2013年 夏期集会講話
イエス様の人
■イエス様との交わり
 わたしの父は今も働く。
 わたしもまた働く。
  (ヨハネ5章17節)
 ここでもう一度昨夜の話に戻ります。「神を信じなさい。同時にわたしを信じなさい」と言われたのはイエス様です。それも<今のこの時にあなたにお語りくださる>イエス様です。だからこれは御復活のイエス・キリストです。この御復活のイエス様が聖書のお言葉をとおしてお語りくださる。これを受けて「神がかる」。すると今度は「わたし(ナザレのイエス様)を信じなさい」と続きます。聖書を通して御復活のイエス・キリストが語り、これに全託するとイエス様の御霊が働くのです。そこにイスラエルの神がイエス様の父なる神として顕われます。聖書が「神の御言葉」だというほんとうの意味がこれです。初めに聖書の御言葉から神がかる。するとナザレのイエス様へ導かれる。するとイエス様の御霊がわたしたちに働く。するとイエス様の父なる神、イスラエルの主なる神が顕われる。すると聖書が「神の御言葉」だと分かる。この循環です。
 イエス様が復活されたこと、時間的・空間的にわたしたちから全く離れた方がほんとうに復活して今もおられる、このことをイエス様の御名を呼び求めることで体験する時に、いわゆる神がかり(熱狂)的な状態が消え去って、自分とは異なる絶対的な他者が自分と共におられるという「キリストにある」(エン・クリストゥ)不思議な体験をします。
 ただしこれをキリストがわたしたちの内に<移り住む>ことだと思い違いをして、輪廻転生的に解釈する人がいますが、輪廻転生の「生まれ変わり」とイエス様にある「復活」は異なります。二千年前のイエス様が、<今の自分になって>生まれ変わっていることと、他者であるイエス様がわたしたちと共に歩んでくださることとは全く違います。一方は二人でなく一人に「合一」(unity)して自分がイエス様になることですが、福音はイエス様とわたしたちとの「交わり」(communion)です。だから聖餐のことを英語でthe Holy Communion と言うのです。それは人格的で自由な交わりですから、「主の御霊の御臨在には自由がある」(第二コリント3章17節)とあるとおりです。
 福音の「交わり」は、イエス様の御霊の御臨在にあって成り立ちます。もしも御霊の御臨在なしに、二千年前のナザレのイエス様に直接「見習う」とすれば、これは恐ろしく苦しくて困難です。聖書が証ししている復活したナザレのイエス様を「知る」体験は、これとは違って「愛と喜びと平安」の訪れなのです。霊風無心、無我の状態です。だからイエス様こそ「宗教する人」の行き着くべき理想のお姿なのです。「わたしの臨在(エゴー・エイミ)こそ道であり真理であり命である」(ヨハネ14章6節)と言われたとおりです(注1)。
■祈りのネットワーク
 こういう人が二人三人いると大変なことが起こります。「そこにわたしもいる」(マタイ18章20節)からです。「そこにわたしが臨在する」のは二人三人が<祈る人>だからです。ただの「お祈り」ではない。イエス・キリストに全託した「無我の祈り」です。「無我夢中」でけっこう。祈るより祈らされるのです。そこに主の御臨在が顕われます。これがコイノニアです。これがリヴァイヴァルの霊灯です。
 だからわたしが最も重視するのは、二人三人の祈りが同時に主の御臨在と結びつけられることです(マタイ18章19〜20節)。イエス様の御臨在から生じる祈りは単なる「願い事」ではない。御霊の祈りは、単なる人間的な願いを超えて現実にエクレシアを形成する<神のお働き>です。御霊にある祈りは人間の内面だけの主観的な願いではありません。それは客観的に現実の力として働きます。祈り合う人たちを霊的に結びつけて広がるエクレシア形成の原理がここにあります。これが使徒言行録の伝えるイエス様の御霊のお働きです。こういう祈りのネット・ワークこそ、ほんとうのエクレシアを形成してきたキリスト教の力です。多数の小さな集いの力こそが、ほんらいのエクレシア形成の源泉であることを知ってください。小灯無数です。わたしたちは「日本人の霊性」(これには弾圧された隠れキリシタンの伝統も含まれます)に基づきながら、長い歴史に支えられた広い福音的な霊性に根ざすリヴァイヴァルを求めています。この民を救い、この国を正しく導くのは、人類の歴史を導いてきたエクレシアなのです。
■御子の霊性
アーメン、アーメン、あなたがたに言う。
 子は自分から何一つ行なうことができない
 もしも子が父の行なうのを観ないならば。
 なぜなら父が行なうそのことを
 子もまた行なうからである。
    (ヨハネ5章19節)
 イエス様はこの御言葉のすぐ前で「わたしの父は今も働いておられる。だからわたしも働く」と言われて、これを聞いていたユダヤ人の指導者たちの怒りをかいました。彼らはイエス様が自分を「父なる神と等しい者にしている」と思ったからです。当時のユダヤ教の神学からすれば、天で「神と等しく」なろうとしたのは反逆の天使とその手下どもです。彼らは神に敵対する堕落天使とされ、後にサタンが彼らの頭とされるようになります。
 だから、「神と等しい」とは神と<競い合う>ことです。エデンの園でエヴァが蛇に騙されて知恵の実を食べたのも、「これを食べると<神と等しく>なる」と唆(そそのか)されたからです。「競い合い」は人間社会の必要悪なのでしょう。だからパウロはこの「競い合い」を「敵意・反目」「争い・軋轢(あつれき)」「熱意・嫉妬」の三つの肉の働きの根源だと見ています(ガラテヤ5章20節)。
 ところがイエス様が言われていることは、神と等しくなる<競い合い>のことではありません。イエス様は「子は自分から何一つできない」と言われた。御子は父なしではなんにもしない。なんにも言わない。それなのにどうしてユダヤ人の指導者たちにはイエス様が自分を「父と等しい者」にしているように見えたのでしょう。それは、イエス様が父の神とひとつになってお語りになり、御業を行なわれていたからです。いったいイエス様はどういうお方なんでしょう。実に不思議です。
 答えはひとつ。イエス様はご自分を完全に父の神に「明け渡して」おられた。ご自分を全く「無にして」おられた(フィリピ2章7節)。だからイエス様は神の霊に満たされながらもご自分を「神と等しい者」とされなかった(同6節)。反対にイエス様は「人間」として行動された。だからこの「人間」は、神と競い合う人間ではありません。神の御霊の導きに「従う」人間、「十字架の死にいたるまで従う」(同8節)人間です。だから父を「真似(まね)る」のではありません。「真似」は「競い合い」の始まりです。なんにも言わず、ただ黙って「明け渡す」のです。もしもこれをわたしたちと同じ「人間」と呼ぶのならば、イエス様はこういう「人間」となられて、わたしたち人類に「父なる神を啓示して」くださったのです。イエス様という「人間」の出現によって、人類は初めて「神を観た」(ヨハネ14章9節)のです。「神の御言葉を聴いた」(同5章24節)のです。
■永遠の霊性
アーメン、アーメンわたしはあなたがたに言う。
 わたしの言葉を聴いて
 わたしを遣わした方を信じる者は
 永遠の命を持つ
 裁きにいたることがなく
 すでに死から命へ移っている。
     (ヨハネ5章24節)
 御復活のナザレのイエス様の御臨在を知ると、人間には死んでも死なない命が具わることが分かります。だからイエス様は、それまでの人類で誰もやらなかったことを成就された。イエス様は聖書の父なる神の聖霊に導かれて、十字架の御受難において自分を犠牲にされた。この御受難を通して、わたしたちと共に歩まれる御霊のイエス様、イエス・キリストになられたのです。イエス様の父なる神は、ほかのどんな神々よりも上にある宇宙の創造主です(ヨハネ1章1〜5節)。こうして肉体は滅んでも滅びない霊性がわたしたちに顕われるのです。「今やわたしたちは神の子です。ではわたしたちはどうなるのか、これはまだ顕わされていません。あの方が顕われる時にわたしたちもまたあの方の姿になるのです。その時わたしたちはあの方を間近に観るからです」(第一ヨハネ3章2〜3節)。
 ではわたしたちの肉体はどうでもいいのでしょうか? 聖霊が働くと肉体は否定されて、棄てられるのでしょうか? そうではありません。御霊によって生起する出来事は、過去から未来へ向かいますが(ヨハネ3章8節)、その出来事を「知る」(体験する)のは現在です。イエス様と共に「歩む」ことによって初めて、その出来事を今の時に「生きる」のです。朽ちていくわたしたちの肉体の存在が、御霊にあって「活かされる」のです。これが御復活のナザレのイエス様の御霊のお働きです。今現在も歩み続けておられるお方の永遠の命との交わりの道です。わたしは病気になって、いっそうこのことを知らされました。
 イエス様にある永遠の命などと言うと、神の国さえ求めていればこの世の中のことはどうでもいい。このように誤解されるかもしれません。これは、御霊の世界をほんとうに体験していない人の淺知恵です。イエス様の御霊にあって生きるとは「今の時」を生きることです。「今の時」を生きる人には「今の時」が見えてくる。「今の時」が見えてくると、この点が不思議ですが、将来をも見通す視野が与えられるのです。「イエス様の人」とは御復活のイエス様の御臨在の輝き(御栄光)を知る人です。その時初めて、イエス様が神の御子であり、人類に与えられた神からの啓示であることを、復活のイエス様の御臨在こそ人類の永遠性への証でありその保証であることを悟るのです。
 現在の医学は、人体をどこまで活かし続けることができるかを求めて競い合っています。今に金の力で人の人体を売買して、自分だけはいつまでも生き続けようとする人たちが現われるかもしれません。イエス様を通して人類に備えられている永遠の霊的な命よりも、地上の肉体をどこまでも生かし続けようとすることで、神が与えてくださる命と人工の命とが競い合っているように見えます。皆さんはどちらを選びますか。
■自然科学と信仰
「イエスは人なり。イエスは神なり。」この信仰は、近代以降、批判に曝されて来ました。16世紀のコペルニクスと17世紀のガリレオは、それまでの天動説を覆して地動説を唱えました。このために、当時のキリスト教会は、地動説が創世記で語られている聖書の教えに反すると言って、科学を弾圧しようとしました。地動説がキリスト教信仰を否定すると考えたからです。けれども、現代では、地動説が聖書信仰の妨げになるとは誰も思いません。
 19世紀にはダーウィンが、人間は猿から進化したという進化論を唱えて、これもまたキリスト教にとって大問題になります。保守的なクリスチャンは、聖書の教えに反すると主張して進化論を排撃しようとしました。現在のアメリカの一部では、いまだに学校で進化論を教えることができないというおかしな事が起こっています。このように、過去のキリスト教の科学に対する対応には誤りが多かったのです。わたしは、御霊のお働きを信じていますが、これが進化論と矛盾するとは少しも思いません。逆に、人類は類人猿から分岐して、60万年前から「宗教」という独自の霊性を発達させてきました。わたしはその結晶がイエス・キリストの御復活とそこから生まれる霊性、すなわち永遠の命だと思っています。だから御霊のお働きと進化論は対立するのではなく相互補完的に調和できると考えています。今わたしが話しているのと同じことをカトリックの法王ベネディクト16世が書いているのを知って驚きました。法王は「イエス様の御復活は根源的かつ急激な人類の<進化による飛躍>にも近い」と言います〔Joseph Ratzinger: Pope Benedict XVI. Jesus of Nazareth: Holy Week. English edition. Ignatius (2011)274〕。法王ベネディクト16世は、イエス様の御復活は、人類が神との交わりを回復するために成し遂げた歴史的でしかも歴史を超える出来事であると述べています〔前掲書274〜75頁〕。 ただしここで付け加えなければならないことがあります。それは、<霊的な意味>での進化が、<自然科学>やそれがもたらす<工業技術>の進化を無条件で肯定するものではないことです。人類の霊的な「進化」とは、逆に現在の工業技術的な「進化」を抑制したり場合によっては否定する方向に働く場合もあるからです。進化した宗教的な霊知・霊性は、人が神のようになろうとする野心と欲望を無制限に放置したり肯定したりはしないのです〔さらに補遺の「進化論について」をご覧ください〕。
 わたしたちは、演劇や音楽のような時間体験を心の映像に<凍結>させます。これによって、絵画を見るように時間を凝縮させて認識します。御復活のイエス・キリストの御言葉を聞く時にもこれと同じことが起こります。今ここに臨在する主のみ姿をわたしたちが仰ぐのは、四千年のユダヤ=キリスト教の歴史からだけではありません。実は人類の長い過去から現在までの時間の累積によって成り立っているのです。わたしたちが、イエス・キリストの「出来事」をイエス様の復活と結びつけて認識する時に、まさにその出来事が「現在のわたしたち」に生起するのです。逆に言えば、だれもそれを認識しなければ、イエス様の御復活も神の国も、ただ「可能性」に留まります。だから、神はこれを<伝える>ことを求めておられるのです。「認識」とはわたしたちが、物事の「意味」を悟ることです。これは、過去の累積の時間が<現在>の場において意味が与えられることです。
 ガリレオの時代の人は、天文学の知識がなくても、地球が動いているのか、太陽が動いているのか、そのどちらかぐらいは分かりました。そこでここから量子物理学に触れます。同じように、物理学の知識がなくても、現在の物理学がどんなに不思議な現象を扱っているかくらいは、わたしたちでも分かるからです。わたしが読んだ何冊かの量子物理学に関する本の一つにフレッド・ウルフの『もう一つの宇宙』があります(注2)。この人は現在の量子物理学の世界を「並行する無限に多くの宇宙」によって説明しようとしています。これによると、わたしたちの宇宙は、まるで幽霊のように並行して存在する無数の次元の宇宙から成り立っているようです。わたしたちが知っている宇宙と同じ空間を占める別の宇宙が存在することになります〔ウルフ前掲書15頁〕。新しい物理学では、物質を構成する電子は、原子核の周囲にあって幽霊の雲(宇宙雲)のように存在します。
 そこでは<ある>と<ない>の中間状態が存在するのです〔ウルフ前掲書92頁〕。しかも、粒子の存在は、<観測者がこれを認識する>ことで初めて決まると言うのです。言い換えると、出来事が<実現する>のは、観測者がそれを認識するかしないかによって決まるのです〔ウルフ前掲書98頁〕。だから現在の量子物理学では、物質の「存在」と「それの知覚」は同じになります。物が<ある>と<ない>は、これを「観察して知る」ことによって初めて決まるという不思議な現象です。存在とは、その存在を「認知することで」創り出す働きが行なわれなければなりません。だから、認識し創り出す者がいなければ宇宙は存在しないことになります〔ウルフ前掲書143頁〕。宇宙は無から創造されて今も存在し続けていますが、そこには、万物の創造者にして観測者である<神の働き>が存在しなければならないのです〔ウルフ前掲書240頁〕。
 福音の世界でも、イエス様は復活されている、あるいは死んでおられる、客観的に言えば、このどちらとも決めがたい状態が存在していて、人が御復活を「知った/認識した」段階で、イエス様の御復活が、その人に現実の出来事として生起する。このように言うこともできることになります。また、イエス様を信じるわたしたちには、現在の「肉」にある生き方と、イエス様の御霊の命に生きる歩みと、この二つが並行するという不思議が成り立ちます。肉的に生きることは霊的には死んだ状態ですが、「御霊の命」にある状態では、肉的な罪の欲望が死んだ状態になります。「肉」と「霊」の生き方のどちらが実現するのか、それは、その人の選択によって決まります。どちらの可能性も確実に存在しているのに、これを認識する段階で、そのどちらかの可能性だけが、現実のものとして体験されるというのが、不思議であり、同時に示唆的です。だとすれば、霊的な出来事について、どんな認知の仕方をするのか? 聖書解釈がとても重要な意味を持つことになります。このように見ると、現在では、自然科学は信仰と対立するどころか、逆にそのような信仰の世界が実在することが、証明されるとは言わないまでも、物理学は類比的に示唆してくれるのです。科学はガリレオ以来400年経って、宗教の敵から味方へ転じたことになりましょうか。 なお自然科学と信仰との関係については、さらにこのシリーズの「補遺」の「自然科学とキリスト教信仰について」をご覧ください。
■歴史学からの批判
 ところが、19世紀以降、今度は科学に代わって歴史学がキリスト教に批判を向け始めました。シュトラウスというドイツの神学者が、福音書は歴史的に見て史実ではないと言い出して、それから歴史学的な視点から聖書批判が始まりました。その結果、史的イエスと信仰のキリストが区別されるようになり、信仰のキリストは、復活を信じた教会が創出したものだと見なして、史的イエスをただの人間扱いをするようになりました。信仰の言葉は「イエスは人なり。イエスは神なり」です。しかし歴史学的な人たちの見方は「イエスは人なり。イエスは神ならず」です。このような見方からすれば、信仰は人間的な考え方に基づく人道主義に向かいますから、このような視野から霊的なリバイバルは生じません。
 わたしの見るところ、歴史学も文献的な聖書批評も、霊的なこと宗教的なことをいまだ十分に解明することができていない状態にあります。歴史学に比べるとはるかに進んでいると言われる現代の量子物理学でさえも、まだまだ、宇宙の構造や物質の成り立ちで分からないこと、謎が多いようです。現在の人間が理解できているのは、宇宙の物質のほんの数パーセントで、95パーセントはまだ謎のままで、「ダーク・マター」あるいは「ダーク・エネルギー」などと呼ばれています。
 だから、歴史学もこれから発達するにつれて、聖書信仰やリバイバル神学と少しも矛盾しないことが分かってくるでしょう。歴史学や聖書神学が発達するにつれて、リバイバル神学のほんとうの意味がますます明らかにされてくる。わたしはこう信じています。人間の知識はやがて廃れます。しかしイエス様への信頼と永遠の命への希望と今の時に働く愛は、いつまでも「遺る」のです(第一コリント13章9節/同13節)。だから、わたしたちは、自分たちが理解できる範囲で信じることが許されているのです。多少誤りがあってもいいのです。分からなくても赦されるのです。<恩寵の聖書解釈>でいいのです。み言(ことば)は、人を導き照らす光であり、人を活かす命です。聖書解釈は常に未来に向かって開かれていなければなりません(注3)。
■エクレシアの統一へ向けて
 昨夜、エクレシアが一つになることについて触れました。旧約聖書によれば、イスラエルに国土が与えられたのはそこで民が主なる神(ヤハウェ)だけを礼拝するためでした。これがヤハウィストと申命記史家の神学の基本です。したがって、「イスラエルの国土」(アレッツ・イスラエル)では、ヤハウェの唯一神教だけが厳守されなければならなかったのです。この約束の土地神学こそが、現在のイスラエルの右翼が、自分たちの領地内にアラブ人を絶対に入れようとしない信念です。ところが、この神学は、前6世紀の捕囚によって変容を迫られます。エルサレムの神殿が破壊されたのに、バビロンの捕囚の土地には神殿がありません。だからイスラエルの民は「カハル」(会衆)を開いてヤハウェ礼拝を保持しなければなりませんでした。このために、ユダの民がエルサレムへ帰還した後も、ペルシアやその他に離散したユダヤ人たちは、「カハル」のためのシナゴーグ(会堂)を建てて、その中を自分たちの「イスラエルの国土」と見なしたのです。
 ところがパウロは、ヘレニズム世界に存在する会堂(=アレツ・イスラエル)と外部の異教の世界という区別を取り払って、ユダヤ教の会堂も外のヘレニズム世界も全地が主キリストに属すると見なしました。これによって、ユダヤ人のシナゴーグ制度が宗教的な意味を失うことになったのです。パウロは、キリストの御霊にある「キリストのからだ」(エクレシア)の形成に心を傾けましたから、キリストのからだの一致を求めたのです(第一コリント12章12〜26節)。
 コロサイ人への手紙では、ユダヤ教徒もユダヤ人キリスト教徒も異邦人キリスト教徒も異邦人も、もろもろの諸宗教の霊力的な束縛を破棄して、天地を創造された神とその御子イエス・キリストの下にすべてが統合される方向が示されています(コロサイ1章15〜20節)。エフェソ人への手紙にいたって、初めてエクレシア論が形成されるようになり、これによって、主キリストがエクレシアの「頭」(かしら)となりエクレシアを一つに「まとめる」権威が与えられていることが啓示されました(エフェソ1章10節/同4章1〜6節)。キリストのエクレシアを成り立たせる三位一体の神礼拝は、エクレシア外の世界へ向かって働きかけ、全人類も自然界も全宇宙もが、キリストの支配する場となるのです(エフェソ1章17〜23節)。
 ナザレのイエス様の御復活によって与えられる御霊の御臨在、この御臨在に包まれ、この御臨在に導かれるところでは、「わたし」という存在が古い自分から新しい「わたし」へと創造されていきます。こうして生まれた一人一人の「わたしたち」、ここに御霊にある交わりが生まれます。これが神のエクレシア(教会/集会)です。このエクレシアを囲む人間社会。その人間社会を包む地球という自然環境。この地球が存在する広大な宇宙。これらを貫くのが天地の主であるキリストです(エフェソ1章10節)。ここには、現代の科学がまだ到達していない自然環境への新しい認識、宇宙へ向かう新しい知性の在り方が見えてきます。
 大宇宙は創造主の神殿であり、人もまた小宇宙の神殿です(第二コリント6章16節)。神は、宇宙の創造主であると同時に人の創造主です(第一コリント8章4〜6節)。「エクレシア」とはイエス様の人たちで成り立つ神殿のことです(エフェソ2章21節)。だから神と御子が今エクレシアに求めていることは<ひとつになる>ことです。これこそ、イエス様がこの世に遣わされた目的だからです(ヨハネ10章16節/17章21〜23節)。日本人のキリスト教に今求められていることがこれなのです。
 そんなことはできない。皆さんはそう思うかもしれません。「田ごとの月」という言葉があるように、一人のイエス様でも、区切られた田んぼでは、いくつもの月になって田ごとに映ります。でも、広い水田が聖霊の水で満たされてくると、区切られている田ごとの境が消えて、全体が広い池になります。するとそこにはもう月は一つしか映らないのです。神の御子イエス様ただお一人です。
 コイノニア会の東京集会では、リベラルな神学性、韓国系の祈祷集会、異言集会、哲学的実存、メシアニック・ジュー、ロシア正教、コイノニア会育ち、純福音の兄弟たちなど多種多様な人が一部屋に会して、ナザレのイエス様の御霊にある一致の交わりを持つという不思議な体験をしました。今回の夏期集会でも、それぞれが今あるがままでイエス様の御霊にある一致ができるという大きな恵みが啓示されています。主に対して全員に対して感謝すべきはこのわたしです。ここに小さな交わりの大きな意味があります。これが日本人のキリスト教への新たな啓示です。これが日本人のリヴァイヴァルです。ここから、アジアのキリスト教が始まるのです。
                 【注】
(注1)イエス様の「エゴー・エイミ」については、コイノニア会ホームページ→聖書講話→四福音書補遺→エゴー・エイミの項を参照してください。
(注2)量子物理学(Quantum physics)については、以下の本を参考にしました。
1)フレッド・A・ウルフ著遠山俊征/大西央士訳『もう一つの宇宙』講談社(1995年)。
Fred.Alan Wolf.
Parallel Universes.1989.
2)トランスナショナル・カレッジ・オブ・レックス編『量子力学の冒険』ヒッポファミリークラブ(1991年)。
3)雑誌『Newton』創刊300号記念「量子論」(2006年7月)。
4)デイヴィッド・リンドリー著/阪本芳久訳『そして世界に不確定性がもたらされた』早川書房(2007年)。
David Lindey.
Uncertainty.Einstaein, Heisenberg, Bohr, and the Struggle for the Soul of Science.2007.
5)マンジット・クマール著/青木薫訳『量子革命』新潮社(2013年)。
Manjit Kumar.Quantum. 2008.
6)古澤明『「シュレディンガーの猫」のパラドックスが解けた!』Blue Backs。講談社(2012年)。
7)雑誌『Newton』「量子論」(2013年6月)。
(注3)聖書の歴史批評については、コイノニア会ホームページ→聖書講話→四福音書補遺→聖書解釈の項目にある幾つかの項を参照してください。
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