【注釈】
■22篇の構成について
 この篇はイザヤ書(第二イザヤ)に表われる「苦難の僕」の影響を受けているが、第二イザヤの部分が捕囚時代のものだとすれば、この篇はこれに続く時代のものになろう。だからこの篇は、捕囚期直後のペルシャ時代のものであろうと推定される。
 22篇は2~22節の受難と救いを求める叫びの前半と、23~31節の祈りが答えられたことへの賛美と証しの後半とに大別される。前半と後半は、ほんらい別個の篇であったものが、後につなぎ合わされたという見方があるが、神への嘆きと信頼の交錯から、賛美と感謝にいたる過程をたどる現在の形は礼拝のためであると考えられる。この篇をめぐっては様々な解釈がなされている。基本的には個人の体験をもとにしているが、そこには共同体的な要因も含まれている。23節で突然に賛美と感謝に移行するのは病気の癒やしによるものだとか、王の死と再生を表わす共同体的な祭儀からきているとか、「貧しい者たち」がこの篇の基本的な視座であるという見方もあるが、特定の視点からだけでこの詩篇の内容を確定することはできない。ただ一つ、この篇がメシア預言の性格を帯びていることは確かであろう。
 新共同訳や岩波訳、新共同訳『旧約聖書注解』(Ⅱ)(112頁以下)を参照しながら以下で内容を分析するならば、
【A】受難と祈り
2~3節:神との交わりから断たれる(個人的)。
4~6節:イスラエルの神への信頼(共同体的)。
 
7~9節:同胞との交わりから断たれる(共同体的)。
10~12節:己の創造主への信頼(個人的)。
 
13~16節:敵の迫害による「わたし」の苦難(個人的/共同体的)。
17~19節:敵の侮辱による「わたし」の恥辱(個人的/共同体的)。
 
20~22節:救いを求める叫び。
【B】証しと賛美
23~24節:神の民への証しと賛美の勧め。
25~27節:貧しい者への証しと賛美の勧め。
 
28~29節:すべての民への救いの証し。
30節:生きている者と死んだ者への証し。
31~32節:世々の子孫への証し。
■注釈
[1]【牝鹿】「曙の牝鹿」とはこの詩篇を詠う際の旋律を指定していると思われる。「曙の牝鹿」で始まる旋律があったのだろう。ウガリット文学では「牝鹿」は太陽神を表わすから、そこから来ているのかもしれない。ただし「牝鹿」(アヤレット)は「助け」(エヤーレット)と読み変えることができるから〔BH欄外注〕、「助け」のほうであれば、22篇と内容的によく合う。
[2]【叫ぶ言葉】後半を直訳すれば「わたしのわめき叫ぶ言葉はわたしの救いから遠い」である。この読み方だと「なぜ」は「わたしを見棄てた」だけにかかり、後半にはかからないが〔ワイザー『詩篇』〕、ここを2節の終わりまでかける訳が多い〔NRSV〕〔REB〕〔新共同訳〕。「わたしの叫ぶ」を「わたしの咎(とが)」と読み替えることもできるから〔BH欄外注〕、「わたしの咎のゆえにわたしは救いから遠い」と読む説もある〔Craigie.Psalms 1-50. Word Biblical Commentary.〕。
【遠く離れ】この詩の鍵となる言葉で12節/20節にもでてくる。「わたしを見棄てないでください」は詩編全体を貫く基本的な祈りである(27章9節/38章22節など)。
[3]2節にある神が「見棄てる」と「遠く離れる」を受けて、この嘆きと訴えの背景には神とイスラエルの民との間の契約関係と、それにもかかわらず神が「沈黙」している状況がある。神の「沈黙」と助けを呼ぶ者の「叫び」が対照されている。
[4]【宿られる】これを前半に限って「聖所に宿られる」と読む訳と〔REB〕、4節の後半までを含めて「賛美に宿られる」と読む訳とがある〔NRSV〕〔ワイザー『詩篇』〕〔関根『詩編』〕。後の場合、イスラエルの賛美が雲のように主の御座を包むことを意味する。
[5]~[6]この部分には「信頼する/頼る」が三度表われる。この「信頼」の根拠が4節の神とイスラエルとの契約にある。
【裏切られなかった】原語の意味は「恥を受けなかった」。
[7]【赤い虫】原語は染料に使用する赤い虫のこと。血に染まった十字架のイエスを想わせる。これを墓にいる死者を食べる虫(イザヤ書14章11節)、あるいは神から与えられる助けをむしばむ「虫」(出エジプト16章20節)と関連づける説もある。
[8]2節の神の沈黙に対して8節では敵対する者たちの嘲りが対照される。31篇12節/44篇14~17節などを参照。なおマタイ27章3節を参照。
【唇を突き出す】直訳すれば「唇を大きく開く」ことで、嘲笑うことを指す。
[9]直訳すれば「彼を主に向かって転がせ〔命令形〕、主は彼を救うだろうから〔未来形〕。」「転がす」とは自分の重荷を転がすことか(知恵の書2章16~20節参照)。
[10]【だが】強めの言葉で「実に」とも訳すことができる。
[11]【預けられ】直訳すれば「投げ出された」。71篇6節/139篇13節参照。
[13]【バシャンの猛牛】バシャンは、ガリラヤ湖の東方に当たる地方で、樫の木か多く肥沃な土地であり、家畜の育成が盛んであった。ここは、イスラエルに敵対するオグの領土であったから「バシャンの猛牛」とは強い敵を意味する(135篇11節参照)。「囲む」と「迫る」は、敵の強さと同時に、彼らによって罠にはめられた事態を思わせる。
[14]【口を開ける】牙を剥くこと。
[15]【心】英語の「ハート」と同じように「心」とも「心臓」とも訳すこともできる。ここでは「蝋のように溶ける」とあるから肉体的な含みが強い。なお、この節の「水」は、ヨハネ19章36節となんらかのつながりがあるのかもしれない。
【腸】人の深い想いが宿る場所。日本語の「腸が煮えくりかえる」を参照。
[16]【喉】本文では「力」であるが、ここでは続く「舌」に合わせて欄外の読みを採った〔ワイザー『詩篇』〕〔新共同訳〕。
【死の塵】このような表現はここだけである。しかし30節には「塵にくだる」とあり、イザヤ書26章19節には「塵に住む」とある。
[17]【犬】ここでは特に猟犬を指すのか。
【刺し貫いた】原典の本文は「ライオンのように(噛み砕く?)」〔新共同訳〕。22節に「犬」「ライオン」「猛牛」がくり返されているから、この読みのほうが正しいのかもしれない。しかし、この節には動詞がないから、「ライオンのように」を七十人訳の読み方を採って「刺し貫いた」と読んだ〔NRSV〕。
[19]「服」は複数で「衣」は単数であるからヨハネ19章24節と一致する。
[20]「あなたはヤハウェ、(わたしから)遠ざからないでください」と読むこともできる。ここで初めてヤハウェの呼びかけが出てくる。
[21]21~22節はこの詩の転換となる重要なところである。ここには先にでてきた「剣」「犬」「猛牛」が再び表われる。
【この命】原語は「ただ一つの大切なもの」。
[22]【答える】「あなたはわたしに答えられた」(完了形)が原典の本文である。これを「答えてください」のように祈願の意味に採る読みもある〔新共同訳〕。欄外の読みと七十人訳に従って、「(わたしの苦しみを)救ってください」と読むこともできる〔NRSV〕。この詩全体を分かつ大事なところなので、あえて本文の読みを採った。完了形にとれば、ここで祈りが「答えられた」ことになる。
[23]ここからは「兄弟たち」(同胞)とあるように共同体への呼びかけになる。
[24]33篇8節参照。
[25]【苦しむ者】特に権力者に踏みつけられた貧しい人を指す。ここは単数なので「その叫び」を「わたしの叫び」と読む異読がある〔BH欄外注〕。
【目を背けない】汚れた者と見なさないこと。困窮する者は神に見放された者という見方に対する批判であろう。
[26]【あなたから賛美を】直訳すれば「わたしの賛美はあなたと共にある」。
【誓い】詩編では、この言葉は特に苦難の中で主に誓ったことを救われてから全うすることを意味する場合が多い(66篇13~15節)。
[27]【食べて満たされる】先には圧制者(敵)の嘲りのうちに飢えかわいていた「苦しく貧しい者たち」が、今は同胞と共に(神殿での?)神との交わりの食事に与ること。
【生きる】原文は「心が生き生きする」。「心」は「心臓」をも意味するから、ここでは、前の2行から判断して霊的にも身体的にも生き生きすること。「健やかな命」〔新共同訳〕。七十人訳は「あなたたち(の心)」を「彼ら(の心)」と読む。
[28]【地の果てまで】2編8節参照。ここからは、24節のイスラエルの民への呼びかけが、さらに拡大されて世界の諸民族(異邦の民)への呼びかけに移る。「地の果て」とは主の働きが及ぶ範囲を表わす言葉であり、同時にメシアの到来に伴って用いられる用語でもある。
【帰れ】「ひれ伏せ」とともにこの動詞を「帰る」のように預言的に訳すこともできる。
【もろもろの民も部族も】原文は「諸民族のあらゆる家族(部族)」。
[29]ここにはかつてのダビデの王権が再びイスラエルを復興させるという願いがこめられているのであろう。しかし捕囚期以後は、「王権」は地の諸国をも治める「主の王権」として、メシア的な性格を帯びるようになった。
[30]【まことに】この節はテキストがかなり乱れている。本文は「彼らは食べた」であるが、これでは意味が通り難いのでほとんどの訳は欄外の読みをとる「実に彼らはひれ伏す」〔BH欄外注〕。
【眠る者】本文は「肥え太った者」〔NRSV〕。「命に溢れてこの地に住む者」〔新共同訳〕と訳すこともできるが、欄外の読み「眠る者」の方が内容にあう〔REB〕〔ワイザー『詩篇』〕。後者を取れば、ここでは「生きている者」だけでなく「生存できなかった者」もまた含まれてくる。ここではもはや生死は本質的な問題ではなく、神の救いこそ大事であり、この救いはその子孫に及ぶことが示される。
【塵に戻った者】「塵に降る者」とは死者のこと。ここでの「(死の)塵」は、先の16節の「塵」と対応している。
【わたしの魂は】この部分の原文は「そして彼の魂を主は生かすことをしなかった」である。ここは前の行に加えられた後の註かもしれない〔ワイザー『詩篇』〕。しかし、七〇人訳によって「わたしの魂は彼のために生きる」と読み、この行を32節につなぐほうよいであろう〔REB〕〔新共同訳〕。
 30節全体を本文通りに訳せば「地の有力者はみな食べてひれ伏した。/塵に下る者はみなかれ〔主〕の前に膝を屈めよ。/~しかしその魂を彼は生かさなかった」〔岩波訳〕に近い訳になる。この訳は「地の有力者」(原語は「肥え太った者たち」)を先の「苦しめられた貧しい者たち」と対照させていて、主は、虐(しいた)げられた者たちには食物と善いもので満たしてくださるが、主のこのような御業を見ることで、「肥え太った者たち」のほうは、逆に主み前に怖れてひれ伏すこと、しかし主は、彼ら圧制者たちには、死(生かさない)をもって報いると解釈するのであろう。このような逆転は、第二イザヤの苦難の僕伝承から出ている。
[32]【主の義】さまざまな訳し方があるがこれが原語である。「神の義を宣べ伝える(明らかにする)」は、後のパウロのローマ3章節の言葉を思い出させる。
【そのみ業を】この部分が結尾であるから、「主がこれをなさったからである」と訳すこともできる。
 29~32節で告げられているのは、苦しむ者たちの苦難こそが主の介入を招き入れる仲保の働きをすること、これによって世世の諸民族までが救いに与るというメシア的な預言である〔Briggs.Psalms.(1)201〕。
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