洗礼者ヨハネ
洗礼者の社会的背景
 洗礼者ヨハネに関する直接の資料は、福音書と使徒言行録を除けば、ヨセフスの『ユダヤ古代史』に記事があるのみで、それ以外には存在しない。しかも、福音書や使徒言行録では、洗礼者ヨハネは、イエスの先駆者として位置づけられていて、その視点から語られているから、これらの記事をそのまま彼の実像に適用することはできない。
 まずヨセフスは、彼の『ユダヤ古代史』(18巻5の2:116〜19)で、洗礼者について、当時のガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスとの関連から述べている。彼は、洗礼者ヨハネが、ユダヤの人たちを正しい生活と神への敬虔へ導いた人物であると述べる。ところが、彼の評判が高まるにつれて、ヘロデは、民衆が彼に率いられて暴動を起こすのではないかと恐れ、洗礼者をマケラスの砦の牢に入れ、その後彼を処刑した。ヘロデは、ペトラの王アレタの娘であった彼の后を離縁した。このため、アレタ王とヘロデとの間に戦いが起こり、ヘロデは敗北を喫する結果となった。この敗北は、ヘロデが、洗礼者を処刑したために受けた神の罰であると当時ユダヤ人たちが思っていたと伝えている。
 洗礼者ヨハネの生い立ちについては、ルカ福音書の1章に、彼の誕生の次第が語られていて、この記事から、彼が下級祭司の家の出であったことが推定できる。なお、彼の誕生を讃えたザカリアの歌は、もとは洗礼者ヨハネ共同体の間で歌われたものであろうと考えられている。当時の祭司は、エルサレム神殿を中心とする都市の貴族的祭司階級と地方の農村に住む下層の祭司階級とに分かれていた。この両階層の間の格差は大きく、それは、当時のパレスチナの支配と被支配層との関係を反映していた。
 この意味で、洗礼者の属する階層は、そのままクムラン宗団に関連する人たちの層と重なる〔Anchor Bible Dic.III, 892〕。ただし、クムラン宗団を中心とするエッセネ派と洗礼者ヨハネとのつながりを直接に証明する資料が存在するわけではない。それにもかかわらず、彼がクムラン宗団と関係があり、一時期この宗団に入っていたのではないかとさえ推定されている(Anchor Bible Dic. III,898)、のはそれなりの理由がある。それは、エルサレム神殿の祭司やファリサイ派に対立する彼の姿勢がクムランのそれと重なるだけでなく(Betz, 206)、後で述べるように、彼の宣べ伝える洗礼が、クムランのそれをほぼ受け継いでいると見られるからである(Betz, 210)。
 洗礼者が、ヘロデ・アンティパスの手によって殉教したのは、AD28/29年とされている。したがって、それから40年を経て、エルサレムはローマ軍団によって破壊され、ユダヤの国は滅亡することになる。崩壊する国家はどの場合もそうであるが、ユダヤでも、支配層と被支配層との亀裂が、洗礼者の死後ますます深まっていった。こういう社会的な危機にあっては、さまざまな「預言者」が出現するのが、ユダヤ民族の伝統であった。洗礼者の時代にも、このような「預言者」が現われて改革を唱えたり、ローマへの反抗を試みた。
 これらの預言者は、政治的な運動によって社会に働きかけようとする行動派の預言者と、民衆に語りかけては、指導層に厳しい批判を繰り返す言論派の預言者とに大別することができる。例えば、ヨセフスは、その『ユダヤ戦記』の中で、「アナニアスの子イエスースと呼ばれるどこにでもいる田舎者」が、「エルサレムに呪いを」と何年も叫び続け、ついにローマ軍団がエルサレムを包囲するに及んで、「そしてわたしの上にも呪いを!」と叫んで、エルサレムの城壁から身を投じた話を紹介している〔ヨセフス Y,iv,(3)〕。洗礼者をイエスースと同類にはできないが、彼はエレミヤ型の「語る預言者」であったと言えよう。
水と火の洗礼
 洗礼者ヨハネは、マルコ福音書で、「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」(1章8節)と語ったとある。ところがマタイ福音書では「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。・・・・・その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(3章11節)となっている。ルカ福音書でも、「悔い改めに導くために」が抜けている以外は、マタイと同文である。問題とされるのは、「聖霊で」と「聖霊と火で」の違いである。ヨハネ福音書では、マルコと同じく「と火で」はない。
 マタイとルカは、マルコにはないQ資料を用いているから、「聖霊と火で」はQ資料から来ているというのがほぼ一致した見方である。しかし、それでも問題が残る。一つには、「聖霊」という言い方が当時のユダヤ教では見られないことである。「主の霊」あるいは「霊」が普通であり、ごく希に「聖化する霊」の意味で「聖なる霊」という言い方が見られるだけである〔荒井 『イエスとその時代』58〕。Q資料は、キリスト教の最初期の伝承を保持していると見られるから、この意味でも「聖霊」という言い方が注目される。この言葉は、キリスト教会によって初めて用いられるようになったのかもしれない〔シュヴァイツァー 36〕。最近出版された「Q文書」の復元版では、「聖霊と火」とある(Mack,82)。荒井氏も「聖霊」と「火」とが、Q資料の段階で結びついたと推定している〔荒井『イエスとその時代』 59〕。マックによれば、この二つは、終末の裁きを意味する黙示的な表象であって、「火」は悪人に対する神の正しい裁きを意味し、「聖霊」は、不当な非難を受けていた善人に向けられていると見て、「火」は裁きの預言者としての洗礼者の言葉であり、「聖霊」は、知恵の教師イエスの言葉と解釈している。
 したがって、実際に洗礼者が語ったのは、「水の洗礼」に対照させて「火であなたたちを浸す(洗礼する)」ではなかったかと考えられる〔荒井『イエスとその時代』 56〜57〕。ただし、そうなるとマルコは、本来「火」とあったのを「聖霊」と入れ替えたことになる。「火」は神の裁きを意味するから、「罪の赦しを得させる」(マルコ福音書1章4節)洗礼という意味ではふさわしくない、こうマルコは考えたからである、というのがこれに対する説明である。
 ではマタイ(とルカ)の方はどうか。なるほどマタイには、洗礼者ヨハネの洗礼について、「悔い改め」は語られるが「罪の赦し」はない。とすれば、「火」はあっても「聖霊」は要らないことになりそうだが、両方出てくるのは、マタイが、Q資料を用いたからだということで説明がつく。ただ、こうなると今度はその解釈が問題になる。いったいこの「聖霊と火で授ける洗礼」とは、「裁き」なのか「罪の赦し」なのかというやっかいな問題である。現在は「罪の赦し」の聖霊の時代であり、終末には「火」による裁きが来るという説明は、核兵器時代の現代では説得力があるが、どうもマタイの本意ではなさそうである。とすれば、マタイは「裁き」と「罪の赦し」を一体にした洗礼を考えていたことになる。神の「裁き」と「罪の赦し」という本来相容れないはずの概念を、マタイが、マルコとQ資料の二つの資料から結びつけたというだけの説明では(ルツ 206)、わたしにはどうも唐突で不自然に思われる。
 わたしたちは、もう一度洗礼者ヨハネの言葉に戻ることから始めなければならない。いったい洗礼者の言葉には、「聖霊」はなかったのか?また、洗礼者の言う「火」とは、終末の神の裁きを意味したのか?この二点が問われてくることになろう。「聖霊」に関してはほぼ否定的である。しかし、「霊」に関してはどうであろうか?この点で荒井氏が、洗礼者の実際の言葉として、「霊と火で洗礼を授ける」という可能性を認めているのに注目したい〔荒井『イエスとその時代』 59〕。本来の言葉が、「霊と火で」であったとすれば、「霊」から「聖霊」への移行は、比較的容易に推定できるであろう。
 では「火」はどうであろうか?ルカ福音書1章では、洗礼者ヨハネの誕生が予告される。その中で、洗礼者について、「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き」(16節)と語られている。ルカは、イエス・キリストの到来とそれ以前とを救済史的に明確に区別しているから、ここで「主に先立って」とあるのは、主イエス・キリストの先駆者としてという意味である。同様のことは、マタイ福音書にもあり(11章13〜14節)、洗礼者は、イエスの到来以前の預言者と位置づけられていて、彼はエリヤであると述べられている。
 しかしながら、新約聖書での洗礼者に対するこのような位置づけは、キリスト教会の側からの視点であって、洗礼者自身や彼の会衆の信条を正しく反映しているとは言い難い。むしろ、福音書のこれらの言葉は、キリスト教会とは別個のメシアを待望する洗礼者ヨハネ共同体の人たちに向けられていて、彼らをキリスト教へ改宗させようという意図を含んでいるとさえ言える。ルカは、5章33節以下で、洗礼者の弟子とイエスの弟子とを対照させてから、「新しいぶどう酒を古い皮袋に入れてはならない」と、暗に洗礼者の会衆の人たちの改宗を示唆している。ヨハネ福音書は、洗礼者の口から「わたしはエリヤではない」と言わせている。ところが、洗礼者がエリヤであるとする見方は、洗礼者の会衆においてすでに成立していたという説もある〔荒井『イエスとその時代』 49〜50〕。ブラウンはこれを否定しているが、彼は洗礼者をより直接にクムラン宗団の言うメシア到来以前の「預言者」と関連させ、これが、洗礼者自身を含めて洗礼者の会衆の洗礼者ヨハネに対する見方であったと考えている〔Brown,I,48〜49〕。
 このように見てくると、洗礼者が、その宣教活動において、なんらかの人物としてのメシアの到来を予告して、自分がその「先駆者」であると意識していたとは言えない。もとより彼が、自分に優る人物の到来を予期しなかったという意味ではないが、それ以上にむしろ、終末の裁きに向けての厳しい弾劾とこれを免れる道としての「悔い改めの洗礼」を強調していたと見る方が正しい〔Anchor Bible DIc. III, 893〕。したがって、洗礼者自身は、自分の宣教が過渡的な性格のものであるのを意識していた。洗礼者のこの過渡性は、彼の弟子たちの間にも受け継がれていて、このことが、「使徒言行録」19章で語られるように、洗礼者からイエスへの改宗を容易にしたと見ることができる〔レングストルフ 34〜35〕。だから、ルカやマタイは、イエスではない別のメシアを待望している洗礼者の会衆の弟子たちに呼びかけているわけで、この意味からすれば、福音書の洗礼者に対する位置づけは、結果的に必ずしも不当とは言えない。
 洗礼者がエリヤであるという福音書の伝承は、メシア出現の先駆けとしてエリヤの再来が期待されていたことによる。確かに、クムラン宗団でも、終末にはメシアが出現することが期待されていた。しかも、メシアは「イスラエルの受膏者」という言い方で呼ばれている〔『会衆規定』U 13〕から、メシアには特別に「主からの霊の注ぎ」があることが期待されている。もしも、洗礼者が、なんらかの人格的なメシアの到来を待ち望んでいたのであれば、そのメシアは、「火」という機能的な表象ではなく、より人格的な意味を帯びた「霊によってあなたたちに洗礼を授ける」とする方がより自然であったろう。実際には前述のように、「火で」あるいは「霊と火で」というのが洗礼者の言葉であったと推定できる。この「火で」が「水で」に対応しているのは明らかであるから、ここで考えられているのは、人格的な存在というよりも、むしろ「火」や「水」に象徴される機能的な働きの方なのである。
 このことは、洗礼者が伝えようとしていたのは、彼の後から自分よりも優れた人格が現われて洗礼を授けるという視点よりも、彼が現在授けている洗礼にまさる「第二の洗礼」が到来することに彼の強調が置かれていたことを意味する。〔Anchor Bible Dic.III 895〕マルコ福音書1章3節の「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」は、洗礼者自身の言葉に帰せられているが、洗礼者が言う「主」とは、神のことであって、マルコが示唆しているように、イエス・キリストというなんらかの具体的な人物であるとは言えない〔荒井『イエスとその時代』 51〕。
 論旨が迂回したが、再び「火」に戻ろう。洗礼者が、エリヤであるという伝承が、洗礼者の会衆にまで遡る〔荒井『イエスとその時代』 52〕とすれば、しかもそのエリヤ像が、ある人物としてのメシアの先駆者というエリヤ像を意識していたとは必ずしも言えないとすれば、わたしたちは、洗礼者ヨハネをエリヤ伝承そのものと関連づけてもう一度見直す必要があろう。その上で、エリヤ伝承と「火」との関係を考えなければならないだろう。エリヤ伝承は、列王記上1719章に基づいている。先ずエリヤは、干ばつ、すなわち雨の降らない不毛のイスラエルにいる。イスラエルでは、多くの預言者が殺されて、残っているのはエリヤ一人だけである(19章10節)。彼は孤独で荒れ野にいる。彼の命をねらうのが、アハブ王の異教の后、イゼベルであるのも洗礼者の殉教伝承と関連があるのかもしれない。
 しかし、エリヤ伝承の中核は18章にあり、エリヤは、カルメル山で、バールの預言者たちと対決する。エリヤはエルサレムではなく、わざわざバール神殿によって汚されている山で、壊されたヤハウェの祭壇を再び築く。その祭壇の上に雄牛を献げものとして載せてから、彼はこれを三度水で浸すのである。それから、イスラエルにおいて主こそ真の神でいますことを証ししてくださるように祈り求めると、天から火が降って祭壇の上のものを焼き尽くしたとある。人々はこれを見て、「主こそ神です」(18章39節)と言ってひれ伏した。
 この伝承では、エリヤは自分の祭壇を先ず水で浸す。彼はその後で、その祭壇に「主の火」(18章38節)が臨むのを祈り求める。ここで用いられている表象は、干ばつと雨ごいの水であり、雨をもたらす前兆となる天からの稲光である〔Gray 400〜402〕。しかし、「火」は同時に「主の臨在」をも意味する(例えば士師記6章21節)。このように、ここでの水と火は、不毛のイスラエルに降る主の恵みの雨あるいは主の訪れと関連している。   確かに、クムラン宗団では、「火」は「ベリアルに割り当てられた者」を「永劫の火の地獄」〔『宗規要覧U8』〕で罰するための表象であり、「神に背いた祭司」を「硫黄の火をもって罰する」〔『ハバクク書注解』X 5〕とある。このような裁きの火は、祝される者と呪われる者とを厳しく二分する二元論から出ていると思われる。マタイによる福音書3章の洗礼者の言葉に現われる「火で焼き払う」が、この系譜に属する裁きを意味しているのは間違いない。しかし、この表象をそのまま「聖霊と火」にあてはめると、マタイは全く違った二つのことを結びつけているというおかしなことになる。先のエリヤ伝承に照らしてみるときに、洗礼者がここで用いている「火の洗礼」は、もう少し違った意味に理解する必要があると思われる。
悔い改めと罪の赦し
 マルコ福音書では、「洗礼者ヨハネが荒れ野に現われて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(1章4節)とある。新共同訳では、「悔い改めの洗礼」とあって、洗礼は直接に「罪の赦し」と結びついてはいない。英訳をも含めてこれが現在の解釈である。しかし、原文は必ずしも明白ではない。「罪の赦しを得させる」が、「悔い改め」にかかるのか「洗礼」にかかるのかという語法上の問題が指摘されている〔シュヴァイツァー 34〕。「罪の赦し」が「悔い改め」と結びつくのは、旧約では珍しいことではない例えば詩編32篇5節。だから、現行の訳はおそらく正しいと思われる。
 けれども、はたして、洗礼者が、「罪の赦しを得させる」洗礼を宣べ伝えた可能性があるのだろうか?この問いを投げかけることも無意味とは思われない。この問題を考えるときに、洗礼者ヨハネの洗礼についてヨセフスが証言していることは、わたしにはきわめて重要であると思われる。彼は、洗礼者ヨハネの洗礼についてこう述べている。

 ここでヨセフスが伝えている洗礼者の洗礼への意味付けは、クムラン宗団のそれとぴったり重なる。クムランでは、魂と肉体の二元論に基づいて、まずモーセの律法に従って霊的にきよめられることが、何よりも重要な宗教的追求とされていたからである〔『宗規要覧』V3〜8〕。洗礼は、その後に、肉体をきよめるために行なわれた。このように見るならば、洗礼者の洗礼は、「罪の赦し」ではなく、まずモーセの律法を満たすことで、魂を義によってきよめ、その後に体をきよめるために行なわれたもので、この点からも、洗礼者とクムラン宗団とが関連づけられてくる〔荒井『イエスとその時代』 65〕。
 このようにして、クムラン宗団と洗礼者の祭儀では、悔い改め→罪の赦し→内面の聖化→洗礼→体のきよめ、という段階を想定することができる。しかし、この過程は、一回限りで終わることはなく、繰り返し行なわれなければならなかった。なぜなら、神は人間を義なる者と悪しき者とに分けられるからである。したがって、正しい者たちは、きよめからきよめへと聖化され、一方悪しき者たちは、呪いから呪いへと断罪されていく。このような内面的に深い二元論的な人間観は、一人一人の内省を通じて、深い罪悪感を個人の内に呼び起こさずにはおかない。クムランの洗礼が、繰り返し行なわれたのは、このことと無関係ではない。通常の日常生活では、とうてい到達しがたいほどの潔癖さを求めるこのような宗団は、社会から隔離された選民共同体の中でしか成立しえない。しかも、「きよめ」の到達度は、幾つもの段階を形成して、宗団の構成を階層化していたのである。
 このように徹底した内面的な律法遵守は、それが徹底されることによって、逆に人間性に潜む罪の意識を深める結果になったと思われる。クムラン宗団の「義の教師」と目される人が書いたと思われる『感謝の詩編』の中で、彼は「何びとも胎内から不義の中にあり、白髪になるまで背きの罪責を負う」〔W 30〕と告白する。しかし、主は「わたしの(悪の)根のうごめきの中にわたしを見捨てたまわなかった」〔X 6〕。「げに(わたしは)あなたの慈しみと憐れみの数々によりたのむ。まことにあなたは不義を贖い、あなたの義によって(人間を)罪責から(潔め)たもう」〔W 37〜38〕のである。これはほとんどパウロ神学にそのまま通じるほどに「新約的」であると言えよう。にもかかわらず、彼の信仰の中心をなしているのは主の律法である。「あなたの律法を(わたしの中に)おさめたもうた」〔X 11〕とある。もっともこの律法は、彼自身の内でほとんど秘義と言えるほどまでに内面化されている〔X 25〕。しかも、このような厳しい自己認識と自己の罪性への洞察が、パウロのように「万人への救済」へと道を開くことはない。逆に、彼をして正しい者と悪い者とのいっそう厳しい対立へと向かわせる。「なぜなら、あなたは義しい者と悪しき者とを創造したもうたから」〔W 38〕である。
 モーセ律法の徹底化による内面の「きよめ」は、人間の罪性への深い洞察を生み出す一方で、これからの解放をいっそう祈願する方向に向かわせたことは容易に推定できよう。では、人間をその罪性から解放するものは何なのか。その過程を人間に可能ならしめるのは神である。神は、「ご自分のために人の身体をきよめ分かち、その肉から不義の霊をことごとく取り去り、聖霊によってあらゆる悪行から潔め給うのである」〔『宗規要覧』W21〜22〕。わたしたちは、ここまで来て初めて、洗礼者の言う「霊」とは、どのような働きをするのかを知ることができる。それは、きよめのための「主の霊」である。しかもこのようなきよめは、「不義のくじを割り当てられればそれによって悪を行なう」人たちには与えられない。では、だれが「悔い改める」のか。神に選ばれた者たち、「光の子」と呼ばれる者たちである。その「悔い改め」はどのようにして起こるのか。「彼の上に真実の霊を、虚偽のあらゆる厭わしさと不潔の霊による汚れとからの潔めの水として注ぐ」〔『宗規要覧』W21〕ことによってである。ここでは「きよめの水」は、霊的な象徴性を帯びて現われる。この「霊」が、終末の時には、宗団をもろもろの罪から完全に解放するのである。クムランでは、このようにして、終わりの日には、一回限りのきよめの祭儀、すなわち主からの「霊の注ぎ」が期待されていたのであって、わたしたちは、洗礼者の水の祭儀の起源をここに求めることができる〔シュヴァイツァー 38〕。
主の道を備えよ
 The Anchor Bible Dictionary (III,264)によれば、クムラン宗団内では、「霊」は、ほぼつの段階に分けて考えられていた。第は、人間に生まれながらにして与えられている「霊」である。これは、人間とそのほかの獣とを区別するもので、人間にのみ備わった神からの能力につながる。おそらく、このような「霊」の概念は、ヘブライ本来のものだけではなく、ギリシア語の「プネウマ」から来る概念、当時の東地中海一帯に共通するヘレニズム思想の影響を受けたヘレニズム・ユダヤ教に基づくのであろう。
 しかし、ここでクムラン独自の二元論が生じる。それは、人間には、生まれながらにして、真理の霊と偽りの霊、義の霊と悪霊とがあり、そのどちらに支配されるかは、すでに定まっているのである。「義の子らはみな光の君に支配され、光の道を歩む。不義の子らはみな闇の天使に支配され、暗黒の道を歩む」〔『宗規要覧』V20〜21〕のである。今の時では、光の子は様々な苦しみに耐えなければならない。しかし、終末には、神の霊が注がれ、光の子らはきよめられ、闇の子らは滅ぼされる。
 第二には、宗団に入会するに当たって注がれる「わたしに賜わった霊」〔『感謝の詩編』XIII, 19〕である。これは、「神の秘義」を悟るために授かる霊である。この「わたしに賜わった霊」という言い方は、きわめて個人的な霊の賜を意味していると思われる。このことは、「神の秘義」についても言えることで、このような「霊の賜」は、一様ではなく、人によって様々な段階があったと考えられる。
 第三には、終末の時にメシアの到来によって注がれる「霊」の大傾注である。しかしこれは、「知識と神をおそれる霊をもって、悪い人々を滅ぼす」〔『祝福の言葉 』W 25〕時ともなる。そして「祭司ザドクの子らとその契約に属する人々」、および彼らの掟に従って歩んだ人たちは、「世の終わりに一つに集まったイスラエルの全の会衆」〔『会衆規定 』T,1〕となる。彼らは、メシアによって、彼の「永遠の祭司職の契約」に入ることが許されるのである。
 こうしてクムラン宗団では、律法の内面的な厳守と徹底した選民意識が、厳格な位階制度を形成していて、そこでは童貞の男子のみがメシアの祝宴を先取りする形でのパンと葡萄酒に与ることが許されていた。これらの制度全体は、「きよめ」という完璧なまでの潔癖さを軸に構成されている。このような秘儀的な共同体がクムラン宗団の本質であった。クムラン宗団のこのように清冽な生き方は、差し迫った終末意識とこれに対処する聖戦への備えを抜きにして考えることができない。
 洗礼者ヨハネの期待していた「霊と火の洗礼」は、このようなクムラン的な「裁き」と「きよめ」を受け継いでいると見ることができる。わたしたちはここで、洗礼者とクムラン宗団との連続と同時に、両者の間の断絶にも注目しなければならないだろう。今まで見てきたクムラン宗団のあり方と洗礼者ヨハネの洗礼活動との間には、幾つかの、しかも重要な違いがある。
 まず第一に、洗礼者の授ける洗礼が、一回限りのものであって、しかも祭儀的には、宗団の名前によるのではなく、彼ひとりがこれの授与者だという点である。洗礼者ヨハネが、洗礼という祭儀を重視していたのは、「洗礼者」という彼の呼び名にはっきりと現われている。彼が洗礼の祭儀を重視したのは、それが「悔い改め」と不可分に結びついていたからである。
 第二に、彼が洗礼を授けるに際して、受洗者たちになんらかの宗団的な規律あるいは規則を与えた様子がないことである。なるほど、福音書には、洗礼者が弟子たちに「祈り」を教えたことが記されている(ルカ福音書11章1節)。また、彼の弟子たちがしばしば断食したことも述べられている(ルカ福音書5章33節)。しかし、その祈りは、洗礼者の会衆の中で定型化されたもので、洗礼者自身がこれを制定したとは考え難い。したがって、彼の宣べ伝える「悔い改め」とこれに伴う「洗礼」は、なんらかの規律に基づく宗団形成を目指すものではなく、個人的な性格を帯びていたことがうかがわれる。このことは、同時に、彼が、自分のもとに集まる人たちを、他の宗団や世俗の人たちから分離しようとしなかったことを意味している。
 第三に、彼が、ユダヤ・ガリラヤの民衆全体に分け隔てなく悔い改めを呼びかけたことである。クムラン宗団は、加入者に一定の条件を課していた。例えば、「足に傷のある者、手のなえた者、足なえの者、盲目の者、耳しいの者、唖の者、肉体に目に見える傷を受けている者、年老いて弱った者、」は「会衆」に出席することが許されなかった〔『会衆規定』U6〜8〕。ところが、洗礼者は、このような制限を一切もうけなかった。
 では、実際に彼のもとに集まったのは、どのような人たちだったのだろうか。彼らは、庶民あるいは下層の人たちであったかと言えば、必ずしもそうとは言えない。彼のような言語型の預言者の場合には、(洗礼者には、イエスと異なり、奇跡物語が一切伝えられていない)一定の知識階級、あるいは比較的上層の人たちがその呼びかけに応じた可能性も大きい。少なくとも、彼の語った教えから判断すると、彼の周りに集まった人々の中には、「社会を変革できる立場にいる人たち」が相当数いたことが考えられる。彼はおそらく、ヨルダンの荒れ野だけではなく、地方の都市や農村でも、これらの人たちに語ったのであろう〔Anchor Bible Dic.III,893〕。
 このことは、第四に、彼の語ったメッセージの性格にも及んでいる。洗礼者も、クムランの人たちと同様に、エルサレムの指導者たちやファリサイ派を非難する。「われわれの父がアブラハムだなどという考えを起こしてはならない」(ルカ福音書3章8節)のだ。しかし、彼は、クムランの人たちのように、このような「アブラハムの末」が、「悪の霊」によって終末の滅びに定められているとは考えなかった。むしろ、洗礼者は、このような人たちに向かって「悔い改め」を説いた。すなわち、差し迫った終末の裁きを前にして、なお神による「罪の赦し」の恵みがあることを、クムランが拒否していたまさにその人たちに向かって彼は宣べ伝えたのである。
 このような洗礼者のメッセージは、その内容においても、クムランのそれとは大きく異なる。彼は、クムランのように、世俗の生活をできるだけ離れ、そうすることで霊と体の「きよめ」を達成し、「神の秘義」に与るようにとは説かなかった。そうではなく、それぞれに与えられた社会的身分や職業に応じて、「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」ように説いたのである。この部分の説教は(ルカ福音書3章10〜14節)、ルカの特殊資料であって、ルカの創作ではない。ここでは、悔い改めた個々の人は、それぞれに与えられた社会的身分の中で、自分の仕事を神の前に正しく実行することが命じられている。この意味で、彼のメッセージは、社会に働きかけ、その体制を変革しようとする意図を含んでいたと考えられる。そうであればこそ、ヨセフスが伝えるように、ヘロデは、民衆が彼を指導者として暴動を起こすことを恐れたのであろう。
 いったいクムラン宗団と洗礼者とのこのような違いはどこから来るのだろうか。両者に共通するのは、差し迫った終末である。冒頭に述べたように、彼の死後、40年を経ずして、エルサレムは滅亡する。それは、かつて北王国イスラエルと南王国ユダが、それぞれアッシリアとバビロニアに亡ぼされるまでの時期、アモスからエレミヤにいたる一群の預言者が輩出した状況に似ている。イザヤもエレミヤも、その時代の王や祭司を含む民衆に厳しい非難を浴びせた。しかし、彼らは、最後までこれらの人たちを見捨てることなく、神からのメッセージを語り続けて、悔い改めを訴えた。
 その際に、預言者たちは、国のうちの特定の者だけが救われて他の者は滅びるなどという二分法はとらなかった。「祭司も民も同じようだ。わたしは、彼らを行ないに従って罰し悪行に従って報いる」(「ホセア書」4章9節)という主の言葉をホセアは語った。しかし、ホセアは同時に、「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる」(6章1節)と繰り返し呼びかけたのである。
 では、クムラン宗団と洗礼者との終末に向かう姿勢が、どうしてこのように異なったのか。それは、両者の「きよめ」に対する根本的な認識の違いによる。クムランでは、モーセ律法に従って悔い改め、主の霊によって内面がきよくされることが、水による洗いの前提とされた。このような「きよめ」が、終末における救いを約束すると考えられたからである。ところが、洗礼者は、差し迫った終末の裁きを前にして、「きよめ」をこのようには見なかった。彼の目には、「きよい者」も「きよくない者」も一様に神の裁きに直面している姿が見えていたと思われる。この意味で、彼の断罪はエレミヤのそれに似て徹底していた。「きよい者」も「きよくない者」も全く同じように「暗闇と死の陰に座している」(ルカ福音書1章79節)のを彼は読みとった。彼は、この視点から、クムランの二分法を乗り越えたのである。彼の目に映った終末の状況とは、クムランの人たちもユダヤ人もサマリア人もガリラヤの人たちも、エルサレムの祭司たちも一般の人たちも、ユダヤ教に改宗した異邦人でさえもが、皆一様に終末の裁きのもとにある姿ではなかったろうか。
 
イザヤの言葉はさらに続く。

 洗礼者が引用したイザヤ書のこの部分は、人間的な肉の業が、主の前には全く意味を失うことを伝える言葉である。彼が、悔い改めの洗礼を一回限りとしたのは、終末にはただ一回の洗礼で、主の民のきよめが完成する、というクムランの考え方に影響されたのかもしれない。この意味からすれば、終末は、これから来るのではなく、すでに始まっているという切迫した認識があったのであろう。しかし、悔い改めによる一回限りの罪の赦しは、人間の内面にきよめを完成させるにはほど遠い。ここに、彼の第二の洗礼、すなわち「霊と火による洗礼」の持つ意味がある。
 洗礼者が引用したイザヤ書40章は、第二イザヤの冒頭である。この書の預言者は、バビロンに捕らわれていたユダヤの民が、ようやくエルサレムに帰還できる望みを与えられたところから語り始める。それは、厳しい裁きの後に訪れる主の救いの知らせなのである。主による裁きとこれに続く救い、これこそ、洗礼者がこの箇所を引用した真意ではなかったろうか。洗礼者ヨハネに、エレミヤのような預言者と異なる点があるとすれば、まさにこの点である。すなわち、終わりの日には、主の霊が注がれる。それは、裁きであるとともに救いの霊なのである。このような「終末の霊」への預言の直接の出所はヨエル書である。

 これは厳しい終末の裁きを通り抜けた救いのメッセージである。ヨエル書の前半では、いなごによる恐ろしい破壊が語られる。そして、ここから始まる後半では、主の霊の注ぎによる救いが語られる。この引用が、キリスト教会にイエス・キリストの聖霊が注がれた出来事と結びつけられているのはよく知られている(使徒言行録2章17節以下)。それは新しい時代の夜明けであって、終末による滅亡と破壊だけに終わらないことを告げている。
 洗礼者が見ていた終末とは、このように、破壊と裁きを通り抜けた救いの終末ではなかったのか。したがって、彼が預言した「霊と火の洗礼」とは、エリヤの祈りに応えて、祭壇の献げものを焼き尽くした火、あの主からの救いの火とも結びつくものではなかったろうか。そうであれば、この火は、「裁き」であるとともにむしろ「きよめ」の火であったことになるBetz 210〕。少なくとも、キリスト教会に注がれた聖霊の火は、汚れを焼き尽くす「み霊の火」であった。この聖霊伝承は、初期の異言体験から出たもので、それがルカの手元に届いたとされるが〔シュテーリン 70〕、ここに現われる「火/炎」の表象は、洗礼者ヨハネまで遡ることができるとわたしは考える。
 洗礼者ヨハネが、このような選民共同体から離れて、一人荒れ野で、日常の生活を営む人々に悔い改めと罪の赦しを説き、水の洗礼を一回限りとして与えたのは、水の洗礼が、内面的な清さの到達度を象徴するものではなく、やがて到来するであろう神からの「霊の火」によって、人間の力では達成できない霊性を終末において待望したからであると思われる。おそらく、彼の目には、社会のあらゆる階層の人たちが、悔い改めることで、神に立ち返り、神の霊の火によって、完全に清められた新しいイスラエルの民とされる日が映っていたのであろう。
 洗礼者の悔い改めによる水の洗いは、キリスト教に受け継がれた。ペンテコステの聖霊降臨の記事にみられるように、あるいは、洗礼者ヨハネの<水と火>との対照にあるように、聖霊によるきよめの信仰によって、洗礼は入信の時の一回限りのものとされた。水による洗いという祭儀性は、言うまでもなくその祭儀に伴う実際的な効果が期待されるときにのみ意味を持つ。ここから、水と同時に、より実際的内面的な悔い改めをもたらす力としての霊の洗礼が、水の祭儀性に伴って必然的に要求されてくることになろう。人の心を、その内面に至るまで厳しく裁く<火のバプテスマ >への期待がここに目覚めてくる余地がある。この霊による洗礼は、やがてイエス・キリストの贖いと罪の赦しという祭儀性を与えられてキリスト教に受け継がれることになった。しかも、それは、イエス・キリストのみ霊という人格的な働きかけとなってヘレニズム世界に浸透するに至った。ヨハネ福音書では聖餐の代わりに水の洗いが置かれているのもこのきよめの成就と関連すると思われる。
旧約から新約へ
 わたしたちは、洗礼者ヨハネによって始められた宣教運動が、イエスに受け継がれ、それがパウロやヨハネ共同体に引き継がれることで、旧約の時代が終わりを告げ、新約の時代が開始された、漠然とこう教えられてきた。「旧約」という呼び名の示すとおり、旧新約聖書の五分の四は、古い時代に属する。少なくともわたしはそう思いこんでいた。
 しかし、紀元前から紀元後にかけての福音の歩みに少し立ち入って見るならば、とてもそのようなおおざっぱな解釈では割り切れないほど、事態は複雑で、多岐に渡っていることが分かってくる。少なくとも旧約と新約の時代の間には、両者の断絶と同じくらい両者の連続がその裏に秘められていることが徐々に洞察できるようになってきた。わたしたちには、「福音」という言葉を、もはや旧約との断絶関係だけで用いることがためらわれる。いったいどこまでが旧約のユダヤ教で、どこからが新約のキリスト教なのかを明確に線引きすることはできない。それどころか、「旧約」と「新約」を一貫して流れる大きな霊的なうねりの波が、過去から押し寄せて未来を押し出しているのを見るのである。
 なるほど新約聖書では、「学者・ファリサイ派」は悪者扱いされており、ヨハネ福音書では、「ユダヤ人」が同様の扱いを受けている。しかし、聖書の表面に現われるファリサイ派も、その裏面に秘められているエッセネ派も、互いに対立し合い競い合いながら、大きな霊的なうねりとなって新約へと流れ込んでいるのは確かである。そこでは、律法に忠実であったファリサイ派は破棄されて、これと対立する祭儀的・預言的であったエッセネ派が福音を形成していったとさえも言えない。ファリサイ派が新しい流れの中で否定されたのなら、それと同じくらいに、いやもっと徹底的にエッセネ派の信条も否定された。クムランの信条が最古のキリスト教の母胎となったとすれば、ファリサイ派の律法主義も同じくらいにキリスト教に引き継がれている。この意味で、新約聖書に描かれているパウロに関するストーリー(伝記・物語)とその書簡の占める位置と意味は、わたしたちが想像する以上に重要なのではないかと思う。
 さらに、当時のヘレニズム世界の様々な宗教でさえ、この否定・肯定の波に連動して過去から未来へと流れる大きな変革の波を形成していたのが見えてくる。このような変革の波は、決してこのときだけの歴史的な事象ではなくて、それ以後のキリスト教の歴史で、程度の差こそあれ繰り返し生じたうねりであった。わたしたちは宗教改革のルターの運動にも、17世紀の英国のピューリタン運動にもこのような変革の波を見ることができる。それは、ルターがそれまでのカトリシズムを否定したという見方以上に、ルターがどれほどヨーロッパの中世の遺産を自己のうちに内蔵していたかという意味においてでもある。英国のピューリタン詩人ミルトンが師と仰いだスペンサーは、一面ではカトリックと決別したエリザベス朝の体制を賛美しながら、その実中世の宗教的文化的な遺産をそっくり引き継いでいるのである。
 こういう否定・肯定の波乱を明快な公式や神学で割り切ることなどとてもできない。しかしわたしがあえてここで試みたことは、「神のみ霊の働き」という、とらえ難いが動かし難い力をキーワードとして、この複雑な変革の過程を洞察することであった。このような視点の根底には、わたしたちが現在、過去の大きな変革に勝るとも劣らないほどの転換の時代にあるという、わたし自身の認識がある。今キリスト教は大きく変わろうとしているし、また変わらなければならない。そういう予見を秘めて旧約と新約とを結ぶ波乱の時代を読みとろうとするからである。
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