高雄山護国寺院の成立
●高山寺と神護寺
 奈良時代末期の光仁天皇(こうにんてんのう)(生没708〜782年)は、桓武天皇の父である。光仁天皇は、奈良の仏教の堕落を批判した(孝謙=称徳天皇などの行為を指す)。藤原不比等系の女帝である称徳(しょうとく)天皇の没後、彼は、藤原永手(ながて)・百川(ももかわ)らによって皇太子に擁立され、同年即位した(770年)光仁天皇は、聖武天皇の娘である皇后井上内親王の他戸(おさべ)親王を皇太子としたが、大逆を理由に皇后・皇太子を廃し(772年)、もう一人の皇后である高野新笠(たかののにいがさ)(推古天皇)を母とする皇子の山部(やまべ)親王(桓武天皇)を皇太子とすることで(773年)、聖武天皇の娘である孝謙=称徳天皇系から絶縁した。
  渡来の秦氏本宗家は、少なくとも古墳時代中期から、その勢力を「山背」(山城)(やませ)の葛野郡を中心に、北部の愛宕郡・紀伊郡、そして、乙訓郡へと拡大させたことで知られる。山背には、渡来人たちが多かった。これら山背国北部は、秦氏本宗家の有する土木技術や殖産興業で、畿内において経済的にも文化的にも一気に先進地帯へと発展して行く。具体的には、現在の京都市内とそ周辺にあたる葛野郡蜂岡寺・広隆寺、乙訓郡の乙訓寺など、各地に仏教寺院が建立される。高雄山寺もその一つではないか(740年頃か)
 高尾・槙尾・栂尾の三尾は、交通が開かれていたから、藤原仲麻呂の乱で(764年)、藤原仲麻呂の軍に対抗して、孝謙天皇(と弓削道鏡)の軍が戦い、孝謙=称徳天皇の軍が勝利した所である。和気清麻呂は、天皇の側に味方し、道鏡を喜ばせ、後に権勢を得た。
 高山寺は、ほんらいは、「高雄(たかお)山寺」と呼ばれ、光仁天皇の勅により、「神願寺都賀尾坊」と称されていた(774年)。光仁天皇(天武と持統系)の勅に基づいて、奈良・大安寺の僧慶俊が本願主となり、和気清麻呂が奉行となって、後世に「愛宕五坊」と呼ばれる道場が、(京都の)愛宕山を中心に開拓された(781年)。
 8世紀には、宇佐八幡宮を始め、近畿から東北にかけて、神と仏との修合によって、僧による神官の支配が行われた。また、8世紀には、疫病の流行や災害の祟りから国家を護るための呪術信仰が盛んになり、数多くの護国のための国分寺(「分」は国のためを意味)が建てられた。山背(山城)(やませ)の「高雄神願寺」(782年〜806年)もその一つであろう【「朝日百科日本の歴史」II巻(54号)311〜313頁】。
 明恵上人(しょうにん)は、鎌倉時代の初め(1206年)に後鳥羽上皇に願い出て、この寺の住職の任を与えられると、明恵は、高雄山寺を「日出先照高山寺」【日いでて先ず照らす高山(こうさん)の寺】と称した。これが、現在の高山寺(こうさんじ)である。
 京都の高雄にある神護寺については、弘法大師は、「神護国租真言寺」への改名以前の(一つの塔頭の?)住職であった(809年)。空海は、この寺院で、最澄たちに、真言密教の灌頂(かんちょう)の儀礼を授けた(812年)。
 和気清麻呂の五男である和気真綱は、天長元年(824年)に正五位下に叙せられた。同年に彼は、かつて父・和気清麻呂が建立し桓武天皇により定額寺に列格されていた神願寺について、寺域が汚(けが)れているとして、高雄山寺の寺域と交換して、新たに神護国祚真言寺と称することを、弟・仲世と共に言上して許されている。
 こうして、天長元年(824年)に、真綱、仲世の要請により、国家護寺のために、高雄山寺と、和気清麻呂が以前に河内に建てていた神護寺(じんごじ)(大阪府柏原市の太平寺跡に遺る知識寺〔ちしきじ〕?)とを合併し、寺名を神護国祚真言寺(略して神護寺)と改め、一切を空海の功績に付嘱し、それ以後真言宗の寺として今日に伝わる。
●道鏡と女帝の孝謙天皇(藤原不比等系)(在位749年〜758年)
孝謙上皇=称徳天皇(在位764年〜770年)
 道鏡(700年〜772年)は、河内国若江郡(現在の八尾市の一部)出身の僧で、葛城山などで厳しい修業を積み、修験道や呪術にも優れていて、孝謙上皇(東大寺を建てた聖武天皇と光明皇后の娘)の病気を治したことから重用され、称徳天皇と結ばれるようになった。孝謙上皇は、764年に称徳天皇として再び即位し、西大寺や西隆寺を建てたり、百万塔(100万個の木製三重塔)を製作し諸寺に置くなど、仏教を中心とした政治を推し進めた(道鏡の影響)。道鏡は、称徳天皇の引立てにより、766年には、宗教界の最高の位である「法王」となった。道鏡を皇位につけようとした九州の宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)神託(しんたく)事件(769年)が有名であるが、称徳天皇の道鏡に対する信頼は揺らぐことがなかった。
和気清麻呂(733年〜799年)
「和気 清麻呂(わけのきよまろ)は、奈良時代末期から平安時代初期にかけての貴族。備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)出身。天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱では孝謙上皇側に参加した。天平神護元年(765年)正月に、乱での功労により勲六等の叙勲を受け、3月には藤野別真人から吉備藤野和気真人に改姓している。右兵衛少尉を経て、天平神護2年(766年)従五位下に叙爵した。
 神護景雲3年(769年)7月頃に宇佐八幡宮の神官を兼ねていた大宰府の主神(かんづかさ)・中臣習宜阿曾麻呂が、宇佐八幡神の神託として、称徳天皇が寵愛していた道鏡を皇位に就かせれば天下太平になる、と奏上する。道鏡はこれを聞いて喜ぶとともに自信を持ち(あるいは道鏡が習宜阿曾麻呂を唆して託宣させたともされる)、自らが皇位に就くことを望む。称徳天皇は神託を確認するため側近の尼僧・和気広虫(法均尼)を召そうとしたが、虚弱な法均では長旅は堪えられないため、代わりに弟の清麻呂を召して宇佐八幡宮へ赴き神託を確認するように勅した。清麻呂は出発にあたって、道鏡から吉報をもたらせば官位を上げる(大臣に任官するとも)旨をもちかけられたという。一方で、道鏡の師である路豊永からは、道鏡が皇位に就くようなことがあれば、臣下として天皇に仕えることなど到底できない、自分は殷の伯夷に倣って身を隠そうと思う旨を伝えられる。清麻呂はこの言葉を当然と思い、主君のために命令を果たす気持ちを固めて宇佐八幡宮に参宮する。
 清麻呂が宝物を奉り宣命を読もうとした時、神が禰宜の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣し、宣命を聞くことを拒む。清麻呂は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を聞くように願い出て、与曽女が再び神に顕現を願うと、身の丈3丈(約9m)の満月のような形をした大神が出現する。大神は再度宣命を聞くことを拒むが、清麻呂は与曽女とともに宇佐八幡宮大宮司に復した大神田麻呂による託宣、「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」を朝廷に持ち帰り、称徳天皇へ報告した。清麻呂の報告を聞いた道鏡は怒り、清麻呂を因幡員外介に左遷するが、さらに、別部 穢麻呂(わけべの きたなまろ)に改名させ、大隅国に配流した(宇佐八幡宮神託事件)。道鏡は配流途中の清麻呂を追って暗殺を試みたが、急に雷雨が発生して辺りが暗くなり、殺害実行の前に急に勅使が派遣されて企みは失敗したともいう。
 神護景雲4年(770年)8月に称徳天皇が崩御して後ろ楯を無くした道鏡が失脚すると、9月に清麻呂は大隅国から呼び戻されて入京を許され、翌宝亀2年(771年)3月に従五位下に復位し、9月には播磨員外介に次いで豊前守に任ぜられて官界に復帰した。
 清麻呂は、天応元年(781年)桓武天皇が即位すると、一挙に四階昇進して従四位下に叙せられる。光仁天皇(天武と持統系)の勅に基づく奈良・大安寺の僧慶俊が本願主となり、和気清麻呂が奉行となって、後世に「愛宕五坊」と呼ばれる道場が、(京都の)愛宕山を中心に開拓された(781年)。清麻呂は庶務に熟達して過去の事例に通暁していたことから、桓武朝において実務官僚として重用されて高官に昇る。延暦2年(783年)摂津大夫に任ぜられ、延暦3年(784年)従四位上に昇叙されるが、摂津大夫として以下の事績がある。 延暦4年(785年)には、神崎川と淀川を直結させる工事を行い平安京方面への物流路を確保した。その後、延暦7年(788年)にのべ23万人を投じて上町台地を開削して大和川を直接大阪湾に流して、水害を防ごうと工事を行ったが費用がかさんで失敗している(堀越神社前の谷町筋がくぼんでいるところと、大阪市天王寺区の茶臼山にある河底池はその名残りとされ、「和気橋」という名の橋がある)山背国葛野郡宇太村を選んで平安遷都の建設に進言し、延暦12年(793年)自ら造営大夫として尽力した。
 延暦3年(784年)に、遷都後10年経過しても未だ完成を見なかった長岡京に見切りをつけて、彼は、山背国葛野郡宇太村を選んで平安京への遷都を進言するとともに、延暦12年(793年)には造宮大夫に任ぜられ、自身も建都事業に尽力した。延暦15年(796年)に従三位に叙せられ、ついに公卿の地位に昇っている。
●慶俊(けいしゅん)(生没年不詳)
 慶俊 (けいしゅん)は、奈良時代の聖徳太子に始まる南都仏教の大安寺の僧。慶峻とも書く。慶俊は、河内国丹比郡(大阪府藤井寺市付近)の渡来系氏族葛井(藤井)氏の生まれ。同氏や船氏や津氏は、西文氏につながる氏族で。河内南部に居住し、伝統的に仏教と縁が深い。光明皇后の母県犬養橘三千代の本貫地河内国古市郡とも近い。731年(天平3)大安寺の請経牒(しようきようちよう)(借りたい経典の名を記す文書)に自署し、751年(天平勝宝3)東大寺写経所目録は慶俊所持の経典中で借りたいものの名を記す。753年4月大安寺仁王会講師18人中に名をつらね、同8月法華寺の文書に同寺大鎮として署名し、756年「律師」と記される。道鏡によって排斥されたが、770年(宝亀1)光仁天皇の即位と共に復任し少僧都(しようそうず)となる。
 慶俊は、出家後大安寺に属し、入唐僧の道慈を師として三輪、法相、華厳などを学ぶ。華厳講師などを経て、天平勝宝5(753年)には法華寺(光明皇后の宮を寺院とした宮寺を起源とする)の大鎮となる。同8年、聖武天皇の死に際して「聖代の鎮護に堪え、玄徒の領袖たり」と讃えられて、律師に任じられた。こうした昇進の背景には学問的教養のほか、光明皇后や藤原仲麻呂と慶俊との強い連携が想定される。慶俊は仲麻呂政権の崩壊とともに失脚。道鏡の没落後(770年頃)に、律師に返り咲いた。
                初期朝廷の神仏習合へ
 
*以上の記事は、高山寺と神護寺の案内書と共に、日本版ウイキペディア、その他の文献を参照し、それらに準拠した。
*秦氏による三尾での仏像を安置したお堂などの建設が、後の平安京遷都への大きな背景になっていることが分かる。