三章 日本の「平和憲法」
   われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」〔憲法前文から〕
 「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威(い)嚇(かく)又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」〔第二章第九条〕
■平和憲法の問題点
  現在の日本国憲法は、「武力による威(い)嚇(かく)や行使」を「放棄する」とあることから、「戦争放棄」を謳(うた)う「平和憲法」と呼ばれています。ところが、この「平和憲法」の是非については、憲法の制定以来、国内で、賛否両論が続いています。憲法九条をめぐる主張は、次の三通りに大別できます。
(一)憲法九条を字義通りに受け止めて、武力を一切放棄し、完全に無防備で無抵抗の「平和国家」に徹するべきだと主張する人たちがいます。私の理解が正しければ、このような国家は、未だかつて、世界に存在したことがありません。
(二)地上の歴史的な国家の「主権」は、必ず「武力」を伴いますから、たとえ「平和憲法」と言えども、国を外敵から守る「自衛のため」の軍隊は容認されると解釈して、日本は「自衛隊」を創設し、現在に及んでいます。現在、日本が「自衛のために」保有している軍事力は、核兵器を除けば、アジアでもトップクラスに入ると言われています。
 (三)「戦争放棄」の条項を改変して、「普通の国」並みに、武力を公然と保持できる憲法にするのが現在の自民党首脳部の方針です。
  これら三つの主張のどれが正しいのか? これを問う前に、私たちは、問題の背景に、何が潜んでいるのかを考えなければなりません。問題が政治と軍事に関わりますから、平和憲法の是非を軍事あるいは(国際)政治の観点から論じる場合が少なくありません。しかし、中にはこれを宗教的な観点から論じる人もいます。キリスト教を含め宗教的な視野から見る場合は、(一)を選択する人もいるようです。そうであれば、ここには、どのような宗教的な課題が含まれてくるのか? この点を解明する必要があります。
 ■絶対的平和思想
  いかなる場合にも決して暴力を用いず、叩かれても殴られても仕返しをしないことを「非暴力」(non-violence)と言い、集団でこの方針を採(と)ることを「絶対平和主義」(pacifism)と言います。ロシアの文豪トルストイとインドの指導者ガンジーとアメリカの預言者ルーサー・キング牧師などが、絶対平和主義を唱えた人たちとして知られています。この憲法第九条も、その主旨としては、「絶対平和主義」に近いと受け取られています。
  絶対平和思想の歴史は古く、その源(みなもと)をたどれば、旧約聖書のイザヤ書の十一章や三五章に、これの源(みなもと)を見ることができます。北王国イスラエルと南王国ユダとが、それぞれ、アッシリアと新バビロニアとによって滅ぼされ、イスラエルの民がバビロンで「捕囚の民」とされてから、奇(く)しくもペルシアのキュロス王によって、ユダの民だけが、都エルサレムのあるユダの地に帰還することを許されました(前五三九年)。イザヤ書には、民族絶滅の危機を辛(から)くも免れ(まぬが)たイスラエルの民の解放の喜びが記されています。
  イザヤ書は、「弱い者たちを正義によって救う裁判を行ない、国の苦しむ人たちのために正義の判決を与える」(イザヤ書十一章四節)メシア(救い主)の到来を預言しています。メシアが到来する時には、「狼は小羊と共に宿り、豹が子山羊と共に休み、子牛と若いライオンが共に草を食べ、幼子がこれを導く」(イザヤ書十一章六節)。イザヤは、こういう比喩的な言い方で、戦(いくさ)のない絶対平和の世界が訪れると預言しました。「その時、(目が)見えない人の目が開かれ、(耳が)聞こえない人の耳が開かれる」のです(イザヤ書三五章五節)。「人々は主の栄光を見、私たちの神の輝きを知る」のです(同二節)。
■終末的な追求
  バビロンでの捕囚以後のユダヤでは、イザヤのこの預言が、メシアが到来する「終末の時」に実現すると信じられていました。一世紀のパレスチナに、ナザレのイエスが神の御子であるという信仰が生まれると、イエスの到来によって、かつてイザヤが預言した「終末」が、イエスによって実現するという期待が生じます(マタイ十一章二~六節を参照)。ところが、イエスは、「(絶対平和の)神の御国は近づいた」と告げましたが、「(御国が)完全に到来(成就)した」とは言いませんでした。イエスの到来によって絶対平和の時代が「始まった」のですが、これが完全に実現するのは、「人類の終末の時期まで」待たなくてはならない。イエスは、このように告げて、自ら進んで十字架刑の苦難を受けます。このイエスが、その死の中から復活して、今も私たちの人間存在に働く御霊(みたま)となって生きているというのがキリスト教の信仰です。だから、人類への絶対平和の訪れは、イエスの到来によって「始まり」ましたが、まだ「完全な成就」を見てはいないことになります。
  私たちが、憲法第九条に盛られている「絶対平和」の思想を考えるときに、キリスト教のこのような平和信仰と、それが「終末的な」展望に基づくことを知る必要があります。軍備を持たない国家など、歴史の現実に照らせば「夢物語の理想に過ぎない」という九条への批判は、こういう背景を視野に入れるなら、ある意味で当然だと言えます。日本を始め世界全体が、未だ終末に到らない「理想と現実との狭(はざ)間(ま)」の時代を歩んでいるからです。
  憲法九条だけではありません。「殺すな。盗むな。姦淫するな。偽(いつわ)りの証言をするな」という教えで知られる「モーセの十戒」は、今から三千年以上も前から人類に与えられている戒めです。しかし、これが「完全に実現している」国は、世界のどこにも見当たりません。この十戒も、人類の終末を目指してその成就を待ち望んでいるのです。
■理想と現実
  この事が分かれば、日本の平和憲法が、「終末を目指して理想を追求する」宗教の特徴を具(そな)えていることが見えてきます。当然のことながら、この憲法が目指している終末性を帯びた理想とこの世の現実との間には、大きな開きがあります。しかし、どんなに開きが大きくても、現実に照らして理想を嘲(あざけ)ってはなりません。むしろ、理想に照らして現実のほうを嘲(あざけ)ってください。理想から現実を見れば、そこに風刺や皮肉や笑いが生まれます。しかし、現実にとらわれて理想を見失うところには、虚無(ニヒリズム)の冷笑が生じます。虚無感はモラル(道徳)の崩壊をもたらし、モラルが崩壊すれば、そこから、独裁的なファシズムが台頭します。現在、憲法の「改変」がささやかれていますが、憲法には、このような「宗教的な霊性」が潜在していますから、たとえ変わっても、終末的な理想を目指す現在の憲法の本質を変えることがあってはなりません。今の日本の憲法の理想自体を無にするような変更を許してはなりません。
■選択の自由
 このように、理想と現実との間には、大きな隔(へだ)たり(ギャップ)がありますから、両極の間には、多種多様な選択肢が広がっています。そこには、現実に即応する選択から、理想を目指して、憲法が言う「幸福を追求する個人の自由」をどこまでも貫こうとする選択まで、実に様々な「自由」の有り様が広がっています。終末の理想と現実との間に広がるこの「自由」による選択が、どれほど幅のあるものか、これを例示しましょう。
  政府から君が代を歌うことを強制され、これに抗議して、卒業式でも君が代を歌うことを拒否する人たちがいます。しかし、日本の皇室は、戦後一貫して平和憲法を守り、これに準じて歩んできました。だから、君が代を歌えというのなら、憲法で唱えられている平和主義と戦争放棄を奉じて、今もこの道を歩み続けている日本の皇室を称(たた)えて、大いに賛美しようではありませんか。こういう選択もあるのです。国内だけではない、国の内外の人たちに響けとばかり、日本の平和憲法とこれを守る皇室の歩みを賛美するのです。かつて軍国主義に操(あやつ)られた皇室ではなく、世界平和を真剣に希求する「今の皇室」を誇りに思って歌うのです。
  歌わない自由を主張することも、歌う自由を活用することも、どちらもイエスにある「個人の自由」です。イエスの御霊(みたま)にある自由が、どれほどの幅と多様性を有しているのか、これでお分かりいただけたでしょうか。
■理想追求への力
 では、理想と現実との隔(へだ)たりをどうすれば克服できるでしょうか? その力はどこから来るのでしょうか? 憲法を国の政治を規定する単なる「法文」として扱っている限り、平和を妨げようとする現実を克服する知恵も力も人の心に湧いてきません。イエスはこう言われました。「幸いだ、平和を造り出す人たち、その人たちこそ神の子とされる」(マタイ五章九節)。人間は弱く無力で、その上、傲慢(ごうまん)で罪深いです。そんな人たちの間から、「平和を造り出そうとする」力が出てくることは望めません。人間の弱さと罪深さに逆らい、これを逆転させることができる不思議な力、争いと戦(いくさ)を繰り返してきた人類を「とにかく今まで導いて」、「なんとか平和を実現させようと」働きかけている「人には見えない神の御(み)力(ちから)」、これがなければ、人類はとっくに滅びていたでしょう。
  宇宙を創造し、地上において人類を育(はぐく)まれてきた神は、人間の弱さと罪深さにも克(か)つことのできる力を私たちにお与えになることができます。神の御子イエス・キリストから発する聖霊の働きによって、「平和を造り出していく力」を個人個人に働かせることができるのです。だから、イエスに言わせるなら、「平和を造り出す」人は、だれであっても「神の子」です。こういう力が働かなければ、憲法九条は、無力で実効力を持たない「ただの法文」になります。 現在の日本の皇室は、この平和憲法を真摯(しんし)に守ろうとされています。皇室は、危機に際して、このやり方で、先の敗戦の国難を乗り越えてきました。皇室の「万世一系」(ばんせいいっけい)は、この方法で保たれてきました。こういう平和憲法を守ろうとしている皇室をいただく日本の国家理念は世界的に見ても貴重です。人類の平和と自由という理想を掲げた国家理念を抱くこういう日本を私は誇りに思い、神に感謝します。
  かつての明治憲法は「神聖にして犯すことのできない不磨(ふま)の大典(たいてん)」と呼ばれました。現在の日本の憲法こそ、モーセの十戒と同じく、神聖な不磨(ふま)の大典(たいてん)です。こういう憲法を守ろうとする皇室と民は、アジアの平和と民主化へ向けて指導的な地位を占めることができます。欧米のクリスチャンたちが、ごく自然にしているように、日本のクリスチャンも、自分の国に誇りを抱き、心から愛してほしいのです。
 日本は、明治維新以降、「富国強兵」の名の下に、武力による世界制覇を目指しました。しかし、敗戦後は、平和憲法の下にあって、経済力によって、世界の大国になりました。そして今、私たちは、この憲法の国家理念の下で、世界の平和を造り出す指導的な地位に立たされています。歴史を導く神の不思議なお計(はか)らいによって、今の日本には、こういう使命が与えられています。  言うまでもなく、現在の日本で、平和憲法を守ろうと真剣に考えているのは、皇室だけではありません。核廃絶運動を始め、アジアの諸国に灌(かん)漑(がい)や植林事業を行なって、その国の民に感謝されている多くの日本人がいます。これらの人たちのお陰もあって、日本の民は、言わず語らずのうちに、平和憲法の「変更」を防いできました。 かつてのイスラエルがそうであり、かつてのアテネがそうであったように、たとえ小国と言えども、今の日本は、アジアの国々を指導できる国家理念と資質(ししつ)と能力を具(そな)えています。私が平和憲法について書くのは、この国を心から愛するクリスチャンに訴えたいからです。現在の日本は、イエス・キリストの恩恵によって、すばらしい可能性を秘めています。だから、日本のクリスチャンは、迷うことなく、御子イエスとその御霊のお働きを信じてください。日本のクリスチャンが歩むべきは、こういう「忠信愛国」の道です。  
■追悼の辞
  現在この国には、「クリスチャン」と呼ばれる人たち、仏教徒たち、神(しん)道(とう)の信者たちがいます。本来なら、「国を愛する」ことをこの人たちに説く必要はありません。いかなる意味においても「宗教する人」なら、自分が所属する共同体を心から愛するからです。「啓示を受ける」ことは共同体的な出来事です。「啓示」は、その共同体の過去と現在と未来への「霊的なお示し」です。
  とりわけ、この私には、過去の日本にも、覚えておきたい人たちがいます。かつての太平洋戦争で、無残にも殺されて死んでいった人たちです。これらの兵隊さんたちの多くは、「天皇陛下万歳」を唱えながらも、その死の間際には、母の名を呼び、妻の名を口にし、子供たちへ呼びかけて逝(い)った人たちです。彼らは、自分がどうしてこのような悲惨な目に遭(あ)わなければならないのかを最後まで知らされず、分からずじまいでした。確かなのは、今の自分の死が、これからの祖国の有り様に関連して、きっと何らかの姿で活かされて、家族が幸せになる日が来る、そういう幸いが、いつか祖国に訪れる日が来る。この事を想い、その事のために今自分は死ぬのだと言い聞かせて、息を引き取ったことです。私が、今一番覚えておきたいのは、この人たちです。祖国の平和と家族の平安への想いに希望を見いだし、これを念じて逝(い)った人たちです。
  私は今、これらの人たちのことを想いながら書いています。彼らが、人知れず祈り求めて逝(い)ったその願いと想いが、戦後七七年にして、ようやく実を結んで、この国の未来を照らしてくれている。こういう想いに動かされます。今の日本の平和で民主的な姿を見て、「彼ら」は、きっと喜んでいる。自分が死に際(ぎわ)に求めていたのは、これだったのか。自分は「このことのために」逝(い)ったのだと分かってくれている。こういう想いと喜びを私は彼らと分かち合いたいのです。
           日本の使命へ