「日本の霊の人」について
(2021年1月17日)
言うも愚かですが、人間は、だれでも、必ずどこかの時代のどこかの国、あるいは民族に所属していて、その伝統を受け継いでいます。「ナザレのイエス」という呼び名は、まさにこのことを指していて、今から二千年ほど前にパレスのナザレから出た一人のユダヤ人である「人間」のことです。このナザレのイエス様を通じて、宇宙を創造された神御自身が啓示されたというのが、新約聖書がわたしたちに伝えるメッセージです。神は、復活したナザレのイエス様に宿る聖霊のお働きを受け入れる者に、それまで体験したことのない「新しい永遠の命」を与えて、新しい「霊の人」(ホモ・スピリトゥス)に変容させてくださる。これが、新約聖書のメッセージです(ヨハネ3章3節/エフェソ4章22〜24節)。神の御業は、「ホモ・サピエンス」(英知の人)と称され、同時に「ホモ・レリギオーゥス」(宗教する人)でもある人類が、「ホモ・スピリトゥス」(霊の人)として、新たに創造される出来事にほかなりません。イエス・キリストの御霊によって、それまでの「宗教するユダヤ人」の中から「霊のユダヤ人」となる者が生まれる。神々を信じていた「宗教するギリシア人」の中から「霊のギリシア人」にされる者が現れる。これが、イエス様が言われた「新しく生まれる」ことです。特定の宗教を信じていてもいなくても、人は誰でも、何らの意味で「宗教する人」ですから、「キリスト教国」と言われる国の民も、キリスト教ではない宗教を信じる民も、同じ「宗教する人」であることに変わりありません。キリスト教を信じる欧米の民であっても、その全部が、新約聖書が言う「新しく生まれた霊の人」であるとは言えません(ローマ2章17〜24節を参照)。キリスト教国と言われる民でも、「まことの霊の人」は、むしろ「隠れた(内面の)霊の人」(ローマ2章29節を参照)です。多くの聖堂が建ち並ぶ欧米の都市でも、残念ながら「まことの霊の人」は少数派です。誰が「まことの霊の人」で、誰がそうでないかは、人には見分けがつかないとあります(マタイ7章21〜23節/同13章24〜30節を参照)。
日本列島に人類が住み着いたのは、今からおよそ4万年ほど(?)前だと云われています。縄文時代から現在まで、日本人は、「日本の宗教する人」(ニッポン・ホモ・レリギオースゥス)として、原始宗教から神道や仏教まで、様々な宗教を共存させてきました。令和の日本の時代にイエス様を信じて、新しく「霊の人」にされたクリスチャンを私は「日本の霊の人」(ヤマト・ホモ・スピリトゥス)と呼ぶことにしたい。「日本の霊の人」は、ナザレのイエス様に宿っていた「聖霊」を宿すことで、新たにされた「日本の宗教する人」(ヤマト・ホモ・レリギオースゥス)のことです。「ナザレのイエス」は、二千年前のパレスチナ人ですが、三位一体の神の御子であり、あらゆる時代のあらゆる人類を引きよせる「救い主」(キリスト)です。同じように、はるか昔からの日本人が、ナザレのイエス様によって「霊の人」になるのが「日本の霊の人」です。当然のことながら、この呼び名に対応して、「韓国の霊の人」「中国の霊の人」「インドの霊の人」「ジャワの霊の人」「アメリカの霊の人」「エチオピアの霊の人」「ロシアの霊の人」などが対応します。
私は、人類学的な視野から見て、イエス・キリストの聖霊の働きかけを受ける現在の人類、「英知の人」(ホモ・サピエンス)が、イエス様の福音によって「霊の人」(ホモ・スピリトゥス)とされることが、なんらかの意味で、人類の進化につながると考えています。今はまだ、イエス様の出現から<わずか>2千年しか経っていませんが、何万年、何十万年後には、イエス様の聖霊のお働きが、現在の人類に、なんらかの顕著な特長を現すと考えるからです。だから、「日本人であることはクリスチャンに合わない、あるいは反する」などと言うことが、いかに愚かでおかしな発言であるかが分かります。当然のことですが、「日本の霊の人」は、縄文時代や弥生時代以来の日本の伝統文化を受け継いでいます(そうでなければ「人間」でありません)。なんだか当たり前のことを言っているようですが、「日本のクリスチャン」では言い表わすことのできない霊性の有り様が、「日本の霊の人」にこめられていることを察知していただければ幸いです。
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