ソフィア(知恵)の源流
古代メソポタミアの神話
ヨハネのロゴスを知る上で、どうしても欠かすことができないものに、「知恵」としての「ソフィア(Sophia)」がある。ところが、これが実に多様でさまざまな姿に変容する。もっとも、このような変化(へんげ)にこそ、ソフィアの特徴があると言えるが。この「知恵」の全貌を限られた紙面で論じ尽くすことはとてもできない。わたしにできるのは、せいぜいヨハネのロゴスとの関係の中で、ソフィアの輪郭だけを紹介することである。
心理学者、ノイマンによれば、太古の人類の意識は、大自然に包まれて、ちょうど偉大な母(太母)に抱かれた幼子のように未分化の状態であった。大自然が恵み深い母性として自己を現わすこの相が、「ソフィア」の姿の元型である〔Neumann 13〜15〕。ケイトリン・マシューズは、ソフィアを次のように述べている。「ソフィアはゲリラ戦の女神である。完全に変装したヴェールをまとうから、今もなおこの女神が、多くのキリスト教の正統派の霊性に同伴していることがまったく自覚されていない。」〔Matthews 1〕実際、「夜の闇の中に現れた母」が、世界中の若者たちに「知恵の言葉」"Let it be."を語ったのはそう昔のことではない。
バビロニアやエジプトだけでなく、日本も含めて、世界の創造神話には、多くの場合、母なる女神が登場する。それらは「世界父母」(the World Parents)として世界の創造に立ち会う〔Neumann 18〕。だが彼女は、美しく恵み深い相だけを見せるとは限らない。インドのカリー女神のように、真っ黒で大きな舌を出してすべてを飲み込む恐ろしい奇怪な姿をとることもある。このカリーのような「黒い女神」も混沌の中から姿を見せる「知恵」の一つの相なのである。「白い女神」ソフィアとこの「黒い女神」とは、「ちょうど石炭とダイヤモンドが同じ炭素でできているように、知恵の女神も一見すると対立する二つの姿でその力を現す」〔Matthews 11〕のである。わたしたちは、ヨハネのロゴスにもこのようなソフィアが付き添っているのを感知する。ただし「ロゴスがもっぱら語るのに対して、ソフィアの方はヴェールに包まれて沈黙を守る」〔Matthews 11〕のである。
メソポタミアの神話『エヌマ・エリシュ』に登場する太母ティアマト(海水・苦い水)は、アプスー(淡水)と交合して神々を産み出す〔『古代オリエント』 108〕。ところがアプスーが自分の子孫たちを滅ぼそうとしたので、彼は逆に自らの子孫であるエアによって殺される。太母ティアマトは怒り、毒蛇やキングと呼ばれる竜を造って己の夫とし、アプスーの仇を自分の子孫にかえそうとした。エアの息子マルドゥクは、大風を吹かせて彼女と竜を倒し、このティアマトの体を裂いて天のドームを造り、こうして彼女の体から森羅万象が産まれ出たとある。
ここに登場するティアマトは「息子を離反させ父親を苦しめ、愛を憎しみに変える」〔『古代オリエント』 121〕から「黒い女神」の相を受け継いでいる。しかし彼女は、すべてのものが産まれ出る母体ともなっている。アプスーという名は、さかのぼれば英語の「アビス・深淵」"abyss"の語源である〔Matthews 21〕。ティアマトも、創世記の「深淵」を意味するヘブライ語の「テホーム」の語源であろうと言われる〔Matthews 21〕。創世記では、創造は「無からの創造」として行われた〔Rat 49〕と言われるが、これはテキスト本来の読みとして正確ではないであろう〔フック
164〕〔Skinner 15〕。「テホーム」は「ティアマト」がヘブライ語ふうになまったと考えるのが正しいようである〔フック
177〕〔Skinner 17n〕〔Interpreters Dic.IV. 639〕。また、マルドクが彼女の体を二つに裂いて天上をつくり天の水を統治させたのもP資料の大空の創造と類似している〔『古代オリエント』 122n〕。
ちなみにヘブライ語でティアマトのことを「マラ」と呼んだという説がある〔Matthews 21〕。「マラ」あるいは「メラ」は、出エジプト記15章23節に「苦い水」を出す地名としてでてくる。「マラ」はまたモーセの姉ミリアムの名前の由来ではないかといわれている〔Matthews
21〕〔Interpreters
Dic.III 402〕。ミリアムはモーセの姉とされているが謎の多い人物で、エドモンド・リーチは、彼女が神の聖なる後継者モーセを産む「聖なる母」の系譜に属することをその家系の分析から提示した〔リーチ 81〜82〕。ちなみに新約の「マリア」という名前はこの「ミリアム」から出ている。
ここでもう一つのメソポタミアの神話『イシュタルの冥界下り』を紹介しよう〔『古代オリエント』 191〜95〕。女王イシュタルは自然の豊穣を司る女神である。彼女は、自分の配偶者タンムーズを、自分の姉である冥界の女王エレキシュガルに奪われた。イシュタルは、自らの命をかけて冥界へ下り、エレキシュガルからタンムーズを取り戻すのであるが、彼女が冥界にいる間は、地上では不作と不毛が続いたとある。しかし、彼女が夫を再び冥界から連れ戻すことで地上に再び豊穣が回復する。これは春から秋の季節と冬の間の不毛との交代を象徴する神話だと言われるが、ここにも白い女神イシュタルと黒い女神エレキシュガルとの対応が見られる。イシュタルが夫タンムーズと結ばれることによって大自然の豊穣が回復されるのを、神話では「聖婚」と呼ぶが、この詩は大地の豊穣と神々の聖婚を祝う祭儀の時に歌われたのであろう。
実はイシュタルは、さかのぼるとシュメールの神話に登場するイナンナの後継者であり、『イシュタルの冥界下り』は『イナンナの冥界下り』を下敷きにしている。彼女たちの系譜は、フェニキアのアシタロテ、ヘブライのエステル、ギリシアのアプロディーテー、ローマ神話のヴィーナスへとつながっていて、これらオリエントの古代神話に現れる女神たちは、知恵の女神ソフィアの諸相なのである。このソフィアが、ヨーロッパの中世で聖母の姿に変容する。