四章 近代民主主義の誕生
 ■民主主義とは何か?
 二〇二二年の現在、日本は、アメリカ及び西欧諸国と組んで、ウクライナを支援し、ロシアと中国と北朝鮮に「敵対」しています。なぜ、日本はロシアや中国に支配されてはならないのでしょうか? その理由はただ一つ、「日本の民主主義を守る」ためです。なぜ、そこまでして、民主主義を守らなければならないのか? これを考えるよすがとして、近代(一六〜一七世紀)の民主主義の発祥(はっしょう)について述べたいと思います。

■ホッブズの思想

 一六世紀〜一七世紀のヨーロッパの近代民主主義を考える時に、その出発点として、しばしば、イギリスの政治思想家であるホッブズ*1の国家観があげられます。ホッブズの時代に先がけて、ヨーロッパでは、カトリックとプロテスタントとが、血で血を洗う宗教戦争を繰り広げていました。さらに、ホッブズの頃のイングランドは、ピューリタン革命の最中でした。ホッブズの国家観には、このキリスト教徒同士の醜く恐ろしい争いが、その背景にあると思われます。
  割り切った言い方をすれば、彼は、当時の自然科学の物理的な原子論を適用して、人間集団とは、原子の粒の集まりであると見なしました。だから、人間一粒一粒は、国家を形成する一個の原子にすぎません。しかも、その原子個体は、自己保全のために欲望と利得のままに動く「生き物」ですから、ホッブズに言わせれば、人間は、その自然体において、「万人の万人に対する戦争状態」にあります。*2だから、「国家」は、その強大な権力を行使して、個体原子の集まりを強制的に支配しなければなりません。ホッブズは、その著書『リヴァイアサン』で、国家権力の支配を海から上がってきた怪獣のレビヤタン*3にたとえています。人間集団の生存権を確保するために、絶対的な権力を振(ふる)う国家がどうしても必要だと彼は考えたのです。
 ホッブズの思想に対しては、これを修正したイングランドの政治思想家ジョン・ロックがいます。*4ロックは、ホッブズの社会(国家)契約思想にキリスト教的な立憲政治を採り込むことで、法を現実の政治に具体化しようとしました。彼は、その聖書注釈において、個人を尊重するだけでなく、イエス・キリストにあって、教会全体が一致して形成されることを重視しています。*5

■リンゼイの民主主義論

 ここで、イギリスの近代民主主義の誕生とその経過を跡(あと)
づけたリンゼイの説を採り上げたいと思います。*6 近代国家の議会制民主主義は、一七世紀のイングランド国教会において、「小規模な信徒の集まり」から始まったと言われています。国教会の内外の「小さな信徒同士の共同体」は、教会組織の上層部から求められる「信仰の同意(一致)」よりも、信者相互の不一致や異論を容認した上での「討論による同意」をその手段として用いました。彼らは、討論の結果、「投票による多数決」に従う「全員の同意」という「多数決の原理」を選んだのです。*7
  こういう「同意」のかたちが、最も顕著に現われたのが、ピューリタン革命において、王党派の軍隊を次々と破った議会派のクロムウェルの鉄騎隊でした。革命に際して、過激な水平派は、各人が「自己の意志」を表明すべきだと主張しましたが、クロムウェルは、各自が、「自己の意志」ではなく、自分に啓示された「神の意志」を表明すべきだと説いたのです。*8クロムウェルの軍隊は、当時の長老派やアナバプティストなど「互いに討論できる規模」の諸集団から成り立っていましたから、自分たちの実体験に基づいて論じ合うことができました。クロムウェルは、これら諸集団に、自己勝手な自我に動かされず、「神の御心を求める意志」を抱いて、「全体を活かすために小我を没する」よう説得しました。その結果、鉄騎隊は、驚くほどの力を発揮することができたのです。*9
■民主主義の原点
 いったい、「民主主義」とは何でしょうか?それは、生存することです。しかし、単に生存するだけなら、ホッブズの言うように、絶対権力による全体主義の体制でも間に合います。民主主義とは「よく生存する」ことです。「人がよく生きる」ためのまことの民主主義とはなにか? これが現代においても問われています。
 
  人が「よく生存する」ための民主主義では、最小単位の「人の集い」(congregation)が必要です。このような「人の交わり(コイノニア)」を信頼するところから、民主主義が始まります。*10ちなみに、その最小単位は、七人くらいが適切だという指摘もあります。この人数だと、「集いの意識(空気)」"the sense of the meeting"が生まれるからです。*11
  民主主義は、人々に「共通する意識」(common sense)だけでなく、現実の「有効性」(efficacy)も含む二つの要因で成り立っています。例えば、「原発の誘致」問題では、誘致の可否は共通認識によって定まります。しかし、共通認識が可とした場合でも、その原発が事故を起こしたならば、その共通認識は「有効でなかった」ことになります。この場合に見るように、全員の共通認識と現実の有効性との溝を埋める働きが、どうしても必要になります。これが「話し合い/討論」(discussion)です。*12
 民主主義の「話し合い/討論」には、「個人の自由な発言」が認められなければなりません。その上で、個人は自己の発言の結果を「交わり全体」への信頼に委ねなければなりません。
  ところが、このように「共通する空気を造り出す話し合い」は、少人数を超えて大規模になると、有効性をめぐり「話し合い」それ自体が成り立たなくなり、「話し合い/討論」を放棄する人が出るのです。その結果、少人数から発した運動の主意は、人数が広がるにつれて、その政治形態の中で実践不可能になってしまいます。
 ■民主主義と国家
 「話し合い」とこれの有効性との狭(はざま)
には、避けがたい障害が潜んでいます。政治的な統治は、話し合いから生じる理想によって決定されるのではなく、地理的、経済的、歴史的、文化的なもろもろの事情に不可避的に迫られて、これらの諸事情に左右される結果、「妥協に」よって決まるからです。*13  少人数の集(つど)いから形成される民主主義の限界を克服するのは、代議員制度だと言われます。アリストテレスは、演説者の声の届く範囲の人から代議員を選ぶよう指示しました。しかし、「代議員」"representatives"(代表する人たち/議員)についても、水平派とクロムウェルとは、異なる見解を抱いていました。水平派に言わせるなら、「代表者」に選ばれた者たちは、選ばれたその時から、「代表」であることを止めて「議員」になるからです。代議員制度は、このために、本質的に非民主的な制度に変質します。*14しかも現代では、民の代表者が語る意見それ自体が、メディア(出版と放送とSNS)によって、その真意が歪められたり、誤って変容されてしまいます。だから、現代の政治は、メディア組織体による「宣伝の場」にされる傾向があります。こういう「民主主義」が拡大すると、人々の間に、民主主義への失望が拡大することになります。  現代の民主主義で言う「同意」とは、(一)政府の言うことを国民に同意させることなのか?(二)民の言うことを政府に行なわせることなのか?どちらも、「民主主義の同意」を意味します。(一)の場合は、専制政治が、民を同意に導くことが民主主義ですから、民主主義は専制政治に行き着きます。*15
 リンゼイによれば、専制的な国家主義は、国家自体をその目的とします。しかし、「まことの」民主主義は、国家を国民のための手段と見なします。*16
 国家間の権力抗争のために国民を誘導するのではなく、国家を構成する国民の自由と安(あん)(ねい)を守るのが、国家の目的です。国家は言わば、国民から「委託委任された」存在です。だから、民主主義の社会では、国家は常に国民によって相対化されることになります。憲法で保障された国民の権利は、国民の側からの普段の働きかけによってしか成就しないのです。
■宗教と民主主義
 以上で分かるように、その国家が真に民主的であるかどうかは、「自由で自発的な共同体」が、その国に存在するかどうかにかかっています。そのような、自発的な自由を活気づける源泉となるものこそ、「自由な霊感」(inspiration of freedom)に支えられたキリスト教の諸教会/諸集会の役割です。
 共同体での個人の発言は、その有効性について、発言した個人の責任を伴います。キリスト教での「交わり」(コイノニア)の場合は、各人が、主イエスの聖霊に導かれた「内なる光」に照らされて発言し、その結果を「交わり」全体に委ねることになります。キリスト教にある人と人との交わりは、個人に授与される聖霊の導きと、イエス・キリストの御(み)(たま)の交わりへの信頼と、その結果を導く神の意志による有効性、この三つが、重なり合うところに成り立っています。
 
 民主主義を支えるのは、いわゆる「一般大衆」のポピュリズムではありません。民主主義は、そのような浮動する「大衆社会」から発生するのではなく、宗教的な信念と良心に目覚めた「共同体」から産み出されるからです。そこには、すべての人が、個人として、「よく生きるための命を授かっている」という信念がなければなりません。この意味で、民主主義の根拠は、例えばホッブズのような科学的な論拠によるよりも、究極において、その国の民の個人としての信念であり、その信念は、「宗教的な真理」に根ざすものです。
 他者の利益を顧(かえり)みない自己勝手な自由は、「個人」ならぬ「孤人」を生じます。日本人は、「公私」の区別を付けるのが上手ですが、「公(おおやけ)」とは、江戸時代の「ご公(こう)(ぎ)」を受け継いで、「上から命令されることに服従する自分」だと考える傾向があります。ところが、「個人」が目指す営(いとな)みは、自分から教会を作り、社会を作り、国家を作る働きのことですから、これは、下から上へ働きかける発想から出ています。ここに、まことの民主主義の原点があります。
 「個人の信念/信仰」は、多数決による民主主義の「基礎」となるものです。その上で、国民全体の同意は、民主的な政治への「プロセス」(過程)によって形成されます。国民の心からの同意が得られた民主的な国家が、はたして、国の安全と平和に有効性を発揮するかどうか? これは、歴史(を導く神)だけが与えるものですが、その「結果」(英語の"success")は、「サクセス」(よい結果=成功)として証(あかし)されることになります。
                  

*1あらすThomas Hobbes.1588--1679. Leviathan. 1651. 
*2大澤麦「リンゼイのホッブス解釈」『イギリス・デモクラシーの擁護者A・D・リンゼイ・その人と思想』永岡薫編著・聖学院大学出版会・二四三頁。
故永岡薫氏は、日本ミルトン学会の会員・京都北白川教会のおメンバーでした。
*3レビヤタンについては、ヨブ記四〇章二五節〜四一章二六節に詳しく描かれていんます(もとはエジプトのナイル川の鰐のことか)。イザヤ書二七章一節では混沌を象徴する大蛇として、詩編七四篇一三〜一四節では、混沌をもたらす海龍としてでています。ヨハネの黙示録一二章九節・一三〜一八節では、国家権力に魔性を及ぼす悪魔が、「水を吐き出す蛇」の姿ででています。
*4John Locke.1632--1704. 著作として、『統治二論』(一六八九年)があります。
*5「ジョン・ロック著『エペソ人への手紙注解』」相澤一・大澤麦・川添美央子・野呂有子共訳。『聖学院大学総合研究所紀要』二〇〇三年(二九号)一六六〜一八二頁。
*6Alexander Dunlop Lindsay. The Essentials of Democracy. Oxford University Press.1929.
 A・D・リンゼイ『民主主義の本質』永岡薫訳。未来社(一九九二年)。
*7リンゼイ前掲書第三章「共同思考としての討論と集いの意識」。
*8Oliver Cromwell.1599--1658. リンゼイ前掲書二六〜二七頁・四〇〜四一頁。
*9永岡『イギリス・デモクラシーの擁護者』三〇〜三一頁。
*10リンゼイ前掲書二四頁・三九頁・四二頁。
*11リンゼイ前掲書四七〜四八頁。
*12リンゼイ前掲書三八頁・四二頁・四八頁。
*13リンゼイ前掲書四六頁。
*14リンゼイ前掲書五三〜五四頁。
*15リンゼイ前掲書六五頁・六七〜六八頁。
*16永岡『イギリス・デモクラシーの擁護者』二九六〜三〇一頁。
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