日本のキリスト教徒へ一言
2019年6月7日
現在この国には、仏教や神道に敵対するクリスチャンが少なからずいます。このようなキリスト教は、過去の日本の歴史的な状況の中から生まれたものですから、わたしは、これらのクリスチャンの信仰を一概に否定はしません。現在この国で大切なのは、「信仰の自由」だからです。しかし、私は、これらのクリスチャンに対して、次の四つの点を指摘したいと思います。
(1)現在と言うより、<これからの>キリスト教は、他の宗教に先んじて、異なる宗教同士の争いや敵視を避けるべきです。それよりも先ず、異なるキリスト教宗派・宗団の間の対立を超えて、キリストにあるエクレシアとして、一致を守ることが大切です。
(2)多様な価値観の人同士が相和することができるのが大和の人の特徴です、そのためには、現在の日本の諸宗派や諸宗教の排他的な信条を固守するのではなく、過去の人類の歩みを振り返り、自分たちの宗教を人類史的な視野から見直す必要があります。今の日本は、例えば次のような意見に耳を傾けるべきです。
「『いまの日本が日本のゴールではない』とも篠田は語る。『弥生人は移民です。そして移民は弥生時代(3世紀中ごろ)で止まったのではない。古墳時代(7世紀末ごろ)まで続くことが分かってきた』だが、いまの自分たちが、ほんとうの日本であり終着点だ、と考える政治勢力はある。『移民はいやだという人はいるし、世界には国境に壁を作る指導者もいる。そうした人には「でも、避けられないですよ」と言うしかないんです』と篠田は話す。日本列島は、先住民と渡来民が、うまく混じっていった。『来るものは拒まず。縄文人のDNAがこれだけ残っているのは、大きく争っていない証拠』です。平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した――。篠田は、この日本国憲法前文の正しさも、ゲノムの解析から裏付けられると言う。『人類のDNAは驚くほど同じ。似通っているんです。自分ができることは他人もできる。われわれが他人を信じることができれば他人もわれわれを信じられる』 しかしそれは、ネット右翼といわれる人が嘲笑するお花畑″というやつではありませんか? 『それを信じられなければ、将来はないです』篠田は、即答するのだ。科学の確信が、そうさせる。」(近藤廉太郎)〔『朝日新聞』2019年6月6日(夕刊)「人類のDNA驚くほど同じ」(東京上野国立科学博物館副館長 篠田健一)〕。
(3)現在の日本では、幸いなことに、「信仰の自由」が認められています。だから、私は、異教撲滅を唱えるキリスト教を「撲滅せよ」などとは言いません。しかし、マタイ福音書の注解で著名なドイツのルツ教授が日本で講演した時に、「あなたの言う『救い』には仏教徒も入るのですか?」と尋ねられて、「もちろん入る」と答えました。キリスト教徒のルツ教授は、仏教徒の信仰を「認めた」のです。これは論理ではなく、その時に起こった一つの出来事です。反仏教あり、親仏教あり、中立あり、それぞれ自由に、しかも、それぞれが起こっている出来事を相互に「認め合う」ことです。その中から、真理が、「出来事」となって生じてきます。「信仰の自由」とはそういうものです。わたしに言わせるなら、先ず、この日本が、三位一体の神を「三間一和(さんかんいちわ)」の大和(たまと)の神として仰ぐことが先決です。「異教」との齟齬(そご)や対立を論じるのは、<それから>でもやれます。
(4)このような神の大きな御業は、300年前のキリシタンの殉教者たち、続く250年もの間、「潜伏キリシタン」たちが血と涙と祈りで守り抜いてきた信仰、そして、明治以後から現在にいたる日本のクリスチャンの祈り、それに、この国に福音を伝えた宣教師たち、最後に、先の大戦で犠牲となった国の内外の厖大な数の人々の血の叫び、これらの人たちの神への祈りと叫びによって、神から与えられる御業です。
過去のまことのキリスト教徒として、私は、十字軍とイスラムとの闘いの最中に、死を覚悟で、イスラムの首長に面会に出かけて行き、キリスト教徒とイスラム教徒との和解を説いたアッシジのフランチェスコを想い出します。あるいは、アイルランドに初めてキリスト教を伝えた人で、伝統のケルト文化を大切にし、彼らの宗教を敵視せず、逆に恩寵によって変容させたアイルランドの守護聖人「聖パトリック」を尊敬します。インドのコルコタで、人それぞれの宗教に応じて人々の最期を看取った20世紀の聖者マザー・テレサを忘れることができません。「日本の霊の人」とは、「日本のイエス様の人」のことです。日本の「イエス様の人」は、東方教会、カトリック、リベラルと福音主義とを問わずプロテスタント諸派、さらに仏教、神道、その他の古来の数多くの民俗宗教、これらすべてを、人類史という視野の中において見る人です。こういう視野の中から、神は、必ず、今のこの国に、異なる宗教の間に「平和を創り出す」人たちを、恩寵による平安の心で「永遠の今」を生きるイエス様の人を、すなわち「大和(やまと)の霊の民」を興してくださいます。今の私は、この大いなる出来事を予見する物見の栄誉に浴している者にすぎません。「彼は主に頼った、主はそのことを彼への義と認めてくださった」(創世記15章6節)。神の恩寵とはこういうことです。
日本の霊の民へ