永遠の命について
コイノニア会東京集会
2015年5月9日
聖書で言う「命」は、これを次のように見ることができます。
(1)わたしたちが通常言う意味で「この世で生きる」ことです。これは生物的な命を指しますが、ヘブライでは「世」は空間的よりもむしろ時間的に「時代」を意味しますから、「ハイェ(命)・オーラム(時代の)」(この世/時代の命)になります。このヘブライ語「オーラム」にあたるギリシア語が「アイオーン」です。
(2)「罪による死」と対照される「神からの命」のこと。これは神から離れることで失う「命」ですから、肉体の生死に直接かかわりなく、「罪を犯す」ことは「神の命」から断たれることを意味し「死んだ状態にある」ことを指します。これに対して「神と共に歩む」ことが「活きる」ことです。「罪人には死を、義人には命を」というこの考え方はユダヤ独特の<価値観>を伴う生命観です。「義人」と「罪人」を分ける基準は神から与えられた律法(トーラー)です。
(3)「この世/時代」の次に来る全く新しい「世/時代」で神から新しく与えられる「来たるべき世の命」があります。この「来たるべき命」は長さも質もこの世の命と異なりますが、旧約時代では「来たるべき命」もこの世の命の延長に近く、神に祝されて幸いに生きることです。この「来たるべき命」に与ることを「よみがえり/復活」と言います。したがって「来たるべき命」は(2)の生物的な命と共に(1)の神と共に生きる命のことですから、律法に生きた義人だけが与ることのできる命であり、律法に背いた罪人はこれに入ることができません。こういう来世観はユダヤ黙示思想の中で生じたものです。
(4)共観福音書で言う「永遠の命」は、マルコ10章17節と30節及びこれの並行箇所のほかにマタイ25章46節にでてくるだけです(ほかにマタイ7章14節に「命」とありますが)。しかしパウロ書簡には5回でてきて(ローマ2章7節/5章21節/6章22〜23節/ガラテヤ6章8節)、人の「罪」と「死」に対照させて「永遠の命」が用いられています。
(5)ヨハネ福音書はユダヤ教の「来たるべき命」と共に共観福音書の生命観をも受け継いでいます。ヨハネ福音書ではイエスを信じる/知ることで与えられる「永遠の命」(ヨハネ17章3節)が17回でてきます(3章15節/16節/36節/4章14節/36節/5章24節/39節/6章27節/40節/47節/54節/68節/10章28節/12章25節/50節/17章2節/3節)。ヨハネ福音書では、「永遠の命」が「泉のように湧き上がる」のです。英語の"spring"(泉/春/バネ)のように「泉」は湧き出て躍動する姿を指しますから、これは神の創造の業から生じる命を指します。このように、ヨハネ福音書の「永遠の命」は創造の神の業として<この世ですでに始まる>ところに大きな特徴があります。これは「来たるべき世/時代」に起こることではなく、<現在この時代/世にあって>イエスを信じる者に与えられる「命」のことにもなります。原文に「永遠の命<にいたる>水」とあるのは、死すべき人間の今の姿において、なおそこに働きかける「御霊の命」が働き続けることを予期させます〔バルト『ヨハネ福音書』293頁〕。 以上のことから聖書の言う「永遠の命」には次のような特徴を挙げることができます。
■神からの命
創世記2章7節に「神は塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れた」とあります。この「命の息」は、単に動物的な生命を支える「息」を意味するだけでなく、さらに高次な内容へつながる可能性を秘めています。「ニッシャーマー」には、「息」だけでなく「霊」の意味もありますから、「ルアハ」(息/風/霊/知力)とほぼ同じ意味でも用いられます。だから、ここの「命の息」は、「命の霊」にも通じる内容を含んでいます。7節にはさらに「人は生きた自分(ネフェシュ・ハヤー)になった」とあります。「ネフェシュ」というヘブライ語は「息/命/魂/自分」などの意味ですが、これを「命」と訳すと「生きた命」になりますから、同じことの繰り返しでおかしいです。「ネフェシュ」には、生物としての「生命」の意味があります。息をしている、心臓が動いている、動くことができることで、これは動物が「生きている」のと同じです。
だから「命」は神から来ています。聖書の神は「生ける神」であり「命の神」です。「命」は神のものであり、神が命を左右しておられるのです。これが聖書の基本的な信仰です。「主は生きておられる」と聖書に度々でてくるのも、ここから来ています(サムエル記上25章34節/列王記上22章14節)。ただし、ここまでは、人間と動物は変わりません。
■価値観を伴う命
人は産まれて子孫を残して死ぬ。それ以上に「いつまでも続く命」など求める必要がないというのも分かります。けれども、そういうことを言う人たちは天寿を全うできた幸せな人たちです。こういう「自然な命」は、それだけで大事なものであるのは誰でも分かります。しかし、聖書が伝える「いつまでもなくならない命」には、自然の生物の命にはないもう一つの大事なものがあります。それは、正義とか真理とか愛と呼ばれる人間を支える価値観がこれに含まれていることです。この世では、人は戦争や飢餓やその他の<人間が引き起こす>仕業が原因で多くの人の命が奪われていきます。小さな子供たちや罪のない人たち、正しいことを行なおうとしたために殺される人たち、こういう理不尽な「死」があるのです。天寿を全うする自然死に対して不正で理不尽な「歴史的な死」があるのです。こういう理不尽な迫害や苦難の歴史の中から「死んでも死なない命」への信仰が芽生えてきたのです。
イエス様に従おうとする人が、その前に父を葬りに戻らせてくださいと願った時に、イエス様は「死人を葬る仕事は死んだ人たちに任せて、あなたは神の国を伝えなさい」(マタイ8章22節)と言われました。「死人」とあるのは死体のことですから、これは霊の宿っていない「塵の人」のことです。ところがイエス様はここで、動物と同じに「息」をして動いている人たちのことを「生きた人」とは言わずに、「死んだ人たち」と言われています。神の御霊が宿ることで、人は初めて「生きる自分」になるからです。このように、人が本当の意味で「生きる」とは、「命の息/霊」「生き生きした自分」「神の似姿」として生きることだとイエス様は言われるのです。人間が本当の意味で「生きる」とは、動物的な生命以上の価値観を顕わすことであり、人はこのために創られていることを指し示しておられるのです。
一つの例をあげます。「硫黄島の玉砕」と題する番組がテレビで放映されました。わたしはこれを見て、驚くと同時にショックを受けました。なぜなら、それまで、硫黄島の日本兵は、栗林中将以下、全員が最後の玉砕突撃で戦死した。こう思い込んでいたからです。けれどもこれは、当時の軍部の偽りの発表であることが米軍の記録などから分かったのです。実は、栗林中将以下の総攻撃の後でも、島内のたくさんの豪の中には何千人という日本兵が生き残っていたのです。彼らのほとんどは病気で、食糧も全くなく、ただ死を待つ状態だったのです。もはや戦争することもできず、司令部も存在しませんから、戦争そのものが無意味な状態でした。アメリカ側は、最初は、彼らに拡声器で投降を呼びかけました。島の戦争は完全に終わったからです。
ところが、日本兵は投降しませんでした。と言うよりも、投降を許されなかったのです。呼びかけに応じて、一人の若い日本兵が豪の入り口まで出てくると、日本の将校によって後ろからピストルで射殺されるのを一人のアメリカ兵が目撃して、テレビで証言していました。生き残ったわずかの日本兵たちが、61年経ってから、ようやくテレビの前で、本当のことを語ってくれたのです。大本営は、全員玉砕したと嘘の報道を発表していました。こういう報道をした以上は、生き残って投降する兵隊が、たとえ一人でも「いてはならなかった」のです。兵士たちも、このことをよく知っていました。たとえ投降して、生き残って日本へ帰ることができたとしても、数日後には銃殺される。そう考えていたと生き残った人が証言しています。
アメリカ兵たちは、なぜ日本兵が投降しないのか不思議でならなかったようです。しかし、だんだんと真相が分かってくると、アメリカ側は、豪の中の日本兵を徹底的に殺す作戦を実行し始めました。これに参加したアメリカの兵隊たちは、いったいなんのためにこんなことをするのか、理解に苦しんだとテレビで証言していました。殺すアメリカ兵たちも上官の命令に従わざるをえなかったのです。その中の一人がこう言っていました。「わたしたちはずいぶん惨いことをしたと思っている。しかし、責任はわたしたちにあるのではない。彼ら日本兵をこのように仕向けた日本の教育にある」と。「教育」と言うよりは、国民を欺いて、せっかく生き残った日本兵たちをアメリカ軍に殺させるよう仕向けたのは、実は日本の大本営の軍部だったのです。これは太平洋戦争中に起こったほんの一例です。日本だけではなく世界中で、現在でも姿形を変えて、全く同じ流血と殺人の行為があちこちで行なわれています。
このような「死」は、病気で死んだり、老衰で死ぬという自然の死ではありません。なぜならこれは、人間が意図的に「作り出した死」だからです。「自然死」ではなく「歴史的な死」なのです。その人が1日生きることによって、その日に100人の人が殺されていく。こういう暮らしを平然と行なった人たちが過去に大勢いたし、現在でもいます。聖書はこういう人たちのことを「死」を作り出し、憎しみを生み出し、偽りを語る「罪人」と呼ぶのです。イエス様を初め聖書は、このように、「死を作り出す」人たちをいかなる意味においても「生きている人」とは呼ばないのです。彼らは「死んでいる人たち」だからです。「生きている人」なら、自分の周囲に命を育て産み出そうとするはずです。しかし、「死んでいる人たち」は、自分の周囲に死を作り出そうとするのです。これで分かるように、イエス様が「生きている人たち」あるいは「死んでいる人たち」と言われるのは、身体的に地上に存在しているか、いないかは、直接かかわりがないのです。この地上には、「生きている人たち」と「死んでいる人たち」とが存在しているのです。
■自分個人の命
もう一度創世記の「命の息」に戻ります。「命の息」に続いて、人は「生きた自分になった」とあります。「息」は「霊」の意味をも含んでいますから、人間には神から来る「命の霊」が与えられています。これは生き物としての動物の「息」とは違う意味です。動物には「正義」や「愛」などの倫理的な生き方、あるいは反対の「罪」や「不義」の生き方という区別がありません。「ネフェシュ」は「息/命/魂/自分」の意味ですが、ここでは、特にその人のほんとうの「自分」、すなわち「人格」のことで、この「ほんとうの自分」が、その人の「真の命」です。人には神様から授与された人格的な霊性があります。神様からの御霊の働きによって、人は初めて「生きた自分」にされるのです。
「生きた自分」の反対は「死んだ自分」です。これは死体のことではありません。この意味での「死」は、生物学的に死ぬことではありません。そうではなく、「罪によって死ぬ」ことなのです。聖書の「死」は罪がもたらす結果のことです(ローマ6章23節)。「生きた自分」と対立する「罪によって死んだ自分」がいます。
だから「生きた自分」とは、神様の御霊を宿して輝く自分のことで、これが「神の似姿」の自分です。「愛」や「信仰」や「希望」などの尊い価値観は、こういう霊の人の人格から生じます。「神の姿」には、神の「御栄光/輝き」が具わっています。御栄光を顕わす神の似姿こそが、人にふさわしい人格的な霊性なのです。「生きる」というのはこの意味です。創世記からヨハネ黙示録まで、聖書が言う「命」の本当の意味がこれです。
このような「命」は神に属していますから、「命」は本質的に永遠性を帯びています。この「命」の反対が「死」です。ここで言う「永遠」は、古代ペルシアで言われていた、時間・空間を超絶した絶対的な抽象概念としての「永遠」のことではなく、「いついつまでも終わりなく続く」という具体的な時間の継続のことですから、ある意味で現代の私たちが考える宇宙の「永遠性」に近い時間観念です。
■社会と永遠の命
ヨハネ12章24〜25節の「一粒の麦」のたとえに「アーメン、アーメン、あなたたちに言う。 麦の種が地に落ちて死ななければ、一粒のままであろう。死ねば、多くの実を結ぶ。 自分の命(プシューケー)に執着する者はそれを滅ぼし、 この世で自分の命(プシューケー)を憎む者は、これを保って永遠の命(ゾーエー)にいたる」とあります。
ここには「自分の命(プシューケー)を憎む者は、永遠の命(ゾーエー)にいたる」とありますから、一見すると、<プシュケー>と<ゾーエー>とが区別されている様にも見えます。ところが、これら二つの間に「これを保って」があります。「これ」とは「自分のプシューケー」を指しますから、「プシューケーを保って永遠のゾーエーにいたる」という意味になります。だから、これら二つの相互関係は単純でありません。
麦の粒それ自体が死ぬことは、一見すると麦粒だけの中で生じる出来事のように思われます。しかし、このたとえは、はるかに広く深い比喩内容を含んでいます。マルコ10章30節に、自分を捨ててイエス様に従うなら、「今のこの世で、家、兄弟、姉妹、父母、畑の百倍を受ける」とあります。これで見ると、ヨハネ福音書の言う「自分のプシューケー」とは、自分が属している家族であり土地/畑のことです。だから、麦粒は、これが属している「土地そのもの」と不可分一体の関係にあることが見えてきます。ここでは、土地が麦を育み、その過程の中で麦の死と新たな命の芽生えが生じるのです。このことは、ゾーエーがプシューケーと相互関係にあり、この関係によって、プシューケーから新たなゾーエーが創造されることを指し示しています。したがって、一粒の麦の御言葉は、人が自分のプシューケーを憎む/捨てるならば、その者は、イエス様にあるゾーエーによって、彼の「プシューケー」それ自体が全く新しい意義を帯びることを表わすのです。イエス様のゾーエーの働きかけによって、プシューケーそれ自体がゾーエーに属するものへと変容するからです。
ここでは、ゾーエーとプシューケーとの区別よりも、むしろ、ゾーエーによらない「プシューケー」とゾーエーに活かされる「プシューケー」という、<ふた種類のプシューケー>の有り様が語られているのです。「プシューケー」には、動物的な生き方だけでなく、同時に「自分」という自己認識が含まれています。だから人間のプシューケーには、動物的な生き方と人間の自己意識すなわち「自分」というふた種類の「プシューケー」が具わっていることになります。
イエス様は、「自分を愛する者は自分を失い、自分を憎む者は自分の命(ゾーエー)を得る」と言っておられます。マルコ8章35節にも「自分を救おうとすれば自分を失い、イエス・キリストのために自分を失う者は自分を得る」とあります。イエス様のためにプシューケー(自分)を捨てるなら、そのプシューケー自体が、全く新しい霊的な意義を帯びてくること、捨てたプシューケーが、イエス様のゾーエーによって新たに与えられるのです。聖書が言う「命」とはゾーエーのことです。「命」とは「神ご自身」のことです。ゾーエーか、プシューケーか、イエス様か、自分か、こんなふうに迷っていては結局どちらも得られません。思い切って自分と自分に属するすべてのものを捨ててしまいなさい。そうすれば、全く新しい霊的なゾーエーが働いて、あなたが捨てた「プシューケー」が「ゾーエー」によってほんとうに活かされてくるというのが、ここでのイエス様のメッセージです。言うまでもなく、これは「この世において」起きることです。
「百倍」とは、イエス様のゾーエーの働きによって、プシューケーそれ自体がゾーエーに属するものへと変容することなのです。パウロが「すべてが新しくなった」(第二コリント5章17節)と言い、「大切なのは新しく創造されること」(ガラテヤ6章15節)と言うのも、このような創造の業を指しています。
よみがえりの最もいい例は、ラザロの「復活のしるし」です。ヨハネ福音書11章のあの出来事は、病気で完全に死んでしまった(墓の中に4日いたこと)ラザロが、再び元のラザロへと生き返ったのだと思われているようです。しかし、実はそうではありません。「もとのラザロに」戻ったのではなくて、全く新しいラザロが生まれたのです。だからこそ、あの奇跡は、イエス様の復活を予兆する「復活のしるし」なのです。元に戻ったように見えるのは、ラザロのプシューケーがよみがえったからですが、しかし、よみがえったラザロのプシューケーは、死ぬ以前のプシューケーと同じではないのです。イエス様の御言葉による「ゾーエー」の働きで新しく活かされたプシューケーなのです。だからこそ、大祭司たちは、ラザロもイエス様と共に殺さなければならないと考えたのでしょう(ヨハネ12章10節)。マルコ10章30節に「迫害と共に受ける」とあるのもこのことです。言うまでもなく、ラザロのプシューケーは、この世に属していますから、再び朽ち果てます。しかし、イエス様の「ゾーエー」は、この世にあっては人のプシューケーを活かし、人のプシューケーが消え去ってもなおなくならない永遠の「ゾーエー」として、いつまでも存続するのです。ラザロの出来事は「このこと」、イエス様の「ゾーエー」こそ人のプシューケーに働く永遠の命であることのしるしです。
わたしたちの身体的な命は、プシューケーの命ですから、この世限りです。しかし、イエス様の「ゾーエー」は、この世にあるプシューケーに働きかけて、プシューケーを通して神の「ゾーエー」を証ししてくださるのです。「ネフェシュ」も「プシューケー」もこの世限りですが、永遠の「ゾーエー」は、これらを通して働き、これらが消え去っても、なくならないで永遠に残ると聖書は教えているのです。だから、聖書の神様から来る命はただ一つです。神様からの命は、わたしたちの身体がある/なしにかかわらず一貫してひとつの命です。イエス様がマルタに「わたしが命(ゾーエー)である」と言われたのはこの意味です。聖書が「生きる」というのは、この意味です。
この世にはいろいろな「永遠」があります。先祖からの家族は永遠だ。会社は永遠だ。民族は永遠だ。国家は永遠だ。けれども、長い人類の歴史を観れば分かる通り、これらのどれ一つも「永遠」ではありません。それらは「偽りの」永遠、同じ事を聖書は「偶像」の「永遠」と言います。「教会は永遠だ」というのもあります。しかし、「教会」とはなんでしょうか。ほんとうに永遠なのは、ナザレのイエス様を通じて、信じる一人一人に与えられる「ゾーエー」のこと、<一人一人に宿る神の御霊の人格的な霊性>こそが、エクレシアを形成するほんとうの永遠ではありませんか。だから、エクレシアの一人一人は、「その頭(かしら)」であるイエス・キリストに結びつかなければならないのではありませんか(エフェソ1章20〜23節)。一人一人の個人の霊的な命を育てない「教会」は、この意味で真に永遠なエクレシアとは言えないのではないでしょうか。
■自然の生命と永遠の命
このように言うと、それは人間が造り出した妄想にすぎないのであって、そんなものは現実に存在しない。こういう利口そうな人たちのもっともらしい解説が聞こえてきそうです。けれどもそれは小利口な人間の淺知恵です。神の知恵は人間の知恵よりもはるかに不思議で深いのです。自然科学が生み出すものは、人間の霊的な成長にもとても大事な働きをするだけでなく、大切なことを教えてくれます。自然と宇宙は、神が人間にお与えになった「第二の聖書」だと言われています。その第二の聖書が教えてくれるのは、地上の生命は誕生以来、様々な生存の危機や困難に出遭う度に不思議な進化を遂げてきたことです。海の生物が陸に上がったり、絶滅寸前の恐竜から空を飛ぶ鳥が生まれたり、人知ではとうてい計り知ることのできない生命の進化の過程をわたしたちは自然の生命の歴史に見いだすのです。だから、人間が「永遠になくならない命」を考え出したとしても不思議ではないし、人間がそのような命の存在を信じ、信じることで現実にそれが存在する事態が生じても驚くにあたらない。わたしはそう思っています。
わたしたちがこういう不思議な命の存在を知ることができるのは、霊的に目覚めた知恵の人たちや、言い知れぬ苦しみを体験した人たちのお陰です。聖書の伝える霊的な永遠性には過去の人類の血と涙の跡が滲(にじ)んでいます。だから、「今笑っている人」や「今飽き足りている人」(ルカ6章21節)には聖書の伝える「霊の命」は、悟ることも理解することもできない無縁のものです。こういう場合に人の理性や知性が己の能力を超えた分野、言い換えると自己の知らない分野に踏み込んであえて批判を犯す不遜な高ぶりに陥るものです。
ある人たちはこう言うかもしれません。ことさらに神を持ち出さなくても、自己努力で自然をコントロールして、これをうまく支配していくことができると。このような考え方は、人間がその理性の力で自然を支配しコントロールできるという自信過剰であり、自己欺瞞からくる「誤り/エラー」(これは「罪」の語源)です。少なくとも、現在の人知や理性の力では、とうてい及ぶことのできない力が、この宇宙に働いていることを知らなければなりません。人間は、はたして自分自身と自分を取り囲む大自然を正しくコントロールできるでしょうか? これができなければ、ノアの時代のように、暴虐と流血がわたしたちを待ちかまえているのです。わたしたちは今、人間の誤った自然観や宇宙観が、やがて人類それ自体を破滅へ導くのではないか?という運命に怯えているのです。
このような悲惨から逃れるためには、自然と宇宙を人の欲望が産み出す目的のためではなく、謙虚になって、人間に具わる霊性を通して、神様が啓示する正しい価値観へと導き入れられることが求められています。ヘブライの人たちが「ネフェシュ」と呼び、新約聖書が「プシューケー」と呼んだ、本当の自分、これを人格的な霊性によって正しく洞察することが「神の霊に与る人間」に求められているのです。人が高慢と反逆の心に支配されている限り、このような霊的な価値観に到達することはできないでしょう。こういう価値観は、人間だけが認知することのできる「神様からの啓示」によって、自然と共に生きるだけではなく、自然と一つの命を霊的に生きることです。神様に敵対する存在ではなく、神様との交わりの霊性に生きるように、新たに造りかえられることが今神様から求められているのです。
宇宙が存在するようになってからおよそ145億年、太陽系と地球が存在するようになってからおよそ46億年、地球に本格的な生命体である多細胞生物が出現してから約6億年、現在のネズミの先祖にあたる哺乳類が出現してから2億2000万年、先祖を弔うことを知っていたネアンデルタール人が「宗教する人」(ホモ・レリギオーサス〔ラテン語の語尾「スス」"sus" を英語読みにする〕)として現われてから30万年、「ホモ・サピエンス」と呼ばれる現在のわたしたち「最新型の人間」が出現してからほぼ20万年、そして、パレスチナにイエス様が誕生して、この「命の啓示」をお与えくださってからほぼ2千年が経過しています。新約聖書が伝える<いついつまでも続く永遠の命>とは、これだけの長い時間を経過して、神がわたしたち人類に賜わった「生命の進化の証し」です。自然人類学と文化人類学が証しする通り、事ここにいたるまでの間に、動植物全体の地球上の生命は、絶滅寸前に追い込まれるという危機体験を繰り返してきました。生命の進化は生命の危機と常に表裏一体で、この事情は現在でも変わりません。それだけに、現在わたしたち人類に示されている「永遠の命」の啓示は、厳しい試練をくぐり抜けた末にようやく与えられた最も新しく、最も貴重な賜物なのです。
今日ご参加の皆さんのうちには、すでにイエス様の御言葉の種が蒔かれています。その種は、皆さんのプシューケーのうちで、永遠の命にいたる神の「ゾーエー」を育み成長させようと働いています。どうぞ、その御言葉の命を大事に守り育ててください。朝夕祈りの水をやり、聖書の御言葉の光を浴びて、お一人お一人のプシューケーが、御霊にあるイエス様に導かれて、神様からの「ゾーエー」に生きる者となってください。自分のプシューケーを思い切ってイエス様に全託して、イエス様の「ゾーエー」に生きてください。そうすれば、自分の知らない自分が、自分のプシューケーから生まれ出てきて、「ゾーエー」にある栄光の姿が啓示されます。これこそ、「あなたがたの内にいますキリスト、栄光の希望」(コロサイ1章27節)なのですから。
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