ユダヤ教の「日」について
             (2023年8月1日)
 聖書の「日」(英語の"day")(ヘブライ語「ヨーム」)は、ほんらいアッカド語「ウーム」から出ています。「日/昼」は、古代では、常に「夜」と対比されます。だから「日」は、「昼間」と「夜間」とが対比する時間帯として認識されます(創世記1章4〜5節)。
 日中の暑さの激しいバビロニアでは、昼間(ひるま)よりも夜間(やかん)のほうを好む傾向がありました。この傾向に加えて、「夜間の」月の満ち欠けが、祭儀に基づく暦に影響を及ぼします。これに対して、「日/昼間」は、生け贄の「犠牲を献げる」祭儀の時と見なされました。
 神学的、祭儀的に見れば、「日」は光を伴う「昼間」のことで、これが暗い「夜」と対比されます。「光(昼)と闇(夜)との交代」こそが、神の創造の基本であるいう認識に立つものですが、太陽と月が創造されることで(創世記1章14〜16節)、「光対闇」の対極が中立のバランスを保つことになります。この創造は、神の絶対的な権威に属すると見なされました。これによって、特定の日が「聖なる日」と呼ばれ、「安息日」に見るように、年間を通じて、祭儀的な規定が、規則正しい祭日とされます。特に祭儀的、神学的な用法として、「日」は、主ヤハウェの「創造行為」と深く関わります(創世記1章3〜5節)。「創造」は、空間よりも時間的な出来事なのです〔TDOT (6)27--29〕。
 したがって、「日」は、朝夕の1日を指す場合よりも、「わたしの日(今の自分)」「黄金の日」「終末の日」「永遠の日」などのように、常に、「他の言葉と組み併せる」ことによる「複合的な言い方」として用いられます〔TDOT (6)8--9/13--14〕。だから、冠詞付の「ハ・ヨーム」=「今日」は、暦の「日」というよりも、話し手の意図する「時/時期」を指します。「ル」「ヴ」「ドゥ」のような前置詞との組み合わせは、副詞的な用法として、様々な「時間帯」を指し、とりわけ、前置詞+「日」+動詞の不定詞は、「〜する時」を意味します。
 ヘブライ語でも日本語と同様に「朝夕」は「一日」を指しますが、24時間を表わす「暦の日」に相当する用法は、ヘブライ語にありません。原則を言えば、「丸1日」は、「昼間」とこれに続く「夜」として理解されます。したがって、朝から次の朝までが、「暦日」としての「1日」になります(創世記1章3〜5節を参照/同19章33〜34節/サムエル記上19章11節)。ところが、「丸1日」をこのように確定することを許さない「あいまいさ」が、安息日と、その他の祭りによる「祭儀的な規定」によって生じることになります。
 レビ記23章26節では、「第七の月の十日は贖いの日」だと定められていて、この日は、完全なる「安息の日」としなければなりません(同32節)。ところが、安息は、「九日(ここのか)の<夕暮れから>身を慎んで、夕暮れから夕暮れまで安息しなければならない」と規定されています〔TDOT (6)23〕。すなわち、この祭儀は、夕暮れをその起点として、「夕暮れから夕暮れまで」を祭儀の「時/日」と定めているのです。しかも、犠牲を屠る祭儀は昼間でなければなりませんから、祭儀の日は朝をも起点としなければなりません(レビ記7章15節/同22章30節)。
 このように、イスラエルでは、「安息日」が、「夕方から夕方まで」(レビ記23章32節)と定められていることが、祭儀を執り行なう上での「1日」を決める重要な役割を果たしました。このため、ユダヤ教では、夕刻を起点とする習わしが定着するようになります(レビ記23章5節/出エジプト記12章6〜10節/ネヘミヤ記13章19節)。ただし、犠牲を献げる場合は、朝から翌朝までを「1日」と数えることになります(レビ記7章15節/同22章30節)。
 ところが、「1週間」の場合と、とりわけ「1か月」の日数の場合は、月を基準とする太陰暦(29日半)とうまく噛み合わないからややこしいです。したがって、旧約聖書の時代の暦は、太陰暦と太陽暦とを組み合わせた太陰・太陽暦が用いられることになります〔TDOT (6).22--25〕。祭儀の場合は、その祭儀の正確な「時間」よりも、祭儀が表す出来事のほうが重視されます〔TDOT (6).30〕。「主の日」の例に見るように、預言的な内容を帯びる場合は、いっそうこの傾向が強くなり、捕囚期以後もこの傾向は変わりません。
 こういう様々な矛盾は、長期間続きますが、祭儀的な傾向の強いイスラエルでは、「日」の起点を「夕刻」とする「安息日傾向」が徐々に強まることになり(レビ記23章5節/出エジプト記12章8節/同18節/ネヘミヤ記13章19節)、以後のユダヤ社会では、「日」の起点を夕暮れとする習わしが定着することになります〔TDOT (6)24〕。ただし、これに従わない人たちも居ました。
 イスラエルでも、捕囚期以後のギリシア時代では、昼間と夜間は、それぞれ6時間の倍数の12時間として認識されますが、「日」は、そのような物理的な「時間」を表わすよりも、現実の生活にまつわる「季節/時節」とのかかわりと、星の運行などによる天文の祭儀にまつわる「吉」と「凶」によって識別されます。
 ただし、クムラン宗団では、「暦日」を重視する傾向を見ることができます。クムラン宗団は、「水の洗い」などの祭儀の曜日とその時間を重視したからでしょう。だから、エルサレムの祭儀と異なるクムラン宗団では、エルサレムでの暦とは祭儀の日取りが異なります。「暦の日取り」は、イスラエルを支配する当時のローマの太陽暦とも関連しますから、パレスチナでは、地域や宗団によって複数の「暦」が存在していたことになります。
 以上のような複雑な状況の下で、イスラエルでは、「丸1日」を昼間の始まりである太陽を起点とする場合と、満月にちなんで、月を基準にして起点を定める場合とが併用されてきました。だから、イエスの頃には、「過越の日」についても、この日を「朝」を起点とする場合と(6時から6時まで)、「夕刻」を起点とする場合と(18時から18時まで)、ふたとおりが可能になります。この「朝夕問題」は、現在でも議論が続いています〔TDOT(6)25〕。
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