「日本の霊の民」への批判
                   
(2019年9月)
「日本の霊の民」などと言えば、老年になって頭がおかしくなり、ナショナリズムに幻惑されたという批判を受けるかもしれません。しかし、そういう批判をする人に、私は、二つのことを提言したいと想います。
(1)日本の霊の民が民族主義的だと批判する人は、その人がクリスチャンでも、自国の国と民を愛する気持ちとキリスト教信仰とを一つにすることできませんから、心からわき上がる愛国と敬神の情に生きることが決してできません。こういう日本人のクリスチャンに対して、アメリカ人やイギリス人やドイツ人やポーランド人やフランス人などは、愛国と敬神を一つにすることをごく自然に行なっています。
(2)愛国と敬神とが一つにならなければ、その民には、あの太平洋戦争の時のように、狭く歪んだ熱狂的で排他的な国粋主義が必ず芽生えます。性欲を抑圧すれば、歪んだ性暴力が噴出するように、正しい愛国を否定された民は、必ず、排他的で熱狂的な民族主義に取り憑かれる危険があります。これに対して、日本の霊の人の霊性は、科学の驕りを抑え、権力の横暴を防ぎ、諸宗教の排他的な独善を戒めるものです。
 私の頭がおかしくなった、あるいは狂信に陥った、こう思う方にお願いしたい。いったい、私が言う「キリスト教」とは、「どのような」キリスト教のことなのか? この点から、改めて私の「日本の霊の人」を見直していだければ幸いです。
                 日本の霊の民へ