正統と異端の狭間
正統と異端
 ヨハネ福音書はグノーシスに属する、あるいはグノーシス的傾向があるという指摘が幾人もの学者によって、なされてきた。それが何を意味するのか(あるいはしないのか)? ここで、新約聖書の文書群とグノーシス系の文書群との境界にヨハネ福音書を置いてみるのは、興味深い試みであろう。正典に属する正統派のキリスト教が、異端とされた諸文書群に対抗してどのような戦いを進めたのか、その一端が浮かび上がってくるからである(グノーシスについては講話欄の「グノーシス関係の文書」を参照)。多様なキリスト教から生まれた諸神学と、これらを支えるもろもろの教会が広がっていた当時のキリスト教は、次第にローマを軸にして、その多様の中から「統一」を勝ち取っていった。多様性に「異端」は存在しない。多様性の中に、統一と正統を持ち込むことによって、初めて異端が派生してくる。ヨハネ福音書を、そのような多様の真ん中に置いてみると、初代の正統教会が、どの辺りで「正統」と「異端」との線引きをしたのかが、かなりの程度まで洞察できるのである。
 その線引きの途上で、何が確認され何が切り捨てられたのだろうか? こういう疑問を抱いている人には、エレーヌ・ペイゲルズの『グノーシスの福音』が、一つの示唆と手がかりを与えてくれる。彼女は、ハーヴァード大学で学生の頃から、ナグ・ハマディ文書群の研究に手を染めたアメリカでも初期のグノーシス学の専攻者である。この本の初版が1979年とあるのを見ると、学生時代を60年代の学園紛争に過ごしたのではなかろうか。現在アメリカで活躍中のフェミニズムを担う女性たちは、この60年代に学生であった人が多い。この人たちに共通しているのは、読み方が政治的であることと、その政治的な視点からフェミニズムを紡ぎだしていることである。もっとも、「政治的」と言っても、この世代の人たちにとっては、その言葉それ自体が、宗教や文化など社会の在り様全体を包み込む奥行きを持っていることを忘れてはいけない。
  彼女は、原初キリスト教が、従来考えられていたよりもはるかに多様であったと見ている。教会は、紀元200年頃までには、主教、司祭、執事の三階位制へと組織化されるまでに、教会の制度化が進んでいた。この組織化と統一化の過程が、グノーシス異端の成立と迫害の時期と重なる点に、グノーシスとこれに対する正統教会との軋轢を分析する彼女の視点が置かれている。しかも、その過程の背後には、古ローマ教会の主導権獲得の一貫した政策が見え隠れしている。
  グノーシスの起源には、プラトニズム、ゾロアスター、ユダヤ教、ヘレニズム化したオリエント密儀宗教などの諸説がある。これほど多様な説が可能であることは、裏返しに見るなら、初期キリスト教もグノーシスも、どちらの発生をも促す豊穣な土壌が、東地中海文化圏に広がっていたことを物語っている。この土壌から、ユダヤ=キリスト教への反抗としてグノーシスが産まれたと言えるのかもしれない。しかし、教会が異端として争った「グノーシス」に限定するならば、それらは、ユダヤ・グノーシスに起源を持つと見られている。
  ローマ軍によるエルサレムの破壊以後に、挫折したユダヤ主義は、ファリサイ派を中心に新たな活路を見いだそうと苦闘した。このような新ユダヤ律法主義から激しい迫害を受けたのが、ヨハネ福音書を生み出す共同体の人たちであったというのが、マーティンの提示した説である。ユダヤ・グノーシスも、エルサレム破壊以後のファリサイ派と違った方向ではあるが、ユダヤ思想の新たな展開を求めていたと見ることができよう。このことは、これも発展途上にあった初期キリスト教が、新ファリサイ派と新ユダヤ・グノーシスの両面からの脅威に曝されていたことを意味している。そういう切迫した状況を想定すると、キリスト教会が、いかにも性急に、激しい攻撃をユダヤ・グノーシスに加えた理由も納得できよう。もっとも、ユダヤ教からキリスト教化していったグノーシスもあるかと思えば、ナグ・ハマディ文書には、キリスト教に起源を持つグノーシス文書もあるから一概には言えない。
 ペイゲルズは、その著書の中で、この時代の「正統」と「異端」の狭間に沿って、そこで争われた幾つかの問題点を取り上げている。彼女は、これまで一方的に正統派の側からしか論じられてこなかったそれらの諸問題を、逆に彼らの論敵であるグノーシスの視点から描き出そうと試みたのである。いかにもフェミニズム作家らしい戦術である。彼女の問題提起にヒントを得て、以下に、正統と異端との狭間に浮上した幾つかの問題を私なりに提示してみたい。
復活について
 私はルカによる福音書の24章にあるエマオの復活の記事が大好きで、復活について語るときには、きまってこの箇所を引用することにしている。ところが、その後がいけない。36節から43節には、イエスの肉体がそのままの在り様で復活したと書いてあるのだ。しかも「手で触ってみなさい。亡霊には肉も骨もない」とあって、その上、復活したイエスが、焼いた魚をみんなの前でわざわざ食べてみせるのである。この箇所を読んだときに、私はどうにもならない違和感を覚えたことを覚えている。この違和感は未だになくならない。そう言えば、マルコ福音書が、本来16章8節で終わっていたとすれば、復活は空洞の墓穴で象徴されることになるし、マタイ福音書でも復活はそれほどリアルに描かれていない。ヨハネ福音書では、有名な「トマスの懐疑」が語られていて、復活したイエスの十字架の釘の跡に指を入れてみなさいとまである。ただし、トマスが指を入れたかどうかは定かでない。
 最近の研究では、ルカの福音書は最後に書かれたもので、ヨハネ福音書よりも後ではないかという説があるらしい。かりにそうだとすれば、後になるほど復活の記事が、リアルになっていくことになる。もっともヨハネ福音書でも21章でイエスは同じようなことを行なっている。これが後からの加筆だとすれば、ルカのほうも加筆なのだろうか? 現代人の私には、描写がリアルになればなるほど、ますますトマスの懐疑が頭をもたげてくるから厄介である。
 ところが、ペイゲルズによれば、このリアルな描き方にはそれなりの理由があると言う。エマオの描き方では、イエスが霊なのか肉体なのかが、今一つはっきりしない。はっきりしないからこそ妙味があろうと言うものだが、それではいけないらしい。イエスは人間であったが、キリストは人間ではなく、言わばキリストは霊となって人間イエスの中に仮の宿りを過ごしただけだと唱える人たちが出てきたからである。これでは、十字架の死も、人間としてのイエスに関わりを持つだけのことで、救い主キリストとは無関係になってしまう。人間イエスが十字架にかけられる前に、キリストのほうは一足早く天国へ昇ってしまうからだ。いわゆる「グノーシス」と呼ばれる人たちがこの説を唱えた、というのが一応の定説となっている。
 人間イエスと霊のキリストとが二つに分離したのでは、レンブラントの描いたエマオのキリストも浮かばれない。妙味を妙味と心得ない厄介な人たちが出たお陰で、復活のイエスは、食べたくもない魚を食べさせられる羽目になってしまった。こういう詮索好きの人たちがいるものだから、これに対抗して、キリスト教会のほうも、イエスに魚を食べさせなければならなくなったというのが真相であろう。宗教的攻撃は、それが激しいほどに、これに対する防御も真剣にならざるをえなくなる。しかし、どちらかと言えば不毛なこの論争の過程で、本来の宗教的寛容もその幅も味わいもそぎ落とされて、結果として硬直した教義が、残されることになる。
 だが、話はここで終わらない。ルカのリアルな描き方にはもう一つの伏線があった。それは、使徒ペトロとの関係である。ペトロは、ご承知の通り、ペンテコステの日に全員を代表して人々に聖霊体験を証ししている。復活が霊的な妙味を剥ぎ取られて、肉体そのものが再び戻ってきたのであれば、イエスはいつまでも地上に生きていそうなものであるが、そのイエスが昇天してしまう。ただ一回限りのイエスの肉体の復活であるから、そうなると、イエスが復活したことを人々に納得させる方法は、これを目撃したペトロを始めとする使徒たちだけである。ルカでもその目撃の証人にはなれないだろう。イエス・キリストの復活は、キリスト教と教会にとって核心となる出来事だから、これを実際に目撃した人たちの証言だけが唯一の信仰の拠り所ということになると、使徒の証言が絶対的な権威を帯びてくることになる。
 パウロの場合は、やや立場が異なるようである。彼は、地上のイエスを知らなかった。しかし、彼にも復活したイエスが顕現したから、やはり復活の証人であったことに間違いはない。もっとも、生前のイエスを知らないから、彼が本当に使徒であったか無かったのか、この辺が疑われるところである。パウロはこの問題で、他の使徒たちやユダヤ人キリスト教徒から懐疑の目で見られたのは間違いない。
 復活が肉体それ自体を伴うものであれば、このイエスを信じる者たちにも同じようなことが起こる可能性が生じてくる。特にペトロのようなイエスの第一弟子は、その可能性が強い。本来信者の復活は終末に起こるものなのだが、一人ぐらいはイエスの代理人として、現在地上に存在していてもおかしくない。そこでキリストの代理人としてのペトロの存在が、クローズアップされることになる。教会は、イエス・キリストの地上での代理人としてのペトロに絶対の権威を与えることになり、その上で、使徒の証言のみが、教会の信仰の拠り所とされるに至った。かくて、四福音書が、使徒の証言としてその権威を確立することになる。
 厄介な人たちが、厄介な詮索を始めたばかりに、これに対抗しようとして厄介なことが起こったことになる。なぜなら、これでは、自分は復活のイエスを体験したなどと、うっかりエマオの弟子のような証言をしたら、たちまち異端と見なされてしまう。本来霊的な体験であるはずのイエスの復活顕現が、個々の信者の霊的体験ではなく、ひたすら使徒の証言とキリストの代理人であるペトロとこれを戴く教会だけが、唯一、信仰の拠り所となってしまうからである。これでは、個人個人が、イエス・キリストとの霊的な交わりにあって、自分の内面的な確信に支えられた信仰生活を営むことができなくなってしまう。まして、自分で福音書や使徒たちの証言を読んで、これを自分で解釈するなどとんでもないことである。
 イエスの復活の霊的な面を強調すれば、当然これを信じる一人一人の内に働く聖霊の働きも重視されるようになろう。ところがこれもまた困ったもので、そうなると、中にははみだし者も出てくる。こうなると、様々な神秘や奥義や秘義が語られ始めて、終いに収拾がつかなくなってしまう。ヴァレンティノスの弟子たちの描いた宇宙像などは、まさにグノーシス密教の曼陀羅である。「多様性こそ異端の温床である」と心得ている正統教会の危惧が、こうして頭をもたげてくる。
 かくして、主教たちの上に「教皇」が現れて、これが唯一ペトロの後継者であると宣言され、ローマこそ、キリストの教会の都にふさわしいことになった。こうなると、方々に居て、多様な神学を持つ主教たちは大迷惑で、ローマ教皇の意に反する主教たちは異端とされて追放の憂き目にあうことになる。特に「霊的な」主教ほどねらわれやすい。厄介な人たちが厄介なことを言い出したお陰で、これに対抗しようとしたキリストの教会のほうも厄介な事になってしまった。お陰で一番困ったのはエマオの弟子たちである。一人の神、一人の主、一人の教皇、一つの教会、唯一の聖書解釈がこうしてめでたく誕生したが、これと引き替えに、大勢のエマオの弟子たちが、異端とされて追放されたり、後世には処刑される羽目になったからである。
聖職者階級
 パウロがローマ人への手紙で述べている「霊」と「肉」とは、人間存在を二元論的に見ているのか? これは未だに論争の種であろう。一元論か二元論かは、事ほど左様に難しい。異端の頭とされているマルキオンは、旧約の神と新約の神とを完全に分離したことによって、「悪名高い二元論者」のレッテルを貼られることになった。マルキオンほどの頭脳明晰で高潔な人格の持ち主が、熟慮と研究の末に(その研究たるや中途半端ではない)たどり着いた結論がこういう結果に終わるのだから、神学というものは厄介なものである。
 ところが、このマルキオンに向けられた「二元論」の汚名を、正統派は、今度はグノーシスにも当てはめることにした。この適用を受けたのが、ヴァレンティノス派の人たちである。ところが、ヴァレンティノスの神は正統派の一元論と変わらないのだから、事はややこしい。弾圧者自身さえ説明できない非難をなぜグノーシスに加えたのか? そこには、一人の主教=教皇の権威を確立するための政治的な意図がこめられていたのではなかったか? というのがペイゲルズの抱いた疑惑である。教会の主流派が、異端の指導者たちに「反逆者」という現代でも立派に通用する政治的用語を適用したから、なおさらペイゲルズの疑惑が裏付けられることになった。
 一人の神、一人の主教、(一つの教会)を最初に唱えたのは、イグナティウスであるとされているが、これが「正統派」の始まりである。宗教的信念は必然的に政治的信念を帯びる。グノーシス主義者たちは、個人の霊性を重んじたから、聖職者と平信徒との区別も、女性と男性との区別も、教会の専従者と世俗の職業人との区別も付けなかった。「正統派」は、このようなグノーシスに対抗するために神学による理論付けを迫られることになった。この結果、多くの教会の指導者が危険視され、グノーシスの神は、教会の聖職者たちの神と相容れないとされてしまったのである。こうして、主教と司祭と副牧師から成る聖職者階級と平信徒との区別が生じることになった。
 聖霊の働きとは、福音を広めることで数々の集会を生み出す働きにおいては、教会形成に大きな力を発揮するけれども、一方では教会が、統一された組織体になると、聖霊は、逆にその制度を脅かす働きをするらしい。あのアッシジの聖フランチェスコ共同体も「貧しい兄弟団」と呼ばれていたように、完全な平等主義に徹していたと言われている。ところが、彼が亡くなると、その威徳を偲んで立派な聖堂が建てられるのだから、皮肉である。もっとも、その聖堂のお陰で、ジョットの筆になる聖クララの霊妙な麗しさをたたえた壁画をわたしたちも見ることができるのだからあまり文句は言えない。聖堂とは、聖堂など必要なかった時代を後世に伝えるためのものなのだ、こう考えると妙に納得できる。
 イギリスでも、17世紀に、鋳掛け屋のジョン・バニヤンは、霊に燃えて説教したために、「もぐりの」聖職者として、国教会当局によって投獄される羽目になった。「もう説教はいたしません」と言えば、いつでも牢を出られるのに、この一言をついに口から出さず、前後12年間獄中で頑張り通した話は有名である。専従の聖職者が楽だとは夢にも思わないが、平信徒伝道も決して楽ではない。
女性と聖霊
 聖書が女性差別主義であるという指摘は、以前からあった。何しろ新約聖書のパンの奇跡でも、女と子供を数えないで、男の数だけを5千人と記している(マルコ6章44節)のだから、文字どおり「女・子供はものの数に入らない」ことになる。また、聖書の神が「父の神」であることが、聖書の父権主義の根拠とされてから久しい。
 ところが、キリスト教の最初期では、女性の活躍が著しかったことも聖書のあちこちからうかがわれる。福音書では、マグダラのマリアの存在が以前から注目されてきたし、使徒言行録にも、パウロに奉仕して、彼の伝道を助けた女性のことがしばしば記されている。聖霊の働きが活発になるほどに、貴賤・性別・人種の壁が意味を持たなくなるのは自然の成り行きであるから、キリストの御霊は、男と女の区別にそれほど配慮しなかったようである。だから、教会の礼拝の折りにも、霊に満たされた女性たちが、異言を語ったり預言を行なったりしていたらしい。霊の働きと多様性とは、車の両輪であるから、当然コリントの町などでは、様々なキリスト教の集会が、それぞれの在り様で併存していたらしい。結果として、パウロ派、ケファ(ペトロ)派、キリスト派、それにアポロ派も加わって、相当にぎやかなことになっていたようである。
 イエスの御霊が顕著に働くところでは、イエスの顕現も強く意識されるだろうから、「十字架につけられたイエス・キリストの姿が、目の前に描き出される」(ガラテヤの信徒への手紙3章)場合も幾度かあったに違いにない。こうなると、イエスの復活は、かつてパレスチナで起こった一回限りの出来事を超えて、信じる者には誰にでも開かれた「現在の霊体験」になってしまう。その上、神秘体験を与えられた霊能の指導者が現れて、霊の奥義を極めたと称し始めると、人々は、使徒の権威よりも霊能の権威のほうに目を奪われるのは人情の常としていたしかたない。お陰でパウロは、手紙を書き送って、涙ながらに、叱ったり諭したり、宥めたり批判したりしなければならなくなった。
 ただし、パウロが誰を叱り、何を意図していたのかを特定することはなかなか難しい。しかし彼が、よく言えば多様で、悪く言えば種々雑多なコリントの諸集会を、自分の伝えている福音に沿って統一しようと意図したと考えて間違いないだろう。パウロは、このような意図の下に、キリストの御霊による霊的な働きを個人の体験の中に封じ込め、そうすることで公の礼拝では「秩序と一致」を守るように指導したのである。その際に彼は、使徒たちの伝える福音に従わない霊能を誇る指導者たちを厳しく批判した。
 パウロは、律法を遵守するファリサイ派のようなユダヤ教徒やこの流れに沿うユダヤ人キリスト教徒に向いては、異邦人に授与された御霊にある自由を主張して譲らなかった。しかし、「御霊にある自由な」異邦人に対するときには、使徒としてのユダヤ人キリスト教徒の立場を忘れなかったようである。彼は、多くのユダヤ人キリスト教徒の誤解や非難に曝された。けれども、これに耐えることができたのは、自分こそ正統ユダヤ教のメシアとしてのイエス・キリストを世界に広めているという密かな自負が、彼の心の奥にあったからこそではないだろうか。彼はユダヤ人から敵視されたけれども、パウロ自身は、自分が「全てのユダヤ人に優って」ユダヤ人を愛していて、そこに自分の異邦人伝道者としてのアイデンティティを置いていたと考えるほうが、より真実に近いのではあるまいか。少なくとも、パウロが、「ユダヤ人に迫害されたから、ユダヤ人に敵対していた」と考えるほど致命的な誤解はない。この誤解こそ、ヨハネ福音書が反ユダヤ主義であると解釈する誤りと同根なのである。この致命的な錯誤は、現在に至るもなお、反ユダヤ主義という形で尾を引いている。
  さて、パウロこそコリントの教会において、女性差別の元凶であるとペイゲルズにほのめかされると、これも致命的な「誤解」だとパウロを弁護したくもなる。だが、御霊の自由な働きを公式の礼拝で控えさせようとしたパウロの指導は、結果として、コリントの教会で、女性が公式の礼拝で発言したり活動したりすることを抑えることになったのは確かなようである。この時のパウロの指導が、以後のキリスト教会において、女性の活躍が制限される根拠とされたというのが、ペイゲルズの批判である。パウロが、コリントの女性の活動それ自体に対してどのような意図を持っていたのかは、判断が難しい。私にこれを訊かれても、ミルトンの女性に対する意図と同様に、その真意のほどは測りかねると申し上げる他はない。
 2世紀末に主教であったエイレナイウスは、グノーシス主義者たちが、女性を「誑かして」いて、女性が聖餐式を執り行うのを認めていると非難している〔『異端論駁』XV:1〜3〕。「誑かされた」女性が、その後正気に戻って、聖餐式の執行を止めたかどうかは定かでないが、その後に、これも霊的に優れた指導者であったモンタヌスが、同じ非難を受けることになる。少なくとも、キリスト教の初期段階では、女性の活発な働きが認められていたのが、200年頃からは、教会での女性の預言者、司祭は正統派では存在しなくなるのである。こうして、2世紀の終わりまでに、あたかもグノーシスへの弾圧と呼応するかのように、女性の活躍がユダヤ=キリスト教では認められなくなっていった。
 幸いにして、イエスが女性を他の弟子よりも愛したとピリポ福音書が伝えてくれているお陰で、性蔑視はキリスト教の本質に根ざしたものではなく、教会制度が確立する2世紀末に政治的に行なわれたと、ペイゲルズ女史も認めてくれている。ただし断っておくが、グノーシス主義者が、一様に女性差別に反対していたわけではない。むしろ、グノーシスでは、性の営みそれ自体が敵視される傾向があったから、女性にとって、「敵の敵は必ずしも味方」ではなかったようである。また、ユダヤ=キリスト教について言えば、アレクサンドリアでは、ユダヤ教のフィロンもキリスト教のクレメンスも、女性原理に肯定的であった。
母性と聖霊
 キリストの聖霊と女性の活躍との関係について述べたから、今度は聖霊と母性とのつながりに触れないわけにはいかない。ユダヤ=キリスト教には女性の神の象徴が欠如している。箴言に現れる「知恵」が、女神に近い扱いを受けている数少ない例であろう。マリアは「神の母」ではあるが「女神」ではない。「ヨハネのアポクリュフォン」には「私は父であり、私は母であり、私は子である」(U2:9〜25)とあって、この三位一体では、聖霊の代わりに母となっているのが注意を引く。ヘブライ語では、「霊」は女性名詞だから、この入れ替えはごく自然に生じたと思われる。だが、聖霊は、女性よりもむしろ母性として意識される場合が多かったようである。これの背後には、ギリシアやアジアで太古から尊敬を集めてきた「大いなる母」(the Great Mother)や、エジプトのイシス崇拝など、少し大げさな言い方をすれば、人類の宗教的・文化的伝統が横たわっていると見ることができる。
 グノーシスでは、エデンは母体を意味し、また、出エジプトは、母胎からの脱出に他ならないという解釈が行われていた。まるでユングの心理学を先取りしたような解釈である。処女降誕が、三位一体の神学理論の形成と深くつながっていることは以前から知られているから、聖霊が母性であるとすれば、父=母=子の三位一体が自然と浮かび上がってくることになる。しかも、「ナグ・ハマディ文書群」の一つであるフィリポによる福音書(82a)には、「万物の父は下ってきた処女と一つになった」とあり、その中からイエスが、「ちょうど花婿と花嫁とから成った者であるかのようにして」生まれてきたとあって、聖霊が、同時に「処女の霊」でもあることが明確に語られている。「処女マリア」と「聖母マリア」とは、こうして重なり合うことになる。この場合、母性でもあり処女の霊でもあるこの聖霊は、父と子を結ぶだけではなく、この両者を含む一切のものを成り立たせる場そのものだと考えられている。しかも聖霊に潜在するこの母性的な性質は、人間に向かって啓示されるときには、啓示それ自体の背後に身を隠すのである。すなわち外に向いて語りかけ顕現するものの背後にあって、それ自身は沈黙し、隠れた存在となる(『フィリポによる福音書』33)。
 このような母性としての聖霊観は、教父時代から中世を通じて脈々と受け継がれていて、この「母なる聖霊」こそ、父と子を結ぶカリタス(慈愛)として、三位一体を成り立たせてきていると、ヴォートケ=ヴェルナーは論証する。こういう愛の聖霊が、ヘブライの知恵文学以来受け継がれているソフィア(知恵)の系譜に属するのは、ヴェルナーの論証を待つまでもないであろう。このように見てくると、マリアが聖霊によって神の子を身ごもったという処女降誕伝承は、実はマリア自身が、聖霊そのものであることを啓示していることになろうか。
  トマス福音書』の中で、イエスは次のように語っている。「誰でも私のように父と母とを愛することのない者は、私の弟子であることはできない。というのは、私の母は私に偽りを示したからである。しかし、私の真の母は私に命を与えた。」ここでは、地上の肉体を持ったマリアと「神の母」として神の子を産んだマリアとが、明確に区別されている。「無原罪のマリア」として天へ挙げられた「被昇天のマリア」がこのようにして顕れてくることになる。カトリックのこの伝承は、言うまでもなく、三位一体に潜む母性としての聖霊をも示唆しているのであろう。ここまでくると、霊的存在としてのマリアは、もはや「神の生母」であるというよりは「神の母性」それ自体であるというのが、カーリ・ビョレセンの指摘である。マリアは、ソフィアと同じく、仲保者として人間を神へ導く(ビョレセン 359)。彼女の昇天は、人間が<体のまま>復活することの原型であり、無原罪の懐妊は、サタンの攻撃からメシアと聖母を保護するための永遠の処女性なのである。こうなると、母も子も、もはや実際の人間ではなく、神々に近い存在となろう(ビョレセン360)。
  神の子イエスが、処女懐胎と関連づけられることによって、復活の主イエス・キリストは、その血筋において、ユダヤ民族の血統のみに属するのではなく、異邦人をも含む普遍性を有することになる。マリアがヨセフとの交わりなしに懐胎したことは、ユダヤ教から見るならば、父性なしに生まれたことを意味するから、ユダヤ教では、その子が、ユダヤ民族の決定的な要素を欠いていることを意味する。もっとも、マリアがヨセフと<婚約していた>とあるから、産まれる子が<ダビデの家系>にも属するという二重の神学的構造がそこにはうかがえる。しかし、イエスが母性のみから産まれたことは、本来ユダヤ人の血筋に留まるべきであるメシアの限界を、聖霊が神の母を通じて克服したことを表していると言えよう。この意味で、マリアの「男を知らない」という言葉は、「ユダヤ人の男を知らない」と解釈されるべきであろう。こうして、私たちは、メシアの処女降誕とペンテコステの聖霊降臨とが、民族性を超える普遍性を持つことにおいて、相互に密接に結びつくことを確認するのである。
真理の教会
 グノーシスが、キリスト教会から憎まれたとすれば、キリスト教会のほうも、主教たちを自分たちの教義に従わせるために真理を迫害しているとして、グノーシスから非難されていた。エイレナエウスのグノーシス非難は、裏返しに読むならば、グノーシス側からのエイレナエウス批判をも含んでいるのかもしれない。こうして、2世紀では、互に二つの教会が非難し合うことになっていたらしい。グノーシスは少人数でも質的な教会の形成を目指していたから、「洗礼はキリスト教徒をつくらない」と主張して、正統教会の施す洗礼に厳しい目を向けていた。グノーシスに言わせると、「教会」とは、本質において霊的な存在であり、それゆえに、教会は不可視なキリストの霊体を意味していた。
 このような教会観からすれば、教会とは、なによりも「霊的に成熟した証し」を有するものでなければならなかった。ところが、これに対して、古カトリック教会(正統教会)のほうは、エイレナエウスの主張するように、洗礼・使徒信条告白・主教への「三つの従順」のみを教会の信者たちに要求していたのである。グノーシスが、会員に霊的な成熟と清さと知識を求めたのは、「真理の教会」とは、聖職者と信者との区別に基づく服従関係に存するのではなく、すべての信者の霊的な成熟にあると考えていたからである。正統派が、信者の集まりそれ自体を「教会」と定義したのに対して、グノーシスは、このような教会の在り様を無知な教会観として退けたことになる。かくして、ヒュポリトスが、ローマのキリスト教徒とその階層組織を非難すると、テルトリアヌスが、自分たちの教会のみが使徒の規範を遵守しているのであるから、「教会に疑問を抱くこと自体が異端である」と主張することになる。
 モンタヌスの場合もこれと変わらない。彼は、正統派から分離することによって自らの教会を形成し、そうすることで自分たちの教会の霊的なヴィジョンを高めようとした。彼に言わせると「教会はそれ自体が聖霊であり見えない存在」だからである。もっとも彼は、性的な禁欲と財産の放棄とを求めたから、その「霊的追求」ぶりは相当に厳しいものであったらしい。ただしここで、グノーシスを「分裂主義者」と評するのは当たらないであろう。なぜなら、彼らも、と言うよりは彼らこそ、「唯一の真理の教会」を追い求めていたのだから。グノーシスは、地上の可視的な組織体としての教会とは、その教義、その儀礼の一切を含めて、個々の信者が真理に近づくための過程にすぎないと見ていた。だが、正統派は、自分たちの教会をキリスト教信仰の唯一の正統性を有する存在と規定していたから、信者が一度教会に来たなら、彼にはもはやそれ以上に尋ね求めるべき事はなかったのである。救いとは教会に属することであり、「教会の外に救いは存在しない」というのが、その正当性の根拠とされたからである。
 古カトリックもグノーシスも、真の教会が、見える姿としてのキリストの体とキリストの御霊の二つから成り立つと考える点では、共通していた。しかし、グノーシスは、大多数の知識を欠く者たちは、「召されているが(救いを)見いだしてはいない」者と考えた。霊的体験を持たない聖職者たちは、預言したり霊的に教えたりする霊能者たちに対するねたみのゆえに、選ばれた少数の教会よりも、制度に従う「カトリックな」教会を提唱することになる、というのがグノーシス側の言い分である。このようにして、グノーシスは、古カトリック教会の三大要素である「教義と儀礼と聖職制」と衝突するに至った。ちなみに、このような非難は、17世紀のピューリタンたちが、当時のイングランド国教会に向けた非難と軌を一にしているのも興味深い。
救いと知
 紀元3世紀には、多くの修道士たちが自己の修行に励んでいたことが知られている。しかし、4世紀に入ると、これらの修道士たちは、自分の修行よりも、直接牧会の仕事にたずさわるように要請され、かつそうするように仕向けられた形跡がある。紀元150年から400年までの250年間、正統教会は、様々な様態を持つキリスト教を、あたかも政権担当の与党が、反対政党の野党を扱うように扱った。その際に、正統教会は、自分たちに反対する文書や教派を、一括して「グノーシス的」と定義づけた。この定義は、「教会の外に救いはない」という教義と相まって、正統教会の異端迫害政策に根拠を与えるものであった。このようにして、正統教会は、教会政治の一貫した政策として、全教会の統一を図っていったのである。
 グノーシスの人たちにとって、神学は、人間学と切り離すことができないものであった。なぜなら、彼らにとっては、人間のプシュケー(魂)こそ、己の宗教的な探求の場であり、救いの達成は、自己のプシュケーにおいて、それが成就することに他ならなかったからである。したがって、彼らにとって、教会は、ノアの箱船ではなく、救いに至る自己発見の場であった。この意味で、グノーシスの方法論は、現代の心理療法により近いと言えよう。ユングがグノーシスに深い関心を示したのもこのためであろう。ユングは、ヴァレンティノス派の創造神話を人間の心理的な過程と対応させて、そこに人間の自己認識の神話的表象を見いだした。ヴァレンティノス派が描き出した複雑で壮麗な宇宙像は、人間の魂に深く分け入ったところから生まれた思想を神話的に表現したものであったからである。
 このようなグノーシスの自己探求は、己の「知」の在り方を追求する困難な探求の道程にほかならなかった。彼らの辿った探求の道筋は、仏教で言う「無明から悟り」にいたる道程に近いものがある。グノーシスの解釈によれば、ルカの言う「神の国はあなた方の内にある」という言葉は、真の意味での人間の解放が、歴史的出来事によるのではなく、人間の内面的変容によって初めて可能になることを意味したのである。
 この観点からするならば、イエスは、人間に救いの道を伝える教師であり霊的な導き手と見なされることになる。言うまでもなくグノーシスは、新約聖書のイエスが、歴史的に実在した人物であることを知っている。しかし、イエスは、彼らにとって、知恵の教師ではあっても預言者ではない。ましてメシアではない。どうやら、こういうグノーシスのイエス像は、現代の聖書学がたどり着いた史的イエスの実像に近いと言えそうである。正統派は、人間の運命が救済史にあると考えたが、これに対して、グノーシスは、人間が、その主観的な直接体験によって、自らの運命を自らの力で形成することができると考えた。人は、究極のグノーシス(知)に到達することによって、クリスチャンになるのではない、彼はキリストそれ自体になるというのが、彼らの考え方であった。ここには、人間の救いの根拠をイエスの十字架という歴史的な出来事に求めるのか、それとも、イエスの聖霊による人間の内面の変容に求めるのか、この二つの救済観をめぐる対立がある。前者が正統派に属し、後者がグノーシスに属する、こう割り切ることができるほど問題が単純でないのは、キリスト教を多少でも知っている人なら分るであろう。しかし、キリスト教の救済観に潜むこの二面性は、2世紀のグノーシス論争の中で、その亀裂を露にしてきたのである。
 20世紀の初頭に、いわゆるリバイバルを求めて、人々は沈黙の祈りに入り、そこから賛美の霊歌となり、それが異言となり預言となり、癒しの奇跡が起こる事態へと発展した。このようにして起こった現代のペンテコステ運動とこれに属する諸派は、原初キリスト教時代には、まさしく正統派に属していたのである。しかしながら、原初キリスト教の聖霊運動は、2世紀の後半になって、その流れが正統と異端とに分かれることになり、次第に相互の間の亀裂を深めていった。私は決してグノーシス的な流れに賛同しているのではない。しかし、キリスト教の歴史を見るときに、正統と異端を峻別しようとする宗教政治的なイデオロギーの力を無視することはできない。なぜなら、私たちは、本来は正統性を認められていた霊的な運動が、教会の教義化と異端的な主観主義へと分断されていく過程をそこに見るからである。そのような分裂をもたらす政策遂行の元凶となる宗教的権威とは何なのか? その権力の源を見極めようとする努力を怠ってはならないと思うのである。
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