しています。旧約では死者は地獄ではなく「シェオル」(陰府=よみ)にいて、そのまま朽ち果てる/滅びるか、神の下へ戻るかを待っていますから(知恵の書16章13~14節)、新約聖書の言う終末の裁きによる「永遠の滅び」とは意味が違います。死後の魂の有り様とこれが終末の裁きにおいて受ける罰については、「絶滅」と「苦しみ」とのふたとおりの解釈がありますが、新約聖書には、これについての確かな区別は見られないようです。
[29]【1アサリオン】ローマの貨幣「アサリウス」からでたギリシア語です。労働者1日分の賃金が1デナリオンで、1アサリオンは、1デナリの16~18分の1から24分の1と時代によって変動しました。通常2アサリオンで1日分のパンを買うことができました(ルカ9章6節を参照)。雀は食料として売られていて、鳥の中では最も安い食べ物でした。
【父のお許し】原文は「父なしに」で、「父のみ心/お許し/知ることなしに」のこと"without your Father's knowledge"[The Revised English Bible]。この節を初め、今回の箇所は、マタイ6章25~34節と内容的に通じるところがあると指摘されています。
[30]「人の髪の毛の数を数える」は、神以外には誰にも分からないことを指す諺です。しかし、ここでは特に、人には理解できない苦難の中にあっても、神はそのすべてを知っていて、力を与えることを約束するという意味です(サムエル記上14章45節)。このように人間の知恵と神の知恵とを比較して、神の図り難い摂理(せつり)を語るのは知恵思想からでています(ラテン語エズラ記4章10節)。
【たくさんの雀より】人間は神の姿に造られているから雀よりも尊いことを意味しますが、同時に、ここには、神はたとえ1羽の雀でさえもこれを見守っておられることをも意味します。「たくさんの/多くの」とあるのは、やや不自然なので、ほんらいのイエスの言葉では、アラム語の「雀」の複数形"sparrows"が、「多くの」と訳されたのではないかと推定されます。
[32~33]マタイでは、ルカに比べると、二つの節が構文的にも内容的にもきれいに並列しています。ここでのマタイの「わたし」とルカの「人の子」との違いについては、イエス様語録の解説を参照してください。なお、ここは内容的にマタイ7章23節とも関係しています。
【だから、だれでも】これはマタイのよく用いる言い方です。ルカでは「~するならだれでも」です。
【言い表わす】原語の「ホモロゲオー」は、語源的には「同じことを言う」です。ここでは「天の父の前で」、父がイエスについて言うことと同じことを弟子たちも人々に対して言うことでしょう。この原義から「信仰を告白する」「はっきりと明言する」「人に対して認知する」の意味になります。ヘブライ語の「ホ-ダー」は、「認知する」「忠誠を誓う」です。ルカでは「神の天使たちの前で」となっていますが、おそらくこちらがイエス様語録の言い方でしょう。マタイはこれを「天の父」に言い換えたのです。「人々の前で」は、先の17~18節の「地方法院」や「総督」や「王」を指すという解釈があります。だとすれば、ここでの「言い表わす」は、法廷の場で証人として明言することを意味します。ただし、「言い表わす」は、後にペトロが、最高法院の中庭でイエスを否認するように(マタイ26章70節)、法廷以外でも用いられますから、今回の箇所も法廷に限定しなくてもいいでしょう。また「わたしの仲間である」の原文は「わたしにあって」ですが、「わたしにあって言い表わす」は、「わたしを受け入れる/公然と認知する」の意味です"acknowledge me"[The Revised English Bible]。
 後のペトロの否認を今回のイエスの言葉と対応させて読むなら、人間の弱さと失敗がイエスの祈りと赦しに支えられていることを改めて思い起こさせます(マルコ16章7節/ルカ22章31~32節)。ちなみに、後にコンスタンティヌス帝とリキニウス帝によって、キリスト教がローマ帝国において公認の宗教とされた時(紀元313年)、それまで帝国の厳しい迫害に遭ってイエスを否認した大勢の人たちが、再び教会へ復帰したいと願い出ました。この際に、彼らの否認の行為が赦されるべきかどうかが教会で大きな問題となりました。迫害の下での告白と躓き、この二つを裁きかつ赦すのは、教会ではなくイエスの父のみ心によるのです。
 
■ルカ12章
[2]ルカ福音書12章では、「ファリサイ派のパン種」すなわち偽善についてのイエスの警告があって(12章1~3節)、今回の箇所がこれに続きます。したがって、この2~3節も、人目につかない隠れた言動でも明るみに出されるという意味です。2節は、ルカ8章17節とも重複しています。2節のほうはイエス様語録からで、8章17節のほうは、マルコ福音書4章22節からだと考えられます。これは、イエス様語録とマルコとルカとの資料的なつながりを示す意味で注目されています。
[3]【奥の間で】これはマタイにはないルカの編集です。「奥の間」の原語は、倉/納屋や食物の貯蔵室をも指しています。「奥の間」〔新共同訳〕という訳は、マタイ6章6節と同じですが、ここ3節では、倉や貯蔵室など人目につかない場所のほうがより適切かもしれません。おそらくルカは、ギリシア風の邸宅を思い描いて、「奥の間」と「屋根の上」とを対照させているのです。
[4]【友人である】共観福音書でイエスが弟子たちを「友人」と呼ぶのは、ここだけです。それだけに、こことヨハネ福音書15章13~15節との関係が注目されます。ルカとヨハネとが、相互の福音書を知っていたかどうかは疑問です。しかし両者の間に伝承/資料的につながりがあったのは確かでしょう。
【それ以上何もできない】ルカの「恐れるな」はアオリスト命令形でマタイ(とイエス様語録)の現在形と異なります。これはルカの変更ですが、彼はおそらく、一般的な言い方を避けて、具体的な出来事を念頭に置いているのでしょう。ここでルカは、「その後で、それ以上には何もすることができない」と言い換えて、マタイにある「魂」への言及を避けています。
[5]ここでもルカは、マタイの「体と魂とを滅ぼす」を省いています。「魂が滅びる」という考え方がヘレニズムの人たちに誤解を招くと考えたのでしょうか。なお「そうだ、わたしは言っておく」はルカの追加です。ルカはここで終末での裁きを強く意識しているのです。ここでルカが、はたして「個人の死」をその人の「終末」と考えていたかどうかが問題にされています。はっきりしませんが、ルカは「個人の終末」としての肉体の死をも考えていたのかもしれません。
[8~9]【人の子】マタイでは「わたし」ですが、ルカは「人の子」です(イエス様語録の解説を参照)。この場合は、マタイよりもルカのほうがイエス様語録を受け継いでいると見られています(イエスの「わたし」から後の教会による「人の子」への移行という異説もありますが)。マタイはイエスを人の子と同一視して、このことをはっきりさせるために「わたし」と言い換えたのです。8~9節もイエスにさかのぼると考えられていますが、はたしてイエス自身が、「人の子」という言い方をしたかどうかについては以下の三つの見方があります。
(1)イエス自身は「人の子」を遣わなかったが、イエスの復活以後に、教会が、終末に栄光を帯びて来臨して裁きを行なう「人の子」像をイエスに重ねた。これがイエス様語録に受け継がれている。
(2)イエスも「人の子」について語ったが、それは自分とは別に終末に顕現する栄光の「人の子」のことである。しかし、イエスと人の子とが同一視されてイエス様語録に入り込んだ。
(3)イエスは自分のことを「人の子」と呼んでいた。
 かつては(1)の説も唱えられましたが、最近では、(2)か(3)のほうが実際に近いと考えられるようになりました。はたしてイエス自身がこの用語/称号を用いたかどうか、確かなことは分かりません。「人の子」は、ほんらい「人間」を指す言葉でした。しかし、ダニエル書(7章13節)にあるように、イスラエルでは、この言葉が黙示思想の中で変容して、終末に顕現する栄光のメシアを意味するようになりました。その結果、アラム語の用法をも含めて、「人の子」は多義的に用いられたようです。ただしこの言い方は、天使であれ人であれ、個としての人物をイスラエルの民や人類と重ねるという集合的な意味を帯びていることを忘れてはなりません。イエスの頃、「人の子」は、間接的に自分のことを指す場合にも用いられましたから、わたしは、少なくともイエスは、この意味での「人の子」を実際に用いたと考えています(マルコ2章10節)。この場合の「人の子」は、自分を多くの人たち、あるいは人間一般と重ね合わせて用いられたのでしょう。ここルカの節でも「<人たち>の前で<人>の子を言い表わす者」あるいは「<人たち>の前で<人>の子を否認する者」のように「人」と<人たち>が対応しているのに注意してください〔John Nolland, Luke. WBC.Vol.35B(1993).Excursus: Son of Man〕。
【天使たち】神の御座近くにいて神に仕えている天使たちのことで、必ずしも裁きを行なう役目の天使たちだけを指すのではないでしょう。ここでは、天の「神の宮廷」が考えられていると言われています。この言葉もマタイにはありませんが、ルカのほうがイエス様語録に近いと考えられます。『第一エノク書』やダニエル書では、「人の子」も「天使」と関連して用いられています。
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