キリストを着る
(1)堕罪と着物
 今日は、私たちに身近な「着物」の話をしたいと思います。古来、織物は「霊の着物」にたとえられてきました。イギリスの詩を読んでいますと、「天使の衣」という表現があって、美しい織物でできた衣(ころも)は、美徳と霊性を言い表す象徴として用いられています。
 アダムとエバは楽園では裸でいたけれども恥ずかしいとは思いませんでした。ところが二人の堕罪の後では、「いちじくの葉をつづり合わせて腰を覆った」とあります(「創世記」3:7)。さらにその後には、神様ご自身が「皮の衣をつくって二人に着せた」(「創世記」3:21)とありますから、どうやらアダムとエバのこしらえた着物では、自分自身の恥を隠すことができなかったようです。この話から判断しますと、衣服とは、人間の罪と罪の結果もたらされる人間の恥とを「覆い隠す」ためのものであったことになります。
 人類学的に見ますと、衣服は人間が自然から身を守るために考案したもので、きわめて実用的な意図からでたことになるのでしょう。しかし、人間は初めから、衣服にそういう実用的な要素だけでなく、神性、魔術、呪術、身分、部族などのさまざまな社会的、文化的、そして宗教的な意義付けを与えてきました。これは洋の東西を問わずにおこなわれています。ですから、聖書のここの場合でも、着物は、人間の霊的な状態を表していて、神様がお与えになった「衣(ころも)」は、「霊の衣」でもあると考えられます。したがってここで言う「裸」も、人間の弱さ、罪深さ、人間が神様と同じになろうとして、逆に自分の罪と弱点とが露わにされたことを指し示しているのです。
(2)み霊(たま)の着物
 旧約聖書では、神様からくだる霊が、「着物」として表されています。「主の霊がギデオンを覆った」(「士師記」6:34 )とありますが、この「覆った」は、原語のヘブライ語では衣服を「着る」あるいは「着せる」という言葉です。ギリシア語の七十人訳でも「衣で包む」という言葉が遣われています。神様からくだる聖霊は、私たちをちょうど衣のように包むのです。
 この例は、直接に神様からの聖霊を指している場合ですが、それだけでなく、聖霊によって与えられるさまざまな美徳もまた「衣」として表現されています。ヨブは神様に向かって自分の正しいことを主張して、「わたしは正義を衣としてまとい 、公平はわたしの上着、また冠となった」(ヨブ記29:14)と述べています。また「詩編」(132:09)には、「あなたに仕える祭司らは正義を衣としてまとい あなたの慈しみに生きる人々は 喜びの叫びをあげるでしょう」とあります。旧約にはこのほかにも、「救いを着る」「栄光を身にまとう」などの表現があります。
(3)イエス様の着物
  新約聖書にも同じように、霊の賜物が衣服で言い表されています。ただし、新約では、「霊の衣」という表現は、イエス様のみ霊を指しています。しかもこの場合は、イエス様が注いでくださる霊という意味以上に、イエス様ご自身が、み霊となって私たちを覆ってくださる、という意味になります。「主イエス・キリストを身にまといなさい」(ローマ 13:14)とパウロが言ったのはこのことです。私たちは「イエス様を着る」のです。イエス様のみ名を呼ぶときに、イエス様ご自身が顕れて私たちと共に立ってくださる。そして主のご臨在に自分をお委ねすることによって、主のみ霊に包まれる、あるいは主をまとう、というところまで突き進むのです。
 ところが、イエス様がせっかくみ霊の衣を着せてあげようと待っておられるのに、それを断る人がいます。これには大きく分けてふた種類の人がいます。ひとつは、自分はすでにいい衣を着ていると思っている人です。知識の衣、身分の衣、名誉の衣、才能という衣もあります。こういう人たちは、自分で「いい衣」を身につけていると思いこんでいますから、イエス様のくださるみ霊の衣を着たいと思わないのでしょう。「しなやかな服を着た人なら王宮にいる」(マタイ11:8)のですから。どんなにいい衣でも、自分の衣はいつかは朽ちます。でも人はなかなか朽ちる衣を脱いで、朽ちない衣を着たいとは思わない。
 もうひとつのタイプは、イエス様の招きを受けても、それは自分に過ぎた衣だ、もったいないと言って遠慮する人です。こういう人は、自分の衣がどんなに汚れているか、あるいはちょっとした寒さや暑さにも耐えられないほど貧弱だということに気がつかない。あるいは気がついていても、「もっといい服装をしてから」イエス様の所へ行こう、こう思う人です。私などは自分でこしらえた衣などは、とっくの昔に「破れかぶれ」です。ありのままでいいんです。破れ衣のままで、イエス様のところへ来る。そしてイエス様のくださる衣を身につけさせてくださいとお願いする。それだけでいいんです。でも、これを人はなかなかやらない。
 残念ながら、クリスチャンと言われる人たちの中にさえ、「み霊の衣」を着ようとしない人たちがいます。こういう人たちは、聖書を読んでいます。教会へも行っています。けれども、イエス様から「霊の衣」をいただいて、これを着せてもらおうとしないのです。こういう人たちについて、イエス様はあるたとえ話をしておられます。ある王様が盛大な宴会を開いたところが、大勢の客が集まった。お客さんたちは、会場の入り口で、礼服を渡されて、これを着るように言われているのです。ところがその中に一人、礼服を着ないで席に着いている人がいたので、「王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った」(マタイ 22:12)とあります。この人は、自分が着ているそのままの服装で王様の宴会に出席できると思ったのでしょう。
 イエス様のくださる服を着たいと願う人は、その前に必ずしなければならないことがあります。それは、「今自分が着ている服を脱ぐ」ことです。これをやらなければ、新しい衣を着ることができません。自分の衣を脱ぐと言うのは正確ではありません。より正確には、み霊の衣を着ようとするうちに、自分が今まで着ていたものが一つ一つ脱がされていくというほうがあたっていると思います。これは勇気が要りますが、そうすることによって、絶えず自己変革が行なわれていくのです。今までの自分の服を脱いで、イエス様にどうぞあなたの衣を私に着せてくださいと祈るのです。
(4)戦いの武具
 服装でもうひとつ大事なのは、戦うときの服装です。言うまでもなくここで「戦う」というのは、人と争うことではありません。私たちは人生の歩みの中で、大小さまざまな戦いをしなければなりません。苦しいとき厳しいとき罪の誘惑に出合うとき、いろいろあります。私たちが特に注意しなければならないのは「人を恐れる」ということです。これは自分を正しく護る大事な戦いです。この場合、戦いは自分自身との戦いに他なりません。どんな場合でも、チャレンジするときには、「自分に勝てるか」が問題になります。これは人生最大の難問ですよ。こんな場合、新約聖書で、特に有名なのは次の箇所です。

(5)パウロの語る「着物」
 イエス様は、十字架の贖いを成就されてから、天に昇られる前に弟子たちに言われました。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。あなたがたは高い所からの力に覆われる〔着せられる〕までは、都にとどまっていなさい」(ルカ 24:49)。「父の神のお約束どおり」に聖霊がくだって人々を覆い、み霊の衣がひとりひとりに与えられること、イエス様の十字架の贖いの目的がまさにこれだったのです。パウロはこのことをはっきりと洞察していました。だから彼はこう言っています。

 「朽ちるべきもの」というのは私たちの肉体的な存在のことですね。これに対して「朽ちないものを着る」というのは、イエス様がくださる「み霊の衣」を指しています。ところがパウロは、この霊の衣について、不思議なことを言っています。

 実はここの「それを脱いでも」とあるのは、「地上の幕屋を脱いでも」という意味で、私たちが「自分の肉体を離れても」という意味になります。ところが、ここの読み方にふたとおりあって、新共同訳のような解釈と「それを」を「天からの幕屋」と理解して、「この天の幕屋を着るなら」と訳す場合とがあります。ちょうど反対の意味になりますね。わたしは後のほうが正しいと思います。と言うのは、ここでパウロが、「地上のすみかを脱ぎたいのではなく、天から与えられる住みかをその上に〔地上の幕屋の上に〕着たい」と言っているのは、とても深い意味があるからです。パウロがここで「地上の幕屋」と言い「地上の住みか」と言うのは、私たちの肉体のことです。つまり今の肉体の上にイエス様からの霊の衣をまといたい。パウロはこう言っているように聞こえるのです。いったいこれはなんのことでしょう。
 実はこのパウロの言葉の裏側には、当時のヘレニズム世界の人間観があるのです。当時のヘレニズム世界では、人間は魂と肉体との二つで成り立っていると考えられていました。人間の魂が、地上の肉体を離れるなら、霊魂だけが永遠不滅な存在として残るという思想がそこにはあるのです。こういう人間観は、ギリシア的な思想からでています。人間を霊魂と肉体とに分ける見方ですね。
 どうもこのような見方は、インド・ユーロピアン語族に共通しているようです。これに対して、アジア的な人間観は、肉体と霊とを切り離さないで、一体として見る傾向があります。東洋の医学でも人間の肉体を人間の精神と切り離さない。日本人も肉体と魂とをはっきり分けませんね。飛行機事故なんかがあると、日本人はなんとか遺体を見つけたいと探します。これなんか、遺体それ自体にその人が宿っているという見方からでているからでしょう。

(6)霊の体
 ところがパウロは、今の肉体のままで、その上に霊の衣をまといたいと不思議なことを言っています。その心は何かと言いますと、今の私たちの肉体をいつまでも保ちたいという意味ではなくて、私たちが地上でまとっている肉体的な存在が、「この地上で」み霊の衣をまとって歩むうちに、私たち自身が、肉体的な存在にありながら、必ず「霊の体」をまとうようになり、こうして私たちには次第に「肉の体」を脱ぎ捨てる替わりに「霊の体」が与えられていくという不思議なことなのです。「つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」(Tコリント 15:44)とパウロが言うのはこの意味です。肉体と霊とは分かちがたく結びついていますから、地上の幕屋(肉体)を脱ぐ前に霊の幕屋(霊の体)を着たいと言うのはどうもこういう意味のようです。
 パウロはここで、「霊の体」を詳しく説明しようとしているのではありません。また、肉体と霊の体との関係を定義しようとしているのでもありません。パウロが言いたいのは、たとえみ霊の衣を身にまとっても、それで自分自身が人格的に消えてなくなるのではない。それどころが、逆にみ霊にあって、いっそう明瞭に自己の姿、自己の人格的存在をはっきりと意識するようになることを言いたいのです。
 パウロがなぜそれほど「体」にこだわるのかと言いますと、「からだ」というのは「わたし」という存在の「かたち」ですね。つまり、「からだ」は、私という人間の人格的な有り様を「すがた・かたち」として現しています。ここが大事なところなんです。もしも体と霊とが別のものであって、肉体は一時的で、魂はこの世を去って永遠にどこかへ行くとすれば、その魂はいったいどこへ行くのか? また魂はどこから来たのか? こういう疑問にぶつかるのです。
 「輪廻転生」とか「生まれ変わり」という言葉があります。これは仏教的な言葉です。もっとも日本の仏教は輪廻転生とは少し違うと思います。輪廻転生では、前世は人間だけでなく犬や猫のような動物でさえあった可能性があります。また、今ある自分が、この世を去って今度はどんな姿に生まれ変わるのかは全くわからない。しかし、生まれ変わることは、仏教では決していいことではないですね。生まれ変わって再びこの地上で苦しい生き方をしなければならない。生まれるのは苦しみを受けることだというのが、この思想の背後にあります。だから、二度と地上に生まれてこないようになること、これが解脱ですね。サンサーラ(輪廻)というのは、解脱ができないままに、いつまでも姿形をかえて苦しい思いをしながら地上をさまよわなければならないことです。
 こういう人間観では、自分とはなんなのか。今ある自分は将来どうなるかがまったくわからない。肉体を離れて霊魂だけになると、その「自分」とはなんなのか? 自己の存在が曖昧になってしまうのです。別の姿をとるのなら、今の「自分」は自分ではなくなりますから。ここが聖書の教えと仏教の教えとの大事な違いです。旧約ではヤハウェという固有名詞の神様を信じることから始まります。これが新約では、イエス様というひとりのお方を信じることになります。これも固有名詞ですから人格ですね。これが聖書の信仰の大事なところです。聖書の神は人格神(ペルソナ)なのです。この神様の前で、イエス様のみ霊の衣をまとって歩むうちに、私たち自身が、すなわちこの肉体の体に住む自分自身が、霊の衣を着せられて霊の体へと変えられていく。どこまで行っても「自分は決してなくならない」。こういうことをパウロは言っているのです。
(7)人格的な自己を持つ
 今少年犯罪が大きな問題になっています。いろんな人が犯罪を犯した少年の心理を分析したり、いじめや家庭の環境からその内面を考察したりしています。しかしわたしにはどうも腑に落ちないことがあるのです。それは、たとえどのような環境や状況があったとしても、どんなにその少年には同情すべき点があったとしても、犯罪を犯したのは「彼自身」なのです。彼自身が、そういう状況に置かれた自分自身と戦わなければ、だれもその替わりに戦うことができません。それができなくて自分に負けたのなら、それはそれで仕方がない。その替わり、自分が負けたのなら、その負けをはっきりと自分に言い聞かせて、悔い改めるべきです。責任は彼自身にある。人は皆それぞれにのっぴきならない状況の中で生きています。世界中には、食べ物も着物もなくて、あるいは戦争で親子兄弟を殺された子供たちが何百万といます。私たちは彼らを助けたり、彼らの心の傷を癒す努力をしなければなりません。しかし、どんなに援助や理解を示しても、その子どもが犯罪を犯してもいいという理由にはならないのです。どんなに弁解しても、やったのは自分です。だから、その少年が、自分と戦い、自分の人格を護るために場合によっては人と戦い、罪と戦うまではゼッタイニ立ち直ることなんかできないんです。結果はほかでもなく彼自身に帰るからです。彼は人格であって、その人格を傷つけられたのです。大事なのはひとりひとりを人格として扱うことです。自己の人格をどこまでも大事にする。同時に他人の人格を尊重する。これは絶対に譲らない。そこからしか本当の解決は生まれてきません。この教育を徹底させなければ、いつまで経ってもこの国はよくなりません。
(8)着物と体
 着物は、それをまとう人と決して「一体」ではありません。自分自身の肉体とどこまでも「付かず離れず」存在しますが、着物がこれをまとう自分とひとつになることはありません。イエス様のみ霊もこれと同じです。私たちはイエス様をまとい、イエス様を着ます。これによって私たちの裸を隠すことができます。裸は私たちの罪であり弱さですね。この罪を覆ってくれるのがみ霊の愛という「霊の衣」です。しかし衣はその人と同じではありません。どんなにその人の体にぴったり着いていても、その人自身ではないのです。どんなにいい衣でも、その人それ自体ではありません。しかし、その人にふさわしい服装で、ぴったりと身についていますと、それは、その人自身ではないけれども、まるでその人自身のように見えますね。イエス様のみ霊もこれと同じです。着ている本人は、その霊の衣が自分自身ではないことをよく知っていますが、傍目で見るとまるでその人自身のように見えるのです。だから私たちはいつも謙虚になって、自分自身と自分の衣とを取り違えないようにしなければなりません。
 いろいろな衣があります。きらびやかな衣、質素な衣、きれいな衣、汚い衣、いろいろあります。人は裸では恥ずかしいですからね。外側は黄金のメッキで、内側は鉛の裏地の衣、これはダンテの描く偽善者の衣です。重い衣ですよ。服装はなるべく軽くて、自分にあったものが、一番いいです。
(9)終末の着物
 最後に私たちがこの世の終わりに着る衣のことを話します。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(ガラテヤ 3:27)とあります。ここで「結ばれた」とあるのは、結婚のことかと思うかもしれませんが、実はそうではなくて「婚約」のことです。もっともこの時代では、「婚約」はほとんど「結婚」と同じくらいに大事な意味を持っていました。ヨセフが許嫁のマリアさんのことで、心配したのはこの理由からでした。
 では結婚はいつかと言いますと、それは「終わりの時に」私たちは主とひとつに結ばれるとあるのです。み霊の働きは、現在この世で始まっています。ですから、私たちの救いの完成は、<あの世で>初めて完成するのではないのです。み霊は今現在わたしたちの内だけでなく、世界の創造の中で働き続けています。私たち個人も人類も大自然も宇宙も、ことごとくこのみ霊の働きを受けつつ終末へ向かって進んでいるんです。だから、私たちがこの世にいようがあの世へ行こうが、そんなことは本質的にどうでもいいのです。現実の今の時に働くみ霊、これがすべてなんです。生きて働くみ霊に委ねて歩む。その歩みの行き着く先にあるのが終末です。ここでの婚約と結婚の比喩は、私たちの人格としての霊的な存在を言い表す大事なたとえです。だから聖書の「ヨハネ黙示録」には、最後にこうあります。 花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。(黙示録 19:8)
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