パウロの伝記的年代の基準
――デルフォイ碑文とクラウディウス帝の布告――
  使徒言行録18章1〜17節は、パウロの伝記的年代確定の基準とされている箇所です。ここでは、碑文の解読にも関わったダイスマンの証言に基づいて述べたいと思います〔Deismann261-86〕。オコウナの年表もダイスマンの推定と一致しています〔Murphy-O‘Connor28〕。ダイスマンは使徒言行録18章1〜17節について、次の点に注目しました。
1)クラウディウス帝の布告(勅令)で、アキラとプリスキラがコリントに来たこと。
2)そのすぐ後でパウロがコリントへ来たこと。
3)18ヶ月にわたる彼のコリント滞在。
4)総督ガリオン(ラテン名ガリオ/ギリシア名ガリオン)がコリントに来たこと。
5)ユダヤ人たちがパウロをガリオンに訴えたこと。
6)その後しばらくパウロはコリントに滞在したこと。
7)パウロがエフェソとシリアに向けて船出したこと。
    皇帝クラウディウスの手紙の文面を刻んだギリシア語の碑文の破片四つが、フランスのエミール・ブールゲ(Emile Bourguet)によって、ギリシアのデルフォイ神殿遺跡近くの石切場で発見され、その四つが出版されました(1905年)。その後さらに全部で9つの破片が発見されて、欠けている文字部分が解読されて出版されました(1970年)。それらは白色に近い灰色の石灰岩の破片で、刻まれている文字は18〜20ミリほどの高さで、もとの文字列の長さはおそらく1メートル40センチほどであったろうと推定されます。本来これらは、デルフォイのアポロ神殿の南壁面に刻まれていたと思われます。特にその第四破片には、12行の文字が刻まれていて、下半分は行頭だけしか読み取れませんが、上半分は所々に文字が読み取れました。ブールゲの出版を見て、この碑文が、「聖パウロのコリント滞在の年を52年と決定する」のに重要なテキストだと最初に判断したのはフランスのA・J・リナック?(A.J.Reinach)です(1907年)。その後ラムゼイ(W.M.Ramsay)が、ガリオンのコリント滞在を52年4月〜53年4月とし、パウロのコリント到着を51年10月としました(1909年)。幸いにも、その破片の第二行目と第六行目とが、年代決定の手がかりを与えてくれたのです。第二行目には、クラウディウス帝が、「12回目の護民官就任」と「26回目の皇帝承認歓呼式」の時とあり、第六行目には、「我が友にしてアカイア総督であるユニウス・ガリオンが、近頃報告してきて・・・」とあったのです。ダイスマン自身もこの碑文の研究に関わり(1910年〜11年)、その結果を報告しています。
    手紙は、クラウディウス帝が、聖地デルフォイに昔からの特権を保証するものですが、宛先は不明です。しかし、ここに記されているクラウディウス帝の「26回目の皇帝承認歓呼式」の年が特定できません。クラウディウス帝全部で27回の皇帝承認歓呼式を受けていて、27回目が、52年1月25日から53年の同日までの間であること、そして12回目の護民間就任が、52年の1月25日から同年8月1日までであることが、他の碑文からわかったのです。ダイスマンは、これらの資料から、クラウディウス帝の手紙が52年の初めから同年8月の間に宛てられていると判断しました。
    次に第六行目の「我が友でありアカイア総督である・・・」から、ガリオン(ギリシア名Gallion/ラテン名Gallio)が当時アカイアの総督であることが確認できました。ローマ帝国の各州の総督は、ローマの元老院が籤によって決めるもので、任期は1年間でした。ただし、例外的には総督の任期が2年にわたることがあり、クラウディウス帝の時代にもこの場合があったようです。しかしこのアカイア総督の場合は、規則通りに行なわれたとダイスマンは判断しています。アカイア州は、現在のギリシアのアテネを含む南半分とその周辺の島々を範囲としていました。ガリオンは、有名な哲学者セネカの兄で、弟セネカとの文通から、ガリオンは熱病にかかり、それを風土病だと考えていたから、彼が任期を越えて留まることはなかったと推定されます。クラウディウス帝の最終布告によれば、ローマからの長旅を考慮して、総督着任のためのローマ出立は、4月半ば以前と決められていました。だから、クラウディウス帝のデルフォイへの手紙が、52年の初めから同年8月1日までの間に書かれたとすれば、ガリオンは、51年の夏(正式には7月1日)には着任したはずです。通常訴えは新しい総督が着任するとすぐに行なわれたから、パウロとガリオンとの出会いは51年の夏のことで、その後「しばらくして」(使徒言行録18章18節)、パウロは同年8月か9月にコリントを船出したと考えられます。彼は、ガリオンとの出会い以前に、コリントに18ヶ月滞在していたので、パウロは、コリントに50年の初め頃に来て、51年の夏遅くに離れたことになります。これがパウロの伝代決定の基準とされている箇所です。ダイスマンによれば、ガリオンの51年コリント到着は、すでに1858年に、レーマン(H.Lehmann)によって推定されていたということです。
    ところで、使徒言行録18章2節に、アキラとプリスキラが、クラウディウス帝のユダヤ人追放令によってコリントへ来たとあります。5世紀のキリスト教歴史家パウロ・オロシウスの『異端論駁史』には、「ヨセフスによれば、クラウディウス帝は、その統治9年目にユダヤ人を追放した」とあります。これから算定すると、追放令は、49年1月25日から50年の同日の間に出されたことになります。ただしヨセフスには、そのような発言は見あたりません。しかしダイスマンは、オロシウスの発言はヨセフスに重きをおいているのではなく、また別のヨセフスを指す場合もありうるとして、オロシウスの「9年目」という発言それ自体は受け入れています。したがって、49年に追放令が出されたのであれば、50年にコリントに来たパウロが、「最近イタリアから来た」ふたりに出会ったとあることと符号します。こうして、パウロのガリオンとの出会いと、彼のアキラ、プリスキラ夫婦との出会いが一致することになります。
    ただしオコウナは、この問題に関して、スエトニウスのクラウディウス帝伝にある「皇帝は、クレストゥスの煽動によって絶えず騒乱を起こしているユダヤ人をローマから追放した」を引用しています。この「クレストゥス」というのは「キリスト」のことで、「騒乱を起こしているユダヤ人」というのは、ローマの偶像礼拝に反対していたユダヤ人キリスト教徒たちを指すのではないかと言われています。しかしこれが何時のことかは書かれていません。さらにオコウナは、オロシウスが、上のスエトニウスの言葉を引用した上で、ヨセフスによれば、これがクラウディウス帝の9年目であると言い、しかも「皇帝がキリストに反対するユダヤ人たちだけを抑圧せよと命じたのか、これに関連したキリスト教徒たちをも追放したのか定かではない」とあるのを引用しています。ところがディオ・カシウスの著作には、「クラウディウス帝は彼らを追放したのではなく、彼らの伝統的な生活様式を守りつつも、集会を控えるように命じた」とあります。この命令はクラウディウス帝の第1年目、41年に当たります。これらを併せると、クラウディウス帝は、41年には騒乱を起こしたユダヤ人だけを追放した上で、ユダヤ人の集会を禁じ、49年にはユダヤ人(キリスト教徒を含む)を全面的にローマから追放したことになります。しかしオコウナは、41年の布告「騒乱を起こしている(一部の)ユダヤ人を追放し」とあるのを「騒乱を起こしているために、ユダヤ人(全員を)追放し・・・」と読み替えて、実際の全面追放が41年一度限りであったと見ています。しかし、アキラ夫婦はローマから追放されても、なおしばらくイタリアに滞在して、パウロがコリントに着いた時には、「イタリアから来てすでに滞在していた」とルカの記録を解釈し直しています〔Murphy-O‘Connor9-14〕。だがバレットは、クラウディウス帝の布告の二段階説を採り、オコウナのこの説を認めていません〔Barrett862〕。いわゆる「ガリオン碑文」とクラウディウス帝の布告については以上です。
【引用文献】
Barrett, C.K. Acts. T&T Clark.1998.
Betz,Hans Dieter. Galatians. Hermeneia, Fortress Press, 1979.
Conzelmann, Hans. Acts of the Apostles. Hermeneia, Fortress Press, original 1963.
Deissmann, Adolf. Paul: a Study in Social and Religious History.
        Tr. by William E. Wilson. Harper & Row, 1927. Original 2nd ed. 1925.
Hengel ,Martin and Schwemer, Anna Maria. Paul : Between Damascus and Antioch.
        Westminster John Knox Press, Louisville, Kentucky 1997.
Longenecker, Richard N. Galatians. Word Biblical Commentary,
        Thomas Nelson Publishers, Nashville, 1990.
Murphy―O’Connor, Jerome. Paul: A Critical Life. Clarendon Press, Oxford. 1996.
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