4章 『第一エノク書』と太陽暦
 
■『第一エノク書』について
 始めに書名について説明することにしましょう。『エチオピア語エノク書』は、英語では通常『第一エノク書』(1Enoch)と呼ばれています。これに対して『スラブ語エノク書』は『第二エノク書』(2Enoch)と呼ばれます(原本はギリシア語で後1世紀頃)。さらに紀元6〜7世紀の作とされる『ヘブライ語エノク書』があります。これは、『第一エノク書』と『第二エノク書』を基にして、「ラビ・イシマエル」という人物が天を旅する体験について記したもので、『第三エノク書』(3Enoch)と呼ばれます。以下、本文からの引用と注は、共に、『エチオピア語エノク書』の代わりに『第一エノク書』のほうを表記として用いることにします。
 黙示文学を代表する正典のダニエル書を基準にして時代を見ると、『第一エノク書』の中で、ダニエル書よりも前の時代に書かれたものに「天文の書」(The Book of the Luminaries / The Astronomical Book)と「見張りの天使たちの書」(The Book of the Watchers)があります。「天文の書」(72〜82章)は、紀元前3世紀に書かれたと推定されています。「見張りの天使たちの書」(6〜36章)は前250〜200年頃の作とされていて、成立したのはこちらのほうが以前かと思われますが、含まれている内容を伝承的に見ると「天文の書」のほうがはるかに古いので、こちらを先にとりあげました。これに対して「夢幻の夢」(83〜90章)や「たとえの書」(37〜71章)は、ダニエル書とほぼ同時代と考えていいでしょう(前2世紀)。
 黙示的な文書としては、「天文の書」やダニエル書よりも前に旧約聖書の最後に置かれているゼカリヤ書があります。これは八つの幻と二つの託宣について語るもので、1〜8章までは前520〜518年の預言ですから、ペルシア時代になります。ゼカリヤ書の9〜14章は、前4世紀末〜3世紀のものと推定されるので、ギリシアのセレウコス朝時代になります。ゼカリヤ書のさらに以前には、エゼキエル書があります。エゼキエルの預言活動は、前593〜567年?で、これは捕囚期間(前597〜539年)にあたります。エゼキエル書には、様々な幻と共にエルサレム神殿の詳細な(再建の)幻視が描かれています。だから、『第一エノク書』を聖書の黙示的な文書の系列の中に置いて見ると、『第一エノク書』の「見張りの天使たちの書」と「天文の書」と「夢幻の書」は、エゼキエル書からゼカリヤ書を経てダニエル書にいたる間に書かれていることが分かります。
 第3章で紹介した概要から分かるように、『第一エノク書』には、天使たちの堕罪、神の天使たちによる彼らへの罰、人類の暴虐、ノアに代表される義人たち、義人たちと暴虐の罪人たちとを分かつ裁きと断罪、太陽の運行と月の運行、これにかかわる暦、風の方角、水や雨や霜などの自然現象、大陸と海、死者たちの住む世界への旅、地上に展開する権力の交代劇とこれに翻弄されるイスラエルの歴史、裁きの開始から終末までのプログラム、終末の悲惨な描写、悪人への呪いと善人への祝福などが語られています。だから、『第一エノク書』を全体として見るなら、その多様性においても規模においても、またその成立期間の長さにおいても、それまでの預言書や知恵文学には見られない多様で多岐にわたる内容が繰り広げられているのです。特にこの文書には、死者たちの住む霊界への旅や終末の様相が、それまでには見られない描き方で表わされています。また、今回とりあげる天体の運行については、バビロニアの天文学を含む広範囲な知識が入り込んでいると考えられます。
 このような啓示の有り様は、「神の隠れた秘密」を開示するという意味で「黙示」(アポカリュプシス)と呼ばれていて、『第一エノク書』がユダヤ黙示文学の代表的な文書とされるのはこのためです。「アポカリュプシス」というギリシア語のほんらいの意味は「啓示」のことですから、黙示文学は「天啓の文学」と言うことができましょう。ところで、これだけ多様な啓示内容を包含しながら、『第一エノク書』では、その主人公のエノクもほかのだれも、「預言者」とも「啓示者」とも呼ばれていません。その代わり、エノクは、終始「知恵の人/賢者」と呼ばれ、彼の受けた啓示も「知恵」と呼ばれています(第一エノク92章1節/94章5節)。
■太陰暦と太陽暦
 『第一エノク書』の「天文の書」には、バビロニアから受け継がれた最古の天文学が含まれています。「天文の書」の成立は紀元前3世紀とされていますが、これよりも早い前5〜4世紀という説もあります。しかしその内容は、はるか古代バビロニアの天文学へさかのぼり、これを受け継いだペルシア後期の天文学を採り入れたものです。この文書は、ほんらいエノク系の諸文書からは独立したものでしたが、「天文の書」とほぼ同じ頃に「見張りの天使たちの書」が成立し、これらが統合されることによって、エノクの幻とエノクの天への旅が生まれたと考えられます。「天文の書」のヘブライ語原典は長大なものでしたが、エチオピア語訳の『第一エノク書』では、暦に関する部分が原典の「まとめ」になっていて、かなり縮められていると見られています〔Stegemann 93〕。
 古来、メソポタミア、エジプト、ギリシア、中国では、最も一般的な暦は月の満ち欠けによる太陰暦でした。月の満ち欠けは、目測で確かめることのできる簡便な方法でもあったからでしょう。新月から次の新月までの期間は、平均すると29日12時間44分3秒で、これを1剿]月(さくぼうづき)と呼びます。しかし剿]月は、変動の幅が大きく、29日6時間から29日20時間の間を動きます。また実際の1日の長さも、日の出から日の出まで、あるいは日没から日没までの長さが、地球の歳差によって、23時間59分39秒〜24時間0分30秒までの幅があります。このために、太陰暦は、遊牧や漁業の場合には簡便ですが、季節の変動に頼る農耕には適さないところがあります。1剿]月は、平均するとほぼ29.5日なので、太陰暦では、30日と29日とを交互に並べた12剿]月で1年を構成します。これでも太陽暦との差が開きますから、これに閏月(うるうづき)が補正のために追加されました。
 月に対して太陽は、春分点から春分点までの周期が365日5時間48分45.96秒で、これを1太陽年と言います。1太陽年もまた、地球の自転の速度の変化によって一定ではなく、長期的な暦としては不完全です。したがってメソポタミアでは、基本的に太陰暦を保ちながら、これに太陽暦をも併せるという太陰太陽暦が用いられたのです。19太陽年がほぼ正確に太陰暦の235剿]月にあたることから、19太陰年(228剿]月)につき7回だけ1剿]月を挿入すれば、太陰年と太陽年とがそろうことになります。これはギリシアの天文学者メトンによって紀元前5世紀に発見されたと伝えられているので「メトン周期」と呼ばれていますが、後で述べるように、このメトン周期は、実際にはバビロニアでの発見のほうが先でした。
 ただし古代エジプトだけは、紀元前3000年頃から、すでに太陽暦が重視されていて、これは、年に一度太陽と共に昇るシリウス星とナイル川の増水の時期とを組み合わせて、1か月を30日とし、1年を12か月として、これに5日を足すという暦でした。後にローマがこの暦を採用することになります。実は、捕囚期以後に、エジプトへ亡命していたイスラエル人たちがキュロスの勅命によって帰還した折に、このエジプトの太陽暦をイスラエルに導入したという見方があります〔Stegemann167〜173〕。捕囚期以後のイスラエルでは、神殿を初めとして祭儀全般をバビロニアとペルシアを経てイスラエルに導入された暦が大勢を占めていました。しかし、エジプトの太陽暦が導入されたと見る説は、捕囚期以後のイスラエルでは、バビロニア=ペルシア経由の太陰太陽暦とエジプト経由の太陽暦とが、二分されたままイスラエルに共存していたと見るのです。エジプト系の太陽暦を支持したのは、エッセネ派とサドカイ派であり、バビロニア=ペルシア系の太陰・太陽暦を神殿と祭儀に採用したのが、祭司たちとファリサイ派であって、両者は、暦をめぐって、相互に排他的な関係にあったと見ています。
■クムラン宗団と太陽暦
 『第一エノク書』の暦は、完全な太陽暦ではなく太陰太陽暦に近いと言えましょう。それにもかかわらず、この暦は、当時のイスラエルにとっては画期的な出来事でした。ただし、これを実際にそのまま実生活に適用することは、それまでの慣習や日数にずれが生じることなど、なかなか難しい面があったようです。この暦を採用していたクムラン宗団のクムラン文書には、『第一エノク書』の太陽暦だけでなく、伝統的な太陰暦の文書も含まれていて、宗団の人たちの生活全体も、必ずしも厳格に太陽暦に統一されていたとは言えないところがあります。しかし、この太陽暦は「理念的に」きわめて重要な意味を持っていたと考えられます。これの適用と実施が必ずしもうまくいかなかったために、エルサレムの神殿祭司たちとの間に摩擦が生じる結果となり、このことが、クムラン宗団が独自の歩みを始める一因になったと考えられます。ただし、先に指摘したように、エッセネ派とサドカイ派の暦は、この太陽暦であって、しかもこちらは、バビロニア=ペルシア経由ではなく、エジプトからもたらされたと見る説もあります。二つの暦が導入された起源については、まだよく分かっていません。
 「天文の書」(72〜82章)に戻りますと、その後半から「罪人の時代には1年は短くなり、種は大地や畑で芽を出すのがおくれる」(82章3節)とあり、これに続いて、「罪の時代」には、太陽も月もその運行を変え、星も「迷って、道を誤る」と語られます。こうして、天使ウリエルは、エノクに「罪人の時代」について啓示し、彼に「天の板」を示すのです。エノクはこれによって「地上に住む全ての肉の子たちの行為を知り、未来永劫までをも読み取る」(81章2節)のです。彼は、その子メトシェラに自分の知識の一切を啓示して、子孫に「彼らの思いも及ばないこの知恵」を伝えるよう伝授します。ここでは、前半の太陰太陽暦と後半の「罪人の時代」との対照とつながりが、「天文の書」の意味を考える上で問題になりますが、この問題は、「天使の堕落」というテーマと関係します。「天文の書」で語られる太陽暦の意義について、もう少し考察を加えたいと思います。
■太陽暦と啓示
 『第一エノク書』の最初期のふたつの文書、「天文の書」と「見張りの天使たちの書」には、通常「黙示」に分類される終末やメシアとしての人の子、霊界への旅などは出てきません。『第一エノク書』全体では、エノクは、天使たちの堕落、ノアの洪水、堕落天使への裁きなど様々な啓示に与ります。しかしながら、この書の最初期の段階では、復活も終末も語られません。その代わりに、天体の運行と天使たちの堕落(すなわち悪の起源)が語られるのです。したがって、最も初期の部分は、暦(太陽暦)を含む天体の運行に関する啓示であったことが分かります。ここでの太陽暦は、ユダヤの伝統的な太陰暦と対照されていて、太陽の運行によって、1年を364日とすることが大事な秘義とされ、啓示として語られます(82章1〜4節)。なぜ天体の運行がこのように大事な秘義なのでしょうか?
 「天上の有様をつらつら眺めるがよい。空中の光りは(諸天体のこと)その道を変えぬさまを。いずれもそれぞれに定められた時に昇りかつ没し、その道にはずれることがない。・・・・・神の御業はいずれのその現れ方にも変化がないではないか」(2章1〜2節)。ここで語られる天体の運行を現在のわたしたちの天文学の常識で判断することはできません。なぜなら、ここでは、太陽を含む諸天体の運行が神のトーラー(律法/法則)と結びついているからです。天体が神の栄光を現わすこと、神が「太陽の幕屋」を設けたことは、詩編19篇(2〜7節)にも出ています(イスラエルの初期に、神の契約の箱がベト・シェメシュ「太陽の家」に安置されたのは、ここがもともと太陽崇拝の聖地であったことと関係するのではないかと思われます)。詩編19篇では、天体の運行が、そのまま「主の律法」へとつながります(19篇8節以下)。天体は「神の言葉」(19篇5節)によって動かされているからです。
 だから、太陽を初めもろもろの天体の動きを「正しく知る」ことが、「罪人のように主の道を誤らない」(第一エノク82章4節)ために大事なことになります。ここで「誤る」というのは、天体がその正しい運行から、はずれることを指しますが、同時に、天体の運行を「間違えて計算する/算定する」ことをも含んでいます(新約聖書で、異端の教えによって道を「誤る/惑わされる」と言うのもこの意味からです)。天体と自然が神の言葉によって保たれていることについては、ヨブ記38章/シラ書43章/知恵の書7章15節以下をも参照してください。
 『第一エノク書』72章で述べられている暦は、おそらくペルシア時代の後期(前400年頃)のものと考えられます。ただし、太陽暦の起源はペルシアではなく、それよりもはるか以前の古代バビロニアの天文学にさかのぼります〔Alexander 232〕。したがって、ここで述べられている太陽の運行に基づく暦は、それ以前のイスラエルには見られないもので、この意味で『第一エノク書』の天文と宇宙観は「外来思想」だったのです。『第一エノク書』は、外来の暦とこれにまつわる自然科学的な宇宙観を伝統的な太陰暦を保持するイスラエルに根付かせる意図を持って書かれたものとも言えましょう。エノクが知恵の啓示を受けた賢者であり、その啓示に基づく「暦の秘義」こそ、新しいイスラエルを導く主からの啓示であることをこの書は示そうとしているのです。
 しかしながら『第一エノク書』の著者(たち)は、これを「外来思想」として提示したのではありません。そうではなく、彼らは、その知見と宇宙像をモーセ律法と結びつけ、そうすることによって、太陽暦を神がその律法を通してイスラエルに与えられた「新たな啓示」として提示しようとしたのです。ここでは「トーラー」は、そのほんらいの意味において、神の「律法」であり同時に天地の「法則」でもある、ということが大事な意味を帯びてきます。なぜなら、この方法は、イスラエルが新たな思想や世界観に出逢う度毎に、これを受容する過程において常に用いてきた方法だからです。イスラエルのモーセ律法は、常にこのような仕方で新たに解釈され、そうすることで、イスラエルは、その置かれた困難な歴史的状況の中で、宗教的、歴史的、そして自然科学的な知恵によって苦難を乗り越え、これを克服することができたのです。これが、イスラエルの伝統的な「探求」の方法、すなわち「ミドラシュ/探求」の解釈法です。
 したがって、エノク・グループ“Enochic Group”(これをもう少し拡大して「エノク・サークル」"Enochic Circle"と呼ぶ場合もあります)の人たちは、太陽暦を「外来思想」として提示し、かつそれを権威づけるために「神の啓示」を持ち出しているのではありません。そうではなく、彼らはこの新知識を創世記5章21〜24節のエノク伝承の中に読み込んで、これをイスラエルほんらいの伝統として受容し、そうすることで、イスラエルほんらいの正統性に基づく啓示として提示しようとしているのです。このやり方は、それまで正統とされてきた律法の知識とこれに基づく教義と対立をきたし、その結果、衝突を引き起こすのは避けられません。なぜなら、彼らの意図は、伝統的な正統性に対して、新たな啓示を「再正統化」することにあったからです。エノク・グループの人たちが、「イスラエルの伝統に訴える」あるいは「ヤハウェはこのように語る」と言う時に、それはこの意味においてなのです。
 先に指摘したように、暦は自然科学的であると同時に高度に宗教的な意味を帯びていて、しかも国の文化と生活に直結するものです。『第一エノク書』を通じて、太陽暦をイスラエルに導入しようとしたエノク・グループの人たちは、ここで、伝統的なモーセ律法の聖書解釈からそれまで漏れていた部分、すなわち創世記5章18〜24節と6章1〜6節に注目しました。彼らは、創世記のこの部分に、「天へ昇った賢者エノク」と「天使たちの堕落」のふたつの主題を読み取った(あるいは読み込んだ)のです。実用的で体験的な「知恵」は、教義化された律法制度のもとで、どちらかと言えば周辺的な扱いしか受けていませんでした。トーラーの重視によるこのような「知恵の神学的な周辺化」〔Clements 270〕が、エノク・グループには、かえって幸いしたのかもしれません。彼らは、この『第一エノク書』で、新しい暦に基づく宗教文化をイスラエルに導入し、これを根付かせようと意図しました。言い換えると、太陽暦をイスラエルの宗教において正当なものとして、これを「正統化」することを目指したのです。このような場合に、「聖書テキストの正統化は、それまで正統化されてきた教義との間に非連続を生じる」〔Alexander 233〕のは避けられません。彼らは、おそらくペルシアの支持を得て、伝統的なモーセ律法による宗教社会制度を再構築することを目指していたと考えられます。創世記5章24節のエノクは、天使たちや幻によって「啓示」を受け、その天啓の「知恵」によって彼は偉大な「賢者」と呼ばれていますが、実際には、天からの啓示(黙示)と知恵と太陽暦のこのような三位一体は、捕囚時代以後に再興された第二神殿の時代に、太陽暦が、ペルシアを通じてイスラエルに導入された頃に始まるのです。
■太陽暦の明暗
 「正しい暦」は、農作業を初め生活のあらゆる分野に及んでいました。暦は生活を支配する祭りや祭儀を執り行なう基となるからです。だから、古代の人にとっては、正しい暦は、「神を正しく礼拝する」ための基です(英語の“hours”は「祈祷の時刻/祈祷書」の意味です)。主のトーラー(律法)が、宇宙の運行を支える根底となるのです。逆に天体を管理する主のトーラーが揺らぐことは、「天が崩れて、ばらばらにちぎれ、地上に落ちてくる」(第一エノク書83章3節)ことに等しく、「地が滅びる」(同5節)という大変な事態を招くことになります。天体は「定まった場所に、定まった時に、定まった日に、定まった月に没する」(同82章9節)必要があるからです。だから、自然を管理する主の律法を「正しく」知り、「正しい」姿勢で神を礼拝することが、人間にとってきわめて重要なことだと考えられました。
 ところで、先にあげた詩編19篇では、「トーラー(律法/法則)」と「エドゥース(定め/証し)と「ピクディーム(命令/規定)」と「ミツヴァー(戒め/掟)」と「イラー(恐れ/畏れ)」と「ミシュパト(判定/裁き)」とが、どれも同じ主の法を共有する意味で用いられています(19篇8〜10節)。中でも特に大事だと思われるのは、「律法」と訳されている「トーラー」と「裁き」と訳されている「ミシュパト」です。
 「ミシュパト」は「裁き/裁定」を意味するだけでなく、宇宙を動かしている主なる神の「定め/掟」をも指します。「トーラー」は主の「律法」ですが、「ミシュパト」は、主を礼拝するための定めや規定のことであり、同時に、その礼拝を通じて主から与えられる「裁定/判定」をも意味します。だからこれは、神とその神を礼拝する人たちとの「関係」を表わす言葉なのです〔TDNT(3)926〕。また「ミシュパト」の複数形「ミシュパティーム」は、神を礼拝するさまざまな諸規定を指しています。人が神の「ミシュパト」をどのように受けとめてこれらを「判断し」、それに従って行動するか、あるいは礼拝するか? 神は人の行為をどのように判断し裁定されるのか? そして、その裁定に応じて、具体的にどのような祝福なり呪いなりが降されるのか? これが、神と人との関係を表わす「ミシュパト」です。だから「主の裁きはまことで、ことごとく正しい」(詩編19篇10節)〔新共同訳〕と言う時、主なる神が動かしている天地の運行こそが「真理」であり、その秩序は、「すべてにおいて正しく」行なわれていることをも含んでいます。同時に、人が神の「ミシュパト」の真理を探り、これに従って主を「正しく」礼拝する時に初めて、主は人に「まこと」をもって応え、人を「義とする」という意味をも重ねることができるのです。
 預言者アモスが、北王国イスラエルに警告しているのはまさにこのことです(アモス5章7〜8節)。彼は北王国の祭儀を厳しく批判していますが、それによって彼は、彼らの祭儀それ自体を否定し、これを廃止せよと迫っているのではありません。そうではなく、彼はここで、神の定めた天体の運行と自然の法を引き合いに出して、彼らの祭儀、すなわち礼拝の姿勢が「誤っている」と警告しているのです。彼らの礼拝と生活の姿勢が、神が与えようとしている判断と裁定を祝福から呪いに変わるように仕向けているからです。彼らの祭儀は彼らへの呪いとなるのです(アモス5章21〜24節)。その「誤り」の結果が、偶像礼拝であり(アモス2章4節)、弱い人たちを苦しめる圧政なのです(同6〜8節)。圧制者は知恵者を沈黙させます(同5章13節)。「正しい」判断、「正しい」生活とは、圧制者を憎み、虐げられている人たちを支え、正義と公正を行なうことです(同5章10〜12節)。「誤った」律法の解釈が、祝福を呪いに転じさせるというこの考え方は、後にパウロのガラテヤ人への手紙(3章10節)にも表われてきます。
 正しい暦を用いて、主の創られた世界を正しく判断し、正しい生活をし、主を正しく礼拝することは祝福をもたらし、これを「誤る」ことが呪いを招くことになる、という思想をわたしたちはこの「天文の書」に読み取ることができます。『ヨベル書』では、太陽暦が正しい祭儀を執り行なうためのトーラーと一体になっています。言い換えると、この書では、伝統的な太陰暦による「モーセのトーラー」に代わって、太陽暦に基づく「エノクのトーラー」が秘義として啓示され、伝授されているのです。この結果として、この文書においては、伝統的なモーセのトーラーとエノクのトーラー、この二つの「律法/法則」の間に、一致と緊張、連続と不連続の両方を読み取ることができます。いったいここで、何が起こっているのでしょうか?
 太陰暦から太陽暦へのこの転換は、天動説から地動説への転換にも相当すると言えば、大げさすぎるかもしれませんが、エノク・グループの人たちは、教義化したモーセ律法に代わって、現実の体験とそこで養われた洞察(これには天文や自然への観察力が含まれます)を外来の知識として採り入れ、これを霊的な知恵に基づく「神からの啓示」として語り伝えました。この意味での「啓示」は、イスラエルにそれまで存在しなかった新しい知識と思想が、社会と宗教の革新をもたらす信仰と知のあり方として、しかも「神の知恵」として「啓示された」ことを意味します。実は、エノク・グループの人たちのこのような聖書解釈の方法は、いわゆる「ミドラシュ的」方法として、ユダヤ・キリスト教で伝統的に受け継がれているものです。わたしたちはここに、『第一エノク書』とそこに含まれる黙示思想が、モーセ律法と対立するその最初の根本的な原因を読み取ることができます。これを少しく単純化して言うならば、モーセ律法に基づく伝統的な宗教的教義とエノク的天文・自然学に基づく体験的な知恵に基づく信仰とが、相互に競合したと言えましょうか。
 ところでわたしたちは、太陽暦という新たな啓示と並行して、しかもこれと対立するかたちで、堕天使たちが人間にもたらしたものが、武器の製造に関わる金属や医療に関わる薬草や天文(占星術を含む)の知識であったことにも注目しなければなりません。その結果として、地上に暴虐と流血が満ちることになります。わたしたちはここで、天体と自然観察に基づく知識と知恵が、皮肉にも神の断罪を誘う事態と並行するという不思議な逆説に出逢うことになります。新しい知恵と知識に基づく変革が、なぜ天使の堕落と人間への禍と結びつくのでしょうか? 知恵の啓示は、イスラエルに新たな暦とこれに関わる知識をもたらすものでした。ところが啓示がもたらしたその知恵の啓示とは裏腹に、天使の堕落という黙示的な暗い悪霊の世界が、この世を支配しているのを知らされるのです。知恵と黙示とのこの明暗二つの世界が、新たな啓示と文明の利器となって、人間を救い、また人間を殺すのです。善と悪とが結びついた知恵の実こそ、捕囚以後のイスラエルの人たちが、新たに授けられた知恵によって解かなければならない謎であり、これへの挑戦が、創造的な努力を生み出していったのです。
〔注記〕この章で扱った問題をさらに詳しく知るためには、ホームページの「古代オリエントと旧約時代の暦」を参照してください。
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