胎蔵曼荼羅図とキリストの御霊 
                                   (2025年1月6日完成)
【曼荼羅の宗教界】
 東寺の胎蔵曼荼羅図を眺めていると、大日如来を中心に、そこにひしめく様々な仏(ほとけ)たちの数の多さに圧倒されます。そこには、如来たち、菩薩たち、仁王たち、天(王)たち、それらの眷属たちなど、およそ人間のありとあらゆる願い事に応えてくれる仏たちが並んでいます。広大な天空の四方八方から、さらに、天空が容する惑星から、十二星座、四十八宿(しゅく)の星座から、人間の願いを叶える数々の呪文に応じる影響力が働くのです。だから、これは、人々の数知れぬ願い事に応答する大宇宙と大自然の営みを表すもので、日本を始め、世界のあらゆる国々で、古来から行われてきた多神教の世界を引き継いでいます。
 ところが、この多神教の世界には、その中心に大日如来が居て、如来の周辺に広がるすべての仏(ほとけ)たちに如来の功徳を発生させるのです。大日如来に具わる仏性(ぶっしょう)は、遠い星々にいたるまで影響を及ぼし、その影響力は、それぞれの星の小さな眷属たちにまで及んでいます。神話的に見れば、これは、最高神を頂く神々の世界の構成に相当します。さらに言えば、天空に広がる無数の仏たちとそれぞれの小さな眷属にいたるまでが、ことごとく、中央の如来の顔を人間の喜怒哀楽のあらゆる形相(ぎょうそう)に反映させることで、如来の済度(さいど)の功徳を映し出しています。その有り様は、「天上天下唯我独尊」を想わせる唯一神に近く、この意味で、胎蔵曼荼羅が描き出す仏教界は、多神教から最高神へ、最高神から唯一神教へいたるすべての宗教の有り様が一連となって、その仏像世界を構成しています。そこには、太古から現代の宗教にいたる宗教のもろもろの形態とその変容過程がみごとに表されています。
【空海の説く仏性】
 人も動物も植物も、これを包む森羅万象も、そのあるがままで、仏(ほとけ)の「絶対智」を具えている。この仏性(ぶっしょう)を鏡のように映す人の心には、すでに真実を覚(さと)る智慧が具わるから、あるがままで成仏している。人の体と言葉と行動は、仏の体と言葉と行動にほかならない。ざっと言えば、これが、空海がその曼荼羅図を通じて伝えようとする仏性の霊性です〔松村有慶『空海』53頁〕。
 胎蔵曼荼羅図の仏たちの中には、かつてのヒンズー教の「魔神」たちも居ます。ほんらい人に害悪を及ぼす魔神でさえも、如来の功徳を受けることで、如来に具わる「仏性」(ぶっしょう)に与ることができるのです。人は言うまでも無く、犬畜生の獣(けもの)にいたるまでが、如来の功徳によって、その仏性を開花させることができるのです。この「一切衆生悉有仏性」(生きとし生けるものは悉く仏性を宿す)という曼荼羅仏教の世界では、たとえ、ヒンズーの魔神といえども、仏の姿に変容する以前の、言わば仏の「仮(かり)の姿」であるという「本地垂迹」(ほんぢすいじゃく)が成り立ちます。胎蔵曼荼羅図の中心の大日如来こそ、宇宙の一切を成り立たせる根源の仏性を体現するもので、この如来の有り様から「流出する」("issue")仏性こそ、人や獣やあらゆる生物の「本性」を支える命(いのち)なのです。如来のこの奥深い慈悲に支えられて、万物が活かされているというのが、胎蔵曼荼羅図が私たちに提示する世界です。無数の仏が、様々に姿を変えて、大日如来の慈悲を湛える深い湖(みずうみ)の水面(みなも)で波打つのを観る想いがします。
 曼荼羅の世界では、「能」(主体)と「所」(客体)、「理」(真理)と「事」(現象)、彼岸(あの世)と此岸(この世)は二分されません。インドでは、最高の実在者「ブラフマン」(梵)と「アートマン」(人間の個人)との一体性(一如)が説かれていました。これが、大乗仏教では、「人が仏になる」という「一切衆生悉有仏性」の教えに進化し変容します〔松村有慶『空海』48〜49頁〕。
 空海は、今自分が現に持っているあるがままの身体で仏(ほとけ)になることができるとする「即身成仏」(そくしんじょうぶつ)を説きました。一般の仏教では、個体が「仏になる」ためには、厳しい修行を積まなければなりません。ところが、空海の「即身成仏」では、自己の内にほんらい持っている仏性こそ、自己の本質であると気づく(覚る)ことなのです〔松村有慶『空海』50〜51頁〕。
 しかしながら、空海が日本にもたらした胎蔵曼荼羅がわたしたちに提示する世界は、人が己に宿る仏性を「覚る」出来事が、それほど単純でも容易でもないことが分かります。「覚り」が容易でないことは、真言宗の僧侶の修行の厳しさを見れば分かります。空海の覚りが決して容易でないのは、四国四八箇所を空海と「同行二人」で旅する巡礼の行(ぎょう)が証しするとおりです。曼荼羅を通じて見える仏教の覚りと、聖書を通じて知るキリスト教の聖霊の働きとを比較し対照させる筆者(私市)の試みは、まさにこの「覚りの霊操」に関わる課題です。
【覚りに至る信心】
 万象に宿るこういう如来の仏性を人はどうやって覚(さと)るのか?これは、空海が祈り求めた奥義であり、胎蔵と金剛の両界曼荼羅図の仏たちが、私たちに示そうとしていることです。仏像を見る者は、仏像からの語りかけを心に自覚することで、仏像がもたらす「信心」を授かります。この信心こそ、仏(ほとけ)が伝える菩提心へ人を誘い込むものです。曼荼羅が伝える仏教ほど、細(こま)やかに、人の心の働きを読み取る霊知はありません。
 しかしながら、人は、神仏を己(おのれ)の我欲を達成するために「利用しよう」とします。人間の本性に深く潜むこの「罪業」(ざいごう)を最も鋭く感知して自己肯定でも自己否定でもない「空」の思想にたどり着いたのが、ほかならぬ仏教です。その上で、この「空」を己の内に修業によって達成すること、これこそ、曼荼羅を通じて仏たちが人間に実現させようとしている仏性の働きです。マントラを唱え、仏像を拝み、鈴を鳴らし、金剛杵を握る勤行(ごんぎょう)が目指すのは、阿弥陀如来の到達した覚りに達して、宇宙の本質的な営みを己に実現させる大日如来の霊性そのものに与るためです。これが仏教が目指す究極の境地で、真言宗で言う「仏性」とは、このことです。
【覚りへの難問】
 『般若心経』(はんにゃしんぎょう)では、「色即是空」(自己否定)から「空即是色」(自己肯定)へ、「色不異空」(自己肯定を離れる)から「空不異色」(自己否定を離れる)へいたることで、人はその人間的な妄想から離れて覚(さと)りにいたることができます。けれども、人間が覚りに達するだけでなく、達し得た覚りを持続させるのは、たとえ、厳格な修行を通じても至難の業で、凡人にはほとんど不可能です。こういう覚りに到達するために、俗人ならぬ僧侶たちは、並々ならぬ修行を積まなければなりません。人は、如来の真言(しんごん)が説く「真理」を己の知恵で「判断し」、己の力で「利用しよう」とする誘惑から逃れることができません。この誘惑に克つことは人には至難の業です。「覚り」を極めようと志す「宗教する人」のこの限界こそ、実は、仏教が達成しようと志す難行苦行(なんぎょうくぎょう)の理(ことわり)であり、同時に、その苦行につきまとう限界にほかならないと言えましょう。
【「在る」から「出来る」へ】
 ラテン語の「ナートゥーラ」(natura)は、「自然・性質・本質」を表します。ラテン語の「スキオー」(scio)は、「(人が)知る・覚る・科学する」ことを指します。人が、「ナートゥーラ」を「スキオー」するところに、ラテン語の「アルス」(ars)(秘訣・人工技能・手法・芸術・学術)が生まれます。宇宙の本質は、大日如来が体現しますが、人がこれを「覚る」ところに、仏像が生まれ、覚りの境地を体現する仏像に接し、これを拝むことによって、視覚を通じて、仏像が表象するその境地を体感できます。
 ところが、キリスト教の聖典である聖書の場合は、「覚り」の場合とは事情が異なります。創世記1章1節の冒頭で、神は、天と地とを「創造」します(ヘブライ語「バーラー」)。それから、神は「光あれ」と宣(のたま)うと「光が出来ます」(創世記1章3節)。この場合、「初め」は、天も地も光も存在しません。神が「在(あ)れ」(ヘブライ語「イヒェ」)と命じる言葉を発する時に初めて、天地が「出来て」、光が存在するように「成る」のです。光が「在る」(1章3節)ことによって、人は、昼と夜とが区別「出来る」ようになります(創世記1章18〜19節)。
 人は、存在する出来事を覚ることが出来ますが、存在しない出来事を「創り出す出来事」それ自体を覚ることは、人には不可能です。卑近な譬えで言えば、画家がこれから描こうとする絵を人が前もって「予想」したり「予測」したりできますが、画家が絵を「創り出す」出来事それ自体を人があらかじめ「覚知する・覚る」ことは不可能です。画家は、おそらく傍(はた)で見ている人の考えも及ばない絵を思い描いているでしょうし、それを創り出す方法それ自体も、何をどのように用いてどのように「創り出す」のか、画家自身でさえ、前もって適確に予測できないでしょう。人は実在するものを覚ることができます。しかし、物事自体が「生起して、その結果存在させられるようになる出来事」それ自体をあらかじめ「覚る」ことは不可能です。だから、宇宙の根源に存在する大日如来の仏性(ぶっしょう)の場合のように、人が神の創造した天地の「本性」を「覚る」ことはありえません。天も地も光も、神がその言葉を発することによって、それらが「出来る」までは、どこにも存在しないからです
 ちなみに、ここで言う「創る」(バーラー)とは、神が言葉を発することで生じますから、神の「言」(こと)が「事」(こと)になるという出来事です。「在(あ)れ」(ヘブライ語「イヒェ」)の動詞の原形は「ハーヤー」(生起する)で、聖書の神ほんらいの固有名詞「ヤハウェ」がこの動詞からは派生したと言われています。「ハーヤー」は、「自ら存在することによって、物事を創り出し存在させていく」働きを指します。
 新約聖書の場合で言えば、ヨハネ福音書の冒頭に「ロゴス」(言葉・発言・理由・理性・根拠)が出てきます。この「ロゴス」は、「初めに存在していた」とあります(ヨハネ1章1節)。ところが「ロゴスは神であった」とあり(ヨハネ1章1節)、「すべてのものはロゴスから出来た・生起した」(ヨハネ1章3節)とありますから、「ロゴス」は、創世記冒頭の「創り出す神」と同じ働きをします。この「ロゴス」では、「在った」から「出来た」へ、「存在する」ことが、「存在させ創り出す」行為と一体になっています(ヨハネ1章1〜3節)。
 仏教でも、釈迦が、阿弥陀如来となり、大日如来となる過程において、その仏性にも、「存在する」だけでなく、自らの存在によって新たな仏(ほとけ)を「創りだして」いく働きが具わっていると言えましょう。しかし、仏教では、人が覚りにいたるその目的が、森羅万象に「すでに在る」仏性を開花させることにあることを想えば、仏教での人が仏性の本質を「覚る」働きと、聖書の神の働きとその出来事を人が「覚知する」ことができない状態と、人の「覚知」のありように、二つの異相を読み取ることが出来ます。言い換えると、聖書が証(あか)しする「覚り」には、大自然と宇宙の生きとし生けるものすべてに具わる仏性が証(あか)しする仏の慈悲が、仏(ほとけ)を通じて提示される宇宙と大自然への暖かい愛への洞察が、キリスト教には欠落しているように想われます。聖書を信じるキリスト教徒が仏教から学ぶべき大事な要素がこれです。
【信心から信仰へ】
 人はただ「在る」がままの大自然からの流出なのか? 人は、「神にある創造」の働きから「出来る」のか?「在る」"to be"と「成る」"to become"、「存在」"existence"と「臨在」"presence"、「流出」“to issue"と「造化」"to create“、「ただあるがまま」と「新たな創造」。人の実相は、この二つの組み合わせの中で生じるもので、そこには、「今の時に神にあって生かされている人の有り様」が浮かび上がってきます。これらの組み合わせの鍵となるのが、「時」(とき)(カイロス=時期・場・機会・機縁・契機・出来事)です。仏の仏性と神の創造とでは、「時」の関わり方が異なると言えましょう。仏像を礼拝する。イエス様の十字架を拝む。この行為によって、人は、仏にある霊性に、あるいはイエス様の十字架のお姿に、近づくことができます。
 ラテン語の「デウス」(deus)(神)は、人が「クレードー」(credo)する(委ねる・信頼する・まこととする)ところに、デウスが、その創造する働きを発揮して、出来事を生起させます。神から発出する「聖なる霊」は、人に働いて「永遠の命」を授ける創造の御業です。その霊力(エール)は、「十字架のイエス・キリスト」にあって初めて可能になります。「十字架から復活し神の右に座す御子自身の降下である聖霊」の「不可称・不可説・不可思議」な働きの出来事こそ、人を聖(神ご自身)なる霊性へ導く霊験(れいげん)であり、人に「永遠の命」を授与する「神業」(かみわざ)です。それは、人には絶対に不可能を出来事であり、「人にはできないことを神は成し遂げてくださった」のです。「人は、自分を創り替えて、身の丈一センチをも伸ばすことができない」のに、神の聖霊は、人を「創り出す」業によって、人に真の自由を働かせるだけでなく、人の心に「永遠」を宿らせるからです。その「永遠」は、主イエス・キリストの十字架の贖いという「神からの人への愛」となって働くもので、人類に初めてもたらされた「不可称・不可説・不可思議」な恩寵の賜です。鈴木大拙が、「仏教に聖霊は存在しない」と言ったのは、まさに、このことです。「クリスチャンの喜び」は、この喜びにほかなりません。
 大自然に働く命の力がなければ、人の病気も治りません。自然現象それ自体も、絶えず自然に働きかけて、自然に命を吹き込み、命を新しく創り出していく「力」(ヘブライ語「エール」=神)が働いていなければ、自然現象は滅んでしまいます。神の御霊は、このように、私たちの内にも周りにも、常に命を「創り出す」のです。だからそれは、「創造する方の御霊」(ラテン語"spiritus creator")と呼ばれています。これは、"creatio ex nihilo"「無の中からの創造」です。神が「超」自然であるとはこの意味です。「超」とは、物事が「在る」ことに対して、物事を「創り出す」ことです。大自然に働く神の御霊は創造の御霊です。
 人の信心によって生み出されるいわゆる仏心(ほとけごころ)は、人の本性が自然に身につけた想念から生じるものです。これを聖書の「信仰」と比較対照させると、一方は、人を創造した神から流出される霊性であり、 他方は、人間的な想念に左右されます。真性の「覚り」とは、たとえ、厳格な修行を通じても、人が一朝一夕に達成できるものではありません。人は、その宗教心の極限において初めて、仏教の霊性が指標する「覚り」に到達することができるからです。神からの聖霊は、神と人をつなぐ「信仰」を通じて働きます。それは、イエス・キリストにある聖霊が、人の霊に働きかけるところに創造される「信仰」の出来事です。この信仰を人がその信心を通じて到達する覚りの出来事と比較するのは容易でありません。
【御霊による剪定】
 中でも最も難しいのは、「剪定(せんてい)の御業(みわざ)」です。胎蔵曼荼羅図にも忿怒(ふんぬ)の形相をした仁王たちが現れて、人の心に潜む「百八(ひゃくや)つの煩悩」を切り落としていきます。仁王だけでなく、人の煩悩を切り落とす菩薩たちがいます。ところが、人の心を霊察するそれら菩薩たちの眼差しは、その奥に不思議な優しさを湛(たた)えています。人が、人の煩悩を切り落とす刃物を己(おのれ)に向けるのも、人に向けるのも至難の業です。向けた刃(やいば)が、心に奥深く潜む煩悩に適確に届いて、その煩悩を見事に切り落とすのは、病巣を切り落とす名医の「神の指」以上に難しく、はっきり言って人には不可能です。
 「真理」によって人の罪を切り落とすという人にはできない至難の業を、人に代わって実行してくれるのがイエス・キリストの十字架の御業です。キリストの十字架から降る御霊のこの御業は、以下の「剪定七言」に証しされています。ヨハネ15章6〜8節、同16章7〜11節、同17章3節、同17章17節と、ローマ9章14〜16節、同11章20〜22節、第一コリント1章21〜23節です。
【キリストの御霊】
 十字架の罪の赦しと贖いの力に勝る場は存在しません。仏(ほとけ)の慈悲への信心も、呪(まじな)いの音声とその言葉によって生じる安心も、主イエス・キリストの御霊の働く罪の赦しの奥深いお働きには及ばないのです。なぜなら、御霊は、父なる神から降る「創造する」霊性ですから、存在しないところに新たに赦しの愛を「創り出す」(ヘブライ語「バーラー」)からです。創世記の冒頭で、神が「光あれ」と宣(のたま)うその「時」に、昼と夜の「時間」の出来事が生起します(創世記1章3〜5節)。出来事が生起する(ヘブライ語「ハーヤー」)こと、この働きは、「存在する」ことによって「存在せしめる」働きですから、何も無いところに「在(あ)らしめる」力を具えています。その業(わざ)は、無益、無駄、無視、無法をもたらす「虚無の働き」を「追い払い」、そうすることで、有益、有効、有能を授与する不思議な「力」(「エール」=神)です。そこには、「存在」“existence”ではなく、「臨在」“presence”があります。それは、存在への「覚(さと)り」の対象ではなく、不在のまっただ中に臨在する「出来事」への「信仰」の賜(たまもの)です。「信仰」とは、ある状態を認知することではなく、「その時に」生起する「出来事」を体験することです。主イエスの十字架体験は、害悪や罪を容認することではなく、それが有する赦しの働き(エネルゲイア)によって、害悪や罪を「滅ぼす」のです。人の罪、人の犯す過ちは、一朝一夕の消え去るものではなく、手を替え品を替えて、次々と露態(ろてい)します。それでも、主イエス・キリストの十字架の贖いの御霊は、人の罪業、人の過ちに「めげることなく」、これに「赦しの力」を働かせることで、七度(たび)を七〇倍するまで、赦し続け、愛し続け、贖い続けることで、人を活かし、御霊のご用へと導くのです。この七転び八起きの「起き上がる」(ヘブライ語「クーム」)働きこそ、十字架から「復活」されたイエス様から降る聖霊のみ力のお働きです。これに優る力はどこにも無く、これに勝てる力はどこにも存在しません。この力の働くところ、諸々(もろもろ)の宗教、様々な規定や律法が、希求し願望する目的が成就されます。イエス・キリストの十字架の贖いが、人類にもたらす恩惠とはこういう出来事です。キリストの御霊は、これによって、それまでの宗教や世の定めを否定し廃止するのではなく、それらを容認し成就することで「和」を産み出すのです。「平和を創り出す人たちは幸いだ。その人たちは、<神様のお子たち>と称される」(マタイ5章9節)とあるとおりです。 
 聖霊の出来事とは、ただ信仰のみが働くところに生じるもので、そこには、安心・平和・喜び・愛が在ります。こいうい出来事がイエスを拝む者の信心に起こるのは、私たちの罪のために十字架にかかり、贖いの御業を成し遂げた私たちの主イエス・キリストの恩愛の賜(たまもの)です(ガラテヤ5章22〜24節)。この愛と平安と喜びは、ローマ8章でパウロが告白している「御霊にある人の霊性」にそのまま直結します。神の霊が人の内に「在る」状態では、その人は、もろもろの罪性が働く「肉」の状態に在るのではなく、御霊の働く「霊場」に在ります(9節)。キリストの霊がその人の内に働いているなら、その人の肉性に宿る罪は、十字架の死を超克するイエスの御霊のお働きによって、罪のもたらす「死」の症状を働かせることができず、罪は、言わば、その「とげが抜かれる」のです(第一コリント15章54〜55節)。この状態にある人は、御霊の義の働きにあって生かされていますから(10節)。イエスを死の中から引き上げ復活させた御霊の働きにあって、もはや「死」もあなた方に「働かない無い」のです(11節)。
 宇宙が「虚無」の「死」に支配されているのは、宇宙ほんらいの在りようでは無く、そうならせたお方によりますから(20節)、宇宙それ自体にも、十字架の死にある恩恵を受けた神の子たちに働く御霊の栄光に浴(よく)することで、虚無の「空」から解放される光明が差すのです(21節)。その時、人は覚ります。神の愛の諸々のお働きにあっては、万象ことごとく働き合って、善い状態に達する方へ向かうのだと(28節)。
 憐れみに富みたまう神を自らに体現された十字架のキリストから降る御霊の働きは、人の思いや計らいをはるかに超えるその営みによって、人の思念に深く潜む罪業の奥深さをその人に覚らせます。イエス・キリストの御霊は、十字架の贖いの力を働かせて、その赦しの恩愛によって、人の心を「無」に導き、その導きは、人の心を愛と赦しの御霊の働きのままに「委ねきる」ほうへ向かわせます。そこで初めて、人の思いをはるかに超える神の慈愛が、その人に臨在し、その人を通じて愛と赦しの御霊の太陽が現臨する事態が生じます。御霊の働きは、人の「〜なければならない」という想いとそこから生じる責め苦から人を解放しますから、自己否認、怒り、嫉妬、憎悪、その他もろもろの悪念から人を解き放ち、平安と喜びをもたらします(ガラテヤ5章18〜21節)。これが、クリスチャンの信心が産み出す神の恵みの慈光への「信仰の出来事」です。曼荼羅が人に開示する仏性は、イエス様の御霊に照らされることで、その広大無辺の慈愛の輝きを一層増すのです。
 アジアの平和を目指す日本の民が、イエス様の福音によってその業を成し遂げるまでには、「宗教する人」(ホモレリギオースゥス)に潜む宗教的な敵対意識を超克し、白人・非白人問題をも含む国際的な人種差別意識を乗り越えなければなりません。これには、人間の想像を絶する巨大なパワーの働きが必要です。新約聖書が証しする「イエス・キリストの御霊」とは、神から降るまさにこのような「絶大な力」のお働きです(エフェソ1章19〜22節)。かつて、空海が日本人に仏(ほとけ)の救いを説いたように、十字架にかかり罪を赦すイエス様の神は、アジアの平和のために、必ず日本の民を救い導いてくださいます。だから、クリスチャンは、愛して赦す主の十字架の御前で、仏教徒に対して、傲(おご)りを抱いてはならないのです。
    初期の朝廷時代における宗教的習合    聖書と講話欄へ