最後の晩餐と過越の食事
歴史的解釈をめぐって
(2023年12月20日)
■マルコ福音書の記述
出エジプト記12章1〜13節によれば、古代イスラエルの年始めの月は「ニサンの月」(3月〜4月)です。ニサンの14日は「主の過越」の日です。15日から21日までの1週間は、種なしパンを食べる「除酵祭=過越祭」です。主の過越の日の午後に、贖いの供え物として犠牲の羊か山羊を屠(ほふ)り、これを家ごとに食べるのが「過越の食事」です。「過越の食事」をするのは、14日から15日にかけての「夕暮れ時から夜」のことです(「過越」については、コイノニア会のホーム・ページの「聖書と講話」の「共観福音書補遺欄」の「過越について」を御覧ください)。
マルコ14章12節〜17節に準じている共観福音書は、「最後の晩餐」をイエスの当時の「過越の食事」と歴史的に同一視しているという印象を与えます。もしも、そうであれば、イエスの当時の「暦日」が夕刻から夕刻までと見て、最後の晩餐は、ニサンの月の14日の午後の夕刻遅くから、除酵祭の初日の15日が始まる18時〜21時の「過越の食事」の時になります。だから、最後の晩餐の食卓には、14日の午後に神殿で屠られた犠牲の小羊の肉が、種なしのパンと共に饗(きょう)されていたことになります。
■ヨハネ福音書の記述
共観福音書に対して、ヨハネ福音書では、最後の晩餐は「過越祭(15日)の前」(ヨハネ13章1節)だとあります。だから、最後の晩餐は、過越祭以前の13日(木曜)が終わる夕暮れ時の18時前後頃から始まり、遅くとも、14日(金曜)が始まる18時〜21時頃には終わることになります。さらに、イエスをピラトに引き渡したユダヤ人たちが「汚れないで過越の食事を食べるために(異教徒であるピラトの)官邸に入らなかった」(ヨハネ18章28節)とあり、ピラトがイエスの裁判を始めたのは、{過越祭の準備の日、正午頃であった」(ヨハネ19章14節)とあります。出エジプト記12章1〜13節を厳密に読めば、「過越の食事」はニサンの月の15日に行ないます。だから、ヨハネ福音書では、ピラトがイエスの裁判に臨んだのは食事の前日の14日になります。イエスの十字架刑は、共観福音書でもヨハネ福音書でも、共に金曜日ですから、ヨハネ福音書では、14日が金曜にあたります。「準備の日」には、安息日(土曜)の前日の意味もありますから、ヨハネ福音書では、14日(金曜)=主の過越の日=受難の日で、15日が過越祭の土曜日です(コイノニア会ホーム・ページの「聖書と講話」の「共観福音書補遺欄」で、「マルコ福音書とヨハネ福音書の比較表」を参照)。
ヨハネ福音書では、ピラトが裁判の席に着くのが、「準備の日の正午頃」(ヨハネ19章14節)ですから、ピラトの裁判に続くイエスの十字架刑は、15日の過越祭=安息日(土曜)の前日の金曜日で、ニサンの月の14日の正午以後です。したがって、夜が明けて、14日の正午以降に神殿で屠られる犠牲の小羊の肉が、最後の晩餐の席に饗(きょう)されることはありません。ヨハネ福音書では、イエスの十字架の死は、14日の午後に過越の小羊が屠られるちょうどその時と一致します〔J.エレミアス/田辺明子訳『イエスの聖餐のことば』日本基督教団出版局(1974年)18頁を参照。ドイツ語原本の初版はゲッティンゲン:1935年〕。
■暦日の起点は何か
最後の晩餐の「日」の起点は、夕刻なのか?それとも朝なのか? 暦日が夕刻(18時)から次の夕刻までとすれば、犠牲の小羊が屠られる時間帯は、14日の12時過ぎから16時頃まで(?)になりましょう(イエスの頃のユダヤの暦日については、コイノニア会のホーム・ページの「聖書と講話」の「共観福音書補遺欄」の「ユダヤ教の『日』について」を御覧ください)。ユダヤ教で定められた犠牲の小羊の肉と種入れぬパンを饗(きょう)する過越の食事の時は、14日の午後遅く(17時以降?)から15日が始まるその夜の18時〜21時頃になり、もしも、最後の晩餐が、正規の過越の食事であったとすれば、15日のこの時間帯にあたります。
ただし、暦日の起点を朝(6時)に置くならば、犠牲の小羊が屠られる時間帯(14日の午後)が終わっても、14日は、次の朝から始まる15日まで、長い夜間を残すことになります。だから、小羊の犠牲の時間もかなり延長することができましょう。この場合、神殿で屠られた実際の小羊の肉と種入れぬパンの供与は、14日の夜でも可能です。だから、最後の晩餐を「この時間帯」に行なえば、神殿での過越の羊の肉と種なしパンで、正式の「過越の食事」を摂(と)ることができます。
ただし、正規の過越の食事にあたる時間は、聖書の規定通りを「厳密に」行なえば、15日の夜(18時〜21時)にあたります。共観福音書では、15日は、昼間にイエスが十字架刑に処せられる時にあたりますから、朝を起点とすれば、最後の晩餐と正規の過越の食事とは、時間的にズレることになります。イエスの頃には、ユダヤの暦日の起点が、(安息日のように)伝統的な祭儀重視の夕刻からと、ローマ暦の影響で、朝を起点とする場合とが混交していましたから、「日の起点」が問題をややこしくしています。加えて、そもそも、イエスの頃には、共観福音書が書かれた70年以降のような定まった「過越(の食事)」への規定がなく、その実態は多様であったとも指摘されています。
■東方教会と西方教会
共観福音書とヨハネ福音書とが、最後の晩餐とこれに続く受難の出来事において、日程が食い違っているかのように見えることから、ギリシア・ロシア正教やアルメニア正教や東方カトリック教会などの東方教会では、イエスによる最後の晩餐は、ヨハネ福音書の時間と日程に準拠して、正規の過越の食事ではなかったと理解しました。したがって、最後の晩餐に饗(きょう)されたパンは、除酵以前の「種の入った」パンが用いられ、続く「主の晩餐」(聖餐)でも種の入ったパンが記念として与えられたことになります。だから、東方教会では、伝統的に、聖餐では、ユダヤ式の過越ではなく、新約に基づく新しい「パン種入り」のパンを用いています。聖餐のためのパンは、ギリシア語で「プロソフォラ」(複数)と称され、ワインの杯と共に膨らんだパンで表象されます。
聖餐での種入りのパンは、殉教者ユスティノス(2世紀)によって唱えられました。ラオディキアのアポリナリオス(Apollinaris of Laodicea)(315年頃〜392年前まで)は、北シリアのラオディキアの生まれで、ラオディキアの主教です(在位361年頃から)。彼は、父なる神と御子との本性を区別するアレイオス主義に反対し、御子の神性を強調するあまり、御子の人間性を危うくするほどでした。アポリナリオスも、最後の晩餐がユダヤ教の過越の食事ではなかったと主張しました。したがって、「種入りのパン」の聖餐は、すでに2世紀の教会で用いられていました。
他方、ラテン系や欧米の西方教会の伝統的な解釈では、イエスは、共観福音書で規定されたとおりの「過越の食事」を祝ったと理解して、聖餐では、除酵された「パン種のない」パンを用いています(幾つかの丸く平らなパンで表象される)〔ウルリヒ・ルツ/小河陽訳『マタイによる福音書』(Tの4)EKK新約聖書註解。教文館(2009年)112〜114頁を参照。ドイツ語原本は2002年〕。
東方教会の最高の説教者であり、キリスト教を擁護する弁明家(アポロジェスト)として「黄金の口」を有すると称されたヨアネス・クリュソストモス(4世紀)によれば、イエスは、自分に迫る受難のゆえに、15日の過越の食を祝うことが叶(かな)わないことを前もって察知して、最後の晩餐を「過越の食事の前倒しとして」〔ルツ前掲書112頁〕、14日が始まる夕刻に祝ったと解釈しました(ヨハネ福音書の記述に合致)。だから、イエスは、最後の晩餐を祭儀的に過越の食事に「見立てる」ことで、自分自身の「独自の過越」を祝ったことになります。クリュソストモスの解釈は、その後も教会に受け継がれます。この解釈では、最後の晩餐でのパンが、種なしか種入りかは、そのどちらも可能です。
■ヨーロッパ中世
ヨーロッパの中世では、イタリアのシエナの画家ドウッチョ・ディ・ブオンセーニャ(13世紀半ば〜14世紀初め頃)が、シエナ大聖堂のために描いた一連の「マエスタ」があります。その「最後の晩餐」では、イエスを中心に、十二使徒が長方形の食卓を囲み、身を立てて腰を下ろして座り、食卓の中央には、「過越の小羊」と思われる羊の肉が盛(も)られており、使徒たちの前には、円形の種なしパンが置かれています〔ルツ前掲書129〜130頁〕。
イタリアの都市ナポリから国道に沿って北方にあがると、サンタンジェロ・イン・フォルミスがあり、そこには、著名なサンタンジェロ・イン・フォルミス聖堂(建立11世紀)があります。その本堂の南壁に描かれている壁画に、「最後の晩餐」があります。半円形の食卓に沿って左端にイエスが頭(かしら)に円光を帯びて座り、その右に十二使徒がずらりと並んでいます。使徒たちの前には円形の種なしパンが置かれ、中央に過越の小羊が盛られています〔ルツ前掲書132頁〕。
しかしながら、13世紀のフランシスコ会の神学者で枢機卿のボナヴェントゥラ(1217年頃〜1274年。イタリア生まれ)は、先のクリュソストモスの解釈を受け継いで、イエスは、過越に先立つ最後の晩餐をユダヤの過越の祭りの食事に「見立てる」ことで、過越の祭儀の意義を自分の晩餐に採り込んでいると解釈しました〔François Bovon. Luke 3. Hermeneia.Fortress Press(2012). 146.〕。
■20世紀の解釈
【バーナード】バーナードは(John Henry Bernard:1860--1927.)、インド生まれで、アイルランドの首都ダブリンで、教会史、神学、哲学の専門家として、ダブリンの三位一体神学校(Trinity College Dublin)で教え、アイルランド教会(英国国教会系)の大主教に任ぜられました。
「新約聖書の諸文書は、そこで語られている(もろもろの)出来事への歴史的な関心に応える目的で編集されているのではない。(編集の目的は)それらの出来事を通じて、神が働かれたことを証しするためである。」 これが、バーナードの視点です。
ヨハネ福音書は、最後の晩餐の13章で、不思議にも(!)、聖餐に言及していません。バーナードは、その主著である『ヨハネ福音書』(上下2巻)の上巻で、ヨハネ福音書が伝えようとする「聖餐」について次のように述べています〔John Henry Bernard.
Gospel According to St. John. The International Critical Commentary[ICC]. T.& T. Clark (1928). Vol.(1). CLXVI--CLXXXVI.〕。
ヨハネ6章26〜58節は、「受難の日の夕刻」、すなわち、14日(金曜)が始まる夕刻に聖餐を定めたイエスの言葉を間違いなく「想起させている」。ヨハネ6章26〜58節の聖餐についての隠喩的な言語も、歴史的な視野から、かけ離れているように見えるが、共観福音書の僅かな記録から「言い残された(?)主の言葉」を伝えている。「わたし(イエス)の肉を食べる」(6章51節)とは、聖餐のパンを食べることが「イエスの体」を「(霊的な意味において)噛みしめて食べる」ことを指す。このような「生々しい」表現は、新約聖書のどこにも見当たらない。とりわけ、このような重要な言葉を「ひどい(とうてい受け容れがたい)言葉だ」だと拒否する「(敵対する)ユダヤ人」に向けて語られているのは理解しがたい。おそらくヨハネ福音書のこの部分のイエスの言葉は、史的な事実に基づくものではなく、ヨハネ福音書の記者の当時の「仮現説」(キリストは、肉体を具えた現実の人間ではなく、人の姿を装(よそお)うだけの天使のような存在である)に対抗するためのヨハネによる言説であろう。ヨハネは、イエスの「肉体」を意識させるギリシア語「サルクス」を用いており、共観福音書は、イエスの全体的な「からだ」を意味する「ソーマ」を用いている。
【リーツマン】ハンス・リーツマン(Hans Lietzmann:1875--1942.)は、ドイツの神学者で、教会史の専門家です。イエナ大学とボン大学で学び、後に、アドルフ・フォン・ハルナック教授の後を継いで、ベルリン大学の教授に任ぜられました(1923年)。
リーツマンは、『「ミサ」と主の晩餐 ― 典礼史の研究』(1926年)を著わしました。彼の説によれば、第一コリント11章24節で語られている「わたしを覚えるためにこれを行ないなさい」は、ユダヤ教からでたものではなく、1世紀のギリシア・ローマを中心とするヘレニズム世界で、死者を祀るための祭儀宗団が、宗団の基金集めのために定めた用語から出ていることになります(1907年)。だから、「わたしを覚えるためにこれを行ないなさい」は、ヘレニズムの異教世界で、(死者の命日などで)死者を祀るための供養の食事にかかわる言い方から出ている。異邦人のキリスト教会は、これを「主の晩餐」でのキリストの言葉として聖餐に採り入れた。リーツマンはこう考えました。だから、「主の晩餐」は、ヘレニズム世界の影響を受けて、イエスほんらいの食事からは変容したものになります〔J.エレミアス/田辺明子訳『イエスの聖餐のことば』日本基督教団出版局(1974年)388頁を参照。ドイツ語原本の初版はゲッティンゲン:1935年〕。
リーツマンは、また、最後の晩餐は、(過越の食事ではなく)通常の食事であり、イエスとその弟子たちは、ファリサイ派に近い「ハブラー」(「預言者の集い」を表わすヘブライ語「ヘベル」から)と称する特殊なグループを形成していたから、サドカイ派と異なる暦に従って14日に過越を祝ったと考えました〔2023 Bible Organization:NETBibleTagger. An electronic edition.〕。
リーツマンが唱えた「主の晩餐」と「聖餐」は、1920年代から1960年代にかけて、多くの反響を呼びました。その結果、聖餐について、イエスの十字架の死を重視する「パウロ・タイプ」(第一コリント11章26節)と、集会での交わりを重視する「エルサレム・タイプ」と(使徒言行録2章46節)、二つの聖餐論が唱えられ、これが英国国教会にも採り込まれました。しかし、教会の最初期の時代へさかのぼることで、この二つの差異を和(やわ)らげようとする試みも行なわれました〔Anthony C. Thiselton.The First Epistle to the Corinthians. NIGTC. The Paternoster Press(2000)851--853.〕。
【エレミアス】ヨアヒム・エレミアス(Joachim Jeremias. 1900--1979)は、ドイツ・ルーテル教会の神学者です。ドレスデン生まれで、父がエルサレムのルーテル教会の主席司祭であったので、10歳〜15歳の時期をパレスチナで過ごしました。エレミアスは、ドイツのチュービンゲンとライプチッヒの大学でルーテル神学(新約時代史)を学び、哲学博士と神学博士の学位を得ています。グライフスヴァルト大学の新約聖書学教授を経て、ゲッティンゲン大学の新約学の教授になり(1935年)、そこからチュービンゲン大学へ移りました(1976年)〔J.エレミアス/田辺明子訳『イエスの聖餐のことば』日本基督教団出版局(1974年)439頁を参照。ドイツ語原本の初版はゲッティンゲン:1935年〕。過越の食事と最後の晩餐との関係について、エレミアスは、以下のようにまとめています〔TDNT(5)900頁〕。
過越の食事は、通常の食事と異なり、(14日の)夕刻から(15日の)深夜へ及ぶもので、エルサレム市内で食されるべきであった。過越と最後の晩餐との関係について、四福音書は一貫した情報を与えてはくれない。共観福音書は、最後の晩餐は過越の食事だと言い(マルコ14章12〜16節/ルカ22章15節)、ヨハネ福音書は、最後の晩餐をニサンの月の13日〜14日においている(ヨハネ18章28節/19章14節)。最後の晩餐を過越の食事と同一視する共観福音書に対しては、ラビによる法典(ハラハー)に基づく批判が向けられているが、その批判は誤った前提によるものである。法典は、サンヒドリン(最高法廷)が過越祭の夜にイエスを断罪する裁判を開くのは、過越祭で禁じられていると言う。しかし、申命記17章12節(その他)では、律法は、特別な重罪(偽りの預言はこれに含まれる)の場合、処刑は(犯罪を抑止する)効力があると定めている。イエスの場合、最高法院は、この特例を適用して、逮捕後、直ちに裁判で断罪する必要があった。同時に、共観福音書もヨハネ福音書も、最後の晩餐が過越の食事の性格を具えていたと語っている。例えば、イエスがパンと葡萄酒に特別な意味を持たせて語り行なう仕草は、最後の晩餐の過越の性格を抜きにしては説明できない。過越の食事を事細かく説明するのも、家の主人が、過越の食事に際して行なうべき大事な行事であった。ヨハネ福音書で、最後の晩餐が(過越祭の)24時間前におかれているとすれば、イエスの十字架の死を(14日の午後に)過越で犠牲にされる子羊にたとえることが、広く行なわれていたからであろう。
エレミアスは、このように、四福音書が証しする最後の晩餐が、イエス以後のキリスト教会によって、ヘレニズム世界の異教的な「死者への弔い」儀礼から採り込んだ神話化された物語だという見方をはっきり否定しました〔エレミアス『イエスの聖餐の言葉』392〜394頁〕。
パウロが聖餐について述べている「わたしを覚えるためにこれを行ないなさい」(第一コリント11章24節)は、そのままルカ22章19節の聖餐制定のイエスの言葉として引用されています。リーツマンによれば、この言葉は、イエスが最後の晩餐で実際に語った言葉ではなく、原初のキリスト教会が、イエスが生前に行なっていた日ごとの食事を継承するために、教会によって後から編み出された言葉になります。
このリーツマン説に対して、エレミアスは、そのようなイエスの言葉解釈に疑義を呈し、「わたしを覚えるためにこれを行ないなさい」は、イエスが、(最後の晩餐の?)食事の席で実際に語った言葉であり、それゆえに、この命令が、原初教会で、最後の晩餐の言葉として採用されたと考えました。最後の晩餐では、現在共観福音書で語られているよりも、もっといろいろな言葉が、イエスの口から発せられたに違いない。だから、聖餐へのイエスの命令の言葉は、聖餐についての最古のテキストには見当たらないけれども、パウロ以前からパウロへ引き継がれたものだとエレミアスは見るのです〔エレミアス『イエスの聖餐のことば』386頁〜394頁を参照〕。
エレミアスによれば、最後の晩餐の日付は、史実的に見て共観福音書の記事のほうが正しいことになります。「共観福音書の日付にしたがえば、イエスは(14日の日没後に始まる15日の)過越の祭りの第一日目の夜間の時期に捕縛されたことになります〔エレミアス『イエスの聖餐のことば』106頁〕。その上で、エレミアスは、「(共観福音書の)受難物語の記事は、ニサンの15日に起こりえない出来事をなに一つ報告してはいない」と言うのです〔前掲書117頁〕。
【シュヴァイツアー】アルベルト・シュヴァイツアー(Albert Schweitzer:1875--1965.)は、ドイツとフランスの国境に位置するアルザス地域の牧師の息子で、ドイツのシュトラスブルク大学で、神学と医学を学び、神学者、哲学者、オルガニスト(とりわけバッハの演奏家)として知られています。彼は、アフリカのランパネラで医療に従事することで、「密林の聖者」と称されています。
シュヴァイツァーは、過越の食事の式順を丁寧に辿(たど)ることを通じて、共観福音書の最後の晩餐の記事には、過越の羊の肉が饗(きょう)されていたと記されてはいないこと、イエスの処刑が大事な祭りの当日に行なわれたとは考えがたいことから、ヨハネ福音書が言う14日(金曜)が、史実としてのイエスの処刑の日であろうと結論づけています〔E・シュヴァイツァー『NTD新約聖書註解:マルコによる福音書』高橋三郎訳。NTD新約聖書註解刊行会(初版1976年)。396頁〜399頁。/ドイツ語原本は1975年〕。また、最後の晩餐でのイエスのパン裂きの言葉と、過越の食事の式順とを比較して、最後の晩餐が過越の食事だとは言えないとした上で、最後の晩餐が過越の食事と「同じ位置に置かれている」ことを指摘し、イエスは、自分の逮捕と処刑を前もって見通していたと主張しています〔前掲書400〜401頁〕。
【デイヴィス】イギリスの代表的な旧新約聖書の註解シリーズであるInternational Critical Commentary のマタイ福音書は、最後の晩餐について、以下のような意見を述べています。
イエスの最後の晩餐が、過越の食事であったのか、なかったのか? (著者たちは)この難問に寄与するだけの答えを出すことができない。史実はどうあれ、マタイ福音書は、最後の晩餐は過越の食事であると明白に述べている。(しかし)ヨハネ福音書は過越の食事でなかったと言い、共観福音書の記述にも、どちらかと言えば、マタイ26章17〜19節とは一致せず、ヨハネ福音書と合致するところが多い〔W.D.Davies and D.C.Allison. Matthew 19--28. ICC.T&T Clark (1997)456.〕。著者の自分たちが、自己の判断を正当化することはできないまでも、私たちは、以下の点を確信を持って言うことができる。
聖餐制定の言葉は、実際のイエスの言葉に基づくものであり、イエスは、(出エジプト記24章との比較において)自分の死を新たな終末的な契約と関連づけている。過越の食べものには伝統的な解釈が与えられていたが、イエスは、この伝統に合わせて、自分の前に置かれた食べ物に解釈を与えている。「一同が食事をしているその時に」(マタイ26章26節)、イエスはパンを採り上げ、賛美の祈りを捧げ、「受け取りなさい。これはわたしのからだである」と語った。しかし、共観福音書は、イエスの言葉も仕草も、過越の食事に含まれる焼かれた小羊についても、四つの杯も、種なしパンも、(過越の食事での)伝統的な説明も、過越の食事への所作も、何も語っていない。(イエスの)この食事は過越の食事でなかったとする見方が多い一方で、マタイが準拠するマルコの前マルコの資料では、過越の食事の詳細は、すでに暗黙に了解されていて説明の必要がなかったという見方もできる。大事なのは、イエスの所作と言葉が、(それまでの過越と)際立って明確に区別されていることである。ここで、これまでの新約学から見過ごされてきた大事な可能性に注目したい。それは、我々が知る過越規定は、紀元70年以後に形成されたミシュナによるものであり、したがって、(この過越規定に)共観福音書の語りとの対応関係を期待すべきではないことである〔W.D.Davies et al.. Matthew 19--28. 469.〕。
■21世紀の解釈
【シセルトン】アンソニー・シセルトン(Anthony Thiselton.1937--2023)は、イギリスのノッティンガム大学の神学部主任で、キリスト教神学の教授であり、英国国教会レスター司教座聖堂の参事会のメンバーです。シセルトンは、その著書 The New International Greek Testament Commentaryシリーズの『第一コリント人への手紙』(2000年)で、第一コリント11章17〜34節におけるパウロの主の晩餐について次のように注釈しています〔Anthony C. Thiselton.The First Epistle to the Corinthians.
NIGTC. The Paternoster Press(2000)851--853.)。
20世紀と21世紀の分かれ目にあたる年(2000年)に出たシセルトンの説では、
(1)主の晩餐(the Lord's Supper)=聖餐(the Eucharist)が(十字架における)「主の死を告げ知らせる」ことは、使徒とキリスト教会の信仰の要(かなめ)であって、コリントの教会においては、使徒に倣(なら)って「主の死」を「覚えて、(聖餐を通じて)これを表わす」ことが、単なる言葉や儀礼を超えるクリスチャンの生き方そのものであった。
(2)1920年代から1960年代にかけて、ハンス・リーツマンの「ミサと主の晩餐」(1926年)と、これに続く英語版(1953年〜1979年)によって、「原初教会における二つの異なる聖餐」説が幅を効(き)かすようになった。キリストの死に焦点を置く「パウロ型」と、教会での交わりを喜ぶ「エルサレム型」とである。リーツマンの説の背後には、「キリスト復活神話」説から生じた「復活者との交わりの食卓神話」がある。しかしながら、最近の研究によって、リーツマンを初めとするこのような(神話)仮説には、なんら証拠立てる根拠がなく、聖餐の(史的事実を求める)エレミアスの説のほうが支持されている。だから、第一コリント11章17〜34節の解釈において、リーツマンとその後継者たちの「時代錯誤の先入観」よるべきではない。
(3)コリントの教会における「持てる者」と「持たざる者」との間の溝となる食事と聖餐の祭儀については、コリントの周辺における天災による食糧危機がその背景にある。干ばつにより、コリントのような非農業的な商業都市は、自前で十分な食糧を調達することができなかった事情がある。このために、貧困層が苦しんだと考えられる。
【ルツ】ウルリヒ・ルツ(Ulrich Luz:1938--2019)は、スイスの神学者で、ベルン大学の名誉教授です。彼は、スイスのチューリッヒ大学とドイツのゲッティンゲンの大学で、シュヴァイツアーやコンツェルマンからプロテスタント神学を学び、ゲッティンゲン大学の新約学の教授になり、スイスのバーゼル大学で定年を迎えました。東京の国際キリスト大学で教え(1970年〜71年)、関西のキリスト教学会でも講演をしています。主著に『マタイによる福音書』があります。ルツによれば、最後の晩餐は次のようになります。
マタイは、マルコの記述に準拠しながらも、イエスの史実に基づこうとする伝記的なマルコの記述から「離れて」、マタイ独自の「キリスト論的な神学的考察」によって、主の晩餐(聖餐)を解釈している。マタイのキリスト論的な神学から見れば、最後の晩餐とこれに続く主の晩餐は、もはや、ユダヤ的な過越の食事ではありえない〔ウルリヒ・ルツ/小河陽訳『マタイによる福音書』(Tの4)EKK新約聖書註解。教文館(2009年)108〜110頁を参照。ドイツ語原本は2002年〕。マタイの記述では、イエスは、「自分の時は近い」(マタイ26章18節)と述べて、自分の受難を予知し、自己の十字架刑が、「二日後の過越祭」に迫っていると予測している(マタイ26章2節)。イエスは、自己の受難の意義と「その時」を「予め知っている」が、「予め予測している」この点では、マタイの記述はヨハネ福音書に近い〔ルツ『マタイによる福音書』(Tの4)110〜111頁〕。
20世紀を含む従来の(ヨーロッパの)キリスト教会は、聖餐のパンとぶどう酒が、キリストのからだと血とに「現実に変容するのか」?それとも、パンもぶどう酒も「単なる象徴にすぎないのか」?このような神学的定義をめぐって、分裂を繰り返してきた。 しかし、マタイの主の晩餐が証しすることは、「贖罪」という罪の赦しが、キリストの十字架(死)を通じて初めて可能になったことであり、「この出来事」を証しする聖餐によって、分裂ではなく、キリスト教共同体を形成するよう目指すことである〔前掲書154〜156頁〕。マタイによれば、主の晩餐でのパンとぶどう酒は、イエスのからだと血「である」と言う。これは隠喩/暗喩(metaphor)であり、マタイが求めているのは、キリスト教会が、「この隠喩の神秘」に「参与する」ことである。
【フランス】リチャード・トマス・フランス(Richard Thomas France. 1938--2012)は、イギリス生まれで、オックスフォード大学のBalliol Collegeの修士を終えて、ロンドン大学の博士課程を経て、ブリストル大学で博士号を取得。アフリカのナイジェリアの中心都市イフェのイフェ大学で聖書学を教え、ロンドン神学大学で新約学を教え、オックスフォード大学のウィクリフ神学校の校長に。英国聖公会の七教区の主任牧師であり、The New International Version of the Bible(NIV)の翻訳委員のメンバーです。
フランスの説によれば、マルコが「主の晩餐」で述べているのは(マルコ14章22〜25節)、共観福音書と第一コリント人への手紙での「主の晩餐」への記述全体の基礎となるものです。とりわけ、マルコ14章22節には、「採り上げる」「感謝する/賛美・祝福する」「裂く」「与える」「受け取る」など、鍵となる動詞が含まれています。マルコの記述には、ルカ22章19節の「私の記念としてこれを行ないなさい」がありませんが、マルコの頃の教会の聖餐では、「想起する/記念する」のが当然のことだとされていたからです。
マルコの記述では、「多くの人のための」イエスの死は、その体と血が顕わす隠喩的な象徴性に絞られています。イエスの言葉は、出エジプトの過越の夜にも通じる終末性を帯びて弟子たちに迫るものでした。だから、後のキリスト教会による「感謝の聖餐」(ユーカリスト)"the Eucharist"とは、雰囲気が違います。イエスの死に結びつく「体」と「血」は、「恵み」を連想させるよりも、過越の食事を超える「新しい契約」として弟子たちの胸に刻まれるものでした(エレミヤ31章31〜34節を参照)〔R.T. France. The Gospel of Mark. NIGTC. The Paternoster Press(2002).569--570.〕。
マルコは、最後の晩餐との関連で、「過越の食事」を3度くり返しています(14章12節/14節/16節)。このため、ヨハネ福音書とは異なり、共観福音書の最後の晩餐は、ニサンの月15日の「正規の過越の食事」(パスカ)であったというのが、従来の一般的な受け取り方です。共観福音書とヨハネ福音書とのこの違いについて、次の諸説があります。
(1)エルサレムでの異なるグループによる異なる暦による「過越の日」と関係する。
(2)ヨハネの最後の晩餐も15日にあたる(エレミアスの説)。
(3)共観福音書による最後の晩餐は、正規の過越の食事ではない。
(4)イエスは、受難を予測して、過越の食事を14日に早めた。共観福音書の記者たちは、この伝承を誤解して、イエスが意図した「過越の食事」は15日のことだと判断した。
これらの諸説に対して、フランスは、最も納得できる解決案として、以下のように指摘しています。
(1)福音書以外のラビの伝統などから判断すると、イエスの死は「過越の夕べ」、すなわち、ヨハネ福音書が証しするとおり、ニサンの14日の可能性が高い。天文学的に見ても、ニサンの14日が金曜であった可能性が高い。
(2)最後の晩餐が、(15日の)正規の過越の食事の前夜(木曜日)の夕方であったとしても、共観福音書は、これを正規の「過越の食事」に「相当する」と見なし、「過越の食事」として記述している。イエスは、「過越の食事」を採ることが、公式の日(15日)にはかなわないことを予め察知して、可能な間に「過越の食事」を採ろうと意図したと考えられる。この場合、晩餐でのパンは、「種入り」の可能性が大きい。
(3)最後の晩餐と過越の食事との関係について、最も注目されるマルコ14章12節は、最後の晩餐が、「過越の小羊を屠る日」、すなわち14日のことだと証言している。通常のユダヤ式の「日」は、夕刻に始まり夕刻に終わるから、マルコのこの記述によれば、最後の晩餐が行なわれたのは、14日が「始まる」夕刻から夜にかけてのことになる。したがって、最後の晩餐は、神殿で実際に小羊の犠牲が始まる午後よりも「以前の」夜のことになるから、これは、ヨハネ福音書の記述と合致する。したがって、実際に神殿で屠られた小羊の肉は、最後の晩餐には出ていなかった。パンは、除酵祭の直前のことであるから、種なしも可能であるが、通常の種入りでも間に合うであろう。
〔R.T. France. The Gospel of Mark. NIGTC. The Paternoster Press(2002).559--562.〕
〔R.T. France. The Gospel of Matthew. NIGTC. Eerdmans Publishing Co.(2007).981--982.〕。
フランスのこの(3)の説には、これに反対して、暦日の起点を「朝に置く」説があります。この朝説だと、真夜中のイエスの逮捕に続くピラトの裁判とイエスの十字架刑は、晩餐の翌日の15日のことになります。
共観福音書の記述は、暦日を「朝(6時)から次の朝まで」と見ている。これだと、マルコ14章12節の「過越の羊を屠る日」の最後の晩餐は、14日の午後に犠牲の小羊が屠られた「その後で」、同一日の夕刻から夜にかけて行なうことができるから、晩餐には、「正規の過越の食事」として、種なしパンと、神殿で屠られた肉とが出されていた。だから、共観福音書は、最後の晩餐を(ほんらいは15日である)「正規の過越の食事」だと見なしている。
共観福音書の最後の晩餐に関する記事については、現在でもこの朝説が広く行なわれているようです。しかし、このような緒論の中にあって、フランスの見解は注目に値いします。筆者(私市)の見るところ、フランスの見解は、ラオディキアのアポリナリオスやヨアネス・クリュソストモスたち教父の見解を受け継ぐもので、中世のボナヴェントゥラの見方に近いと思われます。筆者(私市)も、共観福音書とヨハネ福音書との統合を可能にするだけでなく、史実としての最後の晩餐の有り様として、フランスの言う「イエスによる先見に基づく晩餐の日取り」と「過越の祭儀的な意義を帯びた最後の晩餐」説を支持します。
【コリンズ】アデラ・コリンズ(Adela Yarbro Collins. (1945)は、アメリカの新約学者で、夫のジョン・コリンズはアメリカの旧約学者です。彼女は、ポモナ大学を出て、ハーヴァード大学神学部で博士号を取得し、エール大学の神学部で新約聖書学を教え、傍(かたわ)らで、シカゴ大学でも教えています。彼女は2010年〜2011年の新約聖書学会の会長で、主著に『マルコ福音書』があります〔Adela Yarbro Collins. Mark. Hermeneia. Fortress Press(2007). .〕。
アデラ・コリンズによれば、過越の食事の準備を語るマルコ14章12〜16節と、イエスと弟子たちが最後の晩餐を摂(と)るマルコ14章17〜21節とは、内容的に一致しません。前半(準備)は、「十二弟子だけでなく、より大勢の人が」(?)食事に与るように思われます(<?>は筆者私市。「弟子たち」の解釈がおかしい)。これに対して、後半は、イエスと十二弟子だけの食事です。前半では、(晩餐が)正規の過越の食事であると思われるのに対して、後半では、(晩餐に)正規の過越の食事の内容が言及されていません〔Collins. Mark. .648.〕。
アデラ・コリンズによれば、マルコ14章12〜16節で語られている最後の晩餐への準備の記事は、マルコが所有する受難物語の資料とは別個に伝承された「作り話」になります。この伝承は、サムエル記上10章1〜10節で、サウルが、預言者たちの仲間から霊を受ける出来事を預言したサムエルの話をモデルにした作り話で、「先が見えない出来事を予め預言する」教師の物語だというのです。
コリンズによれば、マルコの記事の冒頭に「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日」とあるのは混乱を生じます。混乱の原因は、(捕囚期以前の)古代のイスラエルでは、暦日が「朝から朝まで」であったのが、(捕囚期以後の)王朝時代のある時から、暦日が「夕から夕まで」へと変わったからです。あるいは、(マルコの頃の)パレスチナのユダヤ人は、暦日を「夕から夕まで」と数えたのに対して、マルコ福音書の読者を含むギリシア・ローマ時代の異邦人は、(ローマ暦に従って)暦日を「朝から朝まで」と数えたので、マルコは、自分と同時代の異邦人の読者に合わせる意図から、資料の暦日の数え方の「夕から夕まで」を「朝から朝まで」へ変更して編集した。コリンズは、このように想定しています。
暦日が「夕から夕まで」なら、マルコ14章12節の「準備の日=過越の小羊を屠る日」とは、14日のことになり、「過越の食事の日=除酵祭の第一日」とは、14日の「夕刻から始まる」15日のことになります。もし「朝から朝まで」なら、「準備の日=(14日午後から)過越の小羊を屠る日」と、「(その日の夜の)過越の食事の日=除酵祭の第一日」とは、同じ14日のことになります。
コリンズは、最後の晩餐の準備を「弟子たちの側から申し出た」とあるマルコ14章12節は、古い伝承だと見て、その上で、水瓶を運ぶ男が「どこの家に入ろうとも」と言うイエスの言葉を取り上げて、イエスが「予めその家の主人と約束していた」と見る説を否定しています。彼女は、イエスが語ったとされるこの言葉は、サムエル記上10章1〜10節の物語から出ていて、預言者サムエルが、サウルに向かって「あなたは、今日、わたし(サムエル)から去って、ベニヤミンの領地のラケルの墓の側で二人の男に出会うだろう」と告げている故事をそのまま真似ていると見るのです〔Collins. Mark. .647.〕。
【ローマ法王ベネディクト16世】名誉教皇ベネディクト16世であるヨゼフ・ラツィンガーは(Joseph Ratzinger Benedict XVI.1927--2022.)、ドイツのカトリック教会の神学者で、教皇在位は2005年〜2013年です。ラツィンガーは、ドイツの故郷バイエルンで司祭に叙階され、ドイツの複数の大学で神学教授を務め、ミュンヘンとフライジングの大司教となり、時の教皇パウロ2世によって、ローマ教皇庁の教理研究所の所長に任ぜられました。ラツィンガーは、以下のように述べています〔名誉教皇ベネディクト16世ヨゼフ・ラツィンガー『ナザレのイエスU:十字架と復活』 里野泰昭訳。春秋社(2013年)126頁〜151頁。ドイツ語原本は2010年〕。
最後の晩餐と「エウカリスティア」(聖体祭儀)とについては、互いに矛盾する仮説が乱立していて、出来事の実際を知ることが絶望的なように思われます。しかし、これらは、キリスト教の核心に関わる問題であり、イエスの姿と出来事の歴史的な事実を避けて通ることができません。キリスト教は、地上で実際に起きた歴史的な出来事に基づくからです。この課題について、ヨハヒム・エレミアスは、歴史学と文献学を通して価値ある成果を残しましたが、彼の説には、正当な批判が提起されており、彼の説の確実性には限界があります。
また、最後の晩餐の「日付け」について、ラツィンガーは次のように言います。マルコ福音書には次のようにあります。「種なしパンの祭りの第一日目(14日)、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに『過越の食事をなさるのに、どこに準備しましょうか』と言った・・・・・夕方になるとイエスは、十二人と一緒にそこへ行かれた」(マルコ14章12節/14節/17節)。
共観福音書では、この「第一日目」は木曜日です。イエスと弟子たちの食事は、その日の日没後、すなわち、過越の祭りが始まる(15日の)夜のことですから、金曜日が「始まる」夜です。共観福音書では、この(金曜の)夜にイエスが逮捕され、午前9時頃十字架につけられて、午後3時に息を引き取ります。これだと、イエスの裁判と十字架刑は、ちょうど過越の祭りの当日(15日)に行なわれたという「難点」が生じます。ユダヤ人にとって重要な大祝日に、裁判と十字架刑が可能であったかが疑問だからです。大祭司や律法学者たちは、「(イエスの逮捕を)祭りの間は止めておこう」(マルコ14章1節)と言っています。
ヨハネ福音書のほうは、最後の晩餐と過越の食事とを同一視するのを慎重に避けています。イエスをピラトに突き出したユダヤの権力者たちは、「穢れで、過越の食事ができなくなるのを怖れて」いますから、これは14日の「明け方」のことで、この日の夕方から(15日の)過越の祭りが始まります。だから、裁判と十字架刑は、過越の当日のことではありません。ヨハネ福音書では、晩餐は、共観福音書が言う「木曜日の晩から金曜日の晩にかけて」のことではなく、その「前日」のことになります。ヨハネ福音書でも、最後の晩餐は、木曜日の夜のことですが、それは、祭りの前日の夜ですから、裁判と処刑の金曜日は、祭り(15日)の当日ではなく前日です。だから、イエスは、意義深いことに、「過越の小羊と同時的に死んだ」ことになります。これを「神学的な作りあげ(でっちあげ)」として、史実でないと否定する説があります。「しかし、今日では、ヨハネの日付けのほうが、共観福音書の日付よりも歴史的に確からしいことが、ますますはっきりしてきました」。
継いでラツィンガーは、アニー・ジョベールの説を紹介し、古い『ヨベル書』の暦に基づいて、イエスと、当時のユダヤの権力者たちとは、それぞれ異なる暦に従ったから、共観福音書とヨハネ福音書のこの件に関する記述は、「どちらもそれなりに正しい」という彼女の見解を紹介した上で、彼女の説では、最後の晩餐が、木曜日から火曜日に移ることになる難点をあげて、その説は納得できず、史的な蓋然性に欠けると見ています。
しかし、ラツィンガーは、ジョベールの説が、イエスの時代のユダヤ教の「多様性」を指摘していると評価しています。さらに、ジョン・マイヤーの説を紹介して、「ヨハネ福音書に軍配を上げなければならない」と述べています。マルコが「過越の食事」に触れている部分は、「後からの挿入」ではないかと言い、それ以外の箇所で、マルコは過越について語っておらず、共観福音書自体も過越の儀礼に従っていないとマイヤーは見ています。
ラツィンガーは、イエスと弟子たちの最後の晩餐は、ユダヤ教の(過越の)祭りの食事に従うものではなく、イエスは、「自らを真の小羊として、イエス自身の過越」を設立したと見ています。イエスは、彼の死が迫っていると知り、過越の食事をとることができないと悟り、弟子たちと「特別の食事」を意図した。それは「イエスの過越」であり、実際の過越の時には、イエスはすでに死んでいたのです。パンとぶどう酒の「エウカリスティア」こそ、十字架と復活を先取りする「イエスの過越」そのものなのです。 ラツィンガーのこの説は、筆者(私市)の見るところ、先に挙げたフランスの説と共通するところが多いと言えます。
*マルコの編集意図をも含めて、共観福音書の暦日の数え方の実状について、また、受難週と最後の晩餐についての筆者(私市)の見解は、次を参照してください。
(1)コイノニア会・ホーム・ページ→聖書と講話→共観福音書補遺→「ユダヤの『日』について」。
(2)同ホーム・ページ→聖書と講話→共観福音書講話→190章「過越の食事の準備」の「講話」の欄。
(3)同ホーム・ページ→聖書と講話→共観福音書補遺→マルコ福音書とヨハネ福音書の比較表。
(4)同ホーム・ページ→聖書と講話→共観福音書補遺→ヨハネ福音書を基準とした(受難週の)日程表。
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