古代オリエントと旧約時代の暦
■古代オリエントの暦
古代オリエントでは、シュメール人のウルク王朝の都市国家(前3500〜3100年頃)もアッカド王国のウル王朝(前2500〜2100年頃)も古代バビロニア王国のバビロン第一王朝(前2000〜1500年頃)の時代も、目測で観測できる月の満ち欠けに基づいて暦を決めていました。通常は、新月(三日月)から始めて次の新月までを1ヶ月としていたようです。古代の人たちは現代のわたしたちとは違って、時間や日をそれほど意識する必要がなかったのです。農夫は種蒔きや刈り入れの季節を知っていればよかったし、昼は日の出と日の入りによって知ることができたからです。だから自分の年齢を知らない人たちが大勢いました。ただし、天文に携わる人たちや祭りや祭儀の日時を決める神官たちにとっては、暦は大事な意味を持っていました。また国の政治も「政(まつりごと)」と言われるように、暦に従って行われなければなりませんでした。多くの場合、天文に関わる人と祭儀を行う人とは同じで、これは神官の役目だったのです。
月の満ち欠けを基準にする暦を「太陰暦」と言い、通常新月から新月までの間を1剿]月(さくぼうづき)と呼びます。通常は12剿]月で1太陰年になります。剿]月は、ほぼ29日半ですから、12剿]月の太陰年は、太陽年に比べると短くなり、それだけ季節のずれが早く大きくなります。これを補正するために、「日」や「月」を挿入するのですが、これらの日を「閏日」(うるうび)、「閏月」(うるうづき)と言い、このような挿入を「置閏」(ちじゅん)と言います。暦に関連しては、シュメールのウルク王朝時代から、すでに60進法が用いられていて、これが12時間、60分、60秒の単位として現在にいたるまで受け継がれています。1日は日没から日没までとする方法と日の出から日の出までをとする場合のどちらもあったようです。昼と夜の長さは、季節によって大きく変わりますから、これに応じて、1時間の長さも変化しました。
■エジプトの暦
ただし古代オリエントで、エジプトだけは太陰暦によらず太陽暦を用いていて、これが後に、ローマのユリウス暦に受け継がれます。古代エジプトでは、毎年夏の始めにシリウス星が太陽に先立って現れるとナイル川の氾濫が起こることが知られていました。これに基づいて、太陽の周期的な運行と星座とナイル川の増水をと組み合わせて正確な太陽暦を作ることができたのです。だからこれは、太陽暦と恒星暦との組み合わせになります。
エジプトの暦はその後発達して、暦の歴史に大きな貢献をしました。古代国家ではよくあることですが、エジプトの暦も聖なる日時を定める暦と日常の生活用の暦があり、また特殊な宗団や部族による太陰暦の使用も認められていたようです。民間用の暦(civil calendar)の場合、1太陽年は365日、1ケ月は30日で10日単位に分かれ、1年12か月で、5日の「追加の日」が設けられました。季節は「(ナイルの)洪水期」と「(穀物の)育成期」と「乾期」の三つに分かれていました。
エジプトの暦で注目すべきなのは1日を24時間に分けたことです。ただし、これは、太陽の運航に合わせたものではなく「デカン」("the decans"。ギリシア語の「デカノス」から)と呼ばれる十の星の組み合わせによって決められるもので、これらは黄道12宮の獣帯(zodiac)の中で、太陽が昇る直前に出る十の星星の「位相」("aspect"その時の星座図)を指していました。「デカン」は年間を通じて36位相ありました。これらは、星が最初に出る時刻あるいは真夜中の「天空の子午線」に達する時刻などに基づくものですから、太陽時と言うより恒星時と言えましょう。1日は、日の出から日没までを10の「時間」に分け、これに夕暮れの2時間が追加されました。夜も12時間に分かれていて、全部で24時間となります。後のギリシア時代に、これが1日24時間となり、これにさらにオリエントの60進法が組み合わされたのです。
エジプトの暦は、他のオリエントの太陰太陽暦に比べると、均等で日や週や月を置閏する必要のない優れた暦であったと言えます〔Anchor(1)813〕。この暦は、天文学にも役立つものでしたが、この点は、後期のヘレニズム時代になって、初めて認識されるようになりました。紀元2世紀にエジプトのアレクサンドリアにいたギリシア人の天文学者プトレマイオスの著した『天文学大系』は、地球を中心に置いた天動説に基づくものでしたが、彼の天文学は、ヨーロッパ中世からルネサンス時代まで、地動説が一般に採用される時まで規範とされたのです。
■バビロニアとペルシアの暦
前2000年頃、これに先立つシュメールの都市国家とアッカド王国の文化を受け継いだウル第三王朝時代に、すでに太陰暦と60進法の暦がありました。シュメールの月名は、都市によって異なっていましたが、これらの月名が古バビロニア王国の暦に影響を与えています。シュメールの後を継いだアッシリア王国では、太陽に基づく太陽年と月に基づく剿]月とが併用されていましたが、その内容はよく分かっていません。ただ、閏月や閏日を用いることを知らなかったために、暦と実際の季節とが合わなくなり、このために古バビロニア王国のバビロン第一王朝は、シュメールの太陰暦を受け継いだのです。
バビロン第一王朝の暦は、シュメールのウル第三王朝の「ウムナ暦」(前21世紀頃)を受け継いでいました。バビロニアの暦は、太陽年と剿]月と日没に始まる1日で構成されていました。太陽年は太陽が毎年特定の恒星へと戻ることで定められましたから、これは太陰太陽年と恒星年との組み合わせになります。12の剿]月は、29日と30日とを組み合わせたもので、全部で354日になります。日没に西の水平線に新月が現われる時から新年が始まります。12の月は新月から新月までした。日は日没から日没までです。
〔年について〕年は第一の月(ニサヌ)で春分から始まりましたが、かなりの変動がありましたから、新バビロニア王国の頃(前626〜536年)でも、年の始まりは3月11日から3月26日の間を変動しました。1年は「始め」と「中程」と「年の終わり」の三つに大別されていました。
バビロニアの天文学を発達させたきっかけは、前8世紀の半ば頃?に、すでに19太陽年が235剿]月とほぼ同じ長さになる(違いは2時間)ことを発見していたことです。12剿]月を19倍すると228か月になりますから、これに7剿]月を加えると、19太陽年と同じになります。したがって、19年の間に、7回の閏月を加える必要がありました。置閏は、3、6,8,11,14,19年目に、第十二のアダルの月に第二アダルの月を加えてその年を13ヶ月とし、さらに17年目には、第六のウルールの月に第二ウルールの月を置くという方法がとられたようです。7回閏月(うるうづき)を置閏するこの太陰太陽暦で平均すると、1年が365.2468日(実際は年平均365.2422日)となります。
置閏は、天文祭司の助言に基づいて、王が直接勅令を出すことで実施されました。暦は、王国の神々を祀る正しい時を告げる聖なるものとされたからです。年は王の即位から何年目で記述されるのが普通でしたから、王名はきわめて重要でした。ただし、ギリシアのセレウコス朝の時代頃から、「セレウコス朝の162年に」のように暦年でも記述されるようになったようです。
前5世紀頃までは、観測は目測によって行なわれましたが、前499年に、太陰太陽の19年235月の暦で統一される決定がなされ、前380年には、暦の上の月は、目測によらず例外なく決定されるようになったのです。西欧では、19太陽年=235剿]月の発見は、前432年に、ギリシアの天文学者メトンによってなされたと信じられたので、この発見を「メトン周期」と呼びますが、実際の発見は、おそらくバビロニアからで、メトンがこれを西方に導入したと考えられます。
ペルシアがバビロニアを占領した折りに(前539年)、ペルシアの祭司職が暦を司ることになり、前503年に、ダリウス1世がバビロニア暦を正式に採用する布告を出しました。12剿]月で19太陽年に6回第二アダル月を、さらに1回第二ウルール月を置閏する方法によって、新年はほぼ正確に春分になります。それ以後に、76太陰太陽年ごとに1日を除くことで、新年の春分の精度はさらに高くなります。アレクサンドロス大王は、バビロンを征服した後で「天文勅令」を出し、これをギリシア語に訳させました(前331年)。その8か月後に、ギリシア人が(アリストテレスの弟子の一人か?)前330の6月28日を新年とする新しい暦を作っています。この太陰太陽暦は、後になって、世界中のユダヤ人が過越を統一して祝うために、大祭司ヒレル2世によってさらに正確なものになり(紀元360年)、ユダヤ暦では現在もこの暦を用いています。
〔月について〕古くは、月の最初の日は日没に始まり、新月が地平線に現われるのを目測することで決められていました。月の長さは29〜30日の間で変動します。バビロニアでは、月は15日ごとに二つの分かれていましたので、その日が月の第何日かは暦にはありません。月は、場合によって7日単位にも分けられました。月には名前がつけれていましたので、以下に(S)シュメール→(B)バビロニア→(P)ペルシア→(J)ユダヤ→(R)ローマのユリウス暦(前45年に制定。原名と数詞で)の順に、12の月名をあげておきます。
【第一の月】
(S)イツ・バラグ・ザグ→(B)ニサヌ(「聖なる月」獣帯は白羊宮の牡羊座。アヌ神とベル神に捧げる月)→(P)アデュカナイシャ→(J)ニサン(30日)→(R)Martius
〜Aprilis (3〜4月)
【第二の月】
(S)イツ・グッダ・シディ→(B)アャル(義の雄牛の意味で牡牛座:エア神に捧げる月)→(P)スーラヴァーハラ→(J)イッヤル(ジフ)(29日)→(R)Aprilis
〜Maius(4〜5月)
【第三の月】
(S)?→(B)シマヌ(獣帯は双子宮の双子座:シン神に捧げる月)→(P)ターイガシス→(J)シワン(30日)→(R)Maius
〜Iunius(5〜6月)
【第四の月】
(S)ドゥムジ→(B)ドゥーウズ(アダル神に捧げる月)→(P)ガールマパダ→(J)タンムズ(29日)→(R)Iunius〜Quintilis/Iulius(6〜7月)
【第五の月】
(S)ネ・ネ・ガル→(B)アーブ(獣帯は獅子宮の獅子座)→(P)トゥルナバジシュ→(J)アブ/アビブ(30日)→(R)Quintilis /Iulius〜Sextilis/Augustus(7〜8月)
【第六の月】
(S)?→(B)ウルール(イシュタル神に捧げる月)→(P)カールバシュヤシュ→(J)エルル(29日)→(R)Sextilis
/Augustus〜September (8〜9月)
【第七の月】
(S)イトゥ ドゥ・ウ・アザグ→(B)ティシュリトゥム(シャマシュ神に捧げる月)→(P)バーガヤーディシュ→(J)ティシュリ/エタニム(30日)→(R)September
〜October(9〜10月)
【第八の月】
(S)イツ アピン・ガブ・バ→(B)アラーサムナ(獣帯は天蠍宮の蠍座:マルドゥク神に捧げる月)→(P)マーカサンナーシュ→(J)マルケスワン(29/30日)→(R)October〜November(10〜11月)
【第九の月】
(S)イツ・カン・カン・ナ→(B)キスリム(獣帯は人馬宮:ネルガル神に捧げる月)→(P)アースィヤーディア→(J)キスレウ(29/30日)→(R)November
〜December(11〜12月)
【第十の月】
(S)イツ アブ・バ・ウド・ドゥ→(B)テベートゥム(獣帯は磨羯宮で山羊座:パプ・スッカル神に捧げる月)→(P)アナーマカ→(J)テベテ(29日)→(R)December〜Ianuarius
(12〜1月)
【第十一の月】
(S)イツ アシ・ア・アン→(B)シャバツ(宝瓶宮の水瓶座:ラムマン神に捧げる月)→(P)サミヤマシュ→(J)セバテ(30日)→(R)Ianuarius〜Februarius(1〜2月)
【第十二の月】
(S)イツ・シェ・キン・ドゥドゥ→(B)アダル(マルドゥクがエア神の魚になるから双魚宮の魚座:ディバラ神=疫病の神に献げる月)→(P)ヴィヤクサナ→(J)アダル(29/30日)→(R)Februarius
〜Martius(2〜3月)
〔日について〕1日は、日没から真夜中まで、真夜中から日の出まで、日の出から正午まで、正午から日没までの四つに分けられていました。しかし、夜と昼とをそれぞれ12等分する24時間制で、1時間60分、2時間120分、1分60秒の60進法が採られました。昼と夜の長さは、季節によって変動しますので、これに応じて「時間」の長さも変化します。春分、夏至、秋分、冬至は、1,4,7日など、月の決まった日に、1年全体が対称するように配置されました。
■捕囚期前後のイスラエルの暦
捕囚期以前のイスラエルの暦について、聖書にはほとんどその記述がありません。イスラエルの暦の全体像が語られるのは、前3世紀の『第一エノク書』に含まれている「天文の書」が最初です。
【日について】古代ヘブライでは、1日(ヘブライ語「ヨーム」)は、「明け方=午前2時〜日の出」(サハル)、「朝=日の出〜午前10時」(ボーケル)、「昼の暑い頃=午前10時〜午後3時」(ツォホライーム)、「涼しい風の吹く頃=午後3時〜日没」(ネセフ)、「夕暮れ=日没前後」(エレブ)、「夕暮れ〜午後10時」(ライラー)、「真夜中=午後10時〜午前2時」」(ハシェ・ライラー)の七つに分かれていました。これらは、「見張りの時間帯」とも関係していました(出エジプト14章24節/士師70章19節/サムエル上11章11節)。「見張りの時間」では「夕暮れ」(創世記24章11節)がなくなり、「日没」からすぐに「夜」(日没〜午後10時)になります。捕囚以前のイスラエルでは、日の出とともにその日が始まったのが、後に日没から始まるようになったという説もありますが、確かなことは分かりません。列王記上(8章29節)のように、昼→夜の順序で記述されている箇所もありますが、歴代誌下(6章20節)では夜→昼の順で出てきます。この時代の暦は、日時の単位と言うより、儀礼と祭祝日のためですから、過越は夕暮れに始まり(出エジプト12章6節)、贖いの日も安息日も「夕暮れから」始まりますので(レビ23章32節)、夜→昼の順であったようです。
ただし、実際の祭りや生活の場では、日数が続く場合には、朝から翌日の朝へという流れが意識されていたと言えましょう(士師19章4〜8節)。したがって、捕囚期以前については、1日の始まりが朝か夕暮れかは確かでありません。私はダビデ王朝に時代には、これが統一されていたと見ていますが、遅くとも捕囚期以後の第二神殿時代には、夜→昼の順序が定着していたと考えられます。太陽暦に基づく『ヨベル書』でさえ、日は夕暮れから始まると見ることができます(ヨベル21章10節/32章16節)。
【月について】月("month"ヘブライ語「イェラー」)について、聖書には3種類の月名が用いられています。
(1)初期のイスラエルでは、「アビブの月=第一の月」(出エジプト13章4節)や「ジウの月=第二の月」(列王記上6章1節)、「ブルの月=第八の月」(列王記上6章38節)のように、カナンの月名が用いられています。これは最初期のイスラエルではカナンの月名が用いられた形跡かもしれません。だたし、列王記上に出てくるこれらの例は特にカナンとの結びつきが強かった時代のことなので、これがはたして正式の月名なのか、また実際にどの程度カナン名が用いられていたのかは確かでありません(同じ出来事について歴代誌下3章2節では「第二の月」となっています)。
(2)捕囚期の前後を通じて、聖書は「第一の月/1月」「第二の月/2月」のように月名を序数/基数で呼んでいます。バビロンへの捕囚は数詞の月名で表わされるように(列王記下25章1節)、この呼び方はバビロンへの捕囚期の頃から用いられたと考えられます。エレミヤ書(28章1節)、エゼキエル書(1章1節)、ダニエル書からハガイ書(1章1節)、ゼカリヤ書(7章3節)にいたるまでが数詞の月名です。
捕囚期の預言書であるエゼキエル書では(45章16〜25節)、巡礼の祭り、新月の祭り、過越祭、安息日などの祭日や聖日について、数詞による月日が明確に示されるようになります。この方法は、同じ頃に編集されたモーセ五書の祭司資料や申命記史家の部分にも見ることができます(創世記7章11節/8章4節/民数記29章1節/申命記1章3節)。
(3)バビロニアの月名が表われます。
バビロニアの月名は、エズラ記、ネヘミヤ記、ゼカリヤ書など、旧約聖書の後期の文書に表われます。これは明らかに、捕囚から帰還したイスラエルの民が、バビロニアから持ち帰ったもので、バビロニアに取って代わったペルシアもバビロニアの暦を受け継いでいます。
「アルタクセルクセス王の第二十年、ニサンの月」(ネヘミヤ2章1節)とある「ニサン」は、バビロニアの「ニサヌ」(第一の月)からでています(ネヘミヤ記ではほかに1章1節/6章15節)。「第三の月、すなわちシワンの月の23日」(エステル8章9節)の「シワン」もバビロニアの「シマヌ」(第三)からで、このように月名と数詞とが併用されています(2章16節/3章7節/同13節などエステル記では全部で11回ほど)。ゼカリヤ書では「シェバトの月の24日」(1章7節)とあり、これはバビロニアの「シャバトゥ」(第十一)からです(ほかに7章1節)。このようにバビロニアの12の月名は(一部はペルシアの月名)すべてユダヤの月名と対応しています(文字は異なります)。
ただし、月の長さについても置閏の方法についても、旧約の文書は何も述べていません。例えば、ヒゼキヤ王は過越祭を「第二の月に」、すなわち第二の月の14日から行なったありますが、ほんらい第一の月の14日に行うべきものなので、その間に月の置閏があったのかもしれません。このように月の長さと置閏の詳細はよく分かっていません。
【年について】
1年の長さについて、旧約聖書に明確な記述は見られません。ただし、捕囚以前では、北イスラエル王国では、新年が春に始まり、南ユダ王国では秋に始まったと推定されます。出エジプト記34章18節に「アビブの月(第一の月)に除酵祭を守れ」とありますが、これは、捕囚以後になると、新年が春から秋に移されたことを意味するのかもしれません。ただし「新年」は必ずしもひとつだけではありませんでした。ニサンの月(3〜4月)の第1日は王侯や祝祭の始まる新年、エルルの月(第六の月:8〜9月)の第一日は耕作と家畜のための新年、ティシュリの月(第七の月:9〜10月)の第一日は、ヨベルの年(農奴や奴隷の外国人たちの解放)を数える始まり、シャベトの月(第十一の月:1〜2月)の第一日は、果樹の始まりの日、というように。
出エジプト34章には、「アビブの月に」(18節)過越と除酵祭を祝い、「年の終わり」(同22節)に刈り入れの祭りを祝うように記されています。カナン名の「アビブの月」は第一の月(3〜4月)で、大麦の刈り入れが行なわれる春です。この月の第一日が、聖なる祭りの暦が始まる新年になります。これに対して、収穫の祭りは、ティシュリの月で、これは第七の月(9〜10月)に当たる秋で、オリーブやぶどうの収穫と同時に大麦と小麦の種蒔きの季節にもなります。この月が「年の終わり」とあるのは、正確には「年の切れ目」あるいは「年の変わり目」と解釈するほうが適切です。したがって、イスラエルでは、聖なる祭りの始まる春の新年と農耕用の秋の新年と、新年はふた種類ありました。このことは、捕囚以前のイスラエルにおいては、ティシュリの月の秋が、新年だったことを示しています。
捕囚以前のイスラエルの季節観はゲゼル暦と呼ばれる次の詩(歌謡?)にうまく言い表わされています。
彼の2ヶ月はオリーブの収穫の月々。
彼の2ヶ月は穀物の種蒔きの月々。
彼の2ヶ月は遅蒔きの月々。
彼の月は亜麻を積み上げる月
彼の月は大麦の収穫の月々
彼の月は刈り入れと祝いの月々
彼の2ヶ月は葡萄酒作りの月々
彼の月は夏の果物月。
ここに歌われているように、農耕暦は秋に始まることが分かります。イスラエルの民のこのような季節観は、1世紀のイエスの頃でも変わらず、人々は、春に始まる「収穫の季節」から「暑い季節」「種蒔きの季節」「冬の季節」「冷たい季節」へと五つの季節に分けて生活していたようです。
■『第一エノク書』の暦
『第一エノク書』の「天体の書」(72〜82章)は、イスラエルの暦の全体像が述べられている最初の書です。この書には、太陽暦(72章4節以下)と太陰暦(73章)とが並列されていて、両方が比較されています(74章)。ただし太陽の運行には星星も関係していますから、厳密には太陽恒星暦と言えましょう。
1太陽年は、364日で(72章32節)、春分に始まり夏至まで、夏至から秋分まで、秋分から冬至まで、冬至から春分までの四つの季節に分かれます。各季節は3か月単位で、初春・盛春・晩春/初夏・盛夏・晩夏/初秋・中秋・晩秋/初冬・真冬・晩冬のように配分されます。1ヶ月は30日ですが、各季節の3番目の月(第三、第六、第九、第十二の月)は31日になります。したがって、これら四つの月では、31日の最後の1日は季節の終わりになり、この日が季節を区切るための指標となるのです。だからこの暦は360日+4日の太陽年と見るほうがいいでしょう(75章1節)。
月名は序数で、各季節は91日ずつになります。したがって季節はそれぞれちょうど13週となり、1年はちょうど52週になりますから、各季節と年はつねに同じ曜日で始まることになります。1日は日の出から次の日の出までですが、太陽の出と入りは、特定の星星とも結びつけられているようです(82章4節)。1日は18に区分されていて、春分と秋分には、昼と夜の長さが9:9になり、夏至には昼と夜が12:6(=2:1)になり、冬至にはその逆になります。
「天文の書」では、太陽による昼と夜の長さは、6か月ごとに二つに分けられ、太陽の運行は、対応する6組の門(全部で12の門)からの出没によって区分されます(72章3節)。太陽は、春分点を出発して、その出没地点は、地平線を北へ進み、1月(30日、昼:夜=9:9)→2月(30日、昼:夜=10:8)→3月(31日、昼:夜=11:7)で、最北の夏至点に到達します。そこから今度は地平線を南へ下がり、4月(30日、昼:夜=11:7)→5月(30日、昼:夜=10:8)→6月(31日、昼:夜=9:9)と進んで秋分点に達します。そこから7月(30日、昼:夜=8:10)→8月(30日、昼:夜=7:11)→9月(31日、昼:夜=6:12)と進んで最南端の冬至に達します。そこから再び南から北へ10月(30日、昼:夜=6:12)→11月(30日、昼:夜=7:11)→12月(31日、昼:夜=8:10)と進んで春分点に達し1年の周期を終えるのです。 このように、太陽は、東にある六つの日の出の門と西にある六つの日没の門とが対応する12の門(gates)を周期毎に一巡します。1太陽年は12か月で364日となります。昼と夜の長さは、全体が18区分に分けられて、太陽の運航に準じて比率が変化します。伝統的なユダヤの太陰暦では、1日は日没に始まり次の日没で終わるのですが、この太陽暦では、1日は、日の出に始まり次の日の出で終わります。 注意したいのは、1太陽年を12か月とすることは、太陽暦ではなく太陰暦の12の月を太陽暦に適応させることから来ていることです。「わたしは、そこから太陽が昇ってくる六つの門と太陽がそこに没する六つの門を見た」(72章3節)とあり、これに続けて「月もその門から昇って沈む」が加えられているのはこのことを表わしています。また、月の運行とその区分による月齢の暦が、5年間で太陽暦に対して50日不足することが述べられています。さらに12の門から出る東西南北の風の区分と、これに伴う祝福と繁栄、滅びや干ばつ、雨や露などをもたらす風の方角が語られ、陸と大海、「全ての発光体」などについても語られます。
この太陽暦は整然としていて分かりやすいのですが、実際の太陽年は365日+4分の1日ですから、32年で40日もの季節のずれを生じることになります。『第一エノク書』を著わしたエノク・グループの人たちは当然これに気づいていたはずですが、にもかかわらず年364日を強く主張しています。週で割り切れるのがこの暦の特長で、エノク・グループの人たちの意図もまさにこれにあったと見ることができます。ちなみに、この暦の特長を活かそうと「世界暦」を作る試みがなされ(1931〜55年)、その際に、毎年、日数に数えない1日〜2日の「余分な日」を導入することが提案されましたが、実現にいたりませんでした〔John Pratt ;Enoch Calendar Testifies of Christ. Part II〕。
『第一エノク書』には、「日」あるいは「週」の置閏については明言されていません。ただし置閏を否定してもいません。『第一エノク書』の著者(たち)は、このことも言外に含んでいるのでしょう。年364日の暦は、実際の太陽年(365.24日)よりも毎年1.24日短くなりますから、実際の春分はその分だけ早く来ることになります。もしも余分の閏週を挿入すれば、今度は春分が実際の日より後に来ることになります。現在の暦では、4年に1度1日を置閏して2月を29日としていますから、春分は20/21日になります。ところがこの太陽暦では364日の太陽年が、7年間切れ目なく続くと、7年目の終わりには、8.68日だけ実際の季節よりも早くなるのです。これを調整し、かつ週単位で割り切ることができるようにするためには、閏(うるう)週を設ける必要があります。しかしその方法については書かれていません。おそらく6〜7年に1回、1週の置閏が行なわれたのでしょう。ただし、7年ごとに1週の置閏を行なったとしても、春分は遅れて現在の3月23/24日になるでしょう。もしも28年目ごとにさらにもう1週を置閏すれば、年平均が365.25日となり、より正確な暦ができることになります。後に述べるクムランの遺跡からは、粘土の太陽計(sundial)が発見されていますから、おそらくクムランの太陽暦は、このような置閏を行なうためではないかと思われます。
以上をまとめると、エノク・グループの提唱する暦は(実際のクムラン暦もこれと同じ)、毎年水曜日に始まる年364日の太陽暦でした。新年は春分の日の出に始まり、祭日と季節の始まりは、必ず決まった曜日が来るように構成されていました。おそらく7年周期の6年目の終わりに1週間の置閏が行なわれ、28年目ごとにさらに1週間の置閏が行なわれたのでしょう。 興味深いのは、太陽暦と太陰暦との比較のところです。ここで著者は、太陽年を360日として数え、太陰年の354日と比較して、「太陽と星の(月に対する)超過分は6日に達する」(74章11節)と述べて、この差は、5年で1800日(太陽年)と1770日(太陰年)となるから、太陽年は30日分超過すると述べています(74章10節)。だから、著者は、四日分を「1年の数に勘定されることのない四日間」(75章1節)と考えているのが分かります。しかも著者は、「太陽が星とともに導き出すこの四日」を全体の計算に入れないことを「罪人のように間違えない」(82章5〜6節)ようにと警告するのです。著者は、この四日を加える者を「義なる者、正しい道を歩む者」として、「罪人のように間違えない者はさいわいである」と述べるのです。おそらくこれは、聖なる七日の週が、この四日なしには完全にならないことからきていると考えられます。クムラン文書によれば、前150年頃から継続的に、『第一エノク書』の太陽暦とエルサレムの太陰暦との照合が行なわれていました。これは、太陰暦の新月と満月とをクムラン暦と照合させる目的で作成されたものです〔Legfren & Pratt 9〕。
■『ヨベル書』
『ヨベル書』の成立は前2世紀(前150〜100年)と見る説がありますが〔村岡1
5〕、それより早い前3世紀とする説もあります〔Hartmut Stegemann.
The Library of Qumran. On the Essenes,Qumran, John the Baptist, and Jesus. Eerdmans (1988).92〕。『第一エノク書』とクムラン文書の「神殿の書」との間と見ていいでしょう〔Boccaccini
Beyond the Essene Hypothesis. The Parting of the Ways between Qumran and Enochic Judaism. Eedermann(1998).(2) xxi〕。「ヨベル」というのは、レビ記25章の定めに基づいたイスラエルの民への規定です。6年間土地を耕し、7年目は「安息の年」とし、この「安息の年」の7回目、すなわち49年目の贖罪日からが50年目の年となり、これが「ヨベルの年」です(レビ25章6〜10節)。
この年には、土地を休ませ、休閑中の土地を耕さず、負債のために奪われた土地がもとの所有者に戻され、身を売って奴隷とされていた者も解放されます。この年が「解放の年」と呼ばれるのはこのためです(同13節以下)。ただし、この規定がどこまで実際にイスラエルで実行されたのかは確認できません。
『ヨベル書』には『第一エノク書』ほど黙示思想の影響が見られませんが、この書の暦は『第一エノク書』を受け継いでいます。『第一エノク書』との関係で特に重要なのは、『ヨベル書』4章13節から6章の終わりまででしょう。ここには、エノクの誕生に始まり、天使たちの堕落、ノアの誕生と箱船と洪水の物語が語られています。特に注目したいのは、その暦に対する見方です。『第一エノク書』では、太陽暦と並んで太陰暦も併記されています。しかし『ヨベル書』では、太陽暦こそが、神がノアと結ばれた契約に基づく聖なるものとされているのです。作者にとってこの暦は、祭日を守るためのものであって、それゆえに聖なる重要な暦なのです。ノアに与えられた契約を覚えるために、毎年、第一の月と第四、第七、第十の月、すなわち、『第一エノク書』の太陽暦に基づく、四つの季節の始めの月の初日を特に記念するように求めています(6章23〜24節)。これに続いて、太陽暦の聖なることを作者は次のように述べています。
「 これは(季節の初日を覚えること)天の板にのせられており、ひとつ(の記念祭)から他の記念祭まで、第一から第二、第二から第三、第三から第四まで、そのひとつひとつが13週なのである。掟の日の合計は52週となり、これで完全に1年となる。このように天の板に刻まれ、規定されており、これを1年たりと言えどもずらしてはならない。きみはイスラエルの子らに、364日というこの数で年を守るように命ぜよ。これで1年は完全なのであって、その日と祭りの時を乱してはならない。すべては証しの通りにその範囲内にめぐって来るべきで、日をやりすごしたり、祭りをふいにしたりしてはならない」
(ヨベル6章29〜32節)〔村岡訳〕。
「天の板に刻まれている」とは、天体の運行がこの暦の正しさを証ししているという意味でしょう。ここでは、天体の運行と、ノアに与えられた契約、すなわち「地の続く限り、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない」(創世記8章22節)という契約とがひとつになっています。『ヨベル書』では、天体の運行と太陽暦と聖なる祭りとが一つに結びついているのです。
■クムラン宗団と太陽暦
以上で分かるように、『第一エノク書』の暦は、完全な太陽暦ではなく太陰太陽暦に近いと言えましょう。それにもかかわらず、この暦は、当時のイスラエルにとっては画期的な出来事でした。ただし、これを実際にそのまま実生活に適用することは、それまでの慣習や日数にずれが生じることなど、なかなか難しい面があったようです。この暦を採用していたクムラン宗団のクムラン文書には、『第一エノク書』の太陽暦だけでなく、伝統的な太陰暦の文書も含まれていて、宗団の人たちの生活全体も、必ずしも厳格に太陽暦に統一されていたとは言えないところがあります。しかし、この太陽暦は「理念的に」きわめて重要な意味を持っていたと考えられます。これの適用と実施が必ずしもうまくいかなかったために、エルサレムの神殿祭司たちとの間に摩擦が生じる結果となり、このことが、クムラン宗団が独自の歩みを始める一因になったと考えられます。
「天文の書」(72〜82章)に戻りますと、その後半から「罪人の時代には1年は短くなり、種は大地や畑で芽を出すのがおくれる」(82章3節)とあり、これに続いて、「罪の時代」には、太陽も月もその運行を変え、星も「迷って、道を誤る」と語られます。こうして、天使ウリエルは、エノクに「罪人の時代」について啓示し、彼に「天の板」を示すのです。エノクはこれによって「地上に住む全ての肉の子たちの行為を知り、未来永劫までをも読み取る」(81章2節)のです。彼は、その子メトシェラに自分の知識の一切を啓示して、子孫に「彼らの思いも及ばないこの知恵」を伝えるよう伝授します。ここでは、前半の太陰太陽暦と後半の「罪人の時代」との対照とつながりが、「天文の書」の意味を考える上で問題になりますが、この問題は、「天使の堕落」というテーマと関係します。
■クムランの暦
クムラン宗団の暦は、発見された文書、例えば太陽年の月と祭日(4Q320〜4Q321a)や満月の日付(4Q320MishmoretA)に関する断片から判断すれば、前50〜25年の頃のものです〔引用のテキストとその番号はWise, Abegg, Cook
The Dead Sea Scrolls. Harper SanFrancisco(1996/2005)による〕。この宗団の暦は、『第一エノク』と『ヨベル書』を基本とする太陽暦です。この2書は、クムラン宗団にとっては、旧約の聖典と同じ意味を持っていました。暦が聖なるものであるのは、これが祭儀や祝日を決める重要な意味を持つだけでなく、そもそも天体は神が創造したものだからです。彼らにとって、時間は神聖なものであり、「時は金なり」ではなく「時は神なり」だったのです。また、この宗団の人たちは、太陰暦に基づくエルサレム神殿の暦は誤り(罪の暦)であると考えていました。
クムラン宗団の暦の特長は、先の『第一エノク書』の暦で見たように、364日の太陽年が、各月と各季節がつねに週単位で始まり終わることです(4Q394A)。しかもそれが週の特定の日、すなわち水曜日に始まるのです。これはおそらく神が太陽と月とをときのしるしとして創造した創造の四日目に当たるからでしょう。したがって、1太陽年(364日)は、春分の水曜日に始まることになります。四つの季節は、それぞれ91日の13週で、各季節も水曜に始まります。
クムランの文書の中でも、「神殿の書」は暦によって一貫して構成されています。祭日については、「神殿の書」(11Q Cols.2~29)に次のような七つの祭日があります〔Wise DSS 595〜606〕。
(1)新年:第一の月の1日(水曜):ニサンの月
(2)過越:第一の月の15日(水曜):ニサンの月
(3)大麦の献納:第一の月の26日(日曜):ニサンの月
(4)小麦の初穂の献納(ペンテコステ):第三の月の15日(日曜):シワンの月
(5)記念の日(トランペット):第七の月の1日(水曜):ティシュリの月
(6)贖罪の日:第七の月の10日(金曜):ティシュリの月
(7)仮庵の祭り:第七の月の15〜22日(水曜から):ティシュリの月
クムラン宗団の暦は、実際の1太陽年(365.24日)よりも毎年1.24日短くなりますから、これを調整し、かつ週単位で割り切ることができるために、閏週(うるうしゅうを設ける必要がありますが、その方法については書かれていないようです。おそらく6〜7年に1回の閏週)の置閏が行なわれたのでしょう。
クムランでは春分の日の出と共に新年が始まりますが、エルサレムのユダヤ教では、新年は春の新月で始まります。だから次の満月は、春分かそれ以後になります。現在の暦で言えば、クムランでは新年が3月21日になり、ユダヤ暦では3月7日の新月となります。なお、現在のグレゴリオ暦では、4年ごとに2月に閏日が置かれますから、春分は常に3月20/21日になります。しかしクムランでは、7年ごとに8.68日遅れますから、ほぼ4年ごとに春分は四日遅れの3月25日になります。
ただしここで、クムラン宗団の暦について、一つの謎?があります。それは太陽暦でありながら「満月/新月」がしばしば出てくることです。謎は二つあります。ひとつは、クムラン宗団の中でも、太陰暦を用いることがあったのだろうか? あるいは宗団の中で、太陰暦を用いるセクトがいたのだろうか(これはありそうもないが)? という問題です。もう一つの謎は、「満月/新月」を意味する「ドゥクア」"duqah/duq"が、「新月」と「満月」のどちらを指すのかがはっきりしないことです。ワイズたちの編集したクムラン文書は満月説を採っていますが〔Wise DSS 383〕、これに反対する説もあります〔Pratt John P. and Lefgren John C. Dead Sea Scrolls May Solve Mystery.Reprint from
Meridian Magazine(12 Mar 2003).注13〕。どちらにせよ、月の初めの日が、新月か満月かで、クムランとエルサレムとは異なっていたと思われますが、はたしてクムランの月が満月に始まったかは確認できません。
■祭司の神殿勤務周期
太陰暦は29〜30日の月なので36か月でちょうど太陽暦よりも30日遅れることになります。このために太陰暦と太陽暦とを調整するためには、月の置閏が必要になります。この調整のための大事な指標となるのが、エルサレムの24祭司サイクル制とクムランの太陽暦との照合です。ただし、ユダヤ社会では先祖からの太陰暦を用いていましたから、「神殿の書」の作者たちも月の運行に関心を持っていました。また、エルサレムの祭司たちも太陽の運行に関心を持っていて、エルサレムでは、閏月の置閏が行なわれていました。したがって、エルサレムとクムランとの暦の違いは相対的なものでした。問題は、聖なる時を支配するのは太陽か月か、どちらがより重要であるかということにかかっていました。「神殿の書」は、太陽を重んじて、364太陽年の暦でした。この太陽年では、年に1日と4分の1足りなくなりますが、一方の剿]年の暦では、1か月で、半時間足りなくなりました。ただし、「神殿の書」からは、置閏についての正確なことは分かっていません。
クムランとエルサレムとの暦を比較する上で興味深いのは、週ごとの祭司の神殿勤務の当番制です。「アロンの子ら」である祭司たちは、24に組み分けされて、1週間ずつ神殿に勤務する定めになっていました(歴代誌上23章25〜32節)。それらの組の順番と祭司の家族名は歴代誌上24章7〜18節によって確認してください。勤務の番に当たる祭司は、その週の土曜の正午に神殿に入ります(以下Lefgren & Pratt による)。
これら24家族の名前が、ユダヤ教では、そしてクムランでも、それぞれの「週名」として用いられていたのです(ルカ1章5節を参照)。しかもこの24週の祭司の勤務周期(The Priest Cycle)は、とぎれることなく継続していました。だからその週の当番名と他の日付(月と日)とを組み合わせることで、ある出来事(例えば天使がザカリアに洗礼者ヨハネの誕生を告げた日付)を割り出す大事な手がかりになります。クムラン宗団もこの祭司当番の周期的な週名を用いていましたから、エルサレムの暦に基づくこれらの週名とクムランの暦との照合が詳細に行なわれていました。ただしこのことは、クムランの祭司たちが、エルサレム神殿の勤務祭司として登録されていたことを意味しません。クムラン宗団は、これを単なる週名として用いていたのです。
太陰暦は29〜30日の12か月なので、36か月でちょうど太陽暦よりも30日遅れることになります。したがって、これを調整するために、エルサレムの暦に1か月の置閏が必要になります。例えば4Q320Aの断片(1)欄(1〜2)と4Q321には、週名の何日目が、太陰暦の月の何日と太陽暦の月の何日になるかが照合されています。クムラン宗団の月ごとの初日が、祭司の勤務周期と照合されているのです。太陽と月との関係は、『第一エノク書』78章(特に6〜17節)に出ています。
ところで4Q321(Cols.1〜4)は、祭司勤務の周期が6年間にわたっていたことを語っています。このことは、24組が、同じ回数だけ勤務するのに、年52週で6年で312週となり、6年でちょうど13回の周期が完了したことを示しています。したがって7年目から、新しい周期が始まるのです。6年目の最初の日は特に重要です。49年でヨベルの年になり、294年で6回のヨベルの年がめぐります。
クムラン宗団の364日の暦は、実際の太陽年(365.24日)よりも毎年1.24日短くなりますから、実際の春分はその分だけ早く来ることになります。もしも余分の閏週を挿入すれば、今度は春分が実際の日より後に来ることになります。現在の暦では、4年に1度1日を置閏して2月を29日としていますから、春分は20/21日になります。ところがクムラン暦では364日の太陽年が、7年間切れ目なく続くことになります。その結果、7年目の終わりには、8.68日だけ実際の季節よりも早くなるのです。これを調整し、かつ週単位で割り切ることができるために、閏(うるう)週を設ける必要があります。しかしその方法については書かれていません。おそらく6〜7年に1回、1週の置閏が行なわれたのでしょう。7年ごとに1週の置閏を行なったとしても、春分は遅れて現在の3月23/24日になるでしょう。もしも28年目ごとにさらにもう1週を置閏すれば、年平均が365.25日となり、正確な暦ができることになります。クムランの遺跡から粘土の太陽計(sundial)が発見されていますから、おそらくその太陽暦は、このような置閏を行なっていたのではないかと思われます。
以上をまとめると、クムラン暦は、毎年水曜日に始まる年364日の太陽暦でした。新年は春分の日の出に始まり、祭日と季節の始まりは、必ず決まった週の曜日に来るように構成されていました。おそらく7年周期の6年目の終わりに1週間の置閏が行なわれ、28年目ごとにさらに1週間の置閏が行なわれたでしょう。さらに前150年頃から、継続的にエルサレムの太陰暦との照合が行なわれていました。4Q321の断片は、太陰暦の新月と満月とをクムラン暦と照合させるもので、おそらく前42年頃のものであろうと推定されます〔Legfren & Pratt 9〕。
【補遺】
〔イエスの時代の暦〕
ユダヤ教の暦は、新月から新月までを1か月(29日〜30日)と数える太陰暦です。1日は日没から始まり日没に終わります。その上で、日没から日の出までを夜としてこれを四つの「見張りの時刻」に区分しました。第一の見張りは18時〜21時/第二の見張りは21時〜0時/第三は0時〜3時/第四は3時〜6時となっていました。また、日の出から日没までを昼として、これは12の時刻に分けていました。昼と夜の長さは季節によって異なりますから、1時刻の長さも、季節によって長さが異なり、しかも昼の1時刻と夜の見張りの時刻も長さが同じではありません。このように複雑な暦なので、イエスの時代には、昼も夜も12の時刻に分ける場合もあり、さらに、ローマの暦の影響もあって、事実上は季節に関わりなく、昼と夜とを同じ長さの12時間としていたと見る説もあります〔C.K.Barrett;The
Gospel According to St.John.(1978)p.391.〕。
〔ユリウス暦〕
古代ローマのユリウス・カエサルは、紀元前46年、天文学者ソシゲネス(Sosigenes)の助言を得て、エジプトの太陽暦に倣って、1年の日数が365・25日、暦年365日、4年に1回366日の閏(うるう)年を置く太陽暦を制定しました。ローマ暦は元来、時に応じて閏月を挿入する太陰暦でしたが、この当時、季節とのずれが約3か月ありました。このためにカエサルは、改暦に際して、通常の閏月のほかに、さらに余分の2か月の閏月を置きました。
ローマ暦の新年の月は、現在の3月のマルチウス(Martius)でしたが、カエサルは従来のローマ暦第11月のヤヌアリウス(Januarius)を新年の月とし、閏日を第2月のフェブラリウス(Februarius)に置き、またローマ暦の第の5月(現在の7月)のクィンティリス(Quintilis)を自らの名「ユリウス」に改めたと言われています。この暦法は前45年から施行されましたが、その後、置閏(ちじゅん)を誤り、前42〜前9年は3年ごとに閏日を置いたため3日の狂いを生じました。このために、カエサルの後継者アウグストゥスは前6年から紀元4年まで閏日を置かず、紀元8年から4年ごとに閏日を置きました。そして第8の月セクスティリス(Sextilis)を自らの名から「アウグスト」と改めるとともに、第2の月から1日を第8の月に移して31日としたために、第7.8.9月と大の月が3回続くことになったのです。それで第9の月以降、12月までの日数を入れ換えたと言います。これがユリウス暦です。
〔グレゴリオ暦〕
1582年10月に、ローマ法王グレゴリウス13世によって施行された太陽暦をグレゴリオ暦と呼びます。当時使用されていたユリウス暦は1年の平均日数が365・25日であったために、この暦法に従って閏日(うるうび)を置いていると、100年間で18時間、1000年で8日近く、実際の季節とずれることになったのです。このため真の春分がそれだけ早くなりました。したがって、16世紀の終わりころには、325年にニカイアの宗教会議で定められた3月21日の春分が3月11日になり、10日も早くなったのです。このために、ローマ法王グレゴリウス13世は、1582年の春分が3月21日となるように10日間を省いて10月4日の次の日を15日としたのです。さらに、将来も相違がおきないようにするため、4年に1度、閏日を置く年としていたそれまでの置閏(ちじゆん)法を改め、「西暦紀元年数が4で割り切れる年を閏年としました。ただし100で割り切れる年のうち4で割り切れない年を平年としました。閏日は2月28日の次の日に置くことにしたのです。これをグレゴリオ暦と言います。この置閏法によると1年の平均日数は(365日×303+366日×97)/400=365・2425日となり、100年に0・03日、1万年で3日の違いになります。この改暦にはクラビウス(Clavius)が寄与しています。
この暦は、イタリア、ポルトガル、スペイン、ベルギー、オランダなど、主としてカトリック諸国では1582年から施行されましたが、プロテスタントに属する地域(ドイツ、スイス、オランダのプロテスタント地域、デンマーク、ノルウエー)は1700年に、イギリスでは1752年に、日本では1873年に施行されました。グレゴリオ暦は置閏法が簡明であり、しかもその誤差も小さいので、今日世界の各国で採用されています。