【注釈】
 この詩篇は、エルサレムの神殿に神を礼拝するために登って来た者たちが、神殿の入口で祭司に問いかけ、それに祭司が答えるという形式をとっている。1節がその問いであり、2~5節がこれに対する答えである。なおクレイギーの詩編注釈では、2~5節の動詞をすべて現在完了形に訳してある〔Peter Craigie. Psalms 1-50. WBC. An electronic edition〕。神殿に入る資格では、「今までの」行ないが問われるからであろう。最後の2行は祭司から巡礼者たちへの祝福の言葉である。
 しかし、この詩篇が、実際に用いられたままのものかどうかについては問題がある。と言うのはここに述べられている条件が、礼拝と祭儀への参加資格を決めるのには少し抽象的すぎると思われるからである。だからこの篇を若者を教え諭す「知恵の詩」に分類する説もある。2節と4節は「すべきこと」(4節は「誓う」こと)で、3節と5節では「してはならないこと」が語られている。
 神が臨在する場(天幕であれ神殿であれ)に入るためには、それ相当の儀礼による資格が要求される。例えば民がシナイ山に近づく時のように(出エジプト記19章10~15節)、あるいは、ダビデが祭司アヒメレクが仕えるノブの聖所を訪れた時に、彼は、聖なるパンに与る資格について祭司と問答を交わしている(サムエル記上21章1~7節)。
 ところがこの15篇には、そのような祭儀的な行為を示す条件がでてこない。その人の普段の行ないと心の有り様が問われている。主が臨在する「聖所」に近づくために要求される人の霊性の有り様については、この篇のほかに、24篇3~6節やイザヤ書33章14~16節がある。24篇とイザヤ書では、霊性の「資格」にやや違いが見られるが、15篇のそれは、心の有り様だけでなく具体的な行為をも指していて、両方に通じるところがある。
 問いかけへの答えの部分を見ると、2節が中心をなしていて、3~5節はこれを敷衍(ふえん)している。2節で問われるのは、具体的な行為そのものよりも人の「心の有り様」である。これらの基準は、主の聖なる山へ入って神を礼拝する資格を問うものである。いわば宗教的な儀式への「参加資格」である。「参加資格」なら、もう少し明確な基準が要りそうなものだというのが疑問の理由なのであろう。
 では、なぜこの詩篇はこのような形式をとったのだろうか。日常の実際的現実的なことを抽象的な言葉で問うのは、日常生活の「卑近な」問題を深い霊的な内面性において問いかけようとしているからである。神の住まわれる所に受け入れられるのはどのような人なのか? その霊性を問いかけているところにこの詩篇の奥深さをうかがうことができる。
 この篇の成立時期ははっきりしない。「聖なる山」は何時の時代にもあてはまるから。しかし、「ダビデの歌」とあるから、捕囚期以前にさかのぼる可能性がある。
 
[1]【天幕】「会見の天幕」はイスラエルの民が荒野にいた時期に神の宿られた場であり(後に「幕屋」となる)、「聖なる山」はエルサレムの神殿があるシオンの山を指す。どちらも「現在」神が臨在する場を表わす。訪れるのは、神の臨在を「尋ね求める」人である。「住む」「宿る」とあるのは、一時的な滞在ではなく、恒久的に住むことを意味している。なお「天幕」にも「神殿」にも、敵の追跡を免れる「避難所」「隠れ家」の意味がある。
 この篇が実際に用いられたとすれば、巡礼者たちが神殿の建物の前庭で、1節を合唱し、これに応えて、祭司たちが2~5節以下を(神殿内から?)合唱したと思われる〔岩波訳15篇(注)10〕
[2]【全き道を】原語は「完全に歩む」「律法を落ち度なく守る」という意味にもとれるが、外面的な行為よりも、むしろ17篇3節にあるように心から主に従うこと。「義を行なう」ことは「道を全うする」ことから自然に生じる。ここはほんらい「その人が神に対する義において完全である」"perfect in his righteousness"ではなかったかという見方もある〔Briggs, Psalms (1).ICC.113-14.〕。
【真実な心で】口先で嘘を告げる(例えば列王記上22章13~17節)ことをせず、「心から真実を語る」という意味にもなるが、むしろ内面的に「心に真実を抱いて語る」という意味であろう〔Briggs,Psalms (1).114.〕。「心の中で真実を語る者」〔岩波訳〕。
[3]【中傷する】人を密かにうかがい、陰でそしること(原語にはスパイをするの意味がある)。
【友に】ヘブライ語の「友」は、「友人」から「知り合い」まで意味が広い。「人を害さない」と訳してもいいであろう。
【侮辱する】原文は「身近な人に対して、その人の恥になることをあげつらったり、あら探しをしない」こと。あるいは「親しい人」を言葉や行為で嘲笑したり侮辱したりしないことである。3節を構成する3行は、人を密かにうかがい、人を傷つけ害する振舞いをし、最期に人の恥をあげつらって嘲笑する行為に及ぶまでを言い表わす。3節で禁じられているその状態が、エレミヤ書9章3~5節に描かれている。
[4]【棄てられた者】原文では、動詞「軽蔑する」の受動相から出た分詞形「軽蔑され/見棄てられた者」と、同じく受動相の分詞形「退けられる者」とが並び、その間に「彼の目から」が挟まっている。
〔A〕「彼」を主なる神のことと解して、前の「軽蔑された者」と結んで解釈すれば、「主の目から見て軽蔑され棄てられた者は、(その人からも)退けられる者」という意味になる。だから「軽蔑され棄てられた者」とは、例えば14篇1~3節や73篇3~11節にでてくる傲慢で不遜な者たちのことであろう。「主の目にかなわないものは退ける」〔新共同訳〕。
〔B〕しかし、七十人訳では「その人の目から見て悪を行なう者は軽んじられる」とあるから、「彼の目から」の「彼」は「その人」のことになる。「彼の目から」がその前の「軽蔑される/拒絶される(者)」と結びつくと、「彼の目から見て主に蔑まれ/拒絶される者=邪悪な者」(英語の"reprobate")という意味になる〔Briggs, Psalms (1).114.〕。したがって「その人の目から見て(主に)軽蔑される者は(その人によって)退けられ/排斥される」となる。「彼の目に軽んじられた者は斥けられる」〔岩波訳〕。"in whose eyes the wicked are despised"[NRSV].
 問題は「彼の目から」の「彼」とは、主なる神を指すのか、それとも「その人」のことなのかであるが、「その人の目から見て」の意味に採るのが一般的である。なお、「神に見棄てられた者」とは、先の「傲慢不遜な者たち」のことではなく、何らかの理由で「罪人」とされた者で、神に「罰せられた者」を指すという説もある〔Weiser. The Psalms.OTL. 170.〕。会堂から追放された者やある種の病気の者もこれに入るから、ワイザーは、ルカ7章36節以下にでてくる「罪の女」に対するイエスの扱いとこことを比較対照させて、ここでの詩人の見方に旧約としての限界を見ている。
【傷ついても】原文は「その悪のために」。「悪」(「ラァ」)は、名詞で「悪事」「不幸」「危害」の意味であるが、ここでは、誓約した結果、たとえ「傷を負う/損失を被ることがあっても」の意味である。
[5]【利息】原語は「ネシェック/フ」(利息)で、これの動詞形「ナーシャック」は、「苦しめる」「搾取する」の意味である。この動詞の使役態が「利息付きで貸し付ける」こと。原文は「その人の銀を利子を付けて貸し与えることをしない」。イスラエルでは同胞から利子を取ることは禁じられていたが、異邦人への利子は認められていた(申命記23章20~21節を参照)。借金が利子によって貧しい者をいっそう苦しめることから執られた処置だと思われる。このため同胞への貸し付けは「質」を取って行なわれた(出エジプト記22章25節)。
【賄賂】原語は「贈り物/付け届け/賄賂」。ここでは「清い/潔白な人に関する賄賂」とあるから、例えば裁判において、罪ある悪人が無実な清い人を有罪に陥れる目的で、裁判官に「付け届け」をすることであろう。「これを受け取らない」とは、賄賂に惑わされて悪人に荷担し、罪のない貧しい人たちが不利になる取り計らいをしないこと。
【揺るがない】原語「ムート」は「揺らぐ/よろめく」こと(10篇6節/17篇5節/30篇7節/62篇3と7節などを参照)。これの名詞形「モート」には「躓き」の意味がある。「揺るがない」は、ここでは特に、神の御臨在の場から離れることがないこと。
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