イエス様語録とQの人たち

はじめに
 今回からは、今まで追求してきた「知恵」とイエスとの関係を考えてみようと思う。ただし、わたしはここで、イエス・キリストの全体像を描こうと意図しているわけではない。イエス・キリストの全体像は、これを大きく二つに分けて見ることができよう。一つは、いわゆる「史的イエス」と呼ばれるもので、史実として確認できる資料に基づくイエスの実像である。今一つは、いわゆる「ケリュグマのキリスト」と呼ばれるもので、わたしはこれを「信仰のキリスト」と呼んでいる。それは、イエスの復活とイエスの弟子たちの聖霊体験に始まる「救い主キリスト」としてのイエスのことであり、新約聖書がわたしたちに伝えようとしているのは、この「信仰のキリスト」のほうである。
 言うまでもないことだが、「救い主のキリスト」というのは、福音書に語られたイエスと区別された「復活のキリスト」、すなわち新約聖書の「使徒言行録」以降の部分を指すのではない。福音書それ自体も、イエスの復活を前提にして書かれているから、そこに描かれるイエス像も「信仰のイエス・キリスト」にほかならない。
 わたしは、前回、洗礼者ヨハネをとりあげた。だから、本来なら、ここで「史的イエス」をとりあげるのが順序となるだろう。けれども、今回は、イエスの十字架刑以後の「信仰のイエス」とでも言うべき段階を先にとりあげたいと思う。それは、わたしが試みようとしているのが、イエスの全体像ではなく、どこまでも「知恵」とのかかわりの中でイエスを見ているからでもあり、また一つには、地上にあったときの「イエスの原像」は、現段階では、これに最も近い資料からその実像へとさかのぼるのが、ほとんど唯一の方法であると思うからである。したがって、「イエスの原像」については、今回の論旨を踏まえた上で、次回に扱うことにしたい。
イエス様語録(Q)の復元
 20世紀に入って、福音書の文献学的な研究が進み、福音書からイエスの史的な実像を探る努力が続けられてきた。福音書が、現在残されているイエスに関するほとんど唯一の文書だからである。最近になって、このような研究の成果として、イエス様語録、いわゆるQ資料の復元版が出版された。Burton Mack, The Lost Gospel: The Book of Q & Christian Origins. Element: 1993.がそれである。ちなみにこれの日本語訳が、バートン・マック著/秦剛平訳『失われた福音書:Q資料と新しいイエス像』(青土社、1994年)として出ている。ただし、わたしは、この著作のQ文書のテキストそれ自体については、貴重な学問的業績としてこれを評価するものの、復元されたテキストの解釈については、この本の著者とわたしの見解とは必ずしも一致していない。それは、「史的イエス」と「信仰のキリスト」に対する見方が、著者とわたしとの間で相違しているからである。
 にもかかわらず、わたしがこの著作の成果を重視するのは、この著作には、史的イエスの消息を伝えるのに最も近いとされているイエス様語録が復元されているだけでなく、彼の描くイエス像が、「知恵の子」イエスとして、わたしがかねがね考えてきたイエス像、すなわち「知恵の系譜」の中にイエス・キリストを置いて見る視点と重なるところが多いからである。以下では、この本を一つの手がかりにして、「知恵の子」としてのイエス・キリスト像に焦点を当てながら考えてみたいと思う。
 「Q」というのは、ドイツ語の"Quelle"(英語の"source"「資料」)からきている。ヨハネ福音書を除く他の三つの福音書は、いわゆる共観福音書と呼ばれてきた。その中で、マルコ福音書が最も早く、マタイ福音書とルカ福音書とは、マルコ福音書に依存する部分が多いことも知られていた。さらに、マタイとルカは、マルコにはない別の資料を共通して持っていることも知られていて、二人に共通するその部分は、イエスの語った言葉が中心になっていることから、「ロギア」あるいはイエス様語録と呼ばれた。これがQ資料である。
 Q資料は、したがって、はじめから文書として確認されていたわけではない。それは共観福音書の比較研究の中から浮かび上がってきたもので、いわば仮説の文書として想定されていたにすぎない。しかし、1970年代では、まだQ資料の存在それ自体さえ疑問視されていて、ルカがマタイからイエスの言葉を参照したという説もあった〔Anchor Bible Dic. V 567〕。例えば、わたしの手元にある1896年初版のマルコ福音書注解では、マルコ福音書とマタイの所有していた「ロギア・語録」との二つの資料があり、マルコもマタイと共通する「語録」を参照したとある〔Gould xii〕。また、1975年のシュヴァイツァーのマルコ福音書注解では、マタイとルカは、マルコ福音書を利用したが、そのほかにQ資料も利用したという、いわゆる2資料説をとっている〔シュヴァイツァー1〕。ただしシュヴァイツァーは、文書としてではない段階では、マルコも(Q資料と共通の)イエスの言葉伝承を知っていたと考えている。けれども彼は、例えばマルコ福音書(1:12〜13)の荒野の誘惑の記事では、マルコはQ資料を知らないものと解釈している。
 しかし、最近では、この部分でも、マルコは文書としてのQ資料を知っていて、その一部を採り入れていると考えられるようになった〔Anchor Bible Dic. V 567〕。マックによれば、マルコ福音書は、(1)イエスの十字架と記念の食事を含むキリスト神話伝承、(2)イエスがその対立者たちと論争した資料(Q資料には含まれない)と初期の奇跡物語、(3)Q資料を含む資料群の三つから成立していることになる〔Mack 178〕。
 Q資料が、口頭による言葉伝承ではなく、一つのまとまった文書であるかどうかについても、長らく確認することができなかった。ところが、1945年に、エジプトのナグ・ハマディという所で大量のコプト語で書かれた写本が発掘された。それらは主としてグノーシスに関係するものであったが、その中にトマス福音書と呼ばれる文書があることが分かった(1952年)。このトマス福音書は本来ギリシア語で書かれていたものである。これのコプト語訳が初めて1959年に出版された。これは全部で114の「遺訓」から成っているが、それらのほとんどが、共観福音書に含まれるイエスの言葉と類似する内容であった。それらの「遺訓」は、グノーシス的な解釈を帯びてはいるが、明らかにQ資料から出たと思われるものが多い。この発見によって、Q資料が、単なる言葉伝承ではなく、文書としてまとまって編集されていたことがはっきりしたのである。しかも、その名の示すように、トマス福音書は、単なる「語録集」ではなく、「語録福音書」として扱われていたことを示している。いったい初期キリスト教のどの段階でこれが成立したのか?グノーシスに関係しているということから、比較的後の編集であろうという説もあるが〔『聖書大事典』 830〕、マックによれば、それらの35%はQ資料と密接に関連していて、しかもそれが、Q2の段階で採り入れられたと思われる〔Mack 34 & Appendix A〕。
 以上述べただけでも、読者は、Q資料をめぐる複雑な論争の一端をうかがい知ることができると思う。現在では、Q資料はほぼ次のように考えられている。イエスと弟子たちはアラム語で語った。これがギリシア語に訳された段階で、言葉伝承から一つの文書へと編集された。そこには受難物語は含まれていない。Q資料は、少なくとも3段階(Q1ーQ3)を経て成立した〔Anchor Bible Dic. V 567〜68〕。Q1からQ2への推移の過程で、Q文書を保持していたいわゆるQの人たちに大きな変革が起こった〔Mack 132〜35〕。その後(主としてエルサレム滅亡以後)誘惑の物語などを含む追加が行なわれてQ3が成立した〔Mack 171〜73〕。
 今回出版されたQ文書は、Q1の部分だけとQ3までをまとめてそれぞれの層を書体によって区別したものと二とおりに分けて復元されている〔Mack 73〜192〕。これは「イエスの語録福音書」とでも呼ぶべきものであるが、便宜上ここではイエス様語録と呼ぶことにしたい。イエス様語録の復元は、初期キリスト教の成立過程に一つの大きな光を投じることになる。なぜなら、このような文書としてのQ資料を確認することによって、わたしたちは、現在所有している四つの福音書以外に、これらの基となった五つ目の福音書とでも言うべきものを所有することになるからである。そこに含まれる信仰やそれの成立過程は、マルコ福音書を生み出した人たちよりもさらに古い人たちの姿を浮かび上がらせてくれる。では、その人たちとはどのような性格のものであったのだろう。
Q1と「イエスの人々」
 まず、Q1とはどのようなものかを簡潔にまとめたものがあるので、それを列挙してみよう〔Mack 110ー11〕。イエス様語録を福音書と対応させる場合は、通常ルカ福音書に従うので、ここでもその例にならうことにする。

 クリスチャンならだれでも知っているこれらの言葉は、いずれもQ1からの抜粋をさらに縮小したものである。このほかに、「あなたがたの父(神)が慈悲深いように、慈悲深くなれ」(6:36)「あなたがたの敵を愛せよ」(6:27)などもある。また、「見失った羊」の話(15:4〜7)や「大宴会のたとえ」(14:15〜24)の原型もある。上にあげたもののうちで、「自分の命を護ろうとする者はこれを失う」は、ルカ福音書よりもマタイ福音書(10:39)のほうがQ1に近い。だから、ルカ福音書をQと対応させるのは、ルカのほうがマタイよりも比較的原型に近い場合が多いからというだけで、必ずしもすべてに渡ってそうだと言うわけではない。さらに、マタイもルカもマルコ福音書を採り入れる際に、マルコ福音書のある部分を省いたりこれに手を加えたりしているから、同様のことをイエス様語録にも行なっていると見るべきである。
 ところで、これらの言葉は、イエスが生前語った言葉の原型に比較的近いと見ることができる。一読して気づくのは、ほとんどが、諺あるいは格言のスタイルで語られていることである。このように機知に富む格言的な語り口は、律法とこれの解釈を軸にした正統派のユダヤ教の指導者の語り方と明らかに異なっている。それらはむしろ知恵文学に属するスタイルである。ここには、律法的な教条主義にとらわれずに、現実を鋭く洞察する視点がある。しかも、これらの格言は、必ずしも宗教的とさえ言えない。むしろその内容は現実の生活に根ざしていて、宗教や人種を超えてだれにでも納得できる普遍性を帯びているのが分かる。わたしたちは、こういう格言の集合体の奥に、並々ならぬ知性とその知的な視点を支えているユニークな個性の存在を透視することができる。
 マックは、Q1のこのような独特のスタイルをガリラヤの風土と関連づけてとらえようとしている〔Mack 53〜60〕。ガリラヤは、古来「文明の四辻」と呼ばれるように、東西の文明がパレスチナに入る通路となっていた。このためにこの地域は、独自の文化を育てることができないままに、東と西、そして南からの支配者に統治されてきたというのが通説となってきた。しかし、実際はそうではなく、そこには現実に対処する強かな政治性と鋭い知性に支えられた独特の文化が育っていたのである。ガリラヤの人々には、外国の支配に繰り返しさらされることで鍛えられた「異人種の混交した人々の持つ慧眼と自信」〔Mack 57〕が備わっていた。ガリラヤでは、従来考えられてきたよりも、はるかに急速なヘレニズム化が進行していて、エルサレムの政治的宗教的な支配は弱体化されていた。ギリシア語はほとんどバイリンガルと言えるほどにこの地方一帯に浸透しており、民衆のエルサレムへの宗教的忠誠心もそれほど強くはなかった。要するにガリラヤは、エルサレムを中心にしたユダヤとは別個の存在として、従来考えられてきたよりははるかに独立した精神的土壌を形成していたのである。「ユダヤ文化に染まった地域の中心からイエスの出現を描こうと意図するあまり、学者たちはヘレニズムのガリラヤへの影響を抑え込んできた」〔Mack 57〕とマックは言う。
 ところで、これらの格言的な言い回しは、宗教的と言うよりはほとんど哲学的な特徴を帯びているのに気がつく。マックは、このような言い回しの背後に犬儒派(the Cynic school)の哲学の影響を読み取ろうする〔Mack 58,114〜16〕。犬儒派というのは、BC4世紀中葉のギリシアの哲学者であるディオゲネスがその始祖とされていて、自然な状態での清貧な生活を理想とした。この派の人たちは、家族や地域の共同体から離れて生活し、時には礼儀を破る大胆さと率直な発言を旨とした。この哲学は後に禁欲主義として知られるストア派のゼノンに受け継がれた。ストア派とキリスト教との関係は従来からも指摘されてきている。清貧と個人主義と万民平等主義、さらに死をも恐れぬ勇気と権力者への批判などがキリスト教と関連づけられたからである。パウロもこの派の影響を受けているのではないかと言われている。犬儒・ストア派のこのような生き方は、自足の心を旨とする禅僧、特に雲水のそれに通じているようにわたしには思える。ただし、わたしは、このようなヘレニズム哲学を基準にしたマックの解釈に必ずしも賛成ではない。
 このようなヘレニズム化した精神的な風土の中では、ガリラヤのユダヤ人たちの置かれた状態は、エジプトのユダヤ人のそれに類似している〔Mack 58〕。テラペウタイのようなユダヤ人の集会は、当時の東地中海全域に散在していたから、ガリラヤもその例外ではなかったと考えることができる。「イエスの人々」とマックが呼ぶQ1の人たちは、異文化の混交の中から、次第に自分たち独自の交わりを形成していった。しかし、自分たちの交わりの始祖としてのイエスを、言葉伝承の賢者あるいは教師以上の存在とはみなしていなかったようである〔Mack 115〕。したがって、マックは彼らを「キリスト教徒」とは呼んでいない。彼らにはまだ、イエスは「神の子」ではなく、「十字架による贖い」も「終末の裁き」も彼らの教えの中には含まれていなかったからである。ただ、彼らは、自分たちの言葉伝承を人間的な哲学としてではなく、神の教えとして遵守していたから、この点で犬儒派の流れとは異なっていると言えよう〔Mack 127〕。
 ごく初期の「イエスの人々」は、Q1をいわば「神の規則」として、それぞれの家庭集会を中心にしてお互いの交流を深めていた。集会はだいたい月に一度くらいであったようで〔Mack 68〕、このような家庭集会のネットワークが、やがて交わりの形成を促し、その過程の中でイエス様語録が編集されていった。先にあげたルカ福音書(10:8〜9)の引用から判断すると、交わりを指導していた人々が、預言的な霊能を有する巡回伝道者たちであって、彼らは村や町を巡りながら家々で病人への祈りを行ない、イエスの言葉を説いて回ったと考えられる。
  マックが語るこのようなQとQの人たちへの見方は、その後大きく変化することになる。最近では、Qは、イエスの復活信仰成立の<後になって>成立したのではなく、すでにイエスの生前に、イエスの口から直接聞いた弟子たちが語り広めた言葉がQの基になっているという見解が出されている〔James D.G.Dunn,
A New Perspective on Jesus. B Baker Academic (2005).26-28.〕。わたしもこの見方に賛同する。この説によれば、Q、すなわちイエス様語録は、イエスの十字架以後の信仰共同体が作り出したものではなく、すでにイエスの生前にイエスを信じる人たちによる共同体が存在していて、イエス様語録は、そこでこれの原型が形成されていたことになる。だとすれば、イエス様語録は、ほんらいアラム語で伝えられていたことになり、これがどの段階かで、おそらくヘレニストのユダヤ人キリスト教徒によってギリシア語に訳されたことになる。したがって、以下に述べるマックの説は、このような新たな見直しによって大きく訂正されなければならない。

 この人たちの教えの要となるのは、「神の国」という独特の概念であった。しかし、Q1での「神の国」は、政治的・社会的な現実性を帯びた運動ではなく、また新約聖書に現われる終末的な裁きを伴う未来志向のメシア王国でもなかった。それは、ある意味できわめて現実的な日常生活の倫理的な理想を目指す生活原理としての域を出てはいなかったようである。
 このことは、一見相反するように見える二つの特徴を備えていた。一つは、己の内面を正しく律することができる者こそ、まさに「人の心を征する王」であるという考え方である。このような個人の倫理性を主眼とする「王」とこれが支配する心の領域としての「王国」の隠喩は、ストア哲学に限らず広く存在しており、しかも、この隠喩の伝統は、中世を経てルネサンスから近代にいたるまでの個人としての人間の道徳観を支える隠喩として機能してきた。したがって、マックが指摘するようなある特定の学派、あるいは特定の哲学とQの言葉とを結びつける必要はないようにわたしには思える。様々な思想・宗教が混在している状況は、ガリラヤだけでなく、東地中海全域において、多かれ少なかれ共通していた。もしも、犬儒派の流れを汲むストア的な哲学の影響があるとすれば、それは当時広く流布していた価値観それ自体の中にすでにそれが組み込まれていたという意味であって、特定の学派がQの人たちの形成原理に影響を与えたと考えるのは正しくないと思う。
 それはちょうど「人権と民主主義」が、現代では世界的な価値基準として共通する概念である状態と似ている。人々は、もはや、それがどの学派や思想から生じたのかを特定する必要を感じないのである。ただ、興味深いのは、現代の人権と民主主義の思想と同じく、Qの思想は、きわめて「個人」的な生活の特徴、常識や通念に束縛されない自立性の高い個人の倫理性を映し出していることである。ところが、この個人的な志向とは矛盾するようであるが、「神の王国」という概念は、今述べたギリシア的な伝統とは異なる東方的な思想から来ていると考えることができる。アレクサンダー大王による東方の征服がヘレニズム世界の基礎を形成したという見方は正しいであろう。しかし、大王の征服の結果は、当時の世界のギリシア化を促すと共にギリシアを含む西方世界へのペルシア的な東方文化の流入をも意味していた。このような東方による西方への「逆流」は、東方遠征にもかかわらずにではなく、東方遠征の成功の結果として生じた。これが紀元1世紀頃の東地中海圏の状況であった〔ヨナス 45〜47〕。
 したがって、この時代のヘレニズム化とは、まさに東方と西方との融合であって、決して一方による他方の征服ではない。これこそが、東西の狭間に位置していたガリラヤで生じたことなのである。言うまでもなく、Q1の人々の神の国は、政治・社会的な支配を意図するものではない。したがって、先に述べた個人の心の領域を意味する王国の隠喩と相対立する概念ではない。ただ、東方的な古代王国の伝統は、民衆のうちに深く根を下ろしていたと考えられるから、Q1の人たちの神の国は、ギリシア的な哲学の伝統から来る個人の概念だけで捉えることはできないことに注意しなければならないだろう。
 神の国を信じる人たちは、全体としてまとまった固有の精神的な領域を意識していたと考えられる。このことは、Q1のテキストを解読する際に心に留めておくべきであろう。それは、Q1のテキストが、生前のイエスに最も近い言葉を含んでいるとは言え、どこまでもQの人たちとしての視点から編集されていることを意味する。言うまでもなく、マックもこのことに気づいている。しかし、わたしの見るところでは、マックは、生前のイエスの歴史的な実像とQ1のテキストとをあまりに近づけすぎているように思える。両者は決して同一ではないのである。
Q2の人たちとユダヤ戦争
 Q2が編集されたのは、マックによればQ1の15年ほど後になる。Q1がAD55年頃とあるから、Q2は69〜70年頃になる〔Mack Appendix A〕。編集された場所は、Q1のガリラヤよりさらに北の方で、シリアとガリラヤの間の地域になっている。69年というのは、ユダヤ戦争が本格化した頃に当たる。すでに65年頃からユダヤ戦争の発端となるローマに対する反乱が起こり、やがてこれが拡大していった。しかし、ユダヤ人の間では、この頃から様々なセクトが出てきて、互いに反目し合う状態が続いていた。その結果、全体を組織して、統制のとれた対策を採ることができないままに、ローマとの関係の悪化だけが進行していったようで、このような内部抗争は、エルサレム陥落まで解消することがなかった。その上に、ユダヤ社会の内部には、経済的な不平等が進行していた。また、ローマとの戦争が切迫するにつれて、ユダヤ民族主義が台頭し、これとともに彼らの異邦人への反感が強まってきて、当然これに対する異邦の側からの反発を招くことになった。
 こうして、様々な派閥が統一のとれないままで66年に反乱が起こったから、混乱はいっそうひどくなった。この年に、カイザレアを始めあちらこちらで、ユダヤ人に対する異邦人側の反感から、大勢のユダヤ人が殺される事件が起こっている。ついに同年、シリアの提督ケスティオスは、第12軍団の指揮官ガロスに命じて、約30000の兵をアンティオキアに集結させ、エルサレム攻撃に向かわせることになったのである〔Anchor Bible Dic.III 841〕。
 しかし、ガリラヤの人たちが、ユダヤと同様にローマとの戦争に巻き込まれたと考えるのは誤りである。むしろ、ガリラヤでは、Qの人たちをも含めて、人々は、ローマにもエルサレムにも与みしないという立場をとっていたと見ることができる〔Mack 62〕。例えば、ガロスが、ローマ軍団を率いてガリラヤの堅固な町であるセポリスへ進軍すると、彼は逆に歓迎されている〔ヨセフス2:65〕。また、ローマの総指揮官ウェスパシアノスが、ガリラヤ湖畔にあるティベリアスを攻撃した際には、イエスースなる人物をリーダーとするユダヤ人の一団が、町にこもって徹底抗戦を企てた。しかし、その町の住民が、「少数の者の狂気の沙汰で町全体をお裁きになりませんようにお願い申しあげます。ローマ人に常に友好的であった住民の命を救ってくださるように」〔ヨセフス2 169〕と、ローマの総指揮官に願い出ている。結局イエスースの一団はティベリアスを逃げ出したとある。さらに彼らが逃げ込んだタリカイアの町でも、「タリカイア本来の住民は、自分たちの財産や町のことを心配し、はじめからローマ人と戦うことに反対していた」〔ヨセフス2:175〕というのが実状であった。
 けれども、パレスチナ全土に広がる混乱と、ユダヤ民族主義の台頭とこれに伴うユダヤ人と異邦人との反目は、Qの人たちにも大きな影響を及ぼさずにはおかなかった。ただし、Qの人たちが、この機会をとらえて、エルサレムの神殿宗教をイエスのメシア性に訴えて改革しようと意図したとは考えられない。また、ローマとヘロデ王との二重の重税に苦しむ民衆が、これを機会に、イエスの教えるメシアの王国を実現するべく革命を求めて交わりに参加したという解釈も、Q資料からは実証されない〔Mack 63〜64〕。
 確かなのは、このような危機が、ユダヤやガリラヤの伝統的な社会機構を混乱させ、これらの地域全体を保ってきた家族・社会基盤が根底から崩れるような状態に見舞われたことである。このことが、Q1の人たちをいっそう強い統一と団結へと導いていったと推定される。Q2が、交わりの規則としての性格をいっそう強めているのは、この理由によると思われる。このことは、それまでは多様で、比較的自由で清貧な個人の生き方を理想としてきた交わりが、お互いの連携を強め合い、かつ社会的にその存在を主張し始めたことを意味する〔Mack 127〕。
 しかし、この交わりは、この時期に、厳しい拒絶あるいは迫害にさらされることになった。例えば、Q1の「貧しい者は幸いだ」に始まる教えに、Q2では、「人々が人の子のために理由なくあなたがたをののしる時にあなたがたが幸いだ。喜べ。天であなたがたの受ける報いは大きい」が追加されている。これに類するものを幾つか列挙してみよう(いずれも原文を幾分縮小してある)。

 これらは、いずれも交わりが厳しい社会的な迫害にさらされていたことを示している。「ソロモンの知恵」への言及があるが、これは旧約の箴言と同じではないにしても、これを示唆しているのは間違いないであろう。また、試練に出会ったときに「聖霊」が助けを与えるとあるが、ここでは、イエス様語録にしばしば現われる「知恵」と「聖霊」との関連が特に注目されることだけを指摘しておきたい。

 これらの言葉は、迫害が、交わりの外部から加えられただけでなく、交わり内部にも厳しい対立があったことをうかがわせる。「兄弟」とは、同じ「家」の集会に所属するメンバーを指す言葉であろう。それまでは、個人的な活動に留まっていた運動が、「家」を中心とした集会とこれらを結ぶネットワークの形成へと向かい始めたと考えられる。しかし、この「家」とこれに関連した一連の項目は、単に比喩的な意味だけでなく、字義どおりに家族の基盤それ自体を揺るがすような社会的変動があったことを示唆している。
Qの人たちと「神の国」
 Q2のテキストにある「王国」とは、Q1のところで指摘したような「自分の心を支配する者こそ真の王である」という個人的な意味での隠喩としてだけではないであろう。Q2の段階では、「王国」、すなわち「神の国」は、交わりが全体として一つの支配領域を主張し始めたことを示している。その支配が、直接には社会的・政治的な意味を帯びていなかったとしても、激動する政治情勢の中で秩序の形成を志向する交わりの意図をそこに読みとることができる。人間の支配を超えた「神の支配」が、このころから交わり形成の重要な原理となっていったと見るべき〔Mack 127〕かもしれない。だが、ここでも問題となるのは、交わり内部の対立と神の国とがどのようにかかわり合っていたのかということである。
 交わりが、自分たちの運動を「神の支配・王国」と認識したことは、彼らがこれを積極的に外に向かって「宣べ伝えようとした」ことを意味する。まさにこのことが、交わりへの厳しい迫害をもたらしたと推定される。ちなみに、わたしは、このような運動の動因の一つとして、これに先立って、「使徒言行録」2章の伝承にあるような聖霊降臨体験があったのではないかと見ている。第二次大戦に先立つ経済的な危機の中で、アメリカで起こった聖霊によるリバイバル運動は、それ以後も世界的な展開を見せて今日にいたっている。これに似た体験が、Qの人たちの神の国運動の背後に読みとれるのではないかと思うからである。
 神の国運動は、それまで交わりの始祖とみなされてきたイエスの権威にも変化を生じさせた。初期の段階では、イエスはいわば交わりの創始者であり、人々は、彼の教えを「遺訓」として守ることを勤めとしていた。イエス様語録は、まさにこのような目的のために編集されたのである。ところが、Q2の段階では、イエスは、単に教えの伝承の始祖ではなくなりつつある。彼は神の王国の「王」としての権威を帯びてくるのである。もはや彼は、伝承された過去の人物ではなく、現在も交わりと共にあって、彼らの宣べ伝える神の国を支配する霊的なカリスマを帯びた人格的な存在である。「わたしと共にならない者は、わたしに逆らう者である」などは、交わり形成の原理が、もはやイエスの「語録」ではなく、イエスの人格それ自体に向けられたピスティス(忠誠・信仰)へと移行していることを示している〔Mack 140〕。それは、イエスの言葉を己の生活の規範としてきた交わりが、イエスの人格への献身的な信仰へと変貌したことを意味する。「あなたがたの目が良ければ全身が明るい」も、交わりの信仰の眼目が、神の国の統治者として現臨するイエスの一点に向けられていることに関連していると思われる。わたしが、聖霊体験をこの推移の背後に読みとるのはこのような理由からである。
Qの人たちとファリサイ派
 Q2に含まれるこれら一連のファリサイ派批判は、ルカ福音書11章(39〜52)にほぼ同じ内容で採り入れられている。いったいこのようなファリサイ派批判の背後には、なにがあったのだろう。先に述べたように、ユダヤ教は、当時その制度全体が、政治的・社会的な激変によって、そしてなによりも軍事的な脅威によって、動揺していた。とりわけエルサレムの神殿制度は、この制度に支えられた祭司団と彼らの執り行なう祭儀、それらを保護してきた貴族階級もろともに根底から脅かされていた。この危機のさ中にあって、ユダヤ教の伝統を守り抜こうと最も熱心に努めていたのが、ほかならぬファリサイ派である。彼らの律法主義は、この困難な時代にあってもなおこれに対応してユダヤ教の伝統を保持させるだけの革新的な変貌を遂げていたからである。
 彼らは、柔軟な律法解釈によって、この変動に対応できる体制を整えつつあった。事実、エルサレム陥落以後に他のすべてのユダヤ教の諸派が消滅したにもかかわらず、ファリサイ派は、その個人的な生き方と柔軟な律法主義によって、ユダヤ教の伝統を保持することができたのである。その成功は、硬直した宗教制度を個人的な生活スタイルへと変革することによって達成された〔Mack 142〕。ローマからの軍事的な圧力だけではなく、ユダヤ民族主義の高まりと過激な政治・宗教的活動との両面からの突き上げが、ファリサイ派にこのような変革を促す要因となったと推定される。
 Q2に現われるファリサイ派批判の項目は、ファリサイ派が実行していた神殿税、祭儀的きよめ、会堂制度、律法解釈、広場での会衆など全般に及んでいる。その意味で、Q2の批判は、ファリサイ派の改革路線をその全体において否定しているのである。このような全面的な対立は、Qの人たちが全体として押し進めようとしていた神の国運動のライフ・スタイルとファリサイ派の改革路線とが真っ向から衝突したことを意味する。
 先に述べたローマ軍のガリラヤ侵攻に見られるように、ガリラヤのユダヤ人たち、特に民族主義的な人たちと本来のガリラヤの住民たちとの間には、政治的な対応の仕方において食い違いが生じていた。わたしには、ユダヤ正統主義に沿おうとするファリサイ派の路線とパレスチナ全域の住民の意識とのこの食い違いが、Q2のテキストの中で、Qの人たち側からのファリサイ派への激しい弾劾と重なって見えてくる。おそらく、それは、ユダヤ正統主義の側からの交わりへの厳しい迫害に向けられた交わりの対抗手段であろう。
 しかし、なぜそのような厳しい対立が生じたのか? Qの人たちとファリサイ派とでは、このような社会変動に対処する立場が異なっていたからである。ファリサイ派の場合には、準拠すべき正統ユダヤ教があった。彼らは、これを踏まえつつ、ユダヤ教を新しい事態に適応させようと意図した。それは、従来の律法解釈をより柔軟にすることによって行なわれようとしていた。
 ところが、Qの人たちの場合には、そもそもそのような準拠すべき規範それ自体が確立していなかったのである。交わりの宗教的な背景には、東地中海全域に広がるヘレニズム・ユダヤ教があり、さらにパレスチナ全域を包含するユダヤ・サマリア・ガリラヤの多様な宗教的伝統があった。交わりは、こうした多様な人々を含む広がりにおいて構成され、そのような仕方で、まさに「新しい革袋」を自己のアイデンティティとしてきた。したがって、Qの人たちは、パレスチナ全土を覆う社会的な激動だけでなく、その激動にさらされることで先鋭化した民族主義的なユダヤ教のかかえる危機をも、二つながら自分の内部に抱え込むことになったのである。この結果として、交わりが深刻な内部対立に追い込まれたことが予想される。交わりにとっては、ユダヤ教のアイデンティティをめぐる問題は、ファリサイ派とは異なり、パレスチナの人たちが共有できる宗教的・社会的な価値観の形成と不可分な関係にあった。いわば交わりは、ユダヤ教の諸派をも含めて、これまでのどの宗派も出合わなかった問題に直面したのである。
  「知恵」と律法
  先に引用した句(11:49)にも「神の知恵」という言葉が出てくる。Q1にはなくて、Q2になって現われるのが、この「知恵」である。

 これはルカ福音書7章35節に相当するが、この節を含むルカの段落(7章31〜35節)全体が、Q2から来ている。これのほかに、Q2には、先に引用した「この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来た」(11:31)と「神の知恵もこう言っている」(11:49)とがあり、Q2に現われる「知恵」は全部で3カ所ある。「ソロモンの知恵」は、「今の時代」全般に対する警告の中で用いられていて、異邦人が逆に「ユダヤ人」を裁くことになる根拠として「知恵」が位置づけられている。ルカ福音書7章35節の「知恵」は、洗礼者ヨハネを受け入れなかった「ファリサイ派の人々や律法の専門家」たちへの非難のすぐ後に現われ、ここでもやはり「今の時代」と関連づけられている。また、ルカ福音書11章49節では、「知恵」は、ファリサイ派と律法の専門家たちに対する激しい弾劾を正当化する根拠となっている。
 このように、Q2に現われる「知恵」は、ユダヤ人、特にファリサイ派と律法学者に向けられた非難あるいは弾劾と関連づけられていて、その際に、「知恵」が、異邦人とユダヤ人とを対照させる根拠ともなっていることが注目される。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探す」(コリントの信徒への手紙一1:22)というパウロの言葉が、ここでの「ソロモンの知恵」と「ヨナのしるし」との対比に直接関連づけられるかどうかはともかく、「知恵」が、ここでは「ユダヤ人」、すなわち正統派のユダヤ教へのアンチテーゼとされているのは間違いないであろう。
 さらに、「ファリサイ派と律法の専門家」という常套句は、ファリサイ派の意図していた正統ユダヤ教の改革が、彼らの律法解釈と深く結びついていたこと、少なくともQの人たちは、ファリサイ派をこのような視点から捉えていたことを示している。ただし、ここで言うファリサイ派の「律法主義」とは、伝統的な神殿祭儀に基礎を置く律法制度のことではない。なぜなら、ファリサイ派自身も新しい律法主義を目指して、その変革を求めていたからである。このようなファリサイ派の律法主義を念頭に置くとき、これに対抗する根拠として、Qの人たちが「知恵」をいわば自分たちの拠り所と考えているのが見えてくる。
 このような「知恵」と「律法」との対照は、Q1からQ2への推移の過程と無関係ではないであろう。先に指摘したように、それは、イエスの言葉を「遺訓」としてこれを個々の生き方の規範とみなす態度から、イエスの人格それ自体に対する忠誠へと信仰の眼目が変化した。このことは、イエスの「教え」ではなく、イエスの「生き方」自体に倣うこと、ギリシア・ローマの人たちの始祖に対する姿勢で言えば、「イエスらしさ」を見習うことを意味する。Q2の人たちのこの「イエス主義」こそ、ファリサイ派の唱える正統ユダヤ教の律法主義と鋭く対立するエートスであり、「知恵」は、このエートスを支える重要な意味を担っていたと考えることができる。
 ファリサイ派が、律法主義をとったのは、これが、困難な状況の下で、ユダヤ人としてのアイデンティティを貫く唯一の道であると彼らがみなしていたからである。これに対して、Qの人たちが、自分たちのアイデンティティの拠り所を「知恵」に求めたのは、なによりも、これが「イエスらしさ」を最も的確に言い表わす内容を含んでいたと彼らが考えたからであろう。それでは、「知恵」は、どのような意味で律法と対照されるのだろうか。
 わたしたしたちは、すでにシラ書において、「知恵」と律法との関係について見てきた。シラ書では、「知恵」はイスラエルの律法とほとんど同一視されるまでに近づけられた。だが、そこに至る道が、決して平坦ではなかったこともわたしたちは知っている。
 「知恵」は、創造の初めから、ヤハウェとともに創造に携わっていた。このような原初からの存在として、「知恵」は人間に語りかける人格的な存在でもあった。このような知恵の擬人化は、宇宙秩序の女神であるエジプトのマートにまでさかのぼることができる。しかし、イスラエルの「知恵」は、人間に直接語りかける存在として、エジプトのマートと区別される〔ラート 266〕。このような「知恵」の特徴は、箴言では、人間が具体的な日常生活に対処していくために神から個人的に与えられる賜として、言い換えると、人間が個人の生活の領域で神と結びつくことのできる働きとして自覚されている。
 律法は、ヤハウェの意志を民に啓示するものであるが、律法のこの特徴は、他面ヤハウェの超越性を確保する働きもしていた。律法は、その公正さと法的な公共性の故に、人間を個人としてその内面性においてとらえることをしない。その限りにおいて、律法は非人格的・非個人的(impersonal)な特徴を帯びざるをえない。まさにこの点において、「知恵」は律法と区別される。
 イスラエルの「知恵」の具体性と個人性は、ヤハウェのもとから遣わされる「神の知恵」(11:49)としてQ2でも擬人化されている。それは、人間の肉体をも含めて一人一人に全存在的に働きかけるという意味で、様々な状況にある個々の存在に柔軟に対応するすべを与える。この特質の故に、「知恵」は、律法の教義性が越えることの難しい壁を破って日常的な普遍性に到達することができる。「知恵」は、こうして、いわば「世界市民的な知恵の教師」〔ラート 267〕になりえるのである。様々な状況に対処しつつ多様な個性を結びつける必要に迫られていたQの人たちが、「知恵」に自己の存在の根拠を見出すことができたのはこのような理由による。交わりは、自分たちを神によって生まれた「知恵の子たち」(7:35)と自覚することによって自らのアイデンティティを確立することができたのである。
 「知恵」は、上の引用でも「彼女」と女性形で表わされる。これが、ヤハウェの父性と対応あるいは対照されるのは言うまでもない。このgenderの違いは、おそらく、単なる語法上の差異を越える内容を含んでいるのであろう。神の律法に伴う裁判の隠喩は、その公正さとこれを支える公開性あるいは「外面性」によって共同体を支配する父性的な(あるいは家父長的な)原理となりえる。しかし、「知恵」は、「シラ書」やフィロンで見たとおり、父性神の陰に潜むことによって、人間の「内面性」に訴える。したがって、「知恵」は、しばしば、律法に備わる整合性を持たない。「知恵」はそれ自体で律法から独立した自律性によって動く。だから、それが公開されるときには、時には非合理性あるいは超合理性を帯びざるをえない。わたしたちは、イエスのたとえ話の中でしばしばこのような論理の「逆転」(inversion)に出合う。
 シラ書では、「知恵」は、イスラエルの律法と合体させられることで、「知恵」固有の人格性が脅かされるまでになっている〔Scott 55〕。しかし、「知恵」のイスラエル化によるこの制限は、シラ書では、「知恵」の「イスラエルへの宿り」という大きな喜びによって償われている。「知恵」は、それまでに世界のいたる所で知られていたが、それらのどこにも安住の地を見出すことができなかった。ついに彼女は、イスラエルをその宿りに選んだのである。このような「知恵の選び」は、古代エジプトのイシス神話にまでさかのぼることができる。
 「知恵」は、いわばヤハウェの花嫁となることによって、イスラエルの律法と同じく、その固有の権利をヤハウェから受け継ぐことができる資格を与えられた。それは、「知恵」がそれまで持つことを許されなかった資格、すなわち、イスラエルの救済史に参与するという資格である。このこと、つまり彼女が、律法と並んでイスラエルの救済史に参与したことは、彼女が、創造の初めからヤハウェと共に存在していたことを考え合わせると、救済史に計り知れない影響を与えたことを意味する。そして、この時から、「知恵」は律法と競合すべく運命づけられたのである。
 「知恵」がまず律法に向けた挑戦は、「死」であった。それまで、イスラエルでは、ヤハウェの「命の律法」に支えられることで、死はそれほど深刻に意識されることがなかった。しかし、コヘレトの言葉が証しするように、「知恵」は、本来神に由来するものではない「死」が、それにもかかわらず、容赦なくヤハウェの民を襲うという現実を直視させた〔ラート 447〕。命と死との厳しい二元論は、「知恵」がイスラエルにもたらしたものである。
 「知恵」は、さらにもう一つの大きな変化をイスラエルの救済史にもたらした。それは、ダニエル書に見られるような、歴史の表象化による終末の黙示である。しかも、「知恵」は、未来の終末から歴史を見るという視点と共に、この視点に立って「現在を解釈する」ことを教えたのである。わたしたちは、これの到達点をクムランの聖書注解に見ることができる。しかも、このように歴史を現在に集中するという「歴史の現在化」によって、「知恵」は、終末をも現在化する道を備えたのである。このようにして、わたしたちは、Qの人たちが、イスラエルの歴史の未曾有の危機に直面した決定的な時期に、なぜ「知恵」をその拠り所としたかを理解することができる。
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