知恵の書
人間を慈しむ霊
通常「ソロモンの知恵」(Wisdom of Solomon)と呼ばれるこのギリシア語の文書は、古ラテン語訳(カトリックの正典とされるヒエロニムスのラテン語訳以前のもの)では知恵の書という題名が付けてあり、「新共同訳」でもこの題名が用いられている。作者がだれかは不明であるが、エジプトのアレクサンドリアに住むユダヤ人であると考えられている。彼はアレクサンドリアで、当時ユダヤ人の間で用いられていたギリシア語でこの文書を書いた。
前3世紀後半から、アレクサンドリアにおいて、ユダヤ人によって、旧約聖書をヘブライ語からギリシア語に翻訳する仕事が始められた。「セプトゥアギンタ」(七十人訳)と呼ばれるギリシア語の聖書である。しかし、訳者も訳し方もいろいろで、この訳業は、ずいぶん長い年月を要したらしい。モーセ五書は、比較的早く訳し終えたものの、このギリシア語訳の聖書全体がいつ頃完成したかは、はっきりしない。七十人訳には、しかし、旧約にはなかった「外典(続編)」が付けられていた。シラ書も知恵の書もこれら外典に含まれている。シラ書はヘブライ語からの翻訳であることがはっきりしているが、知恵の書の方は、ヘブライ語からの翻訳という説もあるが、現在では、ギリシア語で書かれたと考えられている。そうであるなら、この書は、七十人訳の編集の最終段階に近い時期に属することになる。知恵の書には、8章2節のように、シラ書(15章1節)からの影響が多く見られることから、「ベン・シラより新しく、フィロンより古い」というのが妥当な見方とされている〔『外典偽典』2 16〕。したがって、どんなに古くても前130年以後(シラ書の訳者の序文参照)の作となる。著作年代は前1世紀の前半(前80頃?)〔『旧約聖書注解V』 292〕というのが一つの結論であろう。
重要なことは、この続編を含む七十人訳が、キリスト教において正典とされ、初代教会において広く用いられたことである。さらに近年になって、この続編を含む七十人訳が、パレスチナのユダヤ教徒の間でも用いられていたことが分かってきた〔『旧約聖書注解V』 491〕。したがって、わたしたちは、パウロ系書簡(ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙一、コロサイの信徒への手紙、エフェソの信徒への手紙)とヨハネ福音書の中に、この知恵の書を下敷きにしたと思われる箇所を随所に見ることができる〔『旧約聖書注解V』 293〕。ちなみに、七十人訳の続編部分は、紀元後1世紀頃には、ユダヤ教では除かれることになる。キリスト教でこの部分が盛んに用いられたのがその理由の一つと考えられている。
「知恵は人間を慈しむ霊である」(1章6節)。この言葉は、この書全体の基調を言い表す言葉としてまことにふさわしい。この書では、「知恵の霊」(7章7節)は、主を畏れる者に注がれる「主の霊」とほぼ同じ意味で用いられている。この「霊」の解釈について、人間を肉体と霊魂とに二分する、いわゆるギリシア的な二元論をここで持ち出す必要はないであろう。アレクサンドリアは、当時エジプトのイシス神話やギリシア哲学など、世界の思潮の中心都市であった。だから、この書も、当時の神話や哲学と無縁ではない。しかし、作者の心は、こういう「異教的な」環境に迫られて、イスラエルの伝統的な知恵を新しくとらえなおし、ユダヤ人にも異邦人にもこの知恵を証しすることに注がれていると見るのが正しいであろう。「知恵は人間を慈しむ(愛する)霊」のすぐ後に、「主の霊は全地に満ち、すべてをつかさどり、あらゆる言葉を知っておられる」(1章7節)とあるのも、こういう思想的・宗教的な状況の中での証言と見ることができる。「主(ヤハウェ)の霊」こそ、宇宙を司る力であり、しかも、この霊によって注がれる知恵は、人間の語るどのような言葉にもまさる権威を備えている。すなわち、「知恵」はすべての言葉を洞察して、その真偽を探る「主の霊」なのである。
知恵と女性的な表象
わたしたちは、シラ書で、知恵が律法とほとんど同じ位置にまで高められているのを見た。同時にそのことが、ソフィアの女性としての性格を弱め、律法の枠の中に彼女が閉じ込められる傾向があるのも見た。しかし、上の引用に見るように、知恵の書では、ソフィアは、明確にその女性的な表象を貫いている。このような知恵の女性的表象は、ここでの知恵が、シラ書のように律法とではなく、主の霊と結びつけられていることと無関係ではないであろう。言い替えるなら、知恵は、主の律法よりも、むしろ「主のみ霊の働き」において知られ、生きられる。すなわち、「体験」としてとらえられていることを意味する。シラ書では、ソフィアは、律法と一体化しながらも、彼女の姿は、ともすれば律法の枠の中で影の薄い存在となりがちであった。ところが、知恵の書では、ソフィアは、その女性的な性格を失うことなく、自己の存在を明確に主張している。
実は、このような積極的な知恵の女性的な表象の背後には、当時のエジプトで盛んであったイシス女神の崇拝が指摘されている〔『外典偽典』2 351〕。「当時の」と言ったけれども、イシス女神は、エジプトはもとより世界で最も古い女神の一人である。前1〜2世紀のエジプトのイシス女神と太陽神オシリスの神話、およびこれに基づく祭儀は、遠い古代王朝のそれを継承している。しかし、学問の発達したプトレマイオス朝のエジプトのイシス宗教は、思想的にも祭儀的にも、はるかに洗練されたものになっていたと考えられる。イシス崇拝は、この当時、すでにローマ市にまで伝わっていて、それは、ヘレニズム世界全体に及ぶ広がりを見せていた。イシス女神のヴィジョンは、当時のエジプトで、新しい解釈を与えられて、人間に神との神秘的な合一を授けるものであった。
ちなみに、イシスの配偶神であるオシリスは、ギリシア神話のディオニューソスと同一視されていた。「万物の母」とされるイシスも、ギリシアのデーメーテール、ローマのケレースやヴィーナス、エフェソのアルテミス、ローマのジュノーなどと重ね合わされている。このように、この時代のヘレニズム世界では、宗教の混合によって生じる混淆宗教的な「一神教」が広く行き渡っていたと見られている〔『世界宗教史』U 311〕。こういうイシス女神の壮麗な姿は、AD2世紀のラテン作家アプレイウスの『変身物語』(別名『黄金のろば』)11巻に見事に描かれている。ローマ帝国のキリスト教化以後には、イシス崇拝は、エフェソのアルテミス崇拝とも重なって、マリア崇拝として復活することになる。したがって、この女神の図像は、後の聖母マリアの図像にも反映している。
作者は、ここで、「ヘブライの典型的な祈り」〔『旧約聖書注解V』 309〕で彼の祈りを始める。彼が祈り求めているのは、まぎれもなく先祖の神ヤハウェである。ここに現れるのは、神が万物を創造されたときに働いた神のみ言、創世記のあの「ロゴス」である。ところが、ここで、「ロゴス」と並んで「知恵(ソフィア)」が現れる。しかも、神はロゴスによって万物を造ったのに対して、ソフィアによって「人を形づくる」のである。人間も万物に含まれるから、この節は、明らかに、万物の霊長である人間を造るソフィアの働きの方に、神のみ業の重点が置かれている。少なくとも、作者にとっては、ソフィアとロゴスとは、ほとんど相互に入れ替わってもおかしくないほどに近い関係としてとらえられているのが分かる。ロゴスもソフィアも、神がこれらによって創造の業をなすから、いわば、神の働きあるいは顕現を現していて、両者共に、ヤハウェ自身と同じではないけれども、ヤハウェの本質からでた属性であると言えよう。
知恵とヤハウェ
さらに、この節に続く作者の祈りの中で、「あなたの王座の傍らにいる知恵をわたしに授けてください」(9章4節)とある。作者がこう祈るのは、ソフィアが、人間の能力では理解できないことを認識させてくれるからである。それだけではない。「知恵を手に入れる人は神の友となる」(7章14節)ことができるのである。同じ章の27節に、知恵は「神の友と預言者を育成する」とあるのを見れば、知恵は、それが愛する人間を「神の友」へと引き上げる働きをするのであろう。しかも、「あなたの王座の傍らにいる知恵」という表現は、知恵が単なる神の属性の発露であるにとどまらず、神とは別の位格(ペルソナ)であることを示している。スコットが、「彼女は、明らかにヤハウェと同一視されている。しかし、ヤハウェではない。また、明らかに彼女は、古代の中東の女神たちと結びつく特徴を帯びている。だが、彼女自身は女神ではない」(Scott 75)と指摘するのはこの点である。スコットの言うように知恵がヤハウェと「同一視」されているかはともかく、ソフィアが、ヤハウェから独立した位格として、ヤハウェ顕現の姿を担っているのは確かであろう。このことは、次の引用にもはっきりと示される。
「知恵の霊」は、「明確」で「堅固」で、「活発に」働く。その働きは、ほとんどロゴスを凌ぐと言ってもいいほどに神の働きを代表している。知恵には「理知に富む聖なる霊がある。「理知に富む」というのは、人知を超えた英知を示唆し、「聖」とは神ご自身の性質を指している。「知恵は神の力の息吹、全能者の栄光から発する純粋な輝き」(7章25節)とあるのを見ると、ここで知恵に宿るみ霊の位格は、神の臨在を意味する「シェキナ」それ自体にほかならないことが分かる。ここに、神から発する「霊」のソフィアが、神ご自身とほとんど同じ位格を帯びた存在として現れる。このことは、イスラエルの知恵文学だけではなく、イスラエルの神学にとっても極めて重要な意味を持つように思われる。神からの「霊」が、神ご自身と並ぶ位格を有するという意味だけではなく、そのみ霊が、ソフィアという女性的な表象を帯びているからである。わたしたちは、ソフィアが、ヤハウェ自身の傍らに立つ霊的な位格として、かってなかったほどの地位に高められているのを見る。
先の引用に戻ると、この「霊」は、「単一」である。すなわち、聖なる神の「独り子(モノゲネース)」である。それでいて、この独り子である知恵の霊は、「多様」で、さまざまな姿で己を現す。多様な姿をとりながら、本質では神の「独り子」であるというこの独特の「知恵の霊」に、わたしたちはギリシア哲学の影響を見ることができるかもしれない〔『外典偽典』2 349n(15)〕。もしこれを、哲学的に考えるなら、あらゆる諸真理の奥に存在する単一の絶対的な真理を指していると解釈すべきなのであろう。しかし、ここで語られているのは、そのような哲学的な概念ではないであろう。もしも、哲学的な概念であれば、「知恵」は、人間の感覚では到達できない一つの抽象的な理念とされて、この書におけるように、女性的な位格を備えることはありえない。哲学的な抽象化は、知恵の人格的な働きを弱めるはずだからである。知恵の書とこれの後に現れるフィロンとの違いは、まさにこの点なのである。
知恵の書に現れるソフィアは、イシス女神の面影を宿していることを先に述べた。しかも、このソフィアが、ヤハウェの臨在それ自体を示す位格を具えている。いったいこれは、どういうことであろう。ソフィアがイシス女神を反映しているとすれば、それは女性的な性格を帯びていることを意味する。しかも、彼女が、男性的あるいは父性的な神格を有するヤハウェ自身の顕現の相を代表している。わたしたちは、知恵の書で、イスラエルのソフィアが、ある決定的な段階を迎えたと見ることができる。ヤハウェ=ソフィアというこの不思議な関係がなにを意味するのか、重要ではあるが一つの謎である。一つだけはっきりさせておきたいのは、ここでのソフィアは、たとえばラートが述べているようなヤハウェの「配偶神」〔ラート260-61〕ではないことである。そうではなく、ソフィアがヤハウェそれ自体の顕現であり、存在であるというこの二重性こそが問題なのである。ここでは、スコットの言葉を借りるなら、「神はソフィアとして語り行動する。ちょうどそれと同じく、ソフィアもヤハウェとして語り行動することができる」(Scott 77)のである。しかも、ソフィアの行動範囲もその力もいささかも制限されてはいない。この謎は深い。わたしたちはここに、文字どおり「モノゲネース(独特・独り子)」なソフィアの姿を見ることができる。これが、イスラエルの知恵文学における知恵の書の到達点である。
ここで、この独特で独り子のソフィアの意味をもう少し考えてみよう。わたしたちは、イスラエルの知恵を、箴言・コヘレトの言葉・シラ書・知恵の書という系譜においてたどってきた。ラートもイスラエルの知恵が箴言1〜9章、ベン・シラの知恵、さらに後代のソロモンの知恵に至るまでの非常な広範囲のテキストに及んでいる」〔ラート 254〕と見ている。彼は特に、ヨブ記28章、箴言8章、シラ書24章をその重要なテキストと考えているが〔ラート 262〕、この流れは、わたしが今まで論じてきたのとほぼ一致していると思う。
この際彼は、箴言9章1節以下に、愛の女神アシタロテの祭儀が、イスラエルに入り込んできた背景を認めている〔ラート255〕。ラートの言うように、イスラエルの教師たちが、この「愚かで悪い女」(箴言9章13節以下)に対して、イスラエルに警告を発しているのは確かである。しかしながら、ここで重要なことは、9章1〜6節では、そして、まさにここにこそ「アシタロテ女神の祭儀」の影響を見るのだが、そのような「警告」ではなく、反対に、知恵が自分を求めるようにと、イスラエルの人々に訴えかけているのである。ここでは、アシタロテ女神の祭儀は、警告の対象として取り入れられているのではない。反対に「知恵の勧め」の表象の中に取り入れられているのである。しかも、「愚かで悪い女」に対する警告は、「その後で」行われている。だから、ラートの説では、まだ「この謎」を解くにはいたってはいない。
いったいここで起こったことはなんなのか。それは、イスラエルがこの女神と「遭遇した」最初の段階において、イスラエルが、先ずアシタロテ女神の祭儀を受け入れて自分たちのヤハウェ信仰の内へと取りこんだことを意味している。そうでなければ、彼女の表象が、知恵の表象として肯定的に用いられることはありえない。このような「受容」が行われた後で、初めて、本来のアシタロテ女神に対する厳しい「拒否」が可能になったのである。それが可能になったのは、女神信仰が、ヤハウェ信仰と結び、彼女の祭儀が「ヤハウェ化した」後のことであって、その前ではナイ。わたしたちはここに、ヤハウェ信仰と異教の女神信仰との間に生じる「受容と拒否」の弁証法的なプロセスを見いだすことができる。
ラートは、9章1節以下の女神の表象が、「盛んになった(アシタロテ女神の)風習から身を守るため、それとは対照をなすように(箴言のこの部分が女神の祭儀形式に)形象化された」〔ラート 255〕と述べているが、この解釈は、上のような過程を十分に意識したものとは言えないように思う。なぜなら、アシタロテ女神から身を守るために女神の表象を下敷きにしたということは、この女神の表象をいったん自分の側に取り込むという段階を経なければ意味をなさないからである。女神の表象をまったく受け付けることをせず、これに対抗するのであれば、伝統的なヤハウェ信仰をそのまま用いて対抗するはずだからである。この場合生じるのは、完全な正面衝突の力による征服である。ところが、一度「受容」の過程を経た後に起こる「拒否」とは、すでに相手の本質を己の側に含んだ上で行うわけだから、その「拒否」は、相手の挑戦を受け身で防ぐこと以上の積極的な拒否姿勢となるのである。
同じことが、シラ書の24章(1〜6節)の解釈についても言える。ここでもラートは、この部分のテキストにはエジプトのイシス賛歌が転用されているというコンツェルマンの指摘を受け入れている〔ラート 492n 17〕。しかし、ラートは、この知恵が、ヤハウェによって「造られた」ものにすぎないことを強調し、したがって、たとえ「彼女〔ソフィア〕は玉座について語っていても、このことでなんら(ソフィアについて)被造物以外のものが考えられているのではない」〔ラート 245〕と判断する。それは、シラ書が、「(旧約の)最初の創造記事と同一線上にある」と見るからである。だが、イシス賛歌を転用しながら、旧約のヤハウェ信仰と同じ線上にあるということ、そのことがどういうプロセスを内に秘めているのかをラートは十分に評価してはいないように思われる。このことは、ラートが、シラ書の知恵を箴言のそれの範囲を超えるものではないと見ている〔ラート 244〕のと無縁ではないであろう。
もう一度、知恵の書9章4節、「あなたの王座の傍らにいる知恵」に戻ることにしたい。ラートはここで、ソフィアが「創造者(女性形)」であり、神と「ともに座す者」である点に注目している〔ラート 260〕。しかし、イシス女神の表象を帯びたソフィアが、「神とともに座す者」であるとは、どういうことを意味するのかをラートはそれ以上考察していない。先に述べたように、これはソフィアが、オシリスとイシス、ゼウスとヘラ、ジュピターとジュノー、イザナギとイザナミのように神ヤハウェの配偶神であるという意味ではない。<ちなみに、ここでこの本の訳者が「神の配偶者としての女王」と訳文の中で注しておられるのは、ここで問われていることの重要性に照らすときに問題ではなかろうか?ラート自身は「配偶者」という表現を注意深く避けているのだから。>ここでは、イスラエルの知恵に、今まで以上になにか重要なことが起こっている。ラートは、知恵の書において、おそらく初めて、イスラエルの「伝統が放棄され、これに対立する新しい者が姿を現した」〔ラート 261〕ことを鋭く洞察している。彼はこの書に、「形而上的な二元論のきざし」〔ラート449〕を読み取っているが、イスラエルの知恵におけるこの決定的に重要な段階をそれ以上考察することはしていない。「ラートは問題の所在を認識している(なんら解決を示さずにである!)」〔Scott 56〕とスコットが指摘しているのはこの点である。
ヤハウェは、知恵の書において、イシスの女神に表象されるソフィアと合体する。これはラートが洞察するとおり、イスラエルのソフィア信仰にとって決定的に重要な出来事であった。しかし、この過程は、決して突然に生じたのではないであろう。これにいたる道程は、箴言において、さらにシラ書おいて、決して直線的にではないけれども、徐々に準備されてきたのであろう。ソフィアがヤハウェと合体したというのは、言うまでもなく、ヤハウェがソフィアになったことを意味しない。また、ソフィアがヤハウェ信仰の内に閉じ込められて、ソフィア本来の性格が喪失したことも意味しない。イスラエルの伝統的なヤハウェ信仰が、アレクサンドリアのヘレニズム世界との出合いを通じて、再びソフィアと出合い、そうすることによって新たなヤハウェ信仰の段階を迎えたのである。このことは、9章1〜2節にある「ロゴス(神の言葉)」と「ソフィア(知恵)」とが、「知恵のみ霊」を媒介にして再びその生き生きした関係を取り戻したことを意味する。
知恵と救済史
このような知恵の書の信仰は、伝統的なイスラエルの救済史理解においても、重要な影響を与えずにはおかないであろう。知恵の書の10〜11章には、知恵がイスラエルの歴史をどのように見ているかが語られる。ところが、シラ書の場合とは異なって、ここには過去の偉大な信仰の人たちの固有名詞が一度も現れないのである。作者はあたかも、この部分を単にイスラエル民族の歴史としてではなく、これを読む世界のすべての人たちが共有するものとして、わたしたちの歴史を再認識することを意図しているかのようである。とは言っても、旧約を知る者なら、そこに語られているのがだれのことであり、どういう出来事であるのかは容易に察しがつく。ここで作者がとっている手法は、過去の出来事を、ある特定の時代や出来事として読者に印象づける代わりに、それらの人物なり出来事なりを一つの「タイプ」として、すなわち、それらが、何時の時代でも、またどこの国にでも起こったし、将来も起こりえる事柄として印象づけるやり方である。
「しるしや不思議を予見する」とは、単に奇跡的な出来事を指すだけではないであろう。「しるし」とは、過去の出来事を現在の時代に通じる表象としてとらえ、そうすることで未来を洞察することであろう。過去がそのまま繰り返されることではない。しかし、過去は現在と未来を指し示す表象、すなわちタイプ(予型)としてわたしたちに語りかける。「季節や時の移り変わり」とは、"what the different times and seasons will bring about"〔REB〕(それぞれの時代や時節がもたらすこと)という意味である(単なる季節は予測する必要がないから)。これは単なる未来予想ではない。現在がどのような時かを知ること、その「時のしるし」を見分ける霊的な知恵のことなのである。歴史は過去の出来事ではない。また未来に起こるべきことへの預言でもない(したがって、知恵の書は黙示ではない)。それはなによりも、神の救済史の中で「今の時」がどのような時かを見分けるためにある。「このようにして著者は、イスラエルにいまだかって与えられたことのなかったほど強烈なかたちで、歴史を現在化することにも成功している」〔ラート418〕。
先に引用した7章22節にあるように、知恵の霊は「神の独り子」である。しかもこの知恵は「主に愛され」(8章2節)ている。福音書では、イエスが、神の「独り子」(ヨハネ福音書3章16節)であることと神に「わたしの愛する子」(マタイ福音書3章17節)と呼ばれることとが、ほとんど同じ意味で用いられている。このことは、知恵の書のソフィアが、来るべきイエス・キリストを予徴しているという見方を可能にするであろう。そうであれば、最初に引用した「知恵は人間を慈しむ霊である」という言葉は、この書の救済史的な視点に照らしてみるとき、受肉したロゴスにおいて現された神の愛を指し示すと受け取ることができよう。