朴先生の集会での講話 2010年5月9日
ナザレのイエス様の御臨在
■ナザレのイエス様
ではこれから、わたし自身の信じているイエス様についてお話しします。ナザレのイエス様とは、今から2000年ほど前にパレスチナでお生まれになって、旧約聖書の伝承に基づいて、神の国の教えを語られた方です。ですから、これは歴史上に実在した一人のお方です。このナザレのイエス様を外側から見て、一人の歴史的な人間として語ることもできますけれども、それだけではイエス様をほんとうに語り伝えたことにはなりません。なぜなら、このイエス様には、旧約聖書が伝える神様から降る聖霊が宿っておられたからです。だから、歴史上のナザレのイエス様を通して、神御自身が人類に啓示されたのです。
■福音書のイエス様
四福音書は、この神の聖霊がイエス様を通してお働きになったその出来事を伝えています。だから四福音書は、人間イエスではなく、イエス様に宿る聖霊のお働き、言い換えると「イエス様の霊性」をわたしたちに伝えているのです。このイエス様の霊性は、いわゆる学問的な立場に立って、外から客観的に見える姿、これを「史的イエス」と呼びますが、そういう歴史上の一人の人物としてのイエスのことではありません。
このイエス様は、ヨハネ福音書によれば、およそ2年3ヶ月ほどの間パレスチナで伝道されてから、過越祭の時に十字架におかかりになり、死の底から復活されて、天に昇られました。なんのために十字架と復活が起こったかと言えば、父なる神が、この復活のイエス様を通して、イエス様のみ名による聖霊を地上のわたしたちにお遣わしになって、わたしたちを救いに導くためです。
この聖霊のお働きこそ、わたしの言う「ナザレのイエス様の御臨在」の意味です。
わたしが「ナザレのイエス様」と言うのは、イエス様の御霊の御臨在は、四福音書が伝えているイエス様を知らないと決して生じないからです。新約聖書が伝えるキリストの御霊は、決して働かないのです。
■イエス様の御臨在
では、このイエス様の御霊の御臨在に与るためにはどうすればよいのか、それはナザレのイエス様に向かって、同じことですが、イエス・キリストの御名によって、<祈る>ことです。かつて地上におられたナザレのイエス様を抜きにして、イエス様の御臨在は働きません。
次に大事なのは、聖書の御言葉を読むことです。四福音書でもパウロの手紙でも、旧約のどの部分でもかまいません。イエス様の御臨在にあるその祈りの中で読むことです。孔子は「学びて思わされば、すなわち空し。思いて学ばざれば、すなわち危うし」と言いましたが、わたしは「学びて祈らざれば、すなわち空し。祈りて、学ばざれば、すなわち危うし」と言うのです。
■絶対無条件の恵み
ナザレのイエス様の御霊にある御臨在について、大事なことが一つあります。それは、この御霊は、どんな人にも絶対無条件で与えられることです。絶対無条件とは、空気や太陽のように、わたしたちのほうからはなんにもできない。だからなんにもしない。ただ、神様からの御霊のお働きかけにお委ねする。それだけです。そこから、ナザレのイエス様の御臨在が、その人に顕われます。わたしたちは、霊的に罪深いですから、自分で自分をどうすることもできません。イエス様の御霊は、このようなわたしたちにも働いて、わたしたちをイエス様の霊性に導き入れてくださるのです。
こういうイエス様の御臨在に歩み続けるならば、次第に自分が消えて、イエス様のお姿に変容してきます。けれどもこれは、口で言うほど易しくはありません。祈りが大事です。パウロは「生きているのはもはやわたしではない。キリストがわたしにあって生きておられる」と言いましたが、ここまで到達する人は滅多にいません。言葉で語るのは容易です。知識として学ぶだけならそれほど難しくないです。しかし、祈りに徹して、ナザレのイエス様の御臨在を顕わすこと、これができる人は少ないのです。でも皆さん、ここに朴先生という立派な模範がおられるではありませんか。どうぞ、この先生に見習ってください。
ナザレのイエス様が復活されて今も御臨在くださる。このことが分かった人は、それだけでもう立派なクリスチャンです。イエス様の聖霊にある人がクリスチャンですから。東方教会の正教の信者であろうと、カトリック教会の信者であろうと、何派のプロテスタント教会のメンバーであろうと、全部この点では共通しています。このイエス様は、世界のエクレシアに共通して働いておられます。人間の世界だけではありません。森羅万象、天地はことごとく過ぎ去るとイエス様は言われました。しかし、このイエス様の御臨在は、決して失われることがないのです。
戻る