第6章  神教と日本
一神教から唯一神教へ
 私たちは一般に、一神教とはひとりの神を崇拝し、多神教は多くの神々を拝むことだと考えています。そして、日本は多神教の国であり、欧米はキリスト教だから一神教だ。なんとなくそんなふうに考えています。多くの知識人たちも、宗教を語るときに、この点をずいぶん大ざっぱに割り切って、これを前提にして議論をしているようです。ところが、一神教と多神教との関係は、実はそれほど単純ではありません。厳密に言うと日本は、必ずしも多神教とは言えないところがあるのです。
 まず、一神教と唯一神教、多神教とその最高神、これらの関係から説明します。モーセの十戒は、「あなたがたには、私のほかに神はいない」という宣言で始まります。このことは、「あなたがた」以外の周辺の諸民族は、ヤハウェ以外の神々を拝んでいたことを意味しています。すなわち、この宣言は、「神は宇宙にただひとりしかいない」と言っているのではありません。大切なのは、「あなたがたには」のほうです。モーセの民にとっては、神はヤハウェ一人だけである。こう言っているのです。つまり、ほかにも神はいろいろあるけれども、あなたがたはそれらでなく、一人の神だけを「主なる神」として礼拝しなさいという意味です。これが一神教です。しかし、これは「唯」一神教ではありません。
 イスラエルの神は、このように旧約時代の初期の頃には、一神教であったと言えます。ところが、アッシリア帝国によって北イスラエル王国が滅び、バビロニア帝国によって南ユダ王国が滅ぼされて、ヘブライ民族は捕囚として50年ほど異国の地にとらわれるという厳しい体験をします。この前後に、ヘブライの預言者と呼ばれる一群の人たちが現れます。これらの預言者たちを代表する人物にイザヤという人がいますが、彼は、ヤハウェこそ、全世界を支配する唯一の神であると宣言するのです。この頃から、ヘブライの神こそ全宇宙を支配する超越した神であるという唯一神教が芽生え始めます。一神教から唯一神教への移行が生じたと言えましょう。注意しなければならないのは、唯一神教が、このように民族的な危機の中から生まれてきたということです。
ヘブライの神は本来一神教でない
 ところで、イスラエルの神は、そもそものはじめから一神教であったかと言えば、実はこれも、それほど単純ではありません。ヘブライ語の「神」を意味する「エロヒーム」は複数なのです。このことだけでなく、旧約聖書には、ヘブライの神が、その原初から一神教ではなくて、それ以前に、イスラエル民族が多神教の影響を受けていた形跡があります。たとえば、旧約聖書には、太陽、火(セラフィーム)、風(ケルビーム)、巨人など、自然を人格化した表象表現や天使たちや巨人がでてきます。これらは元来、太陽や風や火が、なんらかの霊力のあるカミとして崇拝されていた時代の痕跡を残しています。また神々が人間と交わって半神半人の英雄がいたことを示しています。聖書で厳しく排除され、あるいは忌避される悪霊でさえもそうです。これなどは、おそらく外国のカミであったのが、唯一神教の影響で、悪の霊へと落とされていったと見ることもできます。こう見てくると、ヘブライの宗教だけを通じても、多神教の影響から一神教へ、さらにヤハウェが「神々の神」として最高神となり、さらに唯一神教へ推移するという複雑な過程を認めることができます。
アニミズムは多神教か?
 一方、典型的な多神教、あるいはアニミズムの世界、すなわち自然のさまざまな現象にカミを認める素朴な信仰も、単純ではありません。南アジアやその他の地域の原始的な部族の神々は、確かに多神教です。けれども、これらの原始的な宗教が、その原初から多神教であったと考えるのは誤りです。長い間そういうふうに誤解されてきたのですが。なぜなら、たいていの部族の神話には、はじめに、ひとりのカミがいたところから始まるからです。どこから来たのかどうして出てきたのかはわからない。とにかくひとりのカミがいます。もっともこの原初のカミが、ある特定の動物だったりしますが。そしてこのカミから、さまざまな神々が生まれたり造られたりするのです。いわば、原初のカミから「少し低い神々」(英語でlesser gods)が次々と産まれてくる。このデミウールゴス(半神)の神々が、大自然の豊穣や多産や宇宙の構成を司る役割をするのです。
 ところが、はじめのひとりカミのほうは天上に高くいたまま何もしない。いわば、大自然や星空からも隔絶したままでいるのです。こういう神話体系では、その最高神は、人間や自然にほとんど関心を持ちません。人間のほうも、自分たちに直接関与しないから恐れたり敬ったりしない。こうして、いるにはいるけれども、神話の中にはほとんど姿を見せなくなります。もっぱら戦(いくさ)や性や豊穣や天候を司る神々などが恐れられ敬われることになります。原初のカミは、このようにして次第に忘れられてしまう。このようなカミを「閑(ひま)なカミ」と言います。原始の部族の神話には、たいていその原初にこの「閑なカミ」がいます。ギリシア・ローマ神話では、最高神はゼウス(ジュピター)ですが、このカミは閑なカミではなくいろいろなことをやります。しかし、ご存知と思いますが、ゼウスは決して「はじめのカミ」ではない。ウーラノス(天)がはじめのカミですから、やはりこれも「閑なカミ」に入ると言えます。こうしてみると、従来多神教だと考えられてきた神話形態にも、実はそのはじまりにひとりカミがいることがわかります。
ヨーロッパは一神教か?
 ヨーロッパはキリスト教だから一神教だ。これは皆さんの常識みたいになっているかもしれません。ところがそう簡単ではないのです。ヨーロッパにはギリシア・ローマ時代の神々が生きている、と言ったら皆さんはびっくりするかもしれません。しかしこのことは、英文学などをやっている人にとっては少しも不思議でないのです。たとえば16世紀のイギリスでは、確かにキリスト教の神(the God)は、創造主として最も高い天にいます。しかし、この神の下では、マルスだとかヴィーナスだとかマーキュリー(ヘルメス)だとかジュピター(ゼウス)だとかが惑星の世界を司っている。さらに黄道12宮にはそれぞれに星座が配置されていて、宇宙の運行と人間の運命を司っている。曜日の名前がここから出たのはこの頃からですね。英文学で言えば、シェイクスピア時代の宇宙はそういう構造になっています。これではまるで、キリスト教の神は「閑なカミ」みたいです。このような伝統はそれ以後の欧米の文学や思想にも受け継がれています。
日本のカミは多神教か?
 もう皆さんはお気づきと思いますが、日本の『古事記』では、この「はじめのカミ」は、「アメノミナカヌシノカミ」(天之御中主神)です。この「アメ」は「天」ではなくて「海」のことを指すのだという説もあります。このカミの下に「タカミムスビノカミ」(高御産巣日神)と「カミムスビノカミ」(神産巣日神)がいます。『古事記』ではこの後に二人のカミが来て、さらに7代の神々が出てきますが、この7代の最後にイザナギとイザナミの男女のカミがでてきます。この二人が国を生むのですね。さらにイザナギから、禊(みそ)ぎによってアマテラスオオミカミ(天照大御神)やスサノオノミコトをはじめ、天然の世界を司る八百万(やおよろず)の神々が生みだされることになります。しかし、アメノミナカヌシはほとんど活躍しません。だからそういうカミがいるということだけしか『古事記』には書いてないのです。このために日本の神話体系は、その中心が空洞になっている。つまり「中空」構造になっていると指摘されるわけです。
 このアメノミナカヌシは、「ただ位置を示すだけで内容がないひとり神」なので、おそらく中国の「天」に対抗して日本の神の高さと理想を外国に向かって示すために『古事記』の時代に新しくつくられたのだろうと言われてきました〔肥後和男著『神話と歴史の間』大明堂、1976年、19頁〕。 しかし、これは、先に述べた世界のもろもろの神話に共通する原初のカミとしての「閑なカミ」を知らないことからくる推量であって、この「閑なカミ」はやはり古代から日本の神話に存在していたと現在では考えられています〔吉田敦彦著『小さ子とハイヌウェレ』みすず書房、1976年、113頁〕。 
 ところで、これらの「閑なカミ」は、ほとんど活動しないと言いましたが、その「閑な」はずのカミが熱心に求められるときがあります。天然の災害とか、戦とか、共同体全体が非常な危機に陥ったときなどには、ほかの神々よりもこの原初のカミが熱心に求められるということが起きます。だから、このカミは、いわば、最後に残された「取って置き」の希望とでも言うべきカミです。この間、ある反ユダヤ的な本を読んでいたら、日本で西欧の一神教に対抗できるのは、アメノミナカヌシしかいないというようなことが書いてありました。このカミが中国の天と対抗する。あるいはキリスト教の神と対抗する。こう主張しているのです。こういうぎりぎりのところへ来ると、やはり「閑なカミ」が登場することがわかります。
日本はキリスト教に向かない?
 確かに、ヘブライ・キリスト教の世界では、一神教の伝統が支配的であり、アジア諸国は、どちらかと言えば多神教の特徴を帯びていると言えます。しかし、ヘブライの神が一貫して変わらないと考えるのは間違いですし、ヨーロッパの場合はもっと複雑です。こう見てくると、ヘブライ・キリスト教の国々は一神教で日本は多神教であると簡単に割り切ることができません。一神教と呼ばれる世界でも、多神教が入り込んでおり、同時に多神教とされる世界にも一神教、あるいは中国の天のように唯一神教の特徴さえ帯びる場合があるからです。だから、私たちの日本を含めて、どの世界、どの文化も一神教と多神教の両方の特徴をそれなりに具えていると見るべきです。
  従来から日本は多神教の国だから一神教の宗教に向かないとか、欧米人は一神教だから日本人とは考え方が違うとか言われてきました。今でもそう考えたりそういうことを言ったりする人たちがいます。しかし、これでは少し大ざっぱすぎます。間違いと言ってもいい。かつて仏教はヤマトの国にはふさわしくないと思われました。しかし、現在では、日本は仏教にとって「相応の国」であったと言われているのです。同じような意味で、私は、日本が、一神教あるいは唯一神教とも言うべきイエス・キリストの福音を受け入れるのにふさわしい国だと考えています。これには二つの理由があります。一つは今述べた日本の神話構造が中空的な性格を持っていることです。もう一つの理由はキリスト教の側にあります。
キリスト教は外国の宗教
 皆さんは、キリスト教は外国の宗教だから日本には定着しない、こう考えておられるかもしれません。確かにキリスト教は外国の宗教です。土着の宗教ではないから、いわば「翻訳の宗教」です。しかし、キリスト教は、そもそものはじめから「翻訳の宗教」なのです。キリスト教のもととなる聖典はギリシア語で書かれています。キリスト教の最初の使徒と呼ばれる人たちは、ユダヤ人でした。彼らは、ヘブライの神を父なる神とするイエス・キリストをギリシア語で伝えました。ユダヤ教の聖典はヘブライ語です。しかし、彼らはヘブライ語をギリシア語に訳した聖典を使って福音を伝えたのです。「翻訳の聖典」を用いる。この事情は、ローマ・カトリックでも、ドイツでもフランスでも英国でも、アメリカでも、もちろん日本でもまったく変わらない。キリスト教はいつでもどこの国でも、はじめは外から来た翻訳の宗教だったのです。実はこれこそが、キリスト教の本質です。
 私たちは、このように考えた上で、改めてヘブライのひとり神に見られる特徴とギリシア・ローマや日本に見られる多神教の特徴とを比較すべきです。私たちには、このどちらの性格も具わっているのですから。だからこれらの特徴をよく知っていることが、私たち一人一人の人生においてだけでなく、これからの日本の針路を考える上でもとても大切です。
創造と流出
 以上のことを頭に入れた上で、一神教を一貫して保ち続けた聖書の神と多神教の原初のカミとはどのように違うのか。これからこの点をお話ししましょう。聖書のひとり神と閑なカミとの基本的な違いは、その「創造」の仕方にあります。旧約聖書は、「初めに神は天と地を創造された」で始まります。ここには超在の神による創造(creation)と呼ばれる出来事が語られています。神は無から有を創造する。ですから、神と造られた物とは完全に別個の存在です。神は創造者、自然とそこに住む生き物は被造物です。だから、造られた生き物の中には、神の理念や思念はこもっていますが、それはどう見ても「神の分身」ではありません。
 ところが『古事記』では、アメノミナカヌシをはじめとして、神々は、「成れる神」として、すなわち「生成する」神として語られています。つまり原初の混沌の中から「生まれ出る」のです。これがアマテラスやスサノオになりますと、イザナキが禊ぎを受けて、そのイザナキの体の一部から生まれ出たことがはっきりとわかります。ギリシア・ローマ神話もほぼこれと同じで、神々は、元の神から生まれてくるので、そこにおのずと神々の系譜ができます。このように、その元となる神の一部から生まれることを「流出」(emanation)と言います。聖書の神は、単独神として「創造」するのに対して、日本の原初の神は、この「流出」によって神々を生み出すのです。だから、それらの神々は、いわば原初の神の分身で、親神の性質を幾分か具えています。こうして、神は次々と流出を繰り返して、元のひとり神から多くの分身とそのまた分身とが生まれてきます。流出の一神教は必然的に多神教へと発展していくことがわかります。
多神教と宇宙観
 原初のひとりカミから流出した多神教の場合には、それらの神々は、いわば原初の神の分身ですから、こうして生まれる神々の宇宙は、いわばひとり神の「からだ」としてその全体像を形成することになります。ここでは、親神から生まれた神々の全体が一つの秩序を形成します。そこでは、最高神を頂点にした一つのコスモロジー、宇宙観が成り立ってきます。太陽も月も星も風も火も山々も河川も、すべてが神々の名を帯びて、全体が一つの宇宙像を形成します。ひとりカミからの流出とは少し違いますが、胎蔵曼陀羅の無数の仏さんたちも、根源の大日如来を中心に四方へ広がって、全体としてまとまった宇宙を形成しています。もっとも、パリのノートルダム寺院の有名なバラ窓も、中心にキリストがいて、そこから12使徒や殉教者たちや聖なる乙女たちや天使たちが、放射線状に広がっていますから、構造的には共通しているところがあります。
 先ほど言いましたが、原初のカミは閑なカミとしてほとんど働きません。したがって、その宇宙の秩序、すなわちコスモスそれ自体は、神々によって動かされ、自律性を保ちながら同じ運行を繰り返すことになります。いわば宇宙は、それ自体が独立した秩序を保って変化しないわけです。こうしてこの秩序の中で、さまざまな神々が調和して世界を動かしています。それはちょうど一つの精巧な機械のように、それぞれの部分が組み合わさって、全体が調和しながら、自動的に動いているようなものです。
多神教世界の特徴
 こういう神々の世界では、人間は、いかにしてその不変の秩序の中で、これを司る神々とうまく調和してやっていくかということだけ考えていればいいのです。その宇宙のリズムにうまく合わせていけばいいわけです。こういう世界では、季節ごとの暦、その節(節句)ごとの儀礼などがきちんと決められています。人間はそれに従って、自分たちの生活を繰り返していればそれでいいんです。これが、多神教の神々の中に住む人間の生き方です。人間と神々とが、うまく調和し合って生活を上手にコントロールする、すなわち生活を「管理する」ことが第一になります。こういう神話体系では、古代バビロニアやエジプトのように、天文学や機械技術や生活の知恵などが発達します。先ほど指摘したように、最高神は退いてこの世界にはあまり顔を出さない。もっぱら活躍するのは、その次の宇宙・自然を司る神々たちです。こういう神話体系は、ある意味で安定した世界をつくりだすと言えましょう。
一神教の特徴
 ところが、自然はそんなに人間に都合よくはできてはいません。災害があり、また国と国との間に戦もあります。それに過去にも幾度か、地球規模での大変動がありました。大洪水もありました。疫病、革命、飢饉など、人間同士の争いやいろいろな危機の状態が訪れます。こうなると、年ごとの決まった儀礼の繰り返しや「生活の管理」だけではどうにもならなくなります。普段は、あちらこちらの神々に向かって、「どうぞよろしく」とやっていればそれでよかったのですが、こういうぎりぎりのところへ来ると、複数の神々ではダメなのです。どうしても一人の神に向いて助けを求めなければならなくなります。先に言いましたように、原始の部族は、こういう場合に、取って置きの「閑なカミ」に頼ろうとするのです。
 私たちは、ヘブライの一神教をこれと比較対照して見ることができます。この神は、日常生活をうまく「管理する」ための神ではありません。むしろ、そのような日常とは対立するもの、何か危機的な状態に陥ったときに、この神のほんとうの力が発揮されるのです。出エジプト体験などはそのよい例ですね。だからこの神は、うまく付き合って利用する神、いわゆるご利益の神ではない。基本的に危機的な状態の中から「救いを呼び求める神」なのです。しかも単独神ですから、宇宙や大自然を体現していると言うよりは、直接に人間と向き合う姿で、人間と神が人格関係によって出会う神です。
宇宙論と歴史観
 この二つの世界、一神教と多神教の世界では、宇宙や人生に対して、根本的に違った対応の仕方をします。先に触れましたように、多神教では、宇宙のリズムによって繰り返される時間の中での調和ですから、そこには変化や変革はあまり感じられない。これはいわば宇宙論的な世界ですから、この世界にいる人間は、宇宙を「解釈する」ことを心がけるようになります。
 ところが、旧約のように単独の神の世界では、神は宇宙それ自体の創造主として、いわば宇宙を超越したところで人間と宇宙とに働きかけてきます。こうなると、宇宙はそれ自体で独立して動いているのではない。それは全体として、神の意志によって方向づけられてきます。当然人間の生き方も神の意志に従って、一つの方向性を与えられます。すなわち宇宙は単なる繰り返しではなく、一つの目的に沿って未来を目指して進展していくのです。こういう世界では、先の「宇宙論的」な見方とは対照的に「歴史的」な見方が発達します。
日本人の思考方法
 これら二つの神話体系での思考方法の違いは、私たち日本人に重要なことを教えてくれます。皆さんはもうお気づきと思いますが、現在まで、私たち日本人のものの考え方は、生活管理型の思考方法に近かったと言えます。私たちは小さいながら恵まれた国土にあって、大自然の秩序に順応して生きてきた。超越的な神はもとより、宇宙の根源を追求して、そこから壮大で一貫した宇宙観を全体的に構築するなどということは、あまりやってきませんでした。むしろ、直観的に自然の奥に潜む神秘を感じとって、この神秘の前に畏れを抱いて生きてきたと言えます。だから私たちは、独創的な奥行きの深い思想を生み出すというより、その時時に生じる現象や状況にうまく順応して、これを乗り切ってきた。どん欲なほどの好奇心を持って、その時代時代の外国からの文化や思想や宗教を受け入れてきました。こうすることで、さまざまに変化する状況に素早く身を処して、与えられた状況の中で、自分たちの生活をうまく管理することを覚えたのです。
 現在でも、日本の政治は官僚型です。あるしっかりした理念に基づく政治力によって国が動くのではない。与えられた課題に「対処」して、これを上手に「管理」するのが官僚政治ですね。そのようなマネイジメントに加えて、戦後私たちは、科学技術や工業技術を高度な応用型の産業育成の武器として用いながらここまで来ました。私がこういうことを言うのは、特に日本の教育の方法に視点を置いて見ているからです。現在までの日本の教育は、国家に役立つ人材を育成することに向けられてきました。独創的な個性を育てるよりも、みんなとうまく調和して、与えられた一つの方向に向かって力を合わせて努力する。これが日本の教育の理念であったのです。しかも、この教育制度は完全に管理されています。はっきり言えば、文部省が目指すのは、自由で独創的な人間の育成ではない。先生と生徒とを官僚が統一的に管理するのが文部省のねらいです。これは、もちろん一般論であって、例外はいくらもあるし、すぐれた独創的な思想家や学者や政治家もいました。しかし、そういう人たちは、大変な苦労をして自分の能力を生かすことに努力しなければならなかったのです。
欧米の考え方
 ところが欧米、特にアメリカの社会を見ますと、これとは対照的です。ここでは、他人と違うことは善いことだとする教育が徹底して行なわれます。この間テレビで、今アメリカで試みられている「ソクラテス教育法」というのを見ました。そこでは、子どもはいっさい何も与えられない。何を学ぶか、何を問題とするかを互いに考えて、討論することから出発するのです。一切の先入観を取り払って、子どもは、自分の頭の中で論理を組み立てながら、自分にとって何がよいことか、真理とは何かを導き出すように指導されるのです。だから先生は何も教えない。子どもの思考を助産婦のように「引き出す」(これがeducationの意味です)。日本のように、既成の知識や考え方をたくさん覚えて、これを上手に使いこなすやり方を教えるのとは正反対です。
 こういう教育法は、欧米の文化が、一神教の影響を強く受けていることと無関係ではありません。すなわち、文化の危機、民族の危機、社会的な危機、こういう体験を幾度も幾度もくぐり抜けているのがヘブライ・キリスト教の宗教的伝統です。こういう危機的な状況では、革命、戦争、疫病、環境破壊などの場合のように、文化的な生活環境が根本から脅かされたり破壊されたりします。また機械技術や科学的な宇宙観そのものが、その根本を問い直されます。この意味での宗教は、文化や文明と対立する面を持つとさえ言えます。聖書の救いの元型とされる出エジプト体験がそのよい例です。
 このような状況では、もはや生活をうまく「管理する」だけではどうにもならないのです。その場その場の対症療法で、うまく乗り切れるほど危機は甘くないからです。これを乗り切るためには、何よりも現実をごまかさずに正確に見つめること、その危機の根本的な性格を見きわめること、それと、これを克服するための未来に対する鋭い洞察が要求されます。このためには、今までの考え方が崩壊しても、なお崩れない根本的な思想あるいは信仰がなければならない。あるいは従来にはなかったまったく新しい考え方を創出しなければならないのです。
日米のジャーナリズムの違い
 私は日本の新聞とアメリカの雑誌『ニューズ・ウィーク』とを、ときどき比較しながら読んでいます。この両者では、記事の書き方や扱い方が確かに違うのです。以前ゴルバチョフが、ペレストロイカをやって、世界中が彼の功績をたたえていたときがあります。その頃の『朝日新聞』は、負けじとばかり、ゴルバチョフを礼賛していました。日本のマスコミはこういう時に一斉に同じ方向を向きますね。みごとなほど画一的です。もちろん『ニューズ・ウィーク』でもゴルバチョフの功績を高く評価していた。ところが、その同じ雑誌の記事の中に、いずれ彼は必ず失脚するとはっきり断定的に書いている記事を見たのです。この雑誌の記事には、必ずだれがこれを書いているかがでています。私はずいぶん思い切ったことを言う記者だと思い、幾分つむじ曲がりの見方をする人ではないかとさえ思いました。しかし、皆さんもご存知のとおり、彼の洞察は正しかったのです。
 日本のマスコミは、出来事が起こった後で、その理由をあれこれともっともらしく解釈したり解説したりします。私はその度に思うのですが、そういう解釈や理由をどうして事が起こる前に予測できなかったのか。少なくとも、そうなる危険性があることをどうしてだれも言わなかったのかと残念な気がします。その道の専門家が、事が起こる前と後では、まったく違った解釈を平気でやっています。あの時はこう思えたが今はこうだ、などと言うのです。未来はわからないからそれはしかたがない。その時時の現象をなんとかうまく説明すればそれですむ。これが日本の知識人の考え方です。しかし、わからなくても、不透明でも、未来を見抜かなければならない時があるのです。それをやらなければ、国や民族の運命がそれこそ滅びることがあるのです。いや、わからないからこそ、いっそう深くその先を洞察しなければならない。こういう「歴史を見通す目」、これが現在の日本に欠けているのです。
「国際」か「国粋」か?
 現在日本は、さまざまな意味で、その針路を内外から注目されています。けれども、いったい私たちの国がこれからどうなるのか。実はだれにもわからない。自分でもわからないのだから、外国がわかるわけがない。最近の様子を見ていると、なんとなく国の方針も、人々の考え方も内向きになっているように思われます。これはやはり、国家的規模で言えば、対外的にはっきりした方策を打ち出すことができないし、個人的には、自分の生き方を確立することができないのが、その根底にあると思われます。
 日本は、今とても大切な時期に来ていると私は考えています。これからの日本は、ほんとうの意味で、世界に向かって「国際貢献」をしていくのか? それとも再び昭和のはじめみたいに、内向きになって国際関係から孤立していくのか? 「国際」か「国粋」か? これが今問われているのです。今がその境目になるような気がします。対外的に発展するには、しっかりした信念が要ります。ところが、現実には、「国際化」という名の「国粋化」が進行しているのです。今日本に必要なのは、外に向かってはっきりとものが言えて、しかも相手を説得できる信念であり、その信念を支える宗教的な信仰です。そのような信仰はどこから来るのでしょうか? 聖書のイザヤ書にある次のような言葉で、この講演を締めくくりたいと思います。

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