パウロの律法観について

(1)パウロの「律法」の分類
  「律法」のギリシア語の原語は「ノモス」です。ヘブライ語では「トーラー」が「律法」を表わす用語として最も一般的に用いられています。「トーラー」も「ノモス」も英語の"law"に似ていて、神から与えられた宗教的な「律法・戒律」を意味するだけでなく、人間同士の関係を定める「法律」の意味にもなり、また自然の「法則」の意味にもなります。日本で古くから用いられている「法」が「ノモス」の意味に近いと言えましょうか。パウロもこの言葉を幾つかの意味に用いていますから、彼の「律法」には、かなり広い意味の幅があります。以下に、彼がこの言葉をどのような意味で用いているのかをおおざっぱに分類してみました。
(A)パウロが言う「律法」は、モーセの十戒を核にしてはいますが(ローマ7章7節)、それだけでなく旧約聖書のほかの律法をも含んでいます(ローマ13章8節)。彼はこれに言及する時に「聖なるもの」「良いもの」(ローマ7章12節)あるいは「霊的なもの」(ローマ7章14節)「正しく用いるなら良いもの」(1テモテ1章8節)と考えています。
(B)神の命令や戒めには直接かかわりがなくても、パウロは、当時のユダヤ教の用法に従って、旧約の預言者の言葉も「ノモス」の中に含めています(ローマ14章21節)。新共同訳などではこれも「律法」と訳されています。
(C)イスラエルには、神が、天使を通して、諸民族にも広く「律法」を与えたという伝承がありました。パウロの考え方の背後にもこれがあり、彼は「律法」という言葉こそ使いませんが、旧約の律法に準じる意味で、神からの教えが異邦の諸民族にも与えられていると見ています。ガラテヤ人への手紙4章9節で「支配する諸霊」と呼ばれているのがこれです。この「支配する諸霊」”basic principles / elemental spirits” が、異邦の諸民族にとっては、ユダヤ人の「律法」と同じ意味を持つと考えられています。ガラテヤ3章19節でパウロは、イスラエルの律法が「天使を通して」与えられたと言う時に、この「律法」も諸民族に働く諸霊の力とつながっていると思われます。この意味で、例えば夫と妻とが結ばれる結婚の「ノモス」があります(ローマ7章2節)。これなどは現代の「法律」の意味に近いのですが、宗教的な意味とも無関係ではありません。なお、これと少し違いますが、人間に普遍的に具わっている「自然の心の法則」、すなわち人の「良心」を意味する「ノモス」もあります(ローマ2章14節)。
(D)神の律法を人間が自らの力で実行しようとする時、人間の心に潜む罪性が暴かれて、人間を断罪する「ノモス」があります(ローマ7章23節)。この「ノモス」は、新共同訳その他では「罪と死の法則」(ローマ8章2節)などと訳されています。この「罪と死のノモス」は、人間の弱さを意味する「肉」に働きかけますから、「罪の法則」などと訳されています(ローマ7章21節/7章25節)。このような「律法」は、後で述べるように、パウロ独特の律法観です。
(E)神がイエス・キリストを通じて与える聖霊の働きもまた「ノモス」です(ローマ3章27節/8章2節)。この場合、旧約聖書の「律法」と対照させる意味で新約聖書の福音における御霊の働きについて「ノモス」が用いられています。パウロが言うこの「キリストの律法」は、先に述べた律法観と密接に結びついて、パウロの福音の内容を形成しています。新共同訳では、この場合「信仰の法則」「命をもたらす霊の法則」などと訳されています。
(2)律法に対するパウロの姿勢
   以上、やや便宜的にパウロの「ノモス」を分類しました。この中でパウロの律法観の基本となっているのは(A)にあげたモーセ律法を中心とする旧約聖書の律法体系でしよう。繰り返しますが、彼はこれを「聖なるもの」「正しいもの」と見ています。ただし、この律法観を含めてここにあげた律法の内容は、必ずしも全部がパウロ特有のものとは言えません。これらは当時のユダヤ人やユダヤ人キリスト教徒たちに共通する律法観だからです。だからパウロの律法観は、その時代の多くのユダヤ人と共通することを知ってほしいのです。またこの時代には、「律法」という言葉が、現在の社会学的な用語のように定義されてはいませんから、類比や寓意などの比喩的な意味にも用いられています。
   こういう事情を念頭に置いてわたしたちがパウロの律法観を考える際に、彼の言う「律法」の意味そのものよりも、むしろ彼がその律法に対してどのような姿勢で臨んでいたのかという点に、すなわち律法に向かう「彼独自の姿勢」のほうに目を向けなければなりません。なぜなら、上に述べた律法の内容は、当時のユダヤ人やユダヤ人キリスト教徒たちにも多かれ少なかれ共有されていたもので、必ずしもパウロ固有の律法観とは言えないからです。パウロ固有の律法観は、律法の内容よりは、むしろ律法に向かう彼自身の考え方にあります。そこで今度は、パウロが律法に向かう姿勢にどのような特徴が見られるかをあげてみたいと思います。
(イ)彼は、当時のラビたちとは異なり、律法が神からの啓示によって絶対化された不変のものとは考えませんでした。むしろ、神はその「時に応じて」、「生きた」律法として、常に新たに律法の意味を啓示すると考えていたようです。彼のこのような律法観は、律法の解釈そのものに広がりと柔軟性を持たせていると言えます。
(ロ)彼は律法の意味や解釈よりも律法を「行なう」ことこそ最も大事だと考えていました。律法は「実行される」ことによってのみ、初めてその意味を持つからです(ガラテヤ3章12節/ローマ10章5節)。
(ハ)このことから彼は、とりわけイエス・キリストからの啓示に出会うまでは、律法を「行なう」ことに「人一倍熱心」でした(ガラテヤ1章14節)。彼が律法を「行なう」と言うのは、「律法の全部」を完全に実行することであり、イスラエルの伝統的な表現で言えば、神への道を「全うする」ことです。神はイスラエルにこのような「完全な道」を求めていると彼は考えていたのです。律法へのこのような「熱意と情熱」があったからこそ、他のユダヤ人やユダヤ人キリスト教徒たちに見られない独特の律法観に達したと言えましょう(フィリピ3章5〜6節)。
(ニ)律法は、人間にその罪を悟らせて、悔い改めに導くことで、人間を罪から守る働きをするというユダヤ人一般の見方を彼も共有していました。しかし彼の熱意は律法の理解をその段階で止めることを許さなかったのです。特にイエス・キリストからの啓示に接してからは、彼は、律法が人間性に潜む罪性を暴き、場合によっては、人間の罪を刺激して罪へと誘うサタンの道具に悪用されると考えたのです。
(ホ)律法は、神がアブラハムに与えた契約に基づいて、モーセをとおしてイスラエルに授与されたものですから、イスラエル民族は、これによって他の異邦の諸民族から区別されるべきであるというのが、当時の多くのユダヤ人の考え方でした。しかし、キリストの福音を信じるようになってからの彼は、この考え方に同意しませんでした。むしろ律法を守ろうとする心に駆られて律法にこだわり、これによって異邦の諸民族に優ると考えることこそ、イスラエルの民がキリストを信じる場合の妨げになると考えたのです。したがって彼は、異邦人キリスト教徒が律法に従おうとする場合に、例えば割礼などは、キリストへの信仰への妨げになると考えました。ただし、彼が不要だと考えたのは、旧約の律法の中で、主として祭儀に関わる部分(動物の犠牲や安息日や割礼や祭日や食物規定など)のことであって、モーセ十戒のような道義に関わる律法は、キリストの御霊にあって活かされますから、ユダヤ人と異邦人の区別なく必要であると考えていました。
(3)天使たちからの律法
   パウロの律法観については、すでに多くの解説がなされています。ただその中でも、比較的分かりにくいと思われる点があります。そこで、以下では、この辺について少し説明を加えてみることにします。
   パウロは、ガラテヤ人への手紙3章19節で、律法が「天使たちを通して」与えられたと述べています。ここでパウロは、律法を尊重する意味で「天使たち」を出していると見ることができます。しかし、前後の内容から判断すると、パウロは律法をアブラハムへの神の約束と対比させて、律法が神からの約束に劣ることを言いたいのです。律法が天使を通して与えられたという考え方は、旧約には直接表われません。しかし、申命記33章1〜4節には、神が「千よろずの聖なる者」を従えて顕現し、これによってモーセがイスラエルに教えを授けたとあり、ここの七十人訳では「神の右には天使たちがいた」となっています。さらに詩編68篇18節には、神が幾千、幾万の戦車(天使たちの軍勢を乗せた馬車)を引き連れてシナイの山に降ったとあり、この箇所が、律法と天使とを結びつける伝承を生んだと思われます。新約聖書で、神が「天使を通して」モーセを遣わしたとあり(使徒言行録7章35節)、ヘブライ人の手紙に「天使を通して語られた言葉」(2章2節)とあるのもこのような伝承に基づいています。
   ところで旧約聖書には、神が諸民族をそれぞれに分けて境界を定め、それぞれに支配者(霊的な意味では天使も含まれる)を置いたが、イスラエルだけは直接に神自身が統治したとあります(申命記32章8〜9節/シラ書17章17節/ヨベル書15章31〜32節)。この聖書の言葉に基づいて、「神は、他の諸国民を導くために天使たちを任命したが、神自身はイスラエルを選んだ」という伝承がありました〔J・D・G・ダン『ガラテヤ書の神学』山内真訳〕。これと同時に、神は、それぞれの民に天使たちを通して、それぞれに「律法」を授けて、諸民族を罪から守るように監視させたと考えられていたのです(古代では、律法を司る裁き人が天使と同一視される場合がありました)。したがって、パウロが「天使たちを通して」イスラエルに律法が与えられたと言うのは、「諸民族を罪から守る監視役」としての律法とイスラエルの律法とが基本的には同じだと見ていることになります。だからこそパウロは、イスラエルの律法を異邦人の諸宗教と基本的には同じだと見なすことができたのです。
(4)律法の堕落
   上に述べたことで注目したいのは、「律法」が罪を犯させないための「守護者」であり「監視役」であるという見方です(ガラテヤ人への手紙3章23〜24節)。旧約聖書には、神の会議から遣わされて諸民族を監視する「見張りの天使たち」が出てきます(ダニエル書4章14節)。この「見張りの天使たち」は、かつては、神のもとで人間を監視して人間を罪から守る守護天使の役目を仰せつかっていたのですが、創世記(6章4節)にあるように、神に背いて人の娘たちと結ばれ、このために堕落したという伝承が生まれました。このようにして本来は神から遣わされた「見張り役の天使たち」だったのですが、今度は逆に、人間の律法違反の罪を暴いて、これを神に訴える「告発者」へと転じるようになったのです。いわば彼らは、神の律法を逆用して、人間を律法によって束縛し支配することによって、神と人間の「敵対者」となりました。この堕落天使たちの首領がサタンです(ヨベル書10章)。わたしたちは、このようなサタンをヨブ記に見ることができます(ヨブ1章6節)。このような場合には、「律法」それ自体が、ほとんどサタンと同一視されるほどです。だからパウロは、キリストの信仰の福音に逆らって旧約の律法を異邦人キリスト教徒にも課そうとするユダヤ主義的なキリスト教徒たちを楽園の蛇にたとえて、「サタン」と呼んでいます(ローマ16章18〜20節)。
   「サタン」というのは「敵対する者」「訴える者」と一般に言われていますが、これのヘブライ語はむしろ「妨げる者」「邪魔をする者」から出ています。この「妨げ邪魔をする」者こそ「躓きの石」の出所なのです。イエス様がペトロに「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者」(マタイ16章23節)と言われた時の「邪魔をする」は「躓かせる」と同じ意味です。ペトロはそのすぐ前でイエス様にほめられています。しかし、イエス様から受難の予告を聞くにおよんで、彼は自らの思いに駆られてイエス様を諫めるのですが、そのことがサタンに「利用」されたのでしよう。イエス様はそういうペトロの背後に「躓かせる者」としてサタンの影を洞察したのです。同じようにパウロが「罪」と「死」の「律法」と言う時、この三位一体の背後に、彼はサタンの働きを読み取っています。このように、正しく用いられるならば本来人間を罪から守るはずの「律法」が、このようにして人間の欲望によって悪用される時、サタンの道具に変質するのです。わたしたちはこのような律法を「律法の堕落」とで呼ぶことができるでしよう。言うまでもなく、律法はほんらい神から与えられた「聖なる正しい」ものです。しかし、悪の力に利用される時に、律法は人間をして「罪を犯させる」働きをするのです。ですから、「律法の堕落」というのは、律法それ自体が堕落したのではなく、人間がサタンに唆されて「神のようになろう」として律法を利用したために、律法を堕落させたという意味になります。
(5)この世を支配する「律法」
    このようにパウロが言う意味での「ノモス」(律法)は、天の法廷で人間を告発する者となった旧約聖書のサタンによって、「人類の仇」の道具とされてしまったのです。こうなると律法は、ちょうどエヴァを誘惑した蛇のように、人に「むさぼり」を生じさせて罪に誘う誘惑者なのです。このような律法観は、ユダヤ教が、神から授与された神の意志としての律法を神の手から切り離して、律法がそれ自体で権威を帯びるように神格化した結果生じたと思われます。
  ところでパウロは、ガラテヤ人への手紙で、ガラテヤの信徒たちに、旧約の律法に束縛されることは、「世を支配する諸霊」に仕えることになると述べています(ガラテヤ4章3節/8〜10節)。ここで「諸霊」と訳されている語は、「霊力」や「諸元素」などと訳されます。要するに、この世界を支配し構成している権威や権力から、社会的な力、自然界の物質的な力や法則、さらに天体の運行など、もろもろの働きを支配するもろもろの「霊力」のことです。ここには当時のヘレニズムの哲学(例えばストア哲学)が背景にあります。しかしパウロがガラテヤの信徒たちに警告している「諸霊」は、ヘレニズムの哲学だけではなく、ユダヤ教のグノーシス的な思想や黙示思想とも関係しています。そこには現代に残る星占いやある種の輪廻思想(ギリシア哲学から出た)とも共通する世界観が存在していました。ユダヤ教とギリシア思想と輪廻思想が融合したこういう宇宙観は、西欧ではルネサンスの頃(17世紀)まで受け継がれていました。
   この世界では、人間は天体の運行や宇宙を構成する諸元素の働きによって支配されていて、地上で起こる出来事も(これを「月下の世界」と言います)、これらの天上の動きと連動していたのです。一度宇宙を構成する元素や天体の運行による「調和」(これを「愛の原理」と言います)が崩れると地上では災害や戦や疫病が起きることになります。世の中全体だけではなく、人間一人一人も、生まれた時の星の運行によってその人の運命が定められたのです。この世界は人間社会や肉体だけでなく、人間の魂とその救いにも深く関わっていました。人の魂は、「憎しみ」(諸要素の不調和や対立)と「愛」(宇宙の調和と和解)の力によって規定されていて、魂がより気高く純粋になるほどに、肉体的な感覚の世界から「燃える炎」のように霊の世界へと純化されて、星のように輝くのです。またルネサンスの頃には、これにキリスト教思想が結びついて、人の肉体や血液の流れも、これらもろもろの「元素」(elements)の相互関係によって定められていて、その人の体質や気質(temper)や体温(temperature)までが、これらの諸要素とそこに働く「霊力」によって規定されると考えられていたのです。
   パウロは、こういう「アイオーン」(世の中/世界/時代)を構成する諸力の中心に旧約聖書の律法の働きを見ていました。こういうパウロの「律法」思想は、ガラテヤ人への手紙からコロサイ人への手紙になるといっそう明確に表われます。この二つの書簡は、その性格がかなり異なっています。このためにコロサイ人への手紙は、パウロの手によるものではないという説があります。しかしそこには、パウロの思想の流れがはっきりと読み取れますので、あるいは彼の同労者であったテモテによって書かれたとも言われています。コロサイ人への手紙のほうが、ガラテヤ人への手紙よりもなおいっそうヘレニズム的な世界観が強く出ています。しかしコロサイ人への手紙に出てくる「世を支配する霊」(2章8節)は、ガラテヤ人への手紙の4章3節の同じ表現とつながっていて、どちらの教会の信徒たちも、上に述べた世界観に影響されていたことが分かります。
   パウロは(コロサイ人への手紙の筆者もまた)、こういう「世を支配する諸霊」よりも、イエス・キリストの権威とその御霊の働きのほうがはるかに優っていると告げています。コロサイ人への手紙の筆者は、世界を支配し争いを起こしている「分裂」や「憎しみ」の原理が、キリストの到来によって克服されていることを示そうとしているのです。このようなパウロの思想を最もよく表している(あるいは受け継いでいる)のが、コロサイ人への手紙2章13〜14節です。ここでは、古いアダムが新しい人キリストとして再創造されたこと、これに伴って「律法という敵」が、今や敗北者にされて、「敵」に勝利した将軍(キリスト)の凱旋の行列で曝しものにされています。これは捕虜となった敵の将軍たちが、凱旋のお供をさせられて、人々から嘲りを受けるという古代ローマの凱旋式のイメージで描かれているのです。ここには、イエス・キリストが、その十字架をとおって、天と地の支配者となった勝利の姿が描かれています。パウロの「堕落した律法」という敵が、キリストによって敗北したことを見事に言い表わしていると言えましょう。ここに描かれるイスラエルのメシアとしてのキリストは、その源を「ヤハウェのほかに神はない」ことを明言した第二イザヤへさかのぼると思われます。
   以上述べてきたことは、パウロとその弟子たちが、当時の人々の信じていた世界をば、イエス・キリストの「御霊の光に照らされた」時に初めて洞察できたことです。パウロは、復活のイエスに照らされた時に、おそらく自分がそれまで追い求めてきた「律法」の正体をはっきりと見抜いたに違いありません。だからこそ、福音から再び律法へと逆戻りする異邦人キリスト教徒に対して、蛇の悪巧みにだまされたエヴァの例を引いて、「誘惑に陥らない」ようにと警告しているのです(第二コリント11章3〜4節)。
  彼がなぜ、復活のイエスとの出会いにおいて、イスラエル民族の優越性を堅持するそれまでの信念から一転して異邦人へ福音を伝える使徒として自分を自覚したのか? わたしたちはその理由を今理解することができます。彼の転換は、それまでの律法への「熱意」が、復活のイエスとの出会いにおいて、完全に打ち砕かれたところから生じたのです。その時パウロが見たのは、これまでの「アイオーン」(宇宙・時代)が、キリストにあって新しく創造されたことを示す啓示でした。彼が異邦人への使徒として自分を自覚したこととこの啓示とは切り離すことができません。この時パウロは、律法の民としてのイスラエルの死を知ったのです。イスラエル民族と異邦の諸民族とを隔てている律法の壁が、彼自身のアイデンティティと共に完全に粉砕された時に、彼は自分が異邦の民に「遣わされている」(使徒とされる)ことをはっきりと自覚したのです。
   (6)律法違反と律法主義
   パウロは人間の欲望によって「堕落した律法」を批判しました。だがパウロでは、このような「律法」の放つ「死の矢」は、世界や世の中の仕組みよりも、むしろ人間の内面へと向けられています。したがって、パウロが「律法は天使たちによって与えられた」(ガラテヤ3章19節)からキリストの福音に劣ると言う時に、彼は、律法のこのような「反福音的な」働きの源を、宇宙的な悪の力と言うよりは、人間に内在する罪のほうに見ています。このようなパウロの律法観の「内面化」は、彼の内に働くキリストの御霊によるものです。パウロはキリストの福音を信じた後で、自分の内で、「イエス・キリストの御霊のノモス」と「罪と死のノモス」とが闘っているのを発見しました(ローマ7章25節/8章2節)。
    ローマ人への手紙7章7〜25節でパウロは、「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかった」と述べていて、さらに「律法がなければ罪は死んでいる」と言っています。また「罪は掟(律法の戒め)によって機会を得、わたしを欺き、掟(律法)によってわたしを殺してしまった」とも言っています。ここでパウロは、「罪」と「律法」とを区別しています。しかしその上で、「罪は律法によって」人を殺すと言うのです。この擬人化された「罪」は、「わたしを欺いた」とあるように、エヴァを「欺いた」創世記(3章13節)の蛇にたとえられています。「罪」はこのように「律法」を悪用して、人間に欲望を起こさせ、神の禁じた律法を破るようにし向けるのです。ここで人間は、「律法を破る」罪、つまり「律法違反」の罪を犯すことになります。
   ところが「罪」は、人間をして、「律法を破る」よりも、もっと違った仕方で、神に逆らわせようとするのです。それは、ちょうどアダムとエヴァが「神のようになろうとして」知恵の樹の実を食べた時のようです。このように人間は、神からの律法を逆に利用して、自分が「神のようになろうとする」欲望を抱くのです。罪は、人間を刺激して、神に頼ろうとしないで、自分自身の業(わざ)を誇り、自分勝手に律法を変質させて、自分の能力によって神の律法を「成就」し、「救い」を達成しようと図るのです。パウロは、このような人間の目論見を「律法の諸行」によって救いを達成しようとする人間の「自己義認」と呼んでいます。彼は、このような「律法の諸行」を「キリストの信仰/真実」と対照させています。律法の諸行に頼る人間は、自らの力によって律法を「守り」、そうすることによって自己の正当性を確保しようとするのですから、これは、先に述べた「律法違反」とは異なります。この場合は、逆に自己を正当化するために、自己流で律法を「守ろうとする」ことですから、これは言わば「律法それ自体を神の手から自分の手に奪う」ことです。このような自己義認は「律法主義」と呼ばれます。特に当時のユダヤ人やユダヤ人キリスト教徒たちは、この傾向が強かったので、パウロは、キリストの福音に逆らい、神からの罪の赦しの「恩恵」を拒んで、律法に頼って自己を正当化する彼らの「自己義認」を厳しく批判しています(ローマ2章17〜24節)。
   こうして「罪」は、人間の欲望を「律法違反」と「律法主義」の二つの方向へ刺激します。このふたつは、互いに反対のように見えますが、神に逆らおうとする点では共通しいます。またキリストの十字架の罪の赦しを拒むという点でも共通しています。「律法」の働きは、このように複雑で分かりにくいところがありますが、ちょうど楽園の知恵の樹のように、神からの律法も誤って用いると、人を罪に誘うのです。その結果、人は「命」の代わりに「死」を見いだし、「救い」の代わりに「罪」を得ることになります(ローマ7章7〜11節)。パウロが「罪と死のノモス(律法・法則)」(ローマ8章2節)と言う時、このような「律法の働き」を指しています。
(7)世界の希望であるキリスト
   イスラエルの律法は「この世」の中心に位置し、そこには神の意志が表明されています。と同時に、そこには「この世の罪」も反映されているのです。律法は、善なるもの正しいことを知る知識を与えると同時に断罪と呪いを発するからです。これは全世界が「神の裁き」に服するためであり、同時に、その裁きに服することによって、キリストにある救いに与るためにほかなりません。なぜなら人を「この世」から救う力は、キリストの御霊にある「新たな自己啓示」から来るのであり、その啓示は、神による人間の「再創造」をもたらすからです。
  古代メソポタミアの占星術師たちも、陰陽五行説に基づいて十二支の暦法を作りだした古代中国の陰陽学者たちも、2世紀のエジプトの天文・占星学者プトレマイオスも、平安時代の陰陽師安倍晴明も、この世を支配する天空の呪いを読み解き、これを祓う呪術を編み出すために必死の努力を傾けたのでした。パウロは、これら異邦の呪術師たちが見ていた呪いの中核に神の律法を見ているのです。その上で彼は、この「律法の呪い」を解く鍵をイエス・キリストの十字架の死に見いだしたのです。キリストは、十字架において律法の呪いに自らを委ねることで、人類の罪の呪いを釘付けにし、そこからよみがえったからです。パウロはそこに、人類がアブラハムのはるか以前から探し求めてきた呪いを克服する鍵を見いだしました。これが「律法の諸行」に代わる「キリストの信実」なのです。
    パウロだけでなく、新約聖書での「律法」と「キリストの福音」との関係は簡単ではありません。またこの問題は、福音そのものを深く知る上で重要なことですから、信仰や霊的な体験が進むのに応じて、<律法と福音>、<律法の諸行とキリストの信仰/真実>との関わり方を深めていくように心がけてください。このための入門として、ここに述べたことが、お役に立てれば幸いです。
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