第7章 寛容な神を求めて
キリスト教の歴史と「非寛容」
 キリスト教は、現在にいたる歩みの中で、4回ほど大きな誤りを犯してきています。そのどれもが、「寛容」と「非寛容」、あるいは「正統」と「異端」の問題とかかわっています。
 キリスト教が犯した誤りの最初は、原始教会からスタートしたキリスト教が、ローマ帝国の国教になる前後のころ、4世紀から5世紀にかけて起こりました。この頃に現在のカトリック教会の基礎、すなわち、ローマ教皇を最高位とするキリスト教会の制度が完成しました(それまでローマ教皇は、ローマという地域の1主教に過ぎませんでした)。この過程の中で、キリスト教の勢力は、小アジア、アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリアなどの地方からローマを中心とする西へと発展します。西欧では、この過程をキリスト教の「発展」と考える傾向が強いのですが、心ある学者はそう考えません。なぜなら、このために、東方とパレスティナからエジプトにかけてのキリスト教が異端の烙印を押されて、衰退していったからです。
 それはたとえば、ある特定の時期に暫定的に要求された神学を別の状況の中で「異端」と断じることから生じます。ところがまたしばらくすると、先に「異端」とされた信仰が要求されるような状況が生じてくる。そうすると、先に誤って「異端」とされていた神学や信仰が再び頭をもたげてくる。これは当然です。こうして「異端」は、定期的に繰り返し生じてくることになります。
 オリゲネスという非常にすぐれた神学者が、エジプトのアレクサンドリアにいました。しかし、彼も異端の烙印を押されることになります。それでもオリゲネスの神学は東方教会からアウグスティヌスへと受け継がれていきました。近頃京都大学のキリスト教学科の院生が、オリゲネスの三位一体論は、正統信仰とそれほど違わないのではないかという発表をしました。私もそう思います。もしもあの時期に、キリスト教が、ペテロがパウロに対して示したように、あるいは仏教なみの寛容をもって、互いの違いを認め合っていたら、東方教会はエジプトからアラビアにいたるまで発展を続けて、しっかりとした制度を確立することができていたかもしれません。そうすれば後のイスラム教が、あのように大きな力になることもなかったでしょう。キリスト教はこの意味で大きな誤りを犯したのです。
 第二回目の誤りは、十字軍時代です。11世紀から13世紀にかけて、ヨーロッパは十字軍遠征を行って、イスラムの世界と真っ向から衝突します。これも西洋史では、ヨーロッパの形成とキリスト教圏の勢力拡大というふうに解されてきましたが、この十字軍もずいぶん大きな傷跡を残しました。一つは、イスラム圏の人に、キリスト教に対する激しい憎悪の念を植えつけたことです。これが今日まで尾を引いているのは皆さんご存知のとおりです。もう一つこれと同じくらいに残念なことが起こりました。それは、これを契機に、イスラム世界がキリスト教に対して脅威を抱き、このことが、東ローマ帝国、いわゆるビザンティン帝国へのイスラム軍の侵攻を招き、ビザンティン文化の担い手であった東方教会を崩壊させました。このために、ビザンティンのすぐれた文化が失われたり、アラビアに持ち去られたりしました。もっともこれには、こともあろうに、十字軍によるビザンティンの首都コンスタンティノープルの占拠という事態も加わっています。アレクサンドリアのすぐれた文化が失われたのと同じ誤りをここでも犯したのです。さらにその上に、その頃まで生き残っていたイスラム圏にあるキリスト教の教会、エジプトやアラビアやパレスティナや小アジアのキリスト教会が、このために完全に破壊されてしまいました。
 第三回目は、今度はコロンブスのアメリカ大陸発見に始まる、15世紀末から18世紀くらいまでです。ここでも、キリスト教の「異教徒」に対する非寛容で残酷な政策が大きな災いを残しました。それは、黒人奴隷制度と中南米のインディオの大虐殺、それからアメリカインディアンに対する差別と攻撃です。キリスト教は、彼らの伝統や文化や宗教を根こそぎ絶滅させようとしたのです。これが大きな誤りであったことは、ごく最近になって、南米のカトリック教会が、この時代に教会の行なった政策は間違っていたと正式に認めたことにも現れています。しかし、教会が誤りを認めるのが500年遅かった! この傷は現在でもまだキリスト教の汚点として残っています。
 最後に、現代のキリスト教がアジアの諸国に対してとっている姿勢です。これには今までとかなり違った対応がみられます。しかし、キリスト教以外を「異教」と見なして、その宗教的価値をまったく認めようとしない傾向は、今なお欧米の教会に根強く残っています。このことについては、私に個人的な体験があります。
私の体験
 私は、学生のときに、北欧の宣教師さんたちの教会へ行きました。そこで私は、はじめてキリスト教に接し、聖書を学びました。洗礼もそこの先生から受けました。もっと大きなことは、私は彼らから、異言を伴うみ霊のバプテスマのことを教えられたのです。この時の体験は今でも私の内に強く生きています。その頃はほんのわずかの集会で、しかも、日本にきたばかりの宣教師さんもいましたから、私は彼らの通訳として伝道の仕事を助けました。一緒に幾度も旅行をして、伝道集会をやりました。私たちの結婚式の司式をしてくださったのもフィンランドの先生です。また、たいへん温厚で優しい歌の上手な先生もいました。これらの人たちは、私の信仰の恩師です。
 ところが、人間的にはよい人たちで、個人的にも自分の信仰の恩師でありながら、私はこの宣教師さんたちと決別することにしました。それは、この人たちの信仰が、神道や仏教などの日本古来の宗教を「異教」として厳しく否定したからです。このことは、ある意味で、日本の文化の根底を否定することにつながります。ローマ・カトリックでさえ、説教の中で攻撃することがありました。このような狭い教義では、日本人の価値観は窒息せざるをえません。私が彼らから離れると言い出したときの先生たちの悲しみは、とても大きかったと今でも思います。私もつらかった。別れた後でも、ある先生がわざわざ私のところへ尋ねてきて、もう一度一緒に私を助けてくれないかと頼みに来ました。しかし、心が固くなっていた私は、その頼みも退けました。このことは、今でも私の内で、深い悲しみとなって残っています。私は、別れたことそれ自体は後悔していません。しかし、信仰の恩師を退けたことは、人間としてやはり許されないという思いが強くあります。これらのことは、私の一生の深い悲しみです。
 もしもあの時に、彼らの信仰の教義が、仏教や神道にも真理を認め、日本の伝統的な価値観にも神の導きがあったことを認識するものであったならば、また私の方も、もう少し大きな視野から見ることができていたなら、今ごろは、仲良く集会をして、フィンランド人や韓国人の皆さんと、大きな共同体をつくっていたかもしれません。しかし、今になって、ようやく私は、「寛容な神」を説くことができるようになりました。ここまで来るのに30年かかったのです。しかし、今皆さんに寛容な神を語ることができて私は嬉しいです。決して、宣教師さんたちを責めているのではありません。人間的にはとても善い人たちでしたから、今でも親しみを覚えています。神が自分に遣わされた恩師を退けたのは道義的には、私の罪です。しかし、このことが、現在私が寛容な神を告白する信仰へとつながっているのを覚えます。〔2001年になって、北欧の宣教師さんたちが日本で伝道を開始した50周年記念の集会があり、私たち夫婦もこれに招かれました。その席で、当時の先生のご夫人や立派に成長された息子さんたち、また、日本人の若い牧師さんたちとの交わりが与えられました。その折りに、かつて私たちが離れていった理由が、長い日本伝道の体験を通じて理解されているのを感じることができて、ようやく和解することができたことを申し添えておきます。〕
誤った終末信仰の危険性
 このように見てくると、キリスト教は歴史的に西へ西へと発展を続けてきたのですが、その大きな曲がり角で、いつも寛容の精神を忘れて、このために未来に大きな禍根を残すことになりました。キリスト教の持つすぐれた力、危機に対して発揮する強さ、人格的な個人尊重と自由な良心、悪と闘う正義の思想などの善い面が、この寛容の欠如のためにずいぶん大きなダメージを受けてきたと思います。私は、そういう非寛容を招く原因の一つとして、終末思想の影響、それも誤った終末信仰の影響があると思います。現在でも欧米の保守的なキリスト教の間には、欧米中心で、それ以外の宗教圏も文化圏もいっさい無視したような「終末的」危機感を抱く人たちがいます。このような誤った「終末的」危機感からは、人類の危機を克服しよう、地球規模の問題を解決する糸口を見いだそうとする努力も信仰も生まれてきません。こうなると終末的な危機意識それ自体がひとつの大きな危険になると思います。
神の超在と内在
 「寛容」の問題を考える時に避けて通れないのが、神の超越(超在)と内在の問題です。神が内在するとは、神が人間の内に宿ることですから、神と人間とが一体になる傾向を生じやすいのです。こうなると人間と神(というよりカミ)との区別がつかなくなるおそれがあります。だから、カミと人間とを、それらの内在関係だけで理解する宗教は、カミが宿る人間を神格化するのを避けることができません。民を圧迫し、人を人とも思わず、いわゆる「己をカミとする」権力者が、こうして生まれます。このような人間崇拝(これは偶像崇拝と同じです)からは、自由も寛容も期待することができません。旧約聖書が「異教的」なものとして厳しく排除したのがこれです。たとえ相手が王であっても、その人間を偶像(偽りの神)とはしない。決してこれを拝まない。これが旧約聖書の信仰の本質です。
人をカミとする
 このように、内在のカミを信じる場合は、人間の神格化を生じますから、自己の立場のみを意識的にせよ無意識的にせよ絶対化する傾向が生じます。その結果、自分とは異なる人たちや異なる宗教に対する抑圧あるいは排除を生み出す不寛容へと走りがちになります。どちらかと言うと日本人は、この型の不寛容に陥る傾向があります。特に民族とか国家とかがこれに絡んでくると、理屈抜きで感情的な不寛容に支配されがちです。こういう型の不寛容は、欧米のように、特定の理念や価値観を確固と押し通してそれ以外の価値観を認めようとしない不寛容とは少し異なるタイプです。欧米人の不寛容と日本人の不寛容とは、ここのところが違います。日本型を「文化的不寛容」と呼ぶなら、欧米型を「理念的不寛容」と呼ぶべきでしょうか。
超在の神の怖さ
 ところで、カミの内在に対して、もしも神が絶対超越の存在者としてしか理解されないならば、人間と神との間には越え難い断絶が介在することになります。このような神が人間に向かって、なんの仲立ちもないままに、じかに働きかけてくるとき、それは厳しく怖い神の姿となって、人間に畏怖の念を与えずにはおれません。相手の神は人間ではないのですから。「ヨブ記」で語られているヨブの恐怖がこれですね。このような超在の唯一神が、直接に人間の宗教的な営みに介入するときには、ほかの一切の神を厳しく拒否する傾向が強くなります。この点を最もよく示すのがイスラム教です。イスラム教は、ある意味でもっとも純粋で超越的な唯一神教であると言えます。現在「イスラム原理主義」という団体が、中東で〔現在では世界の各地域で〕台頭しています。超越のアラー(「神」の意味)を絶対の原理として主張し、妥協しない宗教です。
新約聖書の神
 このように考えると、超在の神も内在のカミも、どちらか一方だけでは「寛容」の精神を難しくすることがわかります。私たちは、旧約の待ち望むメシアが、「人の子」として、つまり肉体を具えた人間の姿となって神を啓示するという聖書の教えの持つ意味が、ここにきてはじめて理解できます。旧約の神は、その超越性のゆえに人間との断絶を強く意識させます。そこでは、神と人間との間に、越えられない溝が存在しています。イエス・キリストは、十字架の贖いを通じて、父の超在とみ霊の内在という、ある意味で背理的な結びつきによって、人間と神とが愛にある交わり(コイノニア)に入ることのできる道を開いたのです。イエス・キリストの贖いは、父の超在を取り除くことではありません。むしろ、超在の神が人間に内在するというこの絶対の矛盾にこそ、イエス・キリストの十字架による贖いのほんとうの意味があります。イエス様が十字架にかからなければならない究極の理由がこれだったからです。イエス・キリストの神に具わる超在と内在の両性、この福音をば、「寛容」という概念でとらえ直すことが、今大切な意味を持っています。
クリスチャンはキリストではない
 真の意味での超在の神は、人間の一切の条件に左右されない神です。人種、性別、身分、国籍、これに宗教を加えてもいい、こういう諸条件で「人を偏り見ることをしない」神です。神が聖なる方、普遍な存在、公正な神であるというのはそういう意味です。モーセ律法のほんとうの精神がここにあります。だから、この神が同時にみ霊となって、人間に内在するときには、そのみ霊は、まさに超在の神のみ霊であるがゆえに、人間の自己絶対化を防ぐ働きをします。イエス・キリストのみ霊にある愛こそ、これをなしとげる力です。"I am IN Christ." クリスチャンはこう言います。しかし、この "IN" を取り除くことは絶対にしません。最近自分が「キリスト」であるかのような言い方をしている教祖が日本にも韓国にもいますが、彼らとクリスチャンとは、この点がはっきりと違います。自分を神としないこと、これこそが、キリストのみ霊の本質です。「十字架の贖い」が、私たちにもたらすものはまさにこれです。
人間の業に絶対は存在しない
 イエス様のみ霊を信じることで、私はかえって、他の宗教に対する洞察が深まりました。それは、このみ霊が、イエス・キリストのみ霊、すなわち、超越する父なる神のもとからイエス・キリストを通じて遣わされたみ霊であることと深くかかわっています。超越の一神教といえば、皆さんは、他の宗教を受け付けない唯我独尊の神を思い浮かべるかもしれません。しかし、それは大きな誤解です。少なくとも、そのような排他的な超越神は、ほんとうの意味で聖書の神ではないと言えます。なぜなら、「超越」とは、神が人間から超越しておられることだからです。それならば、地上の人間の営み一切を超越しておられるはずです。その人間の営みには宗教も入ります。だから、地上で営まれる人間の一切の宗教活動からも超越しておられるはずです。当然のことながら、それら人間の宗教にキリスト教も含まれます。こうして、イエス・キリストのみ霊は、キリスト教をも含めて、地上の人間の宗教すべてを相対化します。人間のすることで絶対的なものは何一つないのです。
 コリントの信徒への手紙(1)13章にあるように、現在私たちが見ているものは、どんなにすばらしくても完全ではありません。私たちは、だれ一人「神を見て」いません。神とその神から観られている己の姿を、ただ「おぼろに」、「謎に包まれたように」見ているだけです。コリントの信徒への手紙(1)のこれらの言葉が、イエス・キリストに表された十字架の愛と結びついて語られているのはとても大切です。私たちを救ってくださるイエス・キリストのみ霊の大きな慈愛だけがこのような寛容を可能にするのだと思います。だからパウロもこう言っています。「あなたがたは、それぞれに与えられた信仰に従って歩むべきである」(1コリント7の17)と。あるいは「互いに相手を自分より優った者とせよ」(ピリピ 2:3)と。「神を見たものは一人もいない。ただ父のひとり子だけが、私たちに神を顕した」(ヨハネ 1:18)とあるのはこのことです。
経済圏と宗教圏
 私がこのように「寛容な神」を説くのは、あるはっきりとした理由があるからです。少し脱線しますけれども、この点についてお話しします。
 この間〔この講演は1992年10月〕、EC〔現在のEU〕の統合が成るか成らないかをめぐって、フランスの選挙が問題にされました。皆さんもご存知のように、現在では、これは「通貨統合」、すなわち経済レベルでの統合を目指しています。しかし、やがては政治、外交、軍事面でも一つになるのを目標にしているとテレビで報道していました。まだなかなかそこまではいかないでしょう。しかし、経済面だけで言えば、このようなブロック化の動きは、世界的規模で始まっていると言えます。私の不十分な知識だけでも、ヨーロッパ共同体(EC)、ロシアを中心とした経済圏(SCI)、これは今相当混乱しています。それからアメリカとカナダとメキシコを中心にした北米大陸経済圏(NAFTA)ができあがりつつあります。南米もいずれは一つの経済圏を形成するでしょう。中東はイスラム圏で、これも一つの大きなまとまりを持っています。
アジアと日本
 問題はアジアです。現在、環太平洋経済圏と言って、アメリカ、カナダ、オーストラリアを含む太平洋沿岸の広い経済圏をつくろうという動きがアメリカを中心に広がっています。「ヴァンクーヴァーからウラジオストックまで」を標語に掲げるAPECと呼ばれる経済圏がそれです。ところが、これと平行して、アジアを中心としたいくつかの経済圏も構想されつつあります。アジアの経済ブロックの中心にはASEANがあります。これは、タイ、マレーシア、フィリッピン、インドネシア、シンガポール、ブルネイから成り立っています。これとは別に、NIESと呼ばれるグループがあります。韓国、台湾、香港、シンガポールです。いずれも今経済成長のめざましい国ばかりです。
 このASEANとNIESを結び、さらにこれに日本と中国を加えますとEAECと呼ばれる経済圏ができあがります。近頃、シンガポールの首相が、このEAECのブロックを強化して、日本がそのリーダーになれと言いました。すると、すかさずワシントンからクレームがついて、環太平洋のAPECを重視するよう日本に申し入れてきました。APECには、EAECに加えて、オーストラリア、ニュージーランド、ロシア、カナダ、アメリカが入ります。アメリカはアジアから閉め出されるのを警戒しているのです。自分はNAFTAをつくっておきながら、APECでアジアをも自分の中に取り込もうとする戦略です。日本政府はAPECをEAECよりも優先させる方針だと新聞は伝えています。
 経済にうとい私が、こういうことをお話ししするのは、それなりに理由があります。今お話ししたいろいろな経済圏は、宗教的文化圏と見事に重なり合うからです。EC圏はプロテスタントとカトリックの両方を含む地域、すなわち中世カトリシズムの宗教圏です。ロシア圏は、東方教会の流れを汲むロシア正教が支配的です。北米とカナダはプロテスタント・キリスト教。南米はスペインとポルトガルの伝統を汲むカトリック圏。中東はイスラム教圏です。イスラム圏を除くアフリカには、まだまとまった経済圏ができていませんが、将来はできるでしょう。この地域には、さまざまな部族の宗教がありますが、将来一つの宗教を持つとすれば、アフリカ的なキリスト教ではないかと予測されます。アフリカとキリスト教とのつながりは深く、アフリカ全土に共通する力となるのは、これ以外には考えられないからです。このように見ると、現在の世界の文化・経済圏は、おおざっぱに言えば、どれも宗教的には単一の価値観に支配されていると言えます。逆にそれだからこそ経済圏が可能になるのです。
 ところがアジアでは事情がまったく異なります。アジアの経済圏を先ほどのように、宗教的な文化圏に重ねてみます。するとASEANでは、タイは仏教、フィリッピンはカトリック・キリスト教、インドネシアとブルネイはイスラム教です。これに日本と中国を加えたEAECでは、儒教、神道などが加わります。また中国では、儒教や仏教のほかに、キリスト教の力も潜在しています。もっともこれは現在では表に現れていませんが。韓国では、現在仏教系が3分の1、キリスト教系が3分の1、儒教系が3分の1ぐらいと聞いています。これらはいわゆる大宗教で、このほかに無数の民間の土俗的な宗教があるのは日本と同じです。これにインドを加えると、ヒンズー教が入ります。オーストラリアとニュージーランドを加えるとプロテスタント・キリスト教が入ります。東洋・アジア圏はまさに世界の宗教の宝庫です。世界のほかの地域では、大体単一の宗教的価値観でまとまっています。ところが、アジアだけはこれだけいろいろな価値観や文化圏が混在しているのです。このことはとても重要な意味を持っています。
希望と危険が両立するアジア
 第一には、これから世界をリードする新しい価値観が生まれるとすれば、それはこのアジアからだということです。文化の底にはこれを支える宗教的価値観があります。すなわち、これからは、こういう「価値観」の交流、衝突、覇権争いが、アジアを中心にして生じるであろうと予測されます。すでに、アジアを覆う通信とテレビのネットワークづくりで、このような覇権争いが起きつつあります。これからの世界に、従来の既成の価値観とは異なる新しい価値観が生まれるとすれば、それは、このアジアからだということを私たちは認識しておく必要があります。その価値観がどのような宗教に担われるのかはまだわかりません。しかし、どのような宗教であっても、その宗教は、信仰の自由、すなわち宗教的に寛容の精神を伴うものでなければならない。このことだけははっきりしています。
 第二に、現在のアジアは、非常に危険な要素をはらんでいることです。南沙諸島という島々の領有権をめぐって今六つの国が争っています。しかも、この間NHKのスペシャル番組でやっていたように、欧米とロシアが、アジア地域に武器の激しい売り込み合戦をやっています。ちょうどイランやイラクの中東のように、これからは、アジアが欧米の武器の売り込みと、これを大量に使う戦場に利用されるおそれが多分にあります。というよりも、何もしないで黙って成り行きに任せていれば、必ずそうするように「仕向け」られる危険があります。私たちは、そうならないように、あらゆる手段を尽くして平和を守り、戦争を防がなければならないのです。これだけいろいろな人種や価値観が入り混じっていれば、欧米の介入を招いて分裂と抗争を生じる余地が十分あるからです。経済格差が極端に大きいのも争いの原因になります。分裂させることによって支配するのが植民地帝国の伝統的なやり方だからです。アジアでの分裂や抗争は、そのまま宗教間の対立をいっそう深める結果につながります。そうなれば、カトリック、イスラム、ギリシア正教が三つどもえの流血を生んでいる現在のユーゴスラビアのように、民族と宗教的対立を生むことなります。今アジアは、宗教的寛容を達成して、平和な中から新しい価値観を生み出すか、それとも民族と宗教との結びつきが対立を生じ、これが争いと戦争の原因になって、将来に消えることのない宗教的対立の構図を生み出すかの別れ際にあります。
日本の使命
 第三に、日本は、好むと好まざるとにかかわらず、これらの問題に深くかかわっていかなければならないことです。カンボジアがそのよい例です。日本はアジアから逃げ出すことができません。また孤立することもできません。宗教的な寛容が、互いの交流を通じて生まれ、そこから新しい価値観が生み出されるためには、どうしても平和が必要です。このアジアの平和を守り、そこから次の人類を導くような価値観を育てるのが、今の日本に与えられた大切な使命です。私はそう思っています。神は私たちの国と民族とを、この目的のためにこの時に繁栄させてくださっているのではないでしょうか。そういう気がします。
 もしも、今、私たちの国が、こういう気高い理想を抱いて、勇気を持ってアジアの平和を守り抜こうと努めるならば、神は必ず私たちに味方して、私たちを支えてくださいます。なぜなら、そうする時に、私たちは「神と共にある」からです。これは、政治の問題であり、経済の問題であり、場合によっては軍事の問題でもあるでしょう。しかし、これらのさまざまな分野を根底から支える理念そのものは宗教的な課題です。そのような理念は、福音的な寛容の愛に支えられてはじめて可能なのです。イエス・キリストのみ霊は、あらゆる分野において、個人と国際とを問わず、具体的かつ実際的に、この私たちを日常の現実の中で支えてくださるからです。今の日本にいちばん必要なのは、このような気高い理想とヴィジョンです。
戻る