202章 ピラトの判決
(マルコ15章6節~20節/マタイ27章15節~26節/ルカ23章13節~25節)
              【聖句】
■マルコ15章
6ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。
7さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。
8群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。
9そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。
10祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。
11祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。
12そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。
13群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」
14ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。
15ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
16兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。
17そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、
18「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。
19また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。
20このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。
■マタイ27章
15ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。
16そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。
17ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」
18人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。
19一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」
20しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。
21そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。
22ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。
23ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。
24ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」
25民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」
26そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
■ルカ23章
13ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、
14言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。
15ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。
16だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」
18しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。
19このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。
20ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。
21しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。
22ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」
23ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。
24そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。
25そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。
           【注釈】
                  【補遺】
           【講話】
■今回の記述は史実か?
 今回のイエス様への十字架刑の判決の記事は、ユダヤの民衆にバラバかイエスかを選ばせて、イエスの十字架刑の責任を「ユダヤ人に負わせよう」とする福音書の記者たちの意図から生じたものである。だから、福音書の記事は、ユダヤの国家が、ユダヤ戦争によってローマ軍に滅ぼされるその責任をユダヤ人に負わせる意図で「創作されている」という見方があります。紀元70年のユダヤの滅亡は、ローマとの平和を促すイエス様の代わりに、ローマとの闘いを求めるバラバを選んだユダヤ人への「神の裁き」だというわけです〔A.D.Collins. Mark. Hermeneia. 721.〕。
 これに対しては、今回の「バラバか?イエス様か?」の記事への歴史的な事実として、ピラトが、過越祭に恩赦を発してバラバを釈放した。「たまたまその同じ日に」、ピラトによるイエス様への死刑判決が出た。この二つの出来事が重なって、今回の「イエス・バラバか、イエス・メシアか?」の伝承が成立して、その伝承が福音書記者たちのもとに届けられた。これが、共観福音書の記事の基となる史実ではないかという説があります〔John Nolland. The Gospel of Matthew. NIGTC.1166--67. を参照〕。
冒頭にこのような問題を提示したのは、こういう疑問が生じる、まさにその点に、今回の出来事の特徴が、逆に明らかに出ていると思うからです。いったい、福音書の記者たちは、どのような意図のもとに、今回の出来事を描いているのでしょう。
■記者たちの意図
 マルコ福音書では、出来事が「反ユダヤ的に」編集されているという指摘があります〔フルッサー『ユダヤ人イエス』17章「十字架につけられた者とユダヤ人」〕。なぜこのように言われるのでしょうか? それは、マルコの関心が、イエス様は「神の御心に従うことで、無実の罪で十字架刑に処せられた」ことに向けられているからです。イエス様は、「父の御心を行なう」ために、もはや受難の盃を避けようとはしません(マルコ14章36節)。だから、イエス様を十字架につけたユダヤ人=ユダヤ教徒たちは、イエス様が信じる神を否定したことになり、その結果、神の裁きを受ける羽目に陥ったことになります。イエス様の十字架の出来事の40年後に、ユダヤの国がローマ帝国によって滅ぼされたという「出来事」によって、神を信じるはずのユダヤ人が、イエス様の十字刑を通じて神に逆らうことで、神からの裁きを招いた。ユダヤ滅亡の出来事は、このことを証しするというわけです。マルコは、ユダヤの滅亡とほぼ同じころに(70年)、福音書を書いた(と思われる)ので、彼は、まさに「この点」に関心を抱いていますから、彼の書き方もこの点を強調しているという見方がマルコに向けられたのです。
  マタイは、マルコ以上に、イエス様の十字架が「ユダヤ人(群衆)」の責任であることを強調しています。旧約聖書には、「預言者の血を流すイスラエルの民」が出てきて、ユダヤの民は、まさに、この罪を犯すことになるとイエス様から警告されます(マタイ23章35節)。マタイは、ヘブライの伝統に深く根ざした人ですから、イエス様を十字架に付けた自分の民を、それだけ強く意識して、憤りと悲しみを覚えるのです。
 ルカも、ローマ側が、イエス様の無実を提示したことを印象づけます。その上で、イエス様処刑の責任がユダヤの指導者にあると見ています。ルカ福音書に従うなら、ピラトは、始めは、「懲らしめの鞭打ち」だけでイエスを釈放しようと提言しますが、ユダヤの指導者たちに受け容れられず、結局、十字架刑に先立つ鞭打ちに変更します。これが実際の出来事に近いのかもしれません。
■逆の現象
 今回語られる出来事は、ユダヤの指導者たちと、エルサレムの群衆と、ローマの総督の三者の間に立たされるイエス様をめぐる出来事です。クリスチャンの読者から見れば、この出来事は、「この世を裁くべき神の子が裁かれ」「(ローマの)支配者は事態を支配せず」「ユダヤの宗教的指導者は神が遣わすメシアを罵り」「真相は神の民ユダヤ人ではなく、異邦人の支配者に明かされ」「ユダヤの民衆は義人の代わりに犯罪者を選び」「犯罪者バラバの代わりに無実の義人が罰せられる」という「何もかもあべこべ」の出来事です〔Davies & Allison. Matthew 19--28. 593.〕。今回の出来事は、どのような「真実」を私たちに伝えようとしているのでしょうか?この問いが、今までになく、切実に、私たちに向けられることになります。
■ユダヤ教とキリスト教との対立
 今回の出来事では、その背景に、もう一つの出来事、ユダヤ教とキリスト教との対立があります。70年代以降に生き残ったファリサイ派ユダヤ教は、いち早くユダヤ教の再編成に着手しました。ラビ・ヨハナン・ベン・ザッカイやガマリエル2世のような優れたユダヤ教の指導者が現われて、パレスチナ以外の地に広がるヘレニズム・ユダヤ教の諸会堂を拠点に、新たなユダヤ教の正統化を図ったのです。彼らのユダヤ教は、もはや、かつての民族主義的な「ユダヤ主義」ではなく、世界に通用する普遍性を有する「汎(はん)ユダヤ主義」に基づいていました。ところが、同じ頃、ユダヤの滅亡という理由から、キリスト教の諸教会もまた、それまで自分たちが拠点としていたヘレニズム・ユダヤ教の諸会堂から独立して、シリアのアンティオキアや小アジアのエフェソやスミルナなどの諸都市を拠点に、ヘレニズムの異邦人への宣教を志向していたのです。
 ユダヤ教徒もキリスト教徒も、どちらも離散のユダヤ人の会堂を中心にして、小アジアからエジプトとローマなど、地中海世界への宣教を目指していました。こういうわけで、1世紀の終わり頃から2世紀前半にかけて、ユダヤ教とキリスト教とは相互にライバル関係に立つことになります〔Frend, The Rise of Christianity. 120-21/123-24.〕。この事態が両者の厳しい対立と敵意を生み出す原因になったのです。ユダヤ教側の新たな「汎」ユダヤ主義が、これも異邦世界を目指すキリスト教側からの「反」ユダヤ主義を招いて、これがまた正統ユダヤ教からの反キリスト教となってキリスト教側に跳ね返ったのです。四福音書が書かれたのは70~90年頃ですから、こういう時代背景のもとにあって、イエス様の時代とは異なった意味で、マタイ福音書やヨハネ福音書を始め、四福音書に「反ユダヤ主義」が陰を落とす結果になりました。
■タイセンの見解
 今回の出来事では、最大の謎として、 ユダヤの指導層と民衆は、反ローマ活動のバラバを釈放し、ローマの権力に無害なイエス様をローマ帝国の名のもとに「十字架刑にせよ」と、こともあろうにローマの官憲に迫ります。この謎に答えようとしたのが、ゲルト・タイセンの『イエスの影を追って』です。The Shadow of the Galilean、ドイツ語の原題に忠実な英訳ですが、日本語の題名は、むしろ、『ガリラヤ人イエスの人影』と訳したいところです。
 この小説の主人公は、バラバの友人であるアンデレです。バラバは、イエスのことをアンデレにこう言います。
 
「(イエスはこう言う)敵を愛し、迫害する人のために祈れ。天の父は、悪い者にも良い者にも太陽を昇らせてくださる。・・・・・暴力を用いなくても抑圧や搾取をなくすことができる。・・・・・しかし、ローマや権力からの「抑圧」とは、具体的に、支配者どもが、土地の産物の大部分を独占することである。税を取り立てられる民衆は、いつも生存の危機にさらされている〔『イエスの影を追って』167~168頁〕。・・・・・『カイザルへの税はカイザルに返せ。神のものは神に返せ』とイエスは言う。イエスは波風を立てたくないだけだ。こういう教えは、民を分裂させる。社会の変革と同時に支配者と被支配者との間の平和を求めるなど妄想であり、危険な幻想に過ぎない。こういうことを言う裏切り者は殺さなければならない。」
 
 バラバのこういう言葉を聞いたアンデレは、思いあまって、詩編の73篇を唱えます〔前掲書175~76頁〕。問題は、教会に働く神の霊力ではなく、国家や政治の権力と神の霊力との闘いです。異教の国家権力に対抗する有効な方策として、「バラバとイエス様と、どちらを選ぶか?」と問われ、その上で、祭司長たちから「バラバ」を選べと説得されたら、人々は、容易にバラバを選ぶでしょう。
 アンデレは、カファルナウムで、ミリアムという女性から、イエス様の病気癒やしの力を聞かされて、迷信的で幼稚な教えだと思います。アンデレに言わせると、次のようになります。
 
「聖霊が働く時に、これに乗じて起る悪霊の業をどのように抑えるのか?これを巧みに処置するのも、聖霊の働きにほかならない。イエスは、安息日を破り、罪人と交わり、悪人とも食事を共にする。こういう霊能的人物が、強い影響力を発揮して、事を行えば危険を伴うものだ。」
 
 なお、イエス様とユダヤの祭司長たちとの間の溝について、さらに詳しくは、共観福音書講話補遺の「イエスと祭司長たちとの溝」をも参照してください。
■問題の根を探る
 今回の出来事に潜む謎の真意は、イエス様に具わる霊能の力です。病を癒やし、悪霊を追い出す神の力のお働きへの謎です。これを信じるか、信じないかで、ピラトと祭司長ちと民衆とが揺れているのです。民衆はイエス様の霊能に魅せられ、祭司長たちは、その霊能に嫉妬と反感を覚え、ピラトは、出来事それ自体が全く理解できないまま、ひたすら、自己の保身を策するのです。
 「十字架されるがいい!」この声は、それまで霊能に魅せられていた群衆が、ユダヤの指導層の策略に乗せられて、群衆の賞賛が反感に裏返えった時の叫びです。イエス様に働く霊能を悪霊の業だと偽る指導者、イエス様による霊能への信用を失った民衆、事態を全く理解できないピラト、そこには、ローマの権力からの抑圧に直面するユダヤの民がいます。ローマの権力に対抗するための方策として、身近に理解できるバラバの暴力と、国家権力をも超える神の御力を前にして、群衆は困惑しています。霊能を信じることができない祭司長たち、得体の知れない事態に戸惑うローマの官憲、これら三者が、イエス様の霊能の前で揺れるのです。しかも、肝心のイエス様は、肝心な時に、肝心な霊能を発揮することを控えて、ひたすら沈黙を守り続けます。これも、今回の大きな謎です。人は、いざという時には、国家権力をも超える平和を創り出す霊力を信じるよりも、誰でも分かる暴力によって権力に対抗するバラバのほうを選ぶのです。 平和の理想よりも、闘いの現実のほうが、身近で理解しやすいからです。理論や知識や価値観は、ましてや宗教は、現実に生起する「出来事」の前では、「手が出ない」のです。だから、結局、「バラバを選ぶ」のです。
■「宗教する人」の罪性
 私たちは、ピラトのイエス様への最終判決を読み、これにいたる一連の出来事を顧(かえり)みる時に、ユダによるイエス様への「不測の」裏切りに始まり、人間の宗教の最高位の人たちに潜む霊的な悪意を通じて見えてくるものがあります。それは、人の「宗教心」こそが、人の罪性を隠すだけでなく露わにもするという悲しくも恐ろしい現実です。「宗教する人」の心の奥に潜む罪悪の本性が、イエス様への十字架刑をもたらす最大の原因だということを、私たちはここで見極めなければなりません。「罪」とは、人間にまつわる傲慢のことです。これこそ、人知と能力に自惚(うぬぼ)れる人に避けがたくまとわりつく性(さが)です。私たちは、人のこの罪の性(さが)が、イエス様への十字架刑が象徴する出来事の本質に潜むことに気づかされます。人間「いざとなったら」、イエス様よりバラバのほうを選び、選ばせるのです。人に和解と喜びと平安をもたらすはずの「宗教」が、争いと憎しみと不安を煽(あお)る最大の原因になるという「世にも悲しい」現実がイエス様の十字架刑を通じて明らかにされます。共観福音書の記者たちが、ユダヤの滅亡を通じて見ていた真実は、こういう悲しくも恐ろしい現実の「出来事」だったのです。
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