コイノニア会夏期集会講話
       科学と宗教:進化論について
    2015年 8月29/30日 コミュニティ嵯峨野で
 
■まえおき
 わたしは今年も、この場を借りて、言い残したことをお話しさせていただきます。わたしは日本人のキリスト教が欧米のキリスト教から学んではならないことが三つ、改革しなければならないことが一つあると思っています。学んではならないこと、
(1)ユダヤ人への偏見と差別。
(2)キリスト教を植民地支配の道具にすること。
(3)信仰と科学を対立させること。
この三つです。それから改革しなければならないこと、それは
(4)他宗教を非難迫害することです。
  今回は(3)についてお話しします。
■科学と宗教の対立
 パウロはコリント教会のイエス・キリストの御霊にある一致と多様性を両立させるために、御霊の論理あるいは原理を重んじる人たちに「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てる」と教えましたが、宗教であれ、思想であれ、己の主義主張だけを絶対化して、他者を迫害する「原理主義」には注意しなければなりません。16世紀には、太陽や地球も宇宙全体の単なる星の一つにすぎないことを予見したジョルダーノ・ブルーノを死に追いやったのは当時のキリスト教会による「知の暴力」です。ブルーノの後を継いだガリレオが、己の地動説を撤回したその後で、「それでも地球は動いている」とつぶやいたのはよく知られています。イングランドのアイザック・ニュートンやフランスのデカルトは、近代科学の基礎を築いた人たちですが、彼らは、自分の科学思想がキリスト教の信仰と矛盾し対立するとは考えませんでした。物理学者であり修道僧であったブレーズ・パスカルは、その瞑想録『パンセ』を著わして、人間の理性と神への信仰がなんら矛盾しないことを確認しました。「人間は弱い一本の葦にすぎない。だが、それは考える葦である」という彼の言葉は有名です。
■ガリレオの場合
 ここで16世紀から17世紀にかけて、天動説を唱えるキリスト教会と地動説を唱えたガリレオ・ガリレイが教会と対立した場合のことを考えてみます。現在わたしたちが知っている通り、ガリレオの地動説のほうが正しかったのですが、ここで言う「正しかった」は、地球と太陽の運行の関係についてであって、それ以上でもそれ以下のことでもありません。太陽ではなく、地球のほうが太陽の周りをめぐっているという「ただそのことだけ」を説明するのに、ガリレオの科学的な方法論のほうが「正しかった」という意味です。「ただそのことだけ」と言いましたが、当時これは、世界観を一変させるほどの大きな衝撃を与えたのです。
 わたしが「ただそのことだけ」と言ったのはわけがあります。ガリレオは、自分の学説が、人間の生き方や世界観にどのような意味を持つのか、と言うことを、すなわち地動説が「わたしたち人間にとって何を意味するのか?」ということを「解き明かそう」としたのではありません。あくまで太陽と地球の運行について、科学的な方法論を用いて地球の運行機能を説明しようとした<だけ>です。彼が主張したかったこと、それは、自分が用いた方法論は科学的に「正しい」こと、その方法論を用いると地球が太陽の周囲を回っているという事実へ行き着くこと、「ただそのことだけ」を言いたかったのです。だから彼は、自分の学説によって、教会の教義を否定したり、当時の人たちの生き方を形成している価値観をひっくり返そうなどとは全く考えませんでした。
 ところが、当時のキリスト教会のほうはそうではなかった。教会は、ガリレオの学説が、聖書の記述、特に「神が天地を創造し、太陽と月を作って地上を照らすようにした」という創世記の記述に違反すると見なして、宗教的な教義への配慮から、彼の学説を撤回するよう求めたのです。だから、ほんらいは「科学的な」学説であるのに、教会の視点からすれは<人間の生き方や信仰との関連>において理解されたのです。ガリレオが、地球の運行という単なる物理的な「機能」だけを説明しようとしているのに対して、教会は、その機能がもたらした結果としての地球の運行が、宗教的な「人間の生き方を教える教会の教義」に違反すると批判したのです。宗教的な教義は、当時の人たちの世界観と、生きるための価値観を形成する大事な意味を持っていたから、教会は、その価値観が危うくなるのを恐れて彼の学説に異を唱えたのです。
■科学的「事実」の意味
 この事件は、現在ではすでに過去の出来事とされていて、そこで行なわれた論争もすでに解決済みと見なされています。けれども、科学と宗教をめぐるこの論争は、姿を変えて現在でも続いているのです。
 もう一度16〜17世紀に戻ります。たとえガリレオの説が正しくて、地球が太陽の周囲を運行しているとしても、地球に住むわたしたち人間にとっては、「太陽が昇って沈み、その運行に応じて昼と夜が分けられる」という「もうひとつの事実」は変わりません。日本からヨーロッパへ、あるいはアメリカへ飛行機で飛ぶ時に、わたしたちの体は時差ぼけになります。なぜなら、自然科学的には地球のほうが動いていても、この地上にいる「わたしたちの身体」のほうは、現在でも朝太陽が昇り夕方沈むという「天動説で」生きているからです。地動説が科学的に「正しい」としても、これによって、わたしたちの身体的な生存の条件と、これに基づく価値観が「正しくない」ことには<ならない>のです。地動説以前の文学はもとより、地動説以後でも、詩人が詩を作る時でも、文学者が物語る時でも、「太陽は昇る」し「月や星は動く」。現在の量子物理学によれば、素粒子の世界では、時間と空間がわたしたちの日常とは全く異なるのですが、21世紀の現在でも、わたしはまだ素粒子論によって書かれた詩や文学を読んだことがありません。
 だから、ある意味では、わたしたちの生活や生き方では、創世記の世界のほうがむしろ「あっている」。聖書は、わたしたち人間の生存から観た天動説という<もう一つの事実>に基づいて書かれているから、地動説で聖書の「正しさ」が反故になるわけではないことが分かります。ガリレオも当時の教会も、「こういう視点」が完全に欠落していたために、現在から見ればあのような「不要な」論争が起こったのです。だから、何が「正しい」のか、「正しくない」のかを、それぞれの分野で見極めた上でなければ、「正しさ」の基準が混乱することになります。実は、この混乱が「現在もなお」尾を引いているとわたしは見ています。
■進化論争の起こり
 「進化」"evolution"は、より正確には「分岐」の過程と呼ぶべきで、「進化」は「進歩」"progress"とは違います。人類を含めて地球上の生物は、長い時間をかけて進化してきました。日本を含む多くの国ではこの事実は常識であすが、アメリカでは必ずしもそうではないようです。
 この対立は、19世紀のダーウィンの『進化論』が発端となって生じた不幸な出来事です。チャールズ・ダーウィン(1809年〜82年)は、エディンバラとケンブリッジの両大学で医学と神学を学んだ後で、博物学に興味を抱き、英国海軍の測量船ビーグル号に乗船して、南半球をめぐり、動植物や地質を観測しました。彼はこの測量期間中に、生物の進化を確信したようで、「自然淘汰」と「最適者生存」の二つの概念を軸に『種の起原』 を著わしました(1859年)。
 ダーウィン自身は、当初自分の進化論とキリスト教信仰が矛盾するとは考えませんでした。ダーウィンは進化論の核心を「自然淘汰」と呼んだのですが、この「淘汰」(選択)を行なう「自然」とは「神」のことではないか?という議論がキリスト教の側から起こったのです。「ナチュラル」には、「自然<が>淘汰する」という意味と、「自然<に>淘汰される」という生物それ自体の性質を指す二重の意味が含まれますから。ところが、教会の唱える「神のおはからい」という意味合いを避けるために、ハーバート・スペンサーが「適者生存」 という考えを提起します。この用語「適者生存」をダーウィンに強く推奨したのは彼の友人であり進化論の共同者であったフレッド・ラッセル・ウォレスです。ダーウィンはウォレスの申し入れを受けて、「適者生存」を採り入れ、『種の起源』第五版(1869年)の第4章を「自然淘汰、すなわち最適者生存」と題しました。「神」ではなく「自然淘汰」という含みのこの定義は、これ以後、キリスト教信仰と進化論を対立させる根本原因になります。
 しかし「適者生存」は、その主体を特定することを回避した巧みな用語であったことに注意しなければなりません。「適者」とは強者のことではなく、優越者のことでもなく、従来と全く異なる与えられた環境に適応する異種遺伝子を<創造する>ことができたかどうかを意味するから、適者生存の「主体」はいぜん隠された謎なのままなのです。だから、この用語は「生き残る種は適者である。ではだれが適者なのか? それは生き残った種である」のように同語反復を含むとされて、現在の生物学では用いられることがなくなり、現在では主として「自然淘汰」が用いられています。
 進化論が「神の摂理」によるという主張は、キリスト教から科学的な事実への「解釈」ですが、こういう解釈それ自体は科学の方法論とこれによって到達した科学的事実と<直接には>関係しません。キリスト教側からの「神の摂理」説を科学的な事実それ自体への「正しい解釈」だと主張する誤りは、すでに見てきたとおり歴史で繰り返されてきたことです。
 ところが、進化論をめぐる今回の論争では、従来にはなかったもう一つの誤りが登場することになります。それは、自然科学者の側から、キリスト教的な解釈を意図的に否定するために、進化論は「神の摂理などではなく」、「盲目的」かつ「無意味な」全くの「偶然」によるという主張が、キリスト教的な解釈に対抗して唱えられたことです。この主張は、科学的な方法論が到達した科学的な事実それ自体を「どう解釈するのか」という事実の意義付けとこの解釈による価値付けを含むから、キリスト教側からの意義づけと解釈と全く同じ意味で「的外れ」な主張です。
 実験と観察という科学的に「正しい」方法論を用いて得られた結果に基づく「事実」は、その方法論が「正しい」と認める<範囲を超えた領域で>推論したり推測したりすべきものではなく、まして、科学的事実のあずかり知らぬ領域から、科学的事実を自己流の価値観で理論化してはならないのです。科学的に「正しい」方法論で達しえた結果が、神の摂理なのか、それとも全くの偶然なのか? 事実あるいは出来事には、人間の生き方に対して何らかの目的が秘められているのか、それともそのような目的など一切認められない盲目的な偶発なのか? 事実は、人間にとって有益なのか、それとも有害無益なのか? このような価値意識を伴う問題は、その方法論が科学的に「正しい」かどうか、という問題にはほんらい含まれて<いない>のです。それらは、科学的と言うよりは哲学的な課題であり、あるいは倫理的、宗教的な問題として扱われなければなりません。
 ところが、ダーゥインが提唱した進化論をめぐっては、キリスト教側と反キリスト教側(無神論/唯物論)からの主張が衝突し合うという不幸な論争の構図ができあがったのです。19世紀当時、産業革命とフランス革命の影響で、イギリスには自然科学万能主義が台頭していました。マルクスとエンゲルスが起草した『共産党宣言』が出たのは1848年だから、この時代は自然科学への信仰と唯物主義が盛んな時期でした。進化論とキリスト教信仰とが対立するという主張は進化論学者とキリスト教会との双方から言い出されたのですが、どちらも真の問題点を誤って解釈しようとするから、現在から見れば<奇妙な>論争が生じたことが分かります。この論争が「科学と宗教の対立」として、以後の欧米、特にアメリカにおいて大きな影響を及ぼして、おかしなことに、21世紀の現在でもまだ続いています。
 進化論学者の中には、遺伝子を含む進化の理論それ自体こそが、生命が地上に存在する「意義そのもの」だと見なして、これを「自然主義」と呼ぶ人たちがいますが、「自然が」進化をもたらすのか?「自然に」進化が生じるのか? このどちらの解釈も可能ですから、「自然主義」というこの用語は、特に日本人の場合は誤解を生じやすいです。だから、わたしは、両者の立場を「無神論的な」進化論と「有神論的な」進化論のように呼ぶことにします。「進化」とは地球上の生命体に生じる「出来事」のことです。出来事それ自体はどのような解釈も可能なのです。
 現代の無神論的な進化論者たちによれば、進化は「盲目的な過程」をとるから、何の意味も持たない全くの「偶然に支配された進化と生存競争」があるだけだということになります。しかし、自然現象である進化の過程が、盲目的か有目的か、偶然か摂理かは、科学的な方法論から導き出すべき問題ではなく、まして、科学的な方法論で扱うべき問題ではありません。
 聞くところでは、ケンタッキー州では、天地創造をテーマにして、進化論を否定する博物館が人気スポットになっています。旧約聖書の創世記に書かれてある通り、神が6000年前に六日間で万物を創り上げたと信じる「キリスト教保守派」の人たちがアメリカの中南部を中心に少なくないからです〔『読売新聞』2015年6月11日(ワシントン発)中島達雄〕。こういう保守的なキリスト教徒の中には、進化論そのものを「無神論」だとして排斥したり批判したりする人たちがいますが、当然のことながら、これに対抗して、進化論を唱える科学者たちの中には、生存競争による自然淘汰は「無神論的な」進化の過程であり、これこそ進化の意義それ自体だと主張する人たちが出てくることになります。どちらの側も、進化の過程それ自体を無神論か有神論かという人間生存の意義それ自体と同一視するという誤りを犯していることに気づかないのです。だから「ダーウィンの<危険な>思想」とか「<理不尽な>進化論」とか「<盲目的な>進化」などと、ほんらいの科学的な方法論とはかかわりがない価値観が入り込むのです。これは、ガリレオがやらなかったことで、もしもガリレオが現代の進化論争を聞いたらびっくりするでしょう。
■進化論争
 2009年にシカゴで開かれたアメリカ哲学会で、「現在の進化論とキリスト教の伝統的な神信条は両立できるか?」と題して、ダニエル・デネットとアルヴィン・プランティンガが論じ合うという「記念すべき出来事」がありました。
 ダニエル・デネット(1942年生まれ)は、現在アメリカで、反宗教的な視点から進化を論じている著名な学者で、その著書『解明される宗教』阿部文彦訳。青土社(2010年)において、彼は主としてアメリカの読者に宛てて、人間にほんらい具わる宗教性さえも「自然科学的に説明できる」と説いています。ところが彼が言う人間の「宗教性」とは、どうやらアメリカの超保守的な「キリスト教信者」を指しているようで、彼がこの著作で反論している「キリスト教的な宗教」とは、現在の日本人のわたしたちから見れば、あまりも幼稚な聖書の逐語霊感説を念頭に置いています。討論相手であるアルヴィン・プランティンガ(1932年生まれ)は、インディアナ州のカトリック系のノートルダム・ユニヴァーシティとミシガン州のプロテスタント系のカルヴァン・カレッジで哲学と解釈学の教授を勤め、進化論について、キリスト教の信仰の立場から発言を続けています。
 二人の討論は、まずプランティンガの発言で始まり、彼は、現代の進化論が神学的信条と矛盾しないことを次の三点を挙げて説明しています。
(1)「無神論」を前提とする進化論者たちの言う「自然主義」は、科学がほんらい関知しない価値観を進化論に当てはめようとするから、彼らの「自然主義」的な進化論は「擬似宗教的」な性格を帯びている。だから、彼らの言う半ば宗教的な「自然主義」のほうこそ科学としての進化論と矛盾するのであって、キリスト教神学と科学はほんらい矛盾していない。
 (2)「ダーウイニズム」と呼ばれる進化論は、不規則な遺伝子異変の過程を伴う「自然淘汰」がその基本原理である。だから、これとキリスト教の宗教的神学との衝突は、聖書が言う「神の似姿」による人間の創造説に焦点が絞られてくることになる。人類が現在の人間の姿(神の似姿)へ「進化」したことが、神によって予め計画されていたことと、そこへ至るまでの「過程」それ自体とは、別の問題であって、人類が到達した結果が神の摂理によるという見方は、人類がはそこへ至った<過程それ自体>とは直接関係しない。
 遺伝子の異変の過程が「でたらめ」であり「無目的」であるとは、それらが全く偶発的な出来事であり、そこに原因は存在しないことになろう。しかし、現代の進化論のどこからもそのような「無原因」説は出ていない。まして、その過程が原因を持たない「偶然」だなどという説はどからも提起されていない。異変が「不規則」だと言われるのは、新しい遺伝子が生まれることと、与えられた環境に有機体が適応するかどうかという事との間に相互関係が見いだせないことを意味する。もしも、その有機体にもそれの環境にも、環境に適応する原因となる有益なメカニズムも過程も機能も存在しないのなら、その異変は「でたらめ」であることになろう。しかしながら、異変は、その意味での「偶発性」と、<それと同時に>神の導きに意図されたなんらかの原因が存在すること、その<両方の可能性>があることを明らかに意味している
(3)したがって、ダーウイニズムに含まれる進化の「偶発性」は、進化の過程が神の導きに由来することを否定する意味合いを含んでは<いない>。だから、遺伝子の突然変異による偶発性は、人間が神の似姿に創造されるための意図性(デザイン)とほんらい矛盾しない。進化を無神論的な自然主義と結びつけるところに、科学と宗教との相克が生じるのであって、進化それ自体は<そのような結びつき>を持たない。
 以上がプランティンガの発言の要旨です。
■デネットの反論
 プランティンガに対するデネットの応答は次の通りです。彼は先ず、プランティンガのあげた三つの論点を肯定します。
(1)現在の進化論は有神論的な信条と両立する。
(2)現在の進化論は、突然変異が全くの偶然で生じるという意味で「でたらめ」だとは言っていない。
(3)「自然主義」と進化論が「結びつく」場合に「神の計画性」が否定されるのであって、進化生物学<それ自体>は神の計画への否定を意味しない。
 以上三つの点をデネットが肯定したことは、注目すべきで、プランティンガもこのことに驚いています。デネットはさらに論を進めます。
(1)の点はその通りであるが、自然淘汰の理論は予見的な神の意図を主張しなくてもDNA理論を成立させることができる。だからと言って、神による「知的な計画性」が存在<しない>と「証明する」ことはできない。しかし、現在の進化生物学は、同様にどのような空想や妄想をも「存在しない」と証明することはできないし、それらが存在しない証拠はどこにもない。ただし、現在の有神論は、いずれは終末が訪れるなどと主張して、地球環境を改善する道を閉ざす傾向があり、人々を誤らせる有害な障害を引き起こしている。
(2)の点では、現在の進化論は、突然変異が原因のない「でたらめ」な現象だと言ってはいない。まして偶発的なものにすぎないと言っていないのは、その通りである。進化は決定論的なモデルにおいても生じるからである。
(3)の点で言えば、自然主義と進化論が相伴うことで神の意図を否定する含みを持つが、進化生物学それ自体にはそのような含みはないという指摘は、これも正しい。しかし、自然淘汰による進化は根本的に確証されているから、だれもこれにには反論できない。
 デネットはさらに加えて、プランティンガが、自然主義的な進化解釈は擬似宗教的だから、進化論それ自体と両立することが不可能だと指摘したのに反論します。自然主義的な解釈は、自然淘汰による心臓や肺の進化を「説明する」ことができるし、脳は「構造的機能」の働きであって「意味論的な」働きではないからです。
■デネットへプランティンガからの答え
 デネットの指摘に対して、プランティンガは次のように答えています。デネットがわたしの意見に賛成しているのに驚いている。しかし彼が否定しているのは、愚かしい宗教的愚論のことであって、それらはわたしの言う有神論ではない。わたしは神の存在と進化論の真理性は両立が<可能>だから、その点でわたしの説は<真理>だと言っているのであって、わたしの説が唯一の可能な説だとは言っていない。彼が言う「自然主義」については、多くの物理学者(40%)は神の存在を信じているが、彼らは物理学の研究において神の存在を前提にしなければならないなどと考えてはいない。むしろ彼らは、神が創造された造形を探求し説明し発見しなければならないと考えている。彼らはその物理学の仮説において神の存在を直接に仮定してはいない。だからと言って、無神論的な自然主義を仮説としているわけでもないのは言うまでもない。
■この論争について
 筆者(私市)は、以上の両者の討論から、次の三点を指摘したいと思います。
(1)両者共に、進化論それ自体は有神論的な信条と矛盾したり対立したり<しない>という点で一致しています。このことは、きわめて重要です。この一事が確認できたことは、今回の討論の大きな成果であり、この意味でも「記念すべき出来事」です。
(2)プランティンガのほうは、アメリカを主とする現在の「通俗的で保守的な」キリスト教徒の神概念のほうが、進化の過程を探る科学とキリスト教(宗教)とを対立させている根本的な原因であること、<このこと>に言及するのを避けています。
(3)これに対して、デネットのほうは、プランティンガが避けているまさに<その点に>注目しながら発言しています。しかし、両者共に、そういう頑迷なキリスト教徒を特定することも名指しすることも避けています。
 デネットが言う通り、進化の過程を導き出したのは「イエスであった」と仮定する必要はありません。彼が言う通り、「神はイエスができないことでもできる」からです。また、適切な異変が生じる原因を起こすのに神自身がその手や指や科学的道具を使う<必要がない>こともその通りです。科学としての進化の出来事は、有神論と無神論のどちらにも属さない。まさにそのゆえに、どちらの側からもこの出来事を説明したり解釈することが可能です。
 デネットの<反>有神論は、おそらくアメリカの一部のキリスト教的宗教を念頭に置いているところから出ています。だから彼は次のように言うのです。「わたしの科学者としての仕事は無神論的である。すなわち、わたしが実験を実施するときには、神や天使や悪魔がこれに干渉するという前提に立ってはいない。わたしの専門の仕事はこれによって成果を上げてきたことでこの前提は正当化される」と。デネットはさらに「進化論的な生物学は擬似宗教である。だとすれば、そのような進化論的生物学を学校で教えるのは信仰の自由を定める憲法に違反する」という驚くべき「キリスト教」側の主張を引き合いに出しています。デネットは、プランティンガが、神を信じる科学者も彼と全く同じ前提に立って仕事をしていると主張しているのだと「納得する」にいたってはいないようです。これでは両者の意見が噛み合わないのも当然です。
 困ったことに、これがアメリカでのことではなく、こういうアメリカの進化論論争が<そのまま>全く土台の異なる日本にもちこまれて、<あたかもこれが>進化論による科学と宗教の対立である<かのように>思われたり、受けとめられたりしていることです。日本のわたしたちが、進化論争を扱う時に注意しなければならないのは、土台の全く異なるアメリカでの進化論と宗教との対立をそのまま日本に持ち込むことだからです。このために、日本では、自分たちの常識とは全く異なる見解の人たちの非科学的な判断が、<あたかも>日本のクリスチャンも同じレベルで進化論に反対している<かのような>錯覚を抱き抱かれることになりかねません。現に、<理不尽な>進化論だとか<危険な>進化論などと題した進化論に関する翻訳や著作が日本でも出回っています。これらを読んだ日本人は、進化論それ自体が科学的に見て「理不尽であり危険である」と考えるか、あるいは、反対に進化論がキリスト教を含む宗教観にとって「理不尽で危険に見える」と受け取るか(これが、これらの著作の狙いであろうが)、そのどちらかになります。どちらの考えも真の科学的な見地から正しくないのです。このことを読者にはっきり分かってほしいのです。
 そもそも「こと進化論に関しては」、土台となる考え方が全く異なる日本とアメリカを一緒にして、進化論を「擁護」したり、これに「反対」したりする必要などありません。進化論が科学的に正しいことは日本人ならだれでも知っていますから、学校で進化論を教えてはならないなどと言い出す日本人のクリスチャンは一人もいません。人類が原始細胞から発達したことと、聖書の教えが矛盾するなどと考えるほど<幼稚な>日本人クリスチャンはいませんから、日本人クリスチャンの聖書解釈のレベルを見くびらないでほしいのです。日本で、アメリカ直輸入のレベルの低い反進化論を主張すれば、アメリカの科学者が知的にレベルの低い進化論反対者を批判するのと同じ批判が、日本の科学者から日本人のクリスチャンに向けられるおそれがあります。日本のキリスト教界に、そのような無意味な論争を持ち込む必要はありません。だから日本で進化論反対を唱えるのはお止めになるほうがいい。日本には、科学的進化論と聖書の教えが矛盾するなどと考えるほど<レベルの低い>クリスチャンはいないからです。さらに言えば、進化を論じる方々には、進化論を「偶然」だとか「盲目的」だとか、ほんらい科学的な意図とは無関係な価値観と結びつけることを避ける「知的な配慮」をお願いしたいのです。
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