パウロの律法観と他宗教への寛容
■パウロの律法観
 パウロの律法観と他宗教への寛容を考える場合に、参考にする上で次の5点があげられます。
(1)パウロ書簡で語られる旧約聖書の「律法」は、当時のユダヤ教一般で言われている「律法」とは、その意味も内容も異なっています。パウロは、イエスを信じ、復活のイエスの御霊を受けてから、ユダヤ教の言う「律法」に対して、それまでとは全く異なる視点から「律法」を見ているからです。彼の律法観は、彼がファリサイ派に属していた頃の「過去の」パウロ自身のそれとも異なるものです。彼はその書簡で、イエス・キリストの御霊にある新たな律法観を一貫させています。伝統的なユダヤ教の律法観とパウロの福音的な律法観との間で、ペトロを含む同時代のユダヤ人キリスト教徒は、そのどちらにつくべきかをめぐって揺れていました。
(2)旧約の律法は、レビ記などを中心とする祭儀律法とモーセの十戒を核とする倫理律法とに大別することができます。パウロは、祭儀律法に関してはイエスの十字架による罪の赦しと贖いの信仰を通じて、倫理律法に関しては、イエス・キリストの御霊にある「愛の歩み」を通じて、旧約聖書の律法がイエス・キリストにあって「霊的に成就」されていると見ています(ローマ8章3〜4節/同13章10節)。
(3)パウロは、イエス・キリストの御霊にある歩みこそ、「律法の成就」であると見ていますから、イエス・キリストを信じてその御霊にあって生きる道から人をそらそうとするいっさいの歩みと教えは、「福音の真理」から「道を踏み外す罪」であると教えています。このために、イエス・キリストへの信仰とその御霊によらず、自力で己の救いを達成しようとする意図のもとで「律法を遵守する」姿勢を「律法主義」として厳しく批判しています(ローマ9章31節)。「律法は人に罪を犯させる」というパウロ独特の律法観は、ここから生じています(ローマ4章15節/同7章7〜8節)。
(4)律法から福音へのこのような移行は、律法がイエス・キリストの到来に<先立って>与えられたという時間的な推移によって説明されています。律法は予め福音の到来を「証しする」ものであり(ローマ3章21節)、後から来る福音こそ、先にあった律法を成就する働きを有するのです(ガラテヤ3章17〜19節)。しかも、神の律法は、ユダヤ人だけでなく、人類全体に、すでにその心に刻まれているのです(ローマ2章14〜15節)。
(5)特に注意すべきなのは、パウロは、律法と福音とのこの関係を、ユダヤ教の律法だけではなく、異教の諸宗教とも重ねていることです。言い換えると、パウロは、ユダヤ教の律法とヘレニズム世界の諸民族の伝統的な異教の諸宗教とを「同じレベル」に置いて見ているのです(ガラテヤ4章1〜10節/コロサイ2章6〜23節)。ただし彼は、ユダヤ教の律法が、他の諸宗教よりも優れた宗教性を有することを洞察しています(ローマ2章19〜27節)。しかし、イエス・キリストの福音という観点からすれば、ユダヤ教の律法も異教の諸宗教も本質的に同じ「人間の業」にすぎないのです。
■福音と諸宗教への寛容
 福音の霊性と諸宗教への寛容は、以上のようなパウロの律法観から導き出されるものです。それは次の5点に絞られてきます。
(1)福音的霊性は、人間とこれを取り囲む宇宙全体をイエス・キリストの御霊にあって「新たに創造する」神の業に支えられています(第二コリント5章17節/ガラテヤ6章15節)。だからわたしたちは今、イエス・キリストの御霊に導かれて、人類を進化させ、全宇宙を完成へ向かわせる神のみ業に参与しているのです(コロサイ1章13〜20節)。こういう巨視的な視野から、わたしたちの信仰の有り様を見ることを忘れてはなりません。
(2)人類の歩みの中で、わたしたちは、イエス・キリストの「エクレシア」に所属する存在であることを自覚する必要があります(エフェソ1章18〜23節)。とりわけ、わたしたちは「日本人のエクレシア」に属しています。現在日本には、東方正教会とカトリック教会と様々な形態のプロテスタント諸派が存在しています。大事なのは、これらイエス・キリストのエクレシアに属するキリスト教諸派、諸宗団が、他のキリスト教諸教会に対して己を「絶対化」しないことです。律法の業による「人間の義」を求める者は、その業を絶対視する傾向があります。これに対して、福音的な霊性は、イエス・キリストの御霊にある恵みによって罪赦された存在であることを忘れないのです。父が遣わされた御子の贖いによって「赦されている」者として、現在の諸宗派・諸教団に求められているのは、互いに己を絶対化することなく、あるがままそのままで、相互に認め合い協力してエクレシアの交わりを創造的に形成することです。イエス・キリストの御霊にあって一つになることです(エフェソ4章2〜6節)。これが今わたしたち日本人のエクレシアにとって最も大事な課題の一つです。
(3)キリスト教徒同士の一致と交わりが形成されるならば、同じ主の御霊の働きによって、今度は仏教や神道やその他の諸宗教の人たちへも交わりを広げる道が啓(ひら)けます。現在の世界で、最も重要な課題の一つが、世界規模の大宗教が、それぞれ己の宗教を絶対化して、これを他者に押しつけたり強制したりしないことなのです。強制や押しつけは、パウロの言う律法主義に通じるからです。したがって、日本人キリスト教徒は、イエス様の御霊にある赦しと寛容の霊性によって、日本の諸宗教の人たちと接することが大切です。これこそ、これからの日本人のエクレシアの特質であることを忘れないでください。
(4)己の絶対化を避けて相互に交わりを持つことができれば、キリストの御霊は、すべての人をイエスのもとへ引き寄せてくださいます(ヨハネ12章32節/ローマ11章32節)。これが、真の福音的霊性のあるべき姿です。伝統的な諸宗教が、「後から来た」キリストの御霊にあって変容されて、過去の霊性の真理がキリストの御霊にあって新たに活かされるのです。旧約の霊性が福音による変容を受けて継がれるように、人類の今までの諸宗教もイエス・キリストの御霊にあって相続されていくのです(フィリピ4章8〜9節)。
(5)このような霊愛の交わりは、一般論や原理や教義を唱えても、それで実現できるものではありません。エクレシアでの交わりも、宗教間の交わりも、個々の信者同士が、具体的、実際的な生活の場で実践されて初めて、「現実の出来事」になるからです。イエス・キリストの御霊は、愛と自由に基づく人格的な交わりを創り出します。だから、これは「新たな創造」の業です。キリスト教徒の一人一人は、それぞれに置かれた環境や状況に応じて、他宗派、他宗教の人たちと全人格的な交わりへ導かれることが大切です(第一コリント9章20〜21節/同10章32〜33節)。これのみが、新たな交わりを創り出し形成して行く神のお働きだからです。このような御霊の働きを通じて初めて、日本人のエクレシアが、韓国や中国などアジアのエクレシアと交わりを創り出して、平和を広げることができるのです。
■他宗教に働くイエス・キリストの御霊
 それでは、イエス・キリストの御霊が他宗教の信者に働く場合に、彼/彼女の内でどういうことが起こるのか? この点をもう少し立ち入って考察したいと思います。
(1)上にあげた「パウロの律法観」の(5)で、「パウロは、律法と福音との関係を、ユダヤ教の律法だけでなく、異教の諸宗教とも重ねている」と指摘しました。これの引照としてあげたコロサイ2章の16〜18節の部分は、ヘレニズム化したユダヤ教とアジアの幾つかの異教とが混ざり合った「混淆宗教」のことではないかと指摘されています。ガラテヤ人への手紙とコロサイ人への手紙には「宇宙を構成する諸霊」(ガラテヤ4章3節/コロサイ2章8節/同20節)のことがでてきます。これは当時アジアで流行していたエンペドクレス(前5世紀)の四大元素説を受け継いで天体の運行による運勢を司る天使たちを礼拝する宗教が、ユダヤ教の天使礼拝や律法と混ぜ合わされた宗教だったようです。「宇宙の構成」をわたしたちに身近な例であげれば、「陰陽道」や十二の干支(えと)や古代中国以来の「陰陽五行」(節句/吉日・凶日など)などがあげられましょう。では、このような諸宗教の混淆状態に対して、どのように向き合えばよいのでしょうか?
(2)先ず、「神が遣わされた御子」(ガラテヤ4章4節)が、エクレシアの頭であるイエス・キリストであることを自覚することです。すなわち「すべての霊威や霊力の頭であるキリスト」(コロサイ2章10節)です。エクレシアに宿るイエス・キリストの御霊は、宇宙を創造し今も宇宙に働く神の絶対的な「力」(エール)をエクレシアを通じてこの世の人々の間に働かせます。この「力」に匹敵する力は地上に存在しません(エフェソ1章20〜22節)。大事なのは、ユダヤ教や異教やキリスト教が入り交じる多様な宗教の有り様に、イエス・キリストの御霊の働きを導入することが、エクレシアの一致へ到達する働きと一つにされていることです(コロサイ2章16〜19節)。ここで言う「力」が、暴力的な働きでないことは言うまでもありません。神の力は神の言葉です。神の言葉は「現実の出来事」として「生起します」(ヘブライ語「ハーヤー」/ギリシア語「エゲネト」)。イエス・キリストにその身を委ねる者には、神の言葉が「出来事」となって成就するのです。悪しき力も敵対する力も、神のこの「力」に勝つことができず、利用するつもりが利用され、勝ったつもりが負けて滅びる結果になります。
(3)このように、異なる者、対立するもの同士の「隔ての障害を取り除く」ことで、「二つのものを一つにする」のがイエス・キリストの聖霊の働きです(エフェソ2章15〜17節)。このための要(かなめ)となるのが、イエス・キリストの血による贖いの十字架と、これを通じて授与されるイエス・キリストの御霊です。キリストの御霊を受けて「神の子」とされた者には、ユダヤ教か異教かという宗教的な隔てはなく、奴隷か自由人かという階級的な隔てもなく、男か女かという性差別もありません(ガラテヤ3章27〜29節)。これは、「わたしたちに敵対し、わたしたちの罪を責める証文の律法的な規定を無効にして、それを十字架に釘付けする」キリストの働きです(コロサイ2章14節)。「遠かったあなたたちがキリストの血によって近くさせられる」(エフェソ2章13〜16節)のです。「イエスの御臨在こそわたしたちの平和」(エフェソ同14節)を創り出すからです。
(4)ここで一つ、わたしの身近な人の具体例をあげましょう。ある熱心なクリスチャンの姉妹が、その姉妹のごく親しい仏教徒から、自分の精神的な病気が癒やされるようイエス様に祈ってほしいという依頼を受けました。クリスチャンの姉妹は、祈りはイエス様の御名によって献げなければ実行力を持たないことを告げますと、その友人は納得しました。そこで彼女が祈りを捧げていると、友人の病が快方に向かったのです。喜んだその仏教の友人は、姉妹にお礼の電話をかけてきました。ところが、彼女が言うには、「わたしが癒やされたのは、やはり仏さんのお陰だと思う」とわざわざクリスチャンの姉妹に告げたのです。姉妹は、ここで言い争っても意味がないと思い、そのまま電話を終えました。
 ところが、またしばらくすると、仏教徒の友人の容態が再び悪化し始めたのです。すると彼女はまた電話してきて、イエス様に祈ってほしいと言うのです。姉妹は再び祈りました。するとまた快方に向かったのです。友人は再びお礼の電話をかけてきました。しかし、彼女は、「やっぱり、仏さんのお陰だ」とくり返すのです。おそらくこの友人は、自分が癒やされたのは、クリスチャンである姉妹の祈りから来るイエス様の働きであることを「感じとっている」のです。それでも、「仏さんのお陰」をくり返すのです。
 クリスチャンの姉妹は、それでも言い争わず、宗教を振りかざして相手を咎めることをしませんでした。そんなことが何回かあって、彼女は、未だに「仏さんのお陰」をくり返しています。これは、実際に治るものならどの神でもいいという典型的な日本人の宗教心の有り様のみごとな例です。しかも、治ったら、自分の信じる神仏のお陰だと思い込もうとするのです。
(5)いったい、ここで何が問われているのでしょうか?その仏教徒が、治ったのは「自分の信心する」仏さんのお陰だと思うその心こそが問われているのです。そこには、「自分の信心」そのものを誇る想いが潜んでいます。自分の宗教的な業を誇る人間のこのような行為をパウロは「律法の諸行」と呼んで、罪を赦すイエス・キリストの御霊にある慈愛と対立させるのです。「救いは、あなた自身の力や思いこみによるのではなく、神が与えてくださった救い、すなわちイエス・キリストの十字架の贖いによる「恵みの賜物」であること(エフェソ2章5節)、このことに彼女は思いいたらないのです。しかし、「己の信心を誇る」このような想いは、同時に、キリスト教の諸派・諸宗団をも「隔てている障害」ではないでしょうか? だとすれば、エクレシアの一致も宗教間の一致も、これを妨げるのは同根の「人間の罪」にあることになります。わたしたちはここで、改めて人間の「罪」のいかに深いかを知るのです。「神に対する人の罪」、宗教問題は、この土壌に根を張っているのです。
 先にあげた仏教徒の場合には、イエス様の御名による祈りを捧げてはならない。あなたはそう思いますか? それとも、厳しく相手の欺瞞を責めますか? それとも、幾度でも繰り返し祈ってあげますか? 「力と愛」の両方で、「七度を七十倍するまで」幾度でも赦しなさい。イエス様はこう言われました(マタイ18章22節)。このクリスチャンの姉妹は、まさにこの通りに実行しているのです。聖者に列せられたマザー・テレサも、それぞれの宗教の人を親身に介護してあげて、亡くなったらその人の宗教で葬儀をあげたと伝えられています。
 実は、これに似た故事が中国にもあります。『三国志演義』によれば、後漢の末期、3世紀の魏と呉と蜀の時代、諸葛孔明(しょかつこうめい)は蜀(しょく)の劉備玄徳(りゅうびげんとく)の丞相でした。劉備が亡くなると、その後、蜀の統治が孔明に委ねられました。雲南(今のヴェトナムやラオスと中国との国境地帯)の大王であった猛獲(もうかく)が、反乱を起こしたために、孔明は自ら兵を率いて雲南に遠征し、知恵を用いて猛獲を捕らえます。しかし、孔明は猛獲を殺さず、その罪を赦してやるのです。ところが猛獲は、再び反乱を起こし、再び孔明に捕らえられ、再び赦されます。こんな事がくり返され、猛獲は、七度捕らえられて、孔明は七度これを釈放して、遂にこの王を心服させたと伝えられています。これを「七擒猛獲」(しちきんもうかく)と言います。
 パウロは、ユダヤ人もギリシア人(異教の諸宗教を信じる民の代表)も、人は皆一人残らず「罪人」であることを自覚するよう促しています(ローマ3章9〜20節)。ヘブライの宗教は、ユダヤの民にイエス・キリストの到来を証しするものであり、イエス・キリストの救いが啓示されるまでの準備段階であり、福音にいたる「養育者」の役割をはたしてきました(ガラテヤ3章23〜25節)。それぞれの民には、それぞれに「福音が到来する時機」があります。それぞれの民のそれぞれの人に福音が啓示される時、自分たちの過去が「この時のために」与えられてきたことを悟るのです。福音がまず啓示するのは「人間の罪性」です。しかも、その罪性は、これを赦すのは十字架の贖いによる神の御子イエスの愛だけであると悟ることと表裏一体なのです。「罪を犯すは人のすること。罪を赦すは神のすること」とイギリスの詩人ポウプは言いました。どちらが最後に本当の意味で「勝つ」でしょうか? 赦す神のほうでしょうか? 赦される人のほうでしょうか? 「光は闇の中で輝いている。しかし闇は光に勝てなかった」(ヨハネ1章5節)とあります。「光に照らされる者は光に変容する」ともあります(エフェソ5章13〜14節)。天地の創造者から降る絶大な力と、イエスの十字架から注がれる罪の赦しの恩寵と、その時その場の状況に応じて思慮深く振る舞う分別、こういう「力と愛と思慮の御霊」(第二テモテ2章7節)こそ、これからの日本のエクレシアの一人一人を導く御霊のお働きなのです。以上、パウロの律法観と現在求められている宗教的寛容との関係をごくおおまかに概観しました。問題は難しく、実践は決して容易でありません。しかし、日本人のエクレシアのメンバーとしても、人類全体の歩みにおける日本人としても、今わたしたちに求められているのは、このような主にある歩みであることを忘れないでください。(2016年10月)
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