第9章 現代の「歴史」と「神話」
「神話」について
この講演では、「歴史と神話」についてお話しをしたいと思います。しかし私がその上に「現代の」とつけたのはわけがあります。それは、皆さんが普通使っている意味での「歴史」あるいは「神話」とは少し違った意味で、これらの言葉を用いたいからです。したがって、これらの言葉にカギかっこをつけて用いるほうが正しいでしょう。神話的な人物と言えば、皆さんは、アマテラスやスサノオのようないわゆる日本の国造りの神々を思い出すでしょう。あるいは、ギリシア・ローマ神話のジュピターやヴィーナスなどを思い出すかもしれません。しかし、私は、そのような神話一般に関することではなくて、現代のもっと具体的な問題と「神話」という言葉を結びつけてみたいのです。
「神話」という言葉は、近代では二つの意味で否定的に用いられてきました。一つは、キリスト教の立場からのもので、「異教の神話」という言い方に見られます。それは、聖書で語られる神以外の神々を「偽りの神々」と見なし、これらの神々に関する話を異教的な「つくり話」としてきたことです。このように、真の神が語る聖書の物語とそれ以外の神々の神話とが区別されてきました。もう一つは、ヨーロッパで、18世紀頃から、自然科学の勃興にともなって、神話は、科学的な世界観を持たない「無知な未開の人々」がつくりあげた世界像にすぎないという見方です。これが一般化して、現在では「神話」という言葉が、この意味で広く用いられています。
ところが、今世紀になって、神話に対するこの二つの見方が崩れ始めたのです。その理由の一つとして、聖書の文献学的な批評が発達したことがあります。聖書には、いろいろと不思議な話や物語があります。キリスト教国では、17世紀ぐらいまで、これらはどれも本当に起こった出来事であると信じられていたのです。たとえば、神は宇宙を7日間で創ったという神話が聖書の冒頭にありますが、これを文字どおりの意味で信じている人たちが今でもアメリカには大勢います。しかし、聖書の学問的な批評が進むにつれて、それらは字義どおりの出来事を伝えているのではなく、聖書以外の諸宗教の聖典と同じく、そこにはいろいろな古代の神話から受け継いだ話や神話的な伝承が含まれていることが立証されるようになりました。「聖書神話」(Biblical Myth)という言葉がその間の事情をよく伝えています。
次に、神話と科学との対立という観点から見ますと、神話は決して偽りのつくり事ではなくて、ある体験的な出来事を共同体全体に伝える重要な意味を持つことがわかってきました。さらに、民族や共同体だけでなく、個人としての人間の内面性にも神話が重要な意味を持つことが、主として心理学の分野からもわかってきました。どのような宗教も、なんらかの神話がその核となっています。神話は、人間をその全存在として動かす強い力を秘めているのです。
神話と科学についてのもう一つの点は、神話は科学的な見方には欠落している総合的な世界観の形成に欠くことのできない性質を有することです。それどころか、私たちの科学的な合理性にも神話的な思考方法が深く入り込んでいることが、だんだんと認識されだしたのです。このように、聖書が神話であることが明らかになると同時に、神話が人間の宗教、文化、学問、社会、政治において重要な意味を持つこともまた、明らかにされてきたのです。
神話と歴史
神話と科学についてお話ししましたが、今度は、「神話」と「歴史」との関係についてお話ししましょう。実は、私が今日皆さんにお伝えしたいのは、こちらのほうなのです。「神話」という言葉には「事実でないこと」、「虚」と「実」で言えば「虚」としての否定的な意味が含まれています。これに対して「歴史」には、実際に起こった出来事として「実」の意味があります。「神話」と「歴史」をめぐるこの虚・実の関係を、これからもう少し具体的に見ていきたいと思います。
私たちの大学で、大江健三郎のノーベル賞受賞の記念行事として、読売新聞社の主催で、デレック・ウォルコット氏の講演会が開かれました(甲南女子大学1994年11月16日)。ウォルコット氏は、アメリカの南方にあるカリブ海諸島の出身の詩人で、ノーベル文学賞の受賞者です。彼は、開口一番「カリブの島々に歴史はない。あるのは神話です」と言いました。この言葉は私に電気のように伝わりました。カリブ海に散らばる諸島には、15世紀から16世紀頃までは原住民が住んでいました。しかし、白人がこれらの島々を占領すると、原住民たちは、殺されたり奴隷にされたりして、ほとんど死に絶えてしまったのです。現在でも、中南米のグァテマラにはマヤ族が住んでいますが、この人たちが、家族ぐるみの虐殺に耐えかねて、日本にも支援を求めているということです。
ウォルコット氏が「カリブの島々に歴史はない」と言うときには、自分たちの文化が根絶やしにされて、「歴史」として世界に残ることができなかったことを指しています。自分たちの伝統的な文化が、いわば幻の文化となって、「歴史」の舞台から消されてしまった。それが、単なる虚としての「神話」にすぎないものになってしまったという悲哀がこもっています。この言い方に従うなら、こうも言えるでしょう。
「アメリカ・インディアンに歴史はない。あるのは神話です。」
「アイヌ民族に歴史はない。あるのはアイヌの神話だけです。」
言うまでもないことですが、私がこのように言うのは、これらの人たちを劣者として差別的な意図で述べているのではありません。このように差別され、「歴史」から抹消されてきた少数民族が、近年世界の各地で自分たちの文化の復権を訴えています。彼らは「失われた歴史」を取り戻そうとしているのです。
メシアの神話と歴史
1世紀に、ユダヤの国は、ローマ帝国の支配下にありました。ローマは、政治・軍事の両面において強大な大国でした。一方ユダヤは、誇り高く精神的にすぐれた宗教性を持つ小国でした。ユダヤ人の間では、やがてメシアが出現して、ローマ帝国は滅亡し、全世界に、ユダヤ民族を中心にした「メシアの王国」が誕生するという終末論が盛んになりました。しかしながら、ローマはユダヤに対する支配を徐々に強めて、周辺の地域にはギリシア・ローマの文化が浸透し、いわゆる「ヘレニズム化」が押し進められていきました。このような文化的・政治的・軍事的支配の圧力にたまりかねて、ついにユダヤ民族はローマに反逆する戦争を起こしたのです。その結果、紀元70年に、ローマの軍隊によってエルサレムは壊滅し、ユダヤの国は消滅しました。終末が来たのはユダヤのほうだったのです。こうして、ユダヤ民族主義のメシア神話は崩壊しました。
ところが、これに先立つ紀元30年頃に、イエス様が現われて「神の国」を宣べ伝えました。イエス様はこのために、ユダヤの宗教権力とローマの政治権力の両方によって十字架刑に処せられました。しかし、このイエス様こそ真の救い主キリストであるという信仰が人々の間に広まったのです。これが、いわゆる「キリスト神話」です。この「キリスト神話」は、やがてキリスト教へと発展して、ユダヤの国が滅びた後でも、逆にローマ帝国の内部に浸透して、ローマ帝国の文化に替わる新しい「歴史」を形成する力となりました。ユダヤ民族のメシア神話は崩壊しました。しかし、同じユダヤ民族から生まれた「キリスト神話」は「歴史」を創ったのです。「キリスト」はヘブライ語で「メシア」ですから、同じ「メシア神話」でありながら、一方の「神話」は消滅し、他方の「神話」は「歴史」となったのです。
このように「神話」には、「歴史」の裏に埋没した「虚」としての「神話」と新たな「歴史」を創り出す力を発揮する「実」となる「神話」があります。「神話」は、このように「虚」と「実」の両面の可能性を秘めているのがわかります。「キリスト神話」が、「歴史」となることができたのは、人々の置かれていた厳しい現実に立ち向かう力を与えたからです。この段階で、「キリスト神話」は、「キリスト信仰」へ移ったと言うべきでしょう。信仰は、「神話」を現実と結びつけて、現実を変革する力となって働くからです。どうして、ユダヤ民族主義の「メシア神話」は歴史の陰に「虚」として消滅し、「キリスト神話」は歴史を形成することができたのでしょうね?
神国日本の神話
13世紀に、元帝国の大軍が、たくさんの軍船で博多に押し寄せてきました。ところが、たまたま台風が博多湾を襲ったために、元の軍船は沈められて、日本は元の軍勢に占領されずにすみました。これは実際に起こった出来事です。しかし、当時の日本では、この出来事から、日本は特別に神に守られた「神国」であるという信仰が生まれました。これが「神国日本」の「神風神話」です。こうして成立した神話の力がいかに強いかは、それから700年もたった20世紀に、日本がアメリカと戦争をしたときに、この神話が復活して、日本は「神国」であると教えられたことにもあらわれています。実は私も軍国少年だったので、この神風神話を信じていたのです。アメリカ軍が近づいたら必ず神風が吹くと。もしも神風特攻隊の攻撃が功を奏して、日本が太平洋戦争で奇跡的にアメリカに勝ったならば、神風神話は「歴史」になったでしょうね。しかし、現実には、神国日本という神話は敗北しました。もはやだれも日本は神の国だともアマテラスはアジアを支配するとも言わないのです。
神国日本の「神話」の崩壊、ここから戦後の日本の「歴史」が始まりました。少なくともこの時点で、日本の「神国神話」は、世界の歴史において、その正統性を失いました。私たちは、改めてこのことをはっきりと認識しなければなりません。もしも私たちが、再びなんらかの姿に変容したヤマト神話にとりつかれるなら、今度は、かつてのユダヤ民族主義のメシア神話と同じ運命をたどることになります。
歴史は年代記ではない
皆さんはすでにお気づきだと思いますが、私がここで「神話」と比較して「歴史」と言うとき、それは単なる出来事のことだけではないのです。過去の出来事を起こった順番に並べただけでは「歴史」(history)は生まれません。それは「年代記」(chronicles)です。「歴史」は「年代記」ではありません。出来事をあるがままに並べるだけでは「歴史」は生まれません。そこには断片的な事実の羅列があるだけです。「歴史」は事実の羅列ではありません。「神話」には、自分たちに起こった出来事をある価値観によって把握する力があります。「神話」との関係において「歴史」と言うときには、出来事を統一され秩序づけられた視点で見ることのできる価値観がなければなりません。なんらかの神話的宗教的な価値観がその根底に流れていないなら、ほんとうの意味での「歴史」は生まれません。
「歴史」と「神話」はこのように見ると裏表を成しています。表が「歴史」なら、その裏には「歴史」になりえなかった無数の「神話」が潜んでいます。70年間続いたソ連の共産主義という「神話」が崩壊し、昨日の「歴史」が今日の「神話」となりました。同時に今日の「神話」が明日の「歴史」を創るのです。生まれて消える「神話」もあれば、いつまでもなくならないで「歴史」を創り続ける力を持つ「神話」もあります。「歴史を創る」可能性を秘めているという意味で、「神話」は決して作り話でもなければ、虚偽でもありません。ただ、「神話」にもさまざまあって、ある「神話」は消え去り、ある「神話」は永続します。
肉なるものは皆、草に等しい
永らえても、すべては野の花のよう。
草は枯れ、花はしぼむ
主の風が吹きつけたのだ。
この民は草に等しい。
草は枯れ、花はしぼむが
私たちの主の言葉はとこしえに立つ。
(「イザヤ書」39章6〜8節)
イザヤは、はかない人間存在と神の言葉とを対照させて、このように言いました。これは、いつまでも永続する「神話」と、はかなく消滅する「神話」とに当てはまると思います。いつまでも残って、人間の「歴史」を創り続ける力を秘めている「神話」こそ、文字どおり「神が語る話」としての「主の言葉」であると言えます。
日米の原爆「神話」
私はここで、今までお話ししてきた「歴史」と「神話」の関係を、アメリカと日本との関係に置いてみたいと思います。なぜなら、これからの日本と日本人の歩みを考えるときに、文化・政治・経済だけでなく、両国の文化の基層をなす価値観においても、日米関係を抜きにしては考えられないからです。
昨年アメリカで、過去の戦争を記念するために、原爆の図柄の切手が発売されました。これに対して日本の側から大きな反発が起こりました。しかも、その日本の反発が、今度はアメリカの内部にも論争の火をつけました。日本の反発に対応して、アメリカは切手の図柄を変更しました。この一連の事件は、日米の根本的な価値観の対立を浮き彫りにすると同時に、日米関係を象徴している出来事として見ることができます。
アメリカが図柄を変更したのは、アメリカが、原爆の投下を反省して、その行為の誤りを認めたからではありません。そうではなく、原爆を投下したことが、本来「正しい」行為ではあっても、日本人の原爆に対する「被害者意識」に配慮したために、その図柄を変更した。『ニューズ・ウィーク』はこう伝えているのです。しかし、問題は、日本人の核アレルギーだとか被害者意識などという矮小された視点ではないのです。アメリカの人は、日本の反核運動が、アメリカに対する恨みから生じていると考える傾向があるようですが、日本人は、原爆体験をアメリカから受けた被害というレベルで受けとめてきたのではありません。自分たちを襲ったのは、これから、どこの国でも起こりうる災害であるという、人類普遍の体験として受けとめたのです。原爆投下を単にアメリカ一国の誤りとしてではなく、日米をともに含めての「人間の犯した誤り」と受けとめたのです。これは正しい受けとめ方です。
このようなとらえかたは、日本軍が行なった南京虐殺についての映画を、中国の映画作りの人たちが、反日ではなく人類共通の出来事という見方から制作しようとしている姿勢とつながります。日本が加えた危害に対して、中国の人たちは、日本人がアメリカの原爆に対するのと同じ受けとめ方をしようとしているのです。このような見方に立つならば、靖国の犠牲者も原爆の犠牲者も南京虐殺の犠牲者も、アメリカが、日本が、軍国主義が、という狭い意味ではなく、すべてを「私たち人間の罪」として、一つの視野の下に見ることができます。この視野から、はじめて、人類普遍の価値観が見えてくると思うのです。
原爆は、これを投下した飛行機エノラ・ゲイ号をスミソニアン博物館に展示する際にも問題になりました。アメリカの原爆投下を正当化する人たちは、原爆投下が、現在の状況はともかく、過去のあの時点においては正しい選択であったとして、これを記念し、これを確認しようとしています。しかし、アメリカの真の狙いは過去だけではないのです。これからも核の抑止力を正当化して、アメリカの強大な核兵器が、世界の平和を守る働きをするという考え方、いわゆる核抑止戦略に基づいています。この考え方は、核という武力によってしか世界の平和を保つことができないという価値観に基づいています。アメリカは、この価値観によって世界秩序を維持すること、すなわちこの価値観を「歴史化」することを意図しているのです。
もしもこれが成功して、将来においても、核兵器の力に支えられた大国主義が世界を支配するようになれば、その結果、中国以外のアジアの国だけではなく、ついに日本も核兵器開発を始めるかもしれません(アメリカのかつての外交官キッシンジャーは、将来日本は核兵器を持つと予測しています)。そうなれば、私たち日本人の核廃絶平和主義は、ひとつの「神話」となって「歴史」の裏に埋没してしまうことになります。しかし、もしも、核廃絶による世界平和という日本人の思想が、その粘り強い運動によって功を奏して、たとえば国連による核兵器の管理という形で実現するならば、日本の反核運動は、人類の「歴史」を形成する出発点としてその歴史的な意義を獲得します。
広島の市長は、アメリカの記念切手に対して、「私たちは過去のことで言い争うつもりはない。むしろ、これからの未来に向けて発言しているのだ。その視点から、今度の切手は残念である」と発言しました。今は過去をどう評価するかよりも未来に向けて何をすべきかを問うべきであると批判しているのです。アメリカの価値観は、過去の原爆を正当化しようとし、広島市長は、原爆の犠牲の上に成り立つ核廃絶と世界の絶対平和思想を目指しています。ここには、原爆投下という出来事を見る見方において、日米の間に根本的な価値観の相違が横たわっています。アメリカの世界平和の構図は、核の武力による「アメリカの平和」構想によっています。これに対して、日本の平和構想は、核兵器の廃絶と世界平和への希求によって支えられています。そこには、単なる被害者意識を超えた広島・長崎の原爆犠牲者から生まれた人道的な価値観があります。
いったいどちらが本当に正しいのでしょうか? これの答えは、いったいどちらが、人類全体を視野に入れた普遍的な視点に立って見ているか、さらに、どちらの価値観が、最終的に世界の「歴史」となって結実するのか、という問いにつながります。私たちは、ここに「歴史」を導く神の目を意識せずにはおれません。聖書が「神の目から見て」というのは、実はこういう視点なのです。
聖書の神の視点から
イザヤの時代に、ユダ王国とアッシリアとが対立しました。そのときにイザヤは、ユダ王国の神が主なるヤハウェであり、アッシリアの神は偶像にすぎないから、ユダ王国が勝つなどという預言はしませんでした。彼は、人類の「歴史」を動かしているのは本当はだれなのか、これを公正に、すなわち「神の側から」見たのです。ちなみに、世界を支配する唯一の神がおられるという信仰は、このイザヤによって与えられたと言えます。「唯一の神」などと言うと、皆さんは、自分以外のほかの神々を否定する独善的で絶対的な神を想像するかもしれません。確かにこのような誤解を招く間違った神概念も現われました。しかし、イザヤが「唯一の神」と言うとき、それは、このような独善的な神のことではありませんでした。それどころか、イザヤは、人類を全体としてほんとうに平和へと導く「歴史」を創り出すものはなんなのかという視点から見ているのです。人類の終末において絶対平和が実現するというヴィジョンをイザヤが抱いたのはこのためです。
核兵器をめぐる日米の価値観の相違は、人類の未来にかかわる重大な問題です。ことこれに関する限りは、世界の国際世論は、核保有大国を除けば、日本の核兵器廃絶への道に味方しているようです。そのひとつの例をスウェーデンにある平和研究所の核実験の探査研究に見ることができます。この研究所は、過去二五年間、世界中の核実験を探知し続けています。「現実には、核の均衡で安全が守られているのではなく、恐怖の均衡によって世界の安全は破壊されつつある」というのが、ここの研究所の考え方です。人類には核兵器の廃絶以外に生き残る道がないことを信条としているのです。最近の例では、フランスの核実験に対して、ニュージーランドが、国際裁判でその違法を訴えました。このような考え方は、今世界中の国々に広まりつつあります。だからこそ、少数ではありますが、アメリカの国内でも、日本の核廃絶の立場に賛成する人たちが出てきて、論争がアメリカ国内に広がったのです。原爆をめぐる日米の価値観においては、少なくとも「神のみ前には」、アメリカの価値観よりは日本の価値観のほうが正しい。こう確信していいと思います。
先に引用した広島の市長さんの言葉は、「未来」を見て発言しています。これに対して、アメリカの主張は、「過去の実績」に根拠を求めようとしています。核の力で世界平和が保たれるというアメリカの価値観は、核を廃絶する方向に進むことでしか平和がこないという日本の未来志向と対照的です。これは注目しなければならない点です。なぜなら、日本の核廃絶思想が未来を持つことは、とりもなおさず、日本が「歴史」を味方にしていることを示唆するからです。なぜなら、未来を味方にすることは「時間」を味方にすることだからです。「時間」を味方にすることは「歴史」を味方にすることです。「歴史」を味方にすることは、「歴史」を導く神を味方にすることなのです。それは、聖書の神、すなわちモーセの神、イザヤの神、イエス・キリストの神、パウロの神を味方にすることなのです。
ローマ帝国とキリスト教
ローマ帝国は、地中海一帯を征服しました。こうしてローマ帝国のもとで平和が保持されました。これを「ローマの平和」と言います。この言葉は、軍事力によって世界の平和を保つという考え方を表わしています。「すべての道はローマに通じる」という諺がありますが、ローマに通じる道は軍用道路でもあったわけで、いったん事が起こると直ちに軍隊を帝国の隅々にまで送ることができたのです。キリスト教がローマに広まった一世紀の半ば頃は、ローマは帝政期に入っていて、道徳的な退廃がはびこっていく頃でした。実にさまざまな宗教や哲学が流行し、ジュピターやジュノーなどのローマの神々に対する信仰心は、すでに薄れてしまっていました。軍事力と政治力と法体系が、それまで築いてきたローマ文明を支えていました。こんな中に、人間の武力や経済力に頼らないキリスト教が浸透していったのです。
キリスト教は、武力による平和ではなく、神の愛による平和を説きました。ただし、ローマの武力を直ちに廃止せよなどと主張したのではありません。人間の心は、武力では支配できないこと、平和は人の心に宿らなければならないことを説いたのです。それは、人類の終末の平和を目指す信仰です。キリスト教はこうして未来を切り開く力となりました。「時間」を味方にする者は、「歴史」を味方にする者です。それは、神を味方にすることです。
脱白人のキリスト教
このように言うと、私がアメリカを敵視しているかのように受け取られるかもしれません。しかし、先にも言いましたが、アメリカの国内でも、原爆投下を正当化しない人たちがいるのです。ですから、これは日米の対立ではありません。何が今後の世界で本当に正しいのか、と言う価値観の対立です。現在のアメリカは、多くの点で、特に価値観の喪失で傷を受けています。それは、私たち日本人が想像する以上です。しかし、アメリカには、正義をどこまでも正義として守ろうとする伝統があります。今アメリカは、傷ついた大国意識と正義を守ろうとする伝統、この複雑な精神状況に置かれていることを知る必要があります。
戦後の日本が、物心両面において、アメリカから多くのものを与えられたことは、忘れることのできない事実です。受けた者が、与えてくれた者に向かって偉そうにしてはならないのです。「あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」(ローマ一一・二〇)とパウロが戒めているように、アメリカに向かって偉そうな言辞を弄してはなりません。この意味で、私は、決して「反白人」(anti-white)ではありません。欧米の歴史が到達した価値観は人類の到達した価値観です。私たちはこれをしっかりと受け継ぐべきです。継承はアンチではありません。継承はポストです。私たちが、聖書の神の語りかけに聞くときにも、過去のキリスト教の遺産から学ぶべきものはきちんと受け継がなければなりません。しかし、アメリカのキリスト教もこれに基づく価値観も今や根本的な変革を迫られているのは明らかです。「歴史」を導かれる神は、「脱白人のキリスト教」(the post-white Christianity)が到来しつつあることを私たちに示しておられる、こう思います。しかし、これは決して反米主義ではありません。
実は、日本の問題は、アメリカの問題でもあるのです。銃の規制や核兵器廃絶や白人と黒人との対立の問題などは、そのまま、これからのアメリカが、アジアとどのように付き合っていくかを探り求めるときに、避けて通れない課題なのです。この意味で、現在アメリカの社会を悩ませている問題は、そっくりそのまま、アジアとアメリカとの出会いにおいても問われることになるでしょう。核の武力に頼らずに平和を築くにはどうしたらよいのか。まだ少数ですが、アメリカの中でもこの問題を正しく認識している人たちがいます。銃規制もアメリカの今後の大きな課題です。これらがアメリカの今後の運命を決めると思います。アメリカのキリスト教の将来も、どのようにしてポスト白人のキリスト教へと変革をとげるかにかかっています。アメリカのキリスト教が直面しているのは、人種問題、特に黒人と白人との間の融和であり、さらに多民族国家としてのアメリカが、どのようにして共同体を形成するかという問題です。アメリカの人たちは、これらの試練に耐えるだけの底力を持つ国民です。
これからの日本
ではこれからの日本について考えましょう。少なくとも、日本は、現在、三つの点で、世界の先端を行っています。ただし必ずしもいい意味ではありません。一つは、今お話しした、原爆体験に基づく核廃絶の絶対平和思想においてです。日本が抱えるもう一つの問題は、人口密度の高い国が、高度に発達した科学技術を用いて工業化した場合に起こる環境汚染の問題です。この点でも日本は世界の「先端」を行く国です。もう一つは、急速に高齢化社会に向かっていることです。この問題は、その速さにおいて、今までどこの国も経験したことのない「社会問題」です。「先端」を行くというのは、日本での老人福祉が、たとえばスウェーデンのように世界で最も行き届いているという意味ではありません。老人が急速に増加する中で、これに対処する方法が間に合わないと言う意味において、日本は世界で最も切実な状況に置かれています。私たちはこれらの問題が、日本だけでなく、世界の他の国々にも覆いかぶさってくる問題だということを知る必要があります。それらは、日本だけでなく、世界全体の切実な問題なのです。
日本は、過去において、アジアで戦争による加害者となりました。だからこそ日本は、その国家神話において一度死んだのです。そこから、広島・長崎の犠牲に基づく新しい日本が再生しました。今日私がお話ししたのは、日本の戦争と戦後のこのような貴重な体験とそこから学んだ価値観に基づいています。日本の「神国神話」が崩壊したときに、そこから新しい日本が見えてきたのです。その結果、日本が直面している問題が、日本だけでなく、アジア全体の問題であり、さらに、欧米、特にアメリカをも巻き込んだ問題であることが見えてきたのです。このような日本の現在の事態を皆さんにはっきりと認識してほしいのです。
日本は、アジアにおいて近代国家となった最初の国です。日本は、アジアにおいて欧米の軍事力に真っ向から闘いを挑んだ最初の国です。日本は、世界において核兵器の洗礼を受けた最初の国です。日本は、世界において、軍備を国外で用いないと言う憲法を持った最初の国です。日本は、軍事力によらないで、経済力によって大国になった世界最初の国です。この日本に、現在さまざまな問題が集中的に問われていて、その解決を迫られています。この意味で、地球規模の価値観を築くべく「歴史」からチャレンジされています。
この挑戦を受けて、未来を志向する明確な方向づけを今の私たちができるかどうか。「歴史」を導く神から、この呼びかけが、今日本の私たちに向けられています。日本が、現在ほど、本当の意味で「歴史」を導く神の力を必要としているときはありません。今私たちに必要なのは、これらの諸問題を総合的にとらえる「知恵」です。このような「知恵」は、深い霊的な洞察と普遍の価値観に支えられてはじめて生まれます。このような霊的な「知恵」は、「歴史」を導く神の言葉として聖書を受けとめる者に与えられるものです。この「知恵」こそ、私たちの知性と信仰を通じて、「歴史」を創る力として働くのです。現在の日本が置かれている状況を考えるときに、この国に「神の知恵」が今最も切実に要求されていることを感じます。「歴史」を導く神が、今の日本に向かって呼びかけておられるそのみ声を、皆さんと一緒に聞き取りたい。こう思います。