パウロのエルサレム訪問について
――ガラテヤ人への手紙と使徒言行録との調和――
どこに問題があるのか?
ガラテヤ人への手紙1章〜2章では、パウロの回心、アラビア伝道、ダマスコ滞在、1回目のエルサレム訪問、シリア・キリキア伝道、「再度の」エルサレム訪問、アンティオケアでのペトロとの衝突、のように、伝記的に見て7つの出来事が記述されています。一方で、使徒言行録には、パウロのエルサレム訪問が5回記されています。(1)回心訪問:9章26−30節。(2)飢饉訪問:11章27−30節。(3)使徒会議訪問:15章1−30節。(4)短期訪問:18章22節。(5)最終献金訪問:21章15−17節です。しかし、パウロの語る出来事と使徒言行録でのルカの記述とを比べると、必ずしも一致しません。パウロとルカとの記述をうまく調和させるのはなかなか難しく、いろいろな試みがなされています。そこで、これらをできるだけ整理して以下に述べてみようと思います。
ガラテヤ人への手紙1章でパウロが述べている1回目のエルサレム訪問は、ルカの(1)回心訪問と一致します。次にガラテヤ2章でパウロは、エルサレムへ「再び」上京したと言っていますから、ルカの記述に従うなら、パウロが言う二度目の訪問は、(2)の飢饉訪問に当たることになります。しかし、パウロがここで述べているのは、その内容から判断して、ルカの(3)エルサレム使徒会議のことだと見るのが通説になっているのです。ところが、この使徒会議もまた、ルカの記述にあるとおりに(使徒言行録15章36節)、パウロの第二回伝道旅行の「前に」行なわれたとする説と第二回伝道旅行の「後に」行なわれたとする説とがあります。なお、これらは、ガラテヤ人への手紙の宛先が「北ガラテヤ地方」(北ガラテヤ説)か、ローマの行政区分としての「ガラテヤ州」(南ガラテヤ説)か、という問題とも関連しますが、この点について立ち入らないことにします。なおパウロの語る最後のエルサレム訪問は(ローマ15章25〜33節/第一コリント16章1〜4節/第二コリント1章16節)、ルカの(5)最終献金訪問と一致しますから問題ありません。以上のことから、いろいろな問題や疑問点を次の7つに絞ってあげてみます。
(1)ガラテア2章でパウロの言う「再度の」エルサレム訪問は、飢饉訪問のことか? それとも使徒会議のことなのか?
(2)使徒会議それ自体は、パウロの第二回伝道旅行の前なのか、それとも後なのか?
(3)使徒言行録の飢饉訪問と使徒会議とは、別のエルサレム訪問だったのか? それともこのふたつは、同じものだったのか? すなわちルカは同じ訪問をふたつの異なる訪問として記述したのか?
(4)使徒言行録18章の(4)短期訪問は、使徒会議と重なるのか? すなわちルカはこれらを異なるものとして分けて記述したのか?
(5)パウロが言う「シリアおよびキリキア地方へ行った」(ガラテヤ1章21節)は、はたして第一回伝道旅行までも含めているのか?
(6)使徒言行録によれば、使徒会議の終わりに、異邦人キリスト教徒に対する4項目の食物規定を含む「使徒教令」が出されています。はたしてこの使徒教令は、使徒会議の時に出されたものなのか? それとも会議と教令との間には、ある程度の期間があったのか?
(7)パウロはその手紙で、使徒教令について終始沈黙しています。彼は教令を知らなかったのか? あるいは知っていても意図的に沈黙を貫いたのか?
これらの疑問をふまえながら、パウロのエルサレム訪問についての諸説を以下〔A〕〔B〕〔C〕の三つに整理して見ることにしましょう。
〔A〕
ガラテヤ人への手紙2章でパウロが語るエルサレム訪問と使徒言行録(15章)の語る使徒会議とを同じと見て、これを彼の第二回伝道旅行より前のこととする。
ここではマーティン・ヘンゲル〔Martin Hengel & Anna Maria Schwemer;Paul BetweenDamascus and Antioch:The Unknown Years.(Westminster John Knox Press;1997. xi-xiv〕の説に準じて説明します。この説によるとパウロの伝記的なシナリオは次のようになります(5回目のエルサレム訪問まで)。
●年表(1)
30年 イエスの十字架。
33年頃 パウロの回心。
33〜36頃 ダマスコとアラビア滞在。
36年頃 1回目のエルサレム訪問とその後にタルソスへ。
36/37年頃 タルソスとキリキア伝道。
39/40年頃 バルナバと共にアンティオケアへ。
41〜46/47頃 シリアとフェニキア伝道。
43/44? 飢饉援助のため2回目のエルサレム訪問。
46/47頃 パウロとバルナバとの第一回伝道旅行へ。
48〜49頃 3回目のエルサレム訪問と使徒会議。
49年頃 第二回伝道旅行へ。
49/50 テサロニケ滞在。
50〜52年 コリント滞在。
52/53年 エフェソからカイサリアを経て4回目のエルサレム訪問(?)。
アンティオケアへ。そこでペトロと衝突する。
第三回伝道旅行へ。
53〜55年 エフェソ滞在。
54年 第一コリント人への手紙。
54/55年 ガラテヤ人への手紙。
55/56年 マケドニア滞在。第二コリント人への手紙。
56/57年 コリント滞在。ローマ人への手紙。
57年 5回目のエルサレム訪問。
* パウロの最晩年について、ヘンゲルはスペインに渡り(62/63年)、ローマで殉教(64年?)したとしています。後述のマーフィー=オコウナもパウロがスペインにわたり(64年初夏)、その後ローマで殉教した(67年)と見ています。岩波訳『パウロ書簡』年表や『新共同訳新約聖書注解』Tの年表は、60年頃にローマで殉教したとあります。『岩波キリスト教辞典』年表では、64〜67年頃ローマで殉教となっています。
ヘンゲルの説は、ほぼパウロと使徒言行録に沿った見方を示していて、彼は、使徒言行録でルカの伝えるパウロの5回のエルサレム訪問をそのまま受け入れているのがわかります。ただしひとつだけ違っているのは、ヘンゲルが、アンティオキアでのペトロとパウロとの衝突を3回目の使徒会議訪問の直後ではなく、第二回伝道旅行の「後の」アンティオケア滞在期間中の出来事としていることです。この点でパウロの記述とは違います(もっとも「ケファがアンティオキアに来た時」をどう解釈するかによりますが)。この衝突がきっかけになって、パウロとバルナバとは別行動をとることになりますが、ヘンゲルによれば、第二回伝道旅行で、パウロとバルナバとが別行動を取ったのは、ふたりの対立からではなく、パウロは小アジアへ、バルナバはキプロスへと伝道に向かうためであったことになります。また、第二回伝道旅行の「後で」ペトロとパウロが衝突したのは、アンティオケア教会のユダヤ人キリスト教徒たちが、エルサレム教会と律法に忠実であったことも背景にあると彼は考えています。ガラテヤ人への手紙は、第三回伝道旅行のエフェソ滞在中に書かれたというのが定説です(54年?)。したがって、ヘンゲルの言うように、衝突が第二回伝道旅行の後であったとすれば、ペトロとの衝突の記憶がまだ生々しい頃にこの書簡が書かれたことになります。この衝突事件の次第は、ほぼ次のようになるでしょう。
ユダヤから来た人たち」が、異邦人にも割礼を施さなければならないと主張してパウロたちと論争になり(使徒言行録15章1〜5節)、そこでこの件についてエルサレムで使徒会議が開かれることになりました。ここでパウロたちの意見が認められて、異邦人キリスト教徒への割礼は必要でないという決議がなされますが、同時に異邦人キリスト教徒の食物に関する四つの禁止条項をふくむ使徒教令が出されました(使徒言行録15章6〜21節)。ところがその後で(ヘンゲルでは第二回伝道旅行の後で)、アンティオケアで、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との間の食卓について、パウロがペトロを非難する事件が起こったのです(ガラテヤ2章11〜14節)。
なおヘンゲルは、パウロのコリント滞在期間を50〜52年としています。これはガリオンの総督着任とアカイアでの在住期間が(使徒言行録18章12節以下)、51年の5月から52年4月までと見ているからで、パウロはガリオンの裁判の後も「かなり長い間」コリントにいたことになります。ここは、パウロの伝記的年代の基準とされている大事な箇所です(付記「パウロの伝記的年代の基準」を参照)。
では次に、ヘンゲルの説には、いったいどのような問題点が含まれているのか、これらを年表の順に従って列挙してみましょう。
(i)1回目のエルサレム訪問が36年頃になることについて。ここで、二つのことに注意してください。一つは算定の「起点」は何か。もう一つは算定の「数え方」はどうなっているかです。なぜこれが問題になるのかと言えば、ユダヤでは通常、日本で言う「数え歳」と同じやり方をするからです。すなわち生まれた年が一歳です。だから現在の数え方の満一歳は「足かけ」」二歳になります。ただし当時のユダヤでは、「満」で数える場合もあることら、「満」と「足かけ」とのどちらにも解釈できるのです。この点は、後で述べる〔C〕説を理解する上で重要になってきますから注意してください。
そこでヘンゲルの表(1)を見ますと、イエス様の十字架を30年として、パウロの回心をその3年後としています。その上で、33〜36年頃をダマスコとアラビア滞在と見て、36年頃に1回目のエルサレム訪問となっています。この算定は、パウロの回心(33年)を起点にしています。パウロは、御子を啓示してくださった時に、「すぐに」アラビアに行ったと述べています。パウロが「それから3年後に」(ガラテヤ1章18節)と言うのは、この「すぐに」に対応していると見るのです。しかしパウロは、エルサレムへ行く前に、回心してから、ダマスコからアラビアへ行って、再びダマスコへ戻ったと言っています。ですから「それから3年後に」をどう解釈するかが問題になります。ここでの「それから」の起点は、33年の回心です。ダマスコへ戻った時からではありません。もしも3年の起点が、ダマスコへ戻った時からだとすれば、アラビア滞在の期間は不明ですから、少なくともエルサレム訪問は33+3=36だけではないはずです。しかもヘンゲルは「満」ではなく、おそらく「足かけ」で数えていると思われます。回心(33年)から足かけ3年後は35年にあたります。しかしヘンゲルは、おそらくパウロのアラビア滞在とダマスコ滞在期間がこれでは短すぎると判断したのでしょう。このことを加味して、やや曖昧に「36年頃」を1回目のエルサレム訪問としたと思われます。なおこのエルサレム訪問は、使徒言行録では、9章28〜30節に当たりますが、ルカは、パウロがエルサレムで「身の危険を感じた」と語っています。
(ii)36/37年頃のタルソとキリキア伝道について。パウロは、「それから14年たって」エルサレムへ再度上る前に、「シリアとキリキア地方」で伝道したと言っています(ガラテヤ1章21節)。年表で見ると、「タルソ/キリキア/シリア/アンティオキア」地方での伝道が来て、これに続いて2回目のエルサレム訪問がきます。それから第一回伝道旅行がきて、3回目のエルサレム訪問、すなわち使徒会議になります。もしもこの「シリアとキリキア地方」の伝道に、第一回伝道旅行までも含めるとすれば、2回目のエルサレム訪問は、この二つの間に挟まれることになり、この訪問をどう扱うかが問題になります。だから彼は、「シリアとキリキア地方」を狭い範囲に限定して解釈しているのです〔Betz80〕。
(iii)43/44頃の飢饉援助のための2回目のエルサレム訪問は、使徒言行録に基づいています。当時飢饉が頻発して、このために物価が上昇し、庶民は苦しい状況に追い込まれていたと考えられます。特にヘロデ・アグリッパの圧政によって、経済的に困窮が激しかったようです。したがって、この時期にアンティオケアの教会が、エルサレム教会へ資金援助を行なったのは十分有りうることです。しかし、通説では、ガラテヤ人への手紙2章1節でのパウロの2回目のエルサレム訪問は、使徒会議であったと見られています。使徒会議がパウロの2回目の訪問であるのなら、ルカが述べている2回目の飢饉訪問とは食い違うことになります。ルカとパウロとのこの食い違いは、いろいろな議論を呼んでいます。ヘンゲルは、パウロにとってこの訪問が、単なる献金訪問なので、ガラテヤ人への手紙ではこれを無視したと考えるのですが〔Hengel 242-43/n1260〕、この説明ではやや説得力に欠けると言わざるをえません。
(iv)パウロは、ガラテヤ人への手紙2章1節で、「それから14年たってから、わたしはバルナバと一緒に再びエルサレムに上った」と言っています。ここでの「それから」の起点は、直前の「シリアとキリキア伝道」を指すという説もありますが、通説は1回目のエルサレム訪問です。この「14年たって」もパウロの伝記を算定する上で重要な指標となっていますから、これについての解釈も問題になります。ヘンゲルは「足かけ」で算定していますから、2回目は、1回目の訪問36+14=49年頃となります。彼は48〜49年頃としていますが、これは通常使徒会議は48年とされていることに配慮したのでしょうか。通説では、33年の回心→足かけ3年後で35年に1回目のエルサレム訪問→このエルサレム訪問を起点として、足かけ14年目の48年が使徒会議の年となるからです。「足かけ」か「満」かは、次の〔B〕と〔C〕の説でも問題になります。
しかし「それから14年たって再度」とあるのが使徒会議だとすれば、2回目の飢饉訪問はどうなるのでしょうか?この問題を回避するために、2回目と3回目とは、本来同じものであったのをルカが(同じ出来事がふたつの異なる資料で伝承されることはよくありますから)、これを別のこととして記述したという説と〔Conzelmann91〕、飢饉訪問そのものが存在しないルカの創作だとする説とがあります〔新共同訳聖書注解T597〕。わたしの見るところでは、使徒言行録11章29節の飢饉訪問とガラテヤ人への手紙2章1節以下のエルサレム訪問とは、ほんらい同じであったものをルカが二つに分けて記述したとする説が多いようです。なお、私の『知恵の御霊』13章では、パウロに関する記述の年代はヘンゲルとほぼ一致しています。しかしエルサレム訪問では、使徒言行録での2回目と3回目とが同一であるとする説に従っています〔私市152〕。また、パウロとペトロとの衝突は、ガラテヤ人への手紙にある通りに使徒会議の直後のことと見ていますから、この点でヘンゲルとは異なります。
(v)ガラテヤ人への手紙2章(1〜10節)に記された2回目の訪問は、使徒言行録(15章)の3回目の使徒会議訪問とはたして同じか? という疑問があります。確かに二つの訪問の記述には共通するところがあります。どちらも異邦人キリスト教徒の問題を協議していること。どちらの場合も異邦人キリスト教徒に対して律法からの自由が認められること。登場するのがパウロとバルナバ、それにペトロとヤコブであるのも同じです。このため二つは同じであるというのが通説になっています。しかし他方で、両者の違いも目につきます。パウロは「啓示によって」上がったと言うのですが、ルカではアンティオケアの教会が二人を派遣しています。パウロの記述では、使徒たちとの出会いの様子が個人的であって、しかもパウロが重要な役割を果たしています。しかしルカの語る使徒会議は公式のもので、しかも「バルナバとパウロ」とあるように、むしろバルナバのほうが主な役割を果たしている印象を受けます。筆者の違いが叙述に反映していると見ることもできますが、この二つの訪問を同一のものだと断定することはできません。
(vi) 52/53年のペトロとパウロの衝突。この事件は、先に述べたとおり、使徒言行録では使徒会議の「直ぐ後に」続きます。使徒言行録15章では、パウロたちは割礼問題の解決のためにエルサレムの使徒会議に出席し、その結果、異邦人キリスト教徒への割礼が免除されることに決まりました。しかしこれと引き替えに、四項目の食物規定を盛り込んだ使徒教令を受け入れることになります。けれどもパウロのほうは、「主だった人たちはわたしたちになにひとつ加えなかった」(ガラテヤ2章6節)と言っているので、この点で矛盾することになります。さらにガラテヤ2章では、エルサレム訪問の後で、アンティオケアにおいて、ペトロとパウロとが、異邦人キリスト教徒とユダヤ人キリスト教徒との共同の食卓のことで衝突したと報告されています。パウロが語るエルサレム訪問が使徒会議だったとすれば、使徒教令が出ているのに、なぜペトロとパウロは、異邦人キリスト教徒との食事のことで衝突しなければならなかったのでしょうか? この点が疑問になります(ただし、使徒教令は、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との共同の食事のための規定ではなく、単に異邦人キリスト教徒の食物に関する最小限の要請にすぎなかったと解釈すれば、アンティオケアでの二人の論争事件と教令とは必ずしも矛盾しません)。この矛盾を回避するために、食物に関する使徒教令を使徒会議から切り離して、この教令だけが、アンティオケアでのペトロとパウロとの衝突の「後で」エルサレムの使徒たちから出されたという解釈があります。この説だと以下のような推移になりましょう。
エルサレムの使徒会議では、異邦人キリスト教徒への割礼が必要でないと決定されました。ところが、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との食物に関する取り決めがなかったために、再びエルサレムから幾人かがアンティオケアへ査察に訪れたのです。この人たちの意見に従って、ペトロたちが異邦人キリスト教徒との食卓から身を引く結果になり、ペトロとパウロとが衝突する出来事が生じました。そこでこの問題の解決のために、エルサレムの使徒たちから、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との間の食物に関する使徒教令が出されることになったのです(使徒言行録15章22〜29節)。
この分離説だと、全体の成り行きがうまく説明できます。また、使徒会議で使徒たちが、自分たちに「何も義務を負わせなかった」とパウロが言っているのと一致します。ただし、衝突事件の後で、エルサレムから出た使徒教令をパウロがどう受け止めたかが全く語られていません。この説だと、パウロは使徒教令を知らないままにアンティオケアをすでに去っていたか、あるいは知っていても、これを拒否してこの教令について終始沈黙を貫いたことになります。ヘンゲルは、表にあるように、二人の衝突が、第二回伝道旅行の後に起こったと見ています。彼は概してパウロとルカの記述に忠実ですが、この点だけはルカとパウロの記述とは異なっています。ヘンゲルの説によれば、使徒会議から第二回伝道旅行の後までの間、この食物規定の問題は浮上しなかったことになります。使徒言行録21章25節では、パウロの最後のエルサレム訪問に際して、この教令がパウロに向けて語られていますから、パウロはこの時に初めてこの教令を知ったとも考えられます。使徒教令は広く諸教会に知られていた形跡があるので、パウロは、これを知らなかったのではなく、知っていても「沈黙を守った」と見るほうがいいでしょう。彼は、エルサレムの使徒たちに公然と反対はしなかったものの、教令に同意できなかったからです。いずれにせよ、この「切り離し」説によれば、ルカが使徒会議と使徒教令とをだぶらせて語っていることになります。なおこの使徒教令は、ルカの時代の教会が、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との食事に合わせて作成したと見る説もあります。
〔B〕
ガラテヤ人への手紙2章でパウロが語るエルサレム訪問とルカの語る使徒会議とを同一と見て、これを第二回伝道旅行の後の出来事とする。
この説は、最初にノックスという人が提起したのですが(1950年)、ここではマーフィー=オコウナの解釈に準じて説明することにします。〔Jerom Murphy-O'Connor; Paul: A Critical Life. Oxford Clarendon Press,1996.〕マーフィー=オコウナの年表は概略次のようになります。この表(2)で、第二回伝道旅行があって、第一回伝道旅行が抜けているのは、37年のシリアとキリキア伝道旅行の旅に第一回伝道旅行を含めていると考えられることと、年表(1)と比較する上で、「第二回伝道旅行」をそのまま記したほうがわかりやすいと思うからです(表はパウロの回心から第三回伝道旅行の終わりまでです)。
●年表(2)
33年 パウロの回心。
34年 アラビア滞在。
34〜37 ダマスコ滞在。
37年 1回目のエルサレム訪問とその後にタルソへ。
37年〜? シリアとキリキア伝道。
45〜46年冬 アンティオケアで伝道。
46年4月〜9月 第二回伝道旅行へ。
46年9月〜48年5月 ガラテヤ滞在。
48年夏 マケドニアへ。
48年9月〜50年4月 マケドニア滞在。
50年4月 コリントへ。
50年4月〜51年9月 コリント滞在。
51年10月 2回目のエルサレム訪問。使徒会議。
51年冬〜52年 アンティオケア滞在。ペトロと衝突する。
52年4月〜7月 第三回伝道旅行へ。
52年8月 ガラテヤ到着。
52年9月 エフェソへ。
ガラテヤへユダヤ主義者たちが来る。
53年春 ガラテヤ人への手紙
夏 フィリピ人への手紙(A)
この間に入牢
フィリピ人への手紙(B)
コロサイ人への手紙
フィレモンへの手紙
コリント人への手紙(最初の)
冬 エフェソ滞在
54年夏 コリント人への第一の手紙
コリント人への手紙(喪失した)
冬 マケドニアへ。マケドニア滞在。
第二コリント人への手紙。
55年冬〜56年 コリント滞在。
ローマ人への手紙。
56年夏 エルサレムへ。3回目のエルサレム訪問。
57年?〜61年? エルサレムとカイサリア滞在。
61年9月〜62年春 ローマへの旅。
この年表は、先のヘンゲルの年表とかなり違っているのが分かります。すなわち、マーフィー=オコウナの年表では、ルカの5回のエルサレム訪問が3回になっていることです。すなわち彼は、使徒言行録の2回目のエルサレム飢饉訪問を削除し、さらに3回目のエルサレム使徒会議と4回目の短期訪問とを重ねて、使徒会議を第二回伝道旅行の「後に」置いているのが分かります。
まず34〜37年ダマスコ滞在に注意してください。ここでは、パウロのダマスコ滞在が「それから3年後に」とあるのを「満」3年で算定しているのがわかります。しかも、その起点が、回心からではなく、アラビアからダマスコへ戻った時点になっています。このように時間的な余裕をとっているので、1回目のエルサレム訪問が年表(1)より1年遅くなっています。それでも、第二回伝道旅行の出発のほうは、年表(1)の49年に対して46年と早くなっていて、その分パウロのそれ以後の伝道活動に余裕ができることがわかります。なお年表(2)では、第一回伝道旅行が抜けていますが、マーフィー=オコウナはルカの伝えるこの旅行を「シリアとキリキア地方」への伝道と重ねているのでしょうか?〔Murphy-O’Connor 8〕
次にマーフィー=オコウナは、ルカの飢饉訪問を削除し、その上で、「それから14年たって」を1回目のエルサレム訪問(37年)から満で数えて、第二回伝道旅行の終わりのエルサレム訪問(51年)までにしています。したがってマーフィー=オコウナは、パウロが3回繰り返している「それから」を必ずしも出来事の連続とは見ていません。特に2章1節の場合は、「それ以後というものは14年間にわたって(エルサレムを離れていた)」という意味に解釈し直して、出来事ではなくエルサレムを離れていた期間だけに注目しているのがわかります。この説では、第二回伝道旅行が、46年に始まり51年に終わりますから、ヘンゲルによる49年から52年までよりも時間的に余裕があることになります。なお、パウロのコリント滞在が50年4月〜51年9月と特定されていますが、これについては、付記「パウロの伝記的年代の基準」を参照してください。
マーフィー=オコウナもガラテヤ人への手紙2章のパウロのエルサレム訪問が、使徒会議であったと考えます〔O‘Connor130〕。彼が使徒会議を第二回伝道旅行の後に置いたことで、パウロの伝道期間に余裕ができたことは先に述べました。彼は、おそらくルカの2回目の飢餓献金のためのエルサレム訪問をもこの使徒会議と重ねていると思われます〔O‘Connor132n11〕。またローマを目指していたはずのパウロが、突然コリントから東に向かってエルサレムに急いだ理由も、使徒会議に出席するためであるとすれば納得できます〔市川53〕。しかし、エルサレム使徒会議を第二回伝道旅行の後に置くことは、単に年代を変更したことに留まらず、パウロの伝道を解釈する上で、少なからぬ変更が求められることを意味しています。パウロは、コリントからエフェソへ直行しますが、そこで、ガラテヤの諸教会にユダヤ人キリスト教徒たちが入り込んで、割礼を課そうとしていることを知ります。彼は大急ぎでアンティオケアに向かい、そこでバルナバと合流してエルサレムへ向かったとマーフィー=オコウナは考えています〔Murphy-O’Connor132〕。14年前のペトロとの合意は、異邦人伝道のことであって、異邦人キリスト教徒の受け容れ条件ではなかったからです。しかし、使徒会議を第二回伝道旅行の後に置くことで、会議での決定がパウロの伝道の初期ではなく、その中期以降に反映することになります。この場合、割礼問題とこれに続くペトロとの衝突は、パウロの伝道の初期ではなく、彼の伝道の結果として浮上してきたことになります。割礼問題が、パウロたちの伝道の初期に問題にされたことと、「そんなに長く浮上しなかった」後で、彼の伝道の結果もあって問題になったのとでは、この問題の意味がずいぶん違ってきます。ガラテヤを巡る状況は、最近の研究で、当初考えていたよりもはるかに複雑な要因を秘めていることが、だんだんわかってきました。マーフィー=オコウナは、エルサレム教会の指導者であったヤコブが、パウロにむかって交わりの手をさしのべたのは、パウロの立場を理解したと言うよりは、迫り来るユダヤ民族主義を感じ取って、ユダヤ人キリスト教徒の結束をいっそう固めるために、異邦人キリスト教徒が、割礼を通じて彼らの交わりに入り込むのを退けるためであったと判断しています〔Murphy-O’Connor141〕。また、エルサレム教会の「保守的傾向」に劣らず、アンティオケア教会の保守化にも注目しています。このような解釈は、パウロたちの伝道の結果とかなりの期間にわたる異邦人キリスト教徒との関係から生じたという見方に基づくものです。
では、マーフィー=オコウナの説にはどのような問題点があるのでしょうか?
(i)最大の疑問の一つは、やはりガラテヤ人への手紙2章1節でパウロが述べていることです。彼は、「それから」を3度繰り返して、自分に生じた事の成り行きを列挙した上で、「わたしがここで書いていることは、神のみ前で断言するが、偽りではない」と誓っています。これがレトリックであるという解釈を差し引いても、パウロほどの人が、「神のみ前で誓った」ことに嘘があろうとは考えられません。とすれば、彼が2章で述べるエルサレム使徒会議の前に、第二回伝道旅行のような大きな出来事があったのに、これに全く言及することもなく、「それから14年たって」などと言うでしょうか? 「シリアとキリキア地方」への伝道に、第一回伝道旅行を含めることさえ問題だとされているのに、ガラテヤの人たちも知っているはずの第二回の旅行までも省略して「それから」と言うのは、ロンゲネッカーでなくても、「人を馬鹿にした言い方」〔Longenecker lxxvi〕で、「パウロの人格を疑わせる」という疑問が生じるのも無理からぬことです。
(ii)使徒言行録の記述と大きく食い違うことです。これは、マーフィー=オコウナが、全体として、ルカの記述の信憑性を過小に見ていることから生じています。彼の論述には、綿密な論証に混じって、異説に対するやや飛躍した独断が見受けられ、また、大事なところで、彼なりの語句の「再解釈」を行なっています。
(iii)パルナバとの関係について問題が出てきます。第一回伝道旅行までは、パウロはバルナバと提携して彼の宣教を進めています。しかし、ペトロとの衝突事件の後は、マケドニア州でもアカイア州(ギリシア)でも、バルナバは登場しません。またパウロの書簡にもほとんど出てきません〔Longenecker lxxv〕〔市川53〕。ただし、パウロとバルナバとの関係は決して断絶状態にあったのではなく(第一コリント9章6節)、その間、バルナバはキプロス伝道に従事していたとも考えられます。しかし、使徒言行録にあるように、使徒会議に続くペトロとの衝突の結果、バルナバとも袂を分かったというルカの記述(使徒言行録15章36節以下)のほうに信憑性があるのも事実です〔Longenecker lxxvi〕。
〔C〕
ガラテヤ人への手紙2章でパウロが語るエルサレム訪問とルカの語る2回目の飢饉訪問とを同じと見る。
ここではロンゲネッカーの説を紹介します。彼は、パウロがガラテヤ人への手紙1章で、「神の御前で偽っていない」と誓った上で、1章の18節/21節/2章1節で、三度「それから」(同じ原語です)を繰り返していることに注目しています。これらの「それから」は、いずれも1章16節にある「すぐに」と対応していて、パウロは、回心を起点として、これに続く出来事を継続して「何一つ抜かすことなく」読者に伝えていると見るのです。ロンゲネッカーのもう一つの特長は、使徒言行録に高い信憑性を置いていることです〔Longenecker lxxviii〕。
したがって、「14年たって」2回目にエルサレムを訪問したのは、使徒言行録11章27−30節にあるエルサレム教会のための資金援助の訪問の時になります。しかし彼は、マーフィー=オコウナとは異なって、「14年」の算定をパウロの「回心の時」を起点として、しかもこれを「足かけ」で行なっています。その結果、33年の回心から数えて、二度目のエルサレム訪問は早くても46年となり、ヘンゲルによる2回目の飢饉訪問43/44年よりも遅くなります。
ちょうどこの頃、飢饉が激しくなり、このために物価が上昇していました。しかも、ヘロデ・アグリッパはエルサレム教会に弾圧の手を伸ばして、使徒ヤコブが殉教します(42年)。パウロとバルナバたちは、この弾圧の時を避けて、その後に、しかも物価の上昇がいっそうひどくなった時期に、集めておいた資金をエルサレムへ届けに行ったことになります。先に述べたように、パウロがガラテヤ2章で語る「大使徒たち」との交わりは、個人的なものであって、使徒言行録15章のように公然とした「使徒会議」とは異なっているという印象を受けます。したがってここでは、主として異邦人キリスト教徒たちに割礼を課すべきかどうかという問題が話し合われたのでしょう。その結果、「柱と目されるヤコブとケファとヨハネ」から、異邦人には無割礼のままの福音を伝えることが認められたのです。こうしてペトロは、割礼あるユダヤ人たちが住む地域に向かい、パウロたちは異邦人の地域へと向かうことになったのです。ただし、ここでパウロとバルナバに認められた「福音の自由」とは、「彼らの伝道に」に限って承認されたのであって、必ずしもそのことが、公式の原則として公認されたものではないという見方もできます。とすれば、これが後に波紋を呼ぶ一つの原因でもあろうと考えられます。
ロンゲネッカーの説は、使徒言行録の順序にそのまま従っていますから、飢饉訪問とその後の使徒会議までのパウロたちの経過は、次のような経過になります。
1回目のエルサレム訪問の後で、「ある人たち」がアンティオケアに来て、パウロたちとの間に異邦人キリスト教徒への割礼をめぐって論争が起こりました。その結果パウロたちは資金援助を携えてエルサレムへ上り(2回目の飢饉訪問)、そこでヤコブやペトロと会って、割礼問題について取り決めが行なわれました(ガラテヤ2章2〜10節)。ところが、その後で、今度はユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との食卓での交わりについて、エルサレム教会から幾人かがアンティオケアへ査察に訪れたのです。このために、ペトロたちが異邦人キリスト教徒との食卓から身を引く結果になり、この問題について、ペトロとパウロとが衝突する事件が生じました。そこでこの問題の解決のために、エルサレムで使徒会議が開かれてパウロたちは再びエルサレムへ上ることになりました。この使徒会議でユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との間の食物に関する規定(使徒教令)が出されることになったのです(使徒言行録15章22〜29節)。
この説だとパウロは、食物規定について、アンティオケアではペトロに対抗し、エルサレムでは主の兄弟ヤコブと対立したことになるでしょう。使徒会議では、ヤコブもパウロも、共に自分の立場を譲らなかったので、ヘレニストのユダヤ人キリスト教徒たちが、仲介案として4項目の禁止事項を提案し、これが使徒教令として決定されたと推定できます〔Barrett712〕。だが、パウロはこれを拒否したか、あるいはやむを得ず受け入れたかは不明です。このように見ると、使徒言行録とパウロの語ることとが比較的うまく調和します。さらに、パウロが「啓示によって」エルサレムへ上ったとあることが、使徒言行録11章27節で語られている飢饉への預言と関連づけることができます。また1回目のエルサレム訪問が、パウロが語るとおり主だった人たちとの個人的な面談であったこととも一致します。またパウロが資金援助について述べていることも(ガラテヤ2章10節)使徒言行録と一致します。ただし、この説では、使徒言行録の15章1〜4節の出来事と11章27〜30節での出来事の前後関係が逆になります。また、この結末では、パウロは使徒教令を知っていながら、これに不服で拒否したことになるでしょう。だからパウロは、教令を知っていてもこれについて「沈黙を守った」ことになります(もしも彼が教令を知らなかったとすれば、パウロは使徒会議に出ていなかったことになりますが、この説は受け入れがたい)。
したがってロンゲネッカーの説によると、パウロの第二回伝道旅行を49年とするなら、46年〜49年のほぼ3年間の期間に、ペトロとの衝突があり、使徒会議があり(必ずしも通説の48年とは限りませんが)、第一回伝道旅行があったことになります。では次に、この説が抱える問題点について述べてみます。
(i)回心から2回目の訪問までの算定の起点と方法があまりに厳密なことです。たとえば、1章21節の「それから」は、直前のエルサレム訪問を指していると見るほうが自然ではないかと思われます。
(ii)パウロとバルナバたちの伝道がまだ始まった段階で、そんなに早く割礼が問題になったのか? という疑問が生じます。これについては、彼らがすでにアンティオケアやタルソその他で行なった宣教で、十分説明できると答えることもできましょう〔Longenecker lxxxi〕。しかし、使徒言行録では、彼らのエルサレムへの飢饉訪問の前には、あまりめぼしい伝道活動が語られていないのも事実です。したがって、マーフィー=オコウナの説とは逆に、割礼や異邦人キリスト教徒への問題が、あまりに早く浮上しすぎるという見方がでることにもなります。
(iii) 使徒言行録18章では、パウロが、コリントでガリオンの裁判を受けたのが51年の夏のこととされています(付記「パウロの伝記的年代の基準」を参照)。しかも彼は、それまで「18ヶ月の間コリントにいた」とありますので、パウロは遅くとも50年始め頃にはコリントに来ていたことになります。もし第二回伝道旅行が、49年に始まったとすれば、わずか1年間で、ガラテヤ地方を通り、フィリピとテサロニケに来て、そこからアテネへ出て、コリントへ来たことになります。マーフィー=オコウナでは、丸4年かかった旅が、ここでは1年になります。実はこの事情は表(1)のヘンゲルの場合も同様です。しかしこの場合は、通説に従って48年に使徒会議があり、その直後にペトロとの衝突があり、(おそらく冬が来る前に)アンティオキアを出発したとすれば、やや時間的に緩和されるでしょう。しかしロンゲネッカーの説では、46年に飢饉訪問があり、その後で第一回伝道旅行と使徒会議があり、ペトロとの衝突も加えますと、第二回伝道は、時間的に一年が限度となります。不可能ではないにしても、あまりに短すぎると思われます。
(iv)この説である意味で最も困難なのは、ガラテヤ人への手紙2章のエルサレム会議と使徒言行録15章の使徒会議との共通性です。これについては、ヘンゲルの説であげた疑問がちょうど裏返しになります。パウロとルカと両者の違いが大きいか共通点が多いかは、判断に迷いますが、そこで話し合われたことが、異邦人キリスト教徒に対する割礼問題であるとすれば、同じと見るほうが妥当ではないかという疑問です。とりわけ、パウロの言う大使徒たちとの話し合いが、使徒会議のことでないとすれば、ガラテヤ人への手紙で、彼は使徒会議について全く触れていないことになります。だから、ロンゲネッカーの説によれば、ガラテヤ人への手紙が書かれたのは、第一回伝道旅行と使徒会議との間のことでなければなりません。とすれば、手紙が宛てられているのは、ルステラやイコニウムなど、ローマの行政区であった南ガラテヤのごく限られた地域であったことになります。ロンゲネッカーが南ガラテヤ説を支持するのはこの理由によります〔Longenecker lxxii〕。これに対して、マーフィー=オコウナのように、この手紙が第二回伝道旅行の後で書かれたとするのであれば、その宛先は、ほんらいのガラテヤ地方であり、北ガラテヤ説を採ることになります。
以上の三つの説を紹介することで、ガラテヤ人への手紙と使徒言行録との整合性の問題を整理して見ることができたのではないかと思います。聖書の内容に関しては、説明ができない矛盾がいろいろ指摘されていますが、この問題は、その中でも最も難しいものの一つだと言えましょう。しかし、解決はできないまでも〔Betz84〕、こういう問題が存在すること自体を知っておくことは、わたしたちが聖書を読んで自分なりに考える時に大切な意味を持つと思います。ご参考なれば幸いです。
〔引用文献〕
Barrett, C.K. Acts. Vol.2. T&T Clark.1998.
Betz,Hans Dieter. Galatians. Hermeneia, Fortress Press, 1979.
Conzelmann, Hans. Acts of the Apostles. Hermeneia, Fortress Press, original 1963.
Hengel ,Martin and Schwemer, Anna Maria. Paul : Between Damascus and Antioch.
Westminster John Knox Press, Louisville, Kentucky, 1997.
Longenecker, Richard N. Galatians. Word Biblical Commentary,
Thomas Nelson Publishers, Nashville, 1990.
Murphy―O’Connor, Jerome. Paul: A Critical Life. Clarendon Press, Oxford. 1996.
『NTD新約聖書注解「使徒行伝」』グスターフ・シュテーリン著、大友陽子ほか訳、
NTD新約聖書注解刊行会、原書1968年。
市川喜一著『パウロによるキリストの福音』U、天旅出版社、2004年。
『岩波キリスト教辞典』大貫隆ほか編集、岩波書店、2002年。
私市元宏著『知恵の御霊』マルコーシュ・パブリケーション、2003年。
『新共同訳新約聖書注解』T、「使徒言行録」真山光彌執筆。日本基督教団出版局、1991年。
同上 U 「ガラテヤ人への手紙」堀田雄康執筆。
『パウロ書簡』青野太潮訳、岩波書店、1996年。巻末年表と「パウロ書簡解説」。
原口尚彰著『ガラテヤ人への手紙』新教出版社、2004年。
山内真著『ガラテヤ人への手紙』日本基督教団出版局、2002年。