【注釈】
■マルコ14章
【マルコの語り】
 マルコ14章12節の「過越の食事」は、同1節の「過越祭」と対応します。二度の「過越」の間には、イエスの体の葬りへの備(そなえ)と、ユダによる裏切りの取り決め行為とが挟まれています。ここも、マルコの語りの特徴である「サンドイッチ」様式です。
 マルコ14章17~52節は、イエスとその内弟子たちとが、「地上で共に過ごす」最後の時になります。イスラエルの「過越祭」は、イスラエルの神を信じる家族・友人たちが、罪を贖う犠牲の小羊の肉を食べて共に食事をすることで、「神の救いに与る」ためです(出エジプト記12章1~13節)。ところが、マルコの語りでは、この「救いの時」の食事を中心に、ユダの裏切りへの予告と、ペトロの背信への予告があり、弟子たちの逃走という皮肉な結果になります〔R.T. France. The Gospel of Mark. NIGTC. Eerdmans(2002). 558.〕。イスラエルの過越では、出エジプトの出来事がこれに続き、荒れ野での旅が始まりますが、マルコの語りでは、続いてイエス一人の受難が始まり、イエスの復活へつながります。
【最後の晩餐の日取り】
 今回の過越の準備については、受難週の日程と時間に関する重要な「プロブレム}(問題)が提起されています。マルコ14章12節と同14節と同16節から総合的に判断すると、
(1)
「過越の小羊を屠る日」、すなわち、ニサンの月の14日に、過越の食事(翌日の15日)を準備して、過越祭の当日(15日)に、その小羊の肉を含む過越の食事が「最後の晩餐」として行なわれた。
(2)「過越の小羊を屠る日」、すなわち、ニサンの月の14日に、過越の食事を準備して、その同じ14日に、過越祭当日(15日)の過越の食事に見習う形で(見立てて)、「最後の晩餐」が行なわれた。したがって、晩餐は正規の過越の食事ではないから、、神殿で屠られた犠牲の羊の肉は、実際には含まれていない。
 この二つの解釈が可能になります。ここで問題の一つに、マルコが言う「暦の1日」は、ローマ様式の朝から翌朝まで(6時から6時まで)なのか、それとも、ユダヤ様式の夕方から次の夕方まで(18時~18時)なのか? という疑問があります。これについては、後で扱いますが、コイノニア会ホームページの「共観福音書補遺」の欄で、「ユダヤ教の日について」をも参照してください。筆者(私市)は、当時のユダヤでは、安息日が、夕刻から夕刻までであったことを考え併せると、過越祭のような大事な祭りの日を扱う場合は、イエスの頃でも、ユダヤ様式の夕刻から夕刻までを「1日」としたと思います。イエスの頃までの伝統的な時刻区分では、とりわけ祭儀を重視するユダヤでは、1日は日没から始まり日没に終わります。その上で、日没から日の出までを夜としてこれを三つに区分しました。第一は18時~22時/第二は22時~午前2時/第三は午前2時~6時となっていました〔「ヨベル書」49章:『聖書外典偽典』(4)旧約偽典(Ⅱ)教文館(1975年)156頁/(注5)336頁も参照〕。
 マルコ14章12節の「除酵祭の第1日」は、これを旧約聖書の規定に従って厳密に解釈するなら、ニサンの15日が始まる夕刻からのことで、「この日が(過越際の)始めである」〔「ヨベル書」49章:前掲書154頁〕と規定されていました。だから、マルコの14章12節では、15日が始まる夕刻から夜にかけて、「最後の晩餐=過越の食事」が行なわれたことになります。マルコ福音書では、イエスは、「午前9時」に十字架につけられ、「午後3時」に息を引き取ったとありますから(マルコ15章25節/同34節)、イエスの十字架刑は、過越祭当日(15日)のことになります。
 ところが、ヨハネ福音書では、最後の晩餐は、「過越祭の前」になりますから(ヨハネ13章1節)、これだと、最後の晩餐は、過越の小羊が屠られる14日の午後以前のことですから、ニサンの月の「14日が始まる夕刻」からのことになりましょう。(14日の朝から午前にかけて)大祭司カイアファの官邸からピラトの官邸までイエスを連行したユダヤ人たちは、「汚れないで(翌日15日の)過越の食事ができるように」、用心して(異教徒の)ピラトの官邸に入らなかったとあります(ヨハネ18章28節)。ピラトが正式にイエスの裁判を始めたのは14日の正午頃で(ヨハネ19章14節)、アリマタヤのヨセフが、遺体に触れると汚れるので、(過越祭の前に)イエスの遺体を降ろしたのも14日が終わる夕刻の前の午後になります(ヨハネ19章38節)。
 共観福音書とヨハネ福音書との「ふたとおり」とも思われるこの受難の日取りは、いったいどちらが、ほんとうなのか?これをめぐって長年論争が続いています。最近では(2023年)、過越祭の大事な祭りの当日に、異教徒のピラトによる裁判が行なわれたり、十字架刑が執行されたり、遺体が埋葬されたとは考え難いという理由で、ヨハネ福音書の記述のほうが実際の出来事を伝えていると見る説が有力です〔例えば、エドワルド・シュヴァイツァー『マルコによる福音書』NTD新約聖書注解。高橋三郎訳。ATD.NTD聖書註解刊行会(1986年)396頁~400頁など〕。最近の天文学的な調査でも、イエスの十字架刑が行なわれた金曜日が14日にあたる年が、紀元30年と33年にあります。これに対して、紀元27年~34年の間で、ニサンの15日が金曜日に相当する年はありません〔France. The Gospel of Mark. 560.〕。
【マルコの過越の食事】
 では、マルコの言う「過越の食事」は、これをどのように受け取ればよいのでしょうか?ヨハネ福音書との調和を図る一つの解釈として、マルコ福音書の日取りとヨハネ福音書の日取りとは、当時のパレスチナでの異なる暦に、例えばファリサイ派とサドカイ派の間の違い、あるいはエッセネ派の暦の違いなどに準拠することで生じたのではないか?という説もあります。マルコの言う「過越の食事」については、コイノニア会ホームページ→聖書と講話→共観福音書補遺→「過越について」を参照してください。
 イエスは、受難週の始まる時から、弟子たちとの最後の食事が、過越祭当日(15日)にはできないことを察知していたと思われます。そこで、その前日14日(木曜日)に、最後の晩餐を行なう準備をするよう弟子たちに命じ、14日に最後の晩餐を行なうよう取り計らった。14日の午後は、犠牲として献げられる小羊が屠られる当日にあたります。イエスは、屠られた「贖いの」小羊の肉と血を皆で分かち合う過越の食事が、自分の血と肉を弟子たちに与える祭儀の食事にすることで、14日の最後の晩餐を15日の「過越の食事」の祭儀に「見立てようとした」。このように解釈することが提示されています。
 マルコの記事には、晩餐の席に「(犠牲として屠られた)小羊の肉」が置かれていたという記述はありません。「共観福音書が語る食事は、一見すると過越の食事のように見えるけれども、実際は、(小羊の肉を食べる)正規の過越の食事ではなかった」〔France. The Gospel of Mark. 559.〕。それは、(神が授与する小羊としての)イエスの肉と血を食べることを祭儀的に表わすために「過越の食事」にちなむものであった。マルコ福音書が言う「過越の食事」をこのように解釈するのです。こういう見方は、パウロが、第一コリント5章7節で述べていることと一致します〔France. The Gospel of Mark. 559--564を参照.〕。最後の晩餐を、過越(の食事)の祭儀性を具えた食事に「見立てる」この解釈は、13世紀の神学者ボナヴェントゥラ(イタリア生まれのフランシスコ会の枢機卿)までさかのぼるようです〔Bovon. Luke 3. 146.〕。この推定に立つなら、マルコの言う「過越の食事」も、史実としてはヨハネ福音書と同じで、ニサンの13日の午前か午後にかけて(?)準備されて、続いて最後の晩餐が、14日が始まる夕刻に行なわれ(21時以降まで?)、14日の正午までにはピラトの裁判と十字架刑が行なわれ、過越の小羊が屠られるその午後に、イエスは息を引き取ったことになりましょう。これで、共観福音書とヨハネ福音書との間の受難週をめぐる「食い違い」が解消することになります(反論もありますが)。
【マルコの資料】
 今回のマルコの記事は、「イエスが、前もって未来を知ることなどありえない」という前提に立って(?)、これを「おとぎ話」並(な)みに扱おうとする意見もありますが〔Adela Yarbro Collins. Mark. Hermeneia. Fortress Press (2007).646.を参照〕、これとは逆に、歴史的な信憑性を持つ最初期からの伝承だと見る説もあります〔John Nolland. The Gospel of Matthew. NIGTC. Eerdmans (2005).1061.〕。ブルトマンは、伝えられた最後の晩餐の資料に、マルコが、これへの準備の物語を自分で書き加えたと見ています。マルコは、ここで、サムエル記上10章1~13節で、サウルに与えられた預言の物語を念頭においているとブルトマンは見ています。その上で、その挿入がマルコ自身の実際の知見に基づいている可能性を示唆しています〔ルードルフ・ブルトマン『共観福音書伝承史(Ⅱ):ブルトマン著作集(2)』〕加山宏路訳(新教出版社:1987年)。105頁/129頁〕。
 今回のマルコの記事は、おそらく、最初期の受難物語にも、前マルコ福音書資料にも含まれていなかったでしょう。マルコ自身が、これに書き加えたのか?それとも、この「準備伝承」は、その後の教会から、受難物語とは別個に(?)伝承されたのか? 判断が分かれます〔Collins. Mark. .646.〕。最後の晩餐が、祭儀的に、ほんものの過越の食事に「見立てられていた」とすれば、マルコ14章12節では、晩餐の日取りと、その過越祭との同一性について、ユダヤ暦とローマ暦との違いも影響して、伝承の過程において、混乱が生じたと想定されます。
■マルコ14章
[12]【除酵祭の第一日】「除酵祭の第1日」は、厳密に言えば、いっさいのパン種を除去した1週間(15日~21日)の最初の日のことですから、ニサンの月の15日になります(出エジプト記12章15~16節)。この日は「過越の食事」の日です。ところが、マルコは、これを「過越の小羊を屠る日」としています。過越祭に食べる小羊を屠る日は、ニサンの14日の午後(12時~18時)になります(出エジプト記12章6節)。"On the first day ... when the Passover lambs were being slaughtered" {REB}. マルコは、ここで、どちらの日を指しているのか?と問われていますが、イエスの頃のユダヤでは、14日も除酵祭の日に含める場合があったので、マルコが言う 「第1日」を14日だと見なすことも可能です〔France. The Gospel of Mark.. 562--564.〕。 ヨセフスの『ユダヤ戦記』(5巻99節)にも、「クサンティコス(マケドニア暦3~4月)の月の第14日の除酵祭」とあります[フラウィウス・ヨセフスフ『ユダヤ戦記』(3)秦剛平訳/山本書店(1990年)23頁]。
 もしもマルコが、ここで、朝から翌朝までを1日と見なすローマ様式の暦を考えていたとすれば、「過越祭の第1日目」である14日の午前から午後にかけて、弟子たちを通じて準備が行なわれ、過越の小羊が屠られる午後の夕刻から夜間にかけて、最後の晩餐が行なわれたことになりますから、マルコの言う二つの日付は、同一の14日のことになります〔『マルコ福音書とマタイによる福音書』佐藤研訳。岩波書店(1995年)脚注72~73頁〕。
 しかし、マルコ15章1節/同33節/同42節/マルコ16章1節の記述と考え併せると、さらにマルコに伝承されていた受難物語を含む資料と、マルコを基準にした共観福音書の日程を総合して考え併せると、共観福音書が、過越祭のような祭儀を含む受難週全体の記述において、安息日制度とは別個のローマ様式の暦に一律に準拠していると推定するのは、当時のユダヤ人社会の実態に即していないように思われます。
【過越の食事をなさる】ギリシア語「ト・パスカ」は、冠詞付の中性名詞で、ヘブライ語の「ペサハ」、アラム語の「パスハァ」から出ていて、(1)過越の祭り、(2)過越の食事、(3)過越の祭に犠牲として屠られる小羊、この三つの意味を含んでいます。「過越の食事」は、(14日に)屠られた小羊の肉を「その夜のうちに」(15日が始まる18時~0時)に食べる祭儀です(出エジプト記12章8節)。マルコはここで、「(食事を)食べる}の動詞を二人称単数形にしていて、イエスだけを指しているのが注目されています。イエスは、自分の肉と血を分け与える最後の晩餐が、「過越の食事」と祭儀的に同じ意義を持つよう意図したのでしょう〔France. The Gospel of Mark. 564.〕。
【どこへ行って】過越は、エルサレムの市内で行なうのがしきたりでしたから、ベタニアへは戻らなかったのです。
[13]以下の記述は、イエスが、以前エルサレムに居た時に知り合った人で、イエスを「先生」と呼ぶほどの親しい人と、前もって打ち合わせておいたことてあろうと思われます〔France. The Gospel of Mark. 564--65.〕。イエスを逮捕しようとする企みをおもんばかって、食事の場所と家は、弟子たちにも明かさなかったのでしょう〔Nolland. The Gospel of Matthew. 1061.〕。ここは、イエスの先見の明を示すために、マルコ10章1~7節とサムエル記上10章1~8節をモデルに作られた(教会による)創出であろうという見方もあります〔Collins. Mark.647.〕。
【二人の弟子】イエスは、特別な使命の場合に、二人一組で派遣します(マルコ6章7節)。
【都へ行きなさい】マルコの記述通りだとすれば、一行はベタニアに居たのでしょうか(マルコ14章3節参照)。あるいは、エルサレムからやや離れたところ(ベトファゲ?)でしょうか。
【水瓶を運ぶ男】通常、水瓶を運ぶのは、女性の仕事だとされていますから、「男」とあるのは。何か特別の意図を感じます。「(あなたたちに)出遭う」の主語もこの男のほうですから、彼も二人を探している(?)のでしょう。
[14]~[15]【家の主人】ヨハネ福音書によれば、イエスは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後に、エルサレムを訪れています。この家の主人とは、その折りに知り合ったと考えられます。主人は、イエスを「先生」(原語は冠詞付)と呼ぶ特別の間柄だったのでしょう。過越祭のエルサレムでは、前もって打ち合わせがなければ、食事のために空いている部屋を見つけるのは不可能です。
【わたしの部屋】パレスチナの一般の家は、屋上が平らですから、「二階の広間/座敷」とは、屋上に建て増した部屋のことでしょうか。特別な食事のために「準備ができた」とあるのは、カーペットを敷いて、食事用の低い長テーブルが置かれていて、片肘をついて体を横たえる寝椅子がしつらえてある部屋のことです〔Fran?ois Bovon. Luke 3. Hermeneia.Fortress Press(2012).144--45を参照.〕。イエスを真ん中に両脇に二人が席に着くことができる三人の寝椅子を備えたテーブルは、その向かい側にも三人が着席できますから、それだけの長さのテーブルが二つあれば、12名が食卓に着くことができます。だから、全員が椅子に座っているレオナルド・ダ・ヴィンチが描く最後の晩餐のイメージとは異なります。一行の全員が体を横たえて食事することができるほどの「二階の広間」を具えた家は、相当に裕福な家です。イエスが、「わたしの部屋」と言うのは、そこに特別な思い入れがあることを表わします。
[16]~[17]【夕方になると】マルコの叙述が、14日のことであるとすれば、弟子たちが準備のために出かけたのは、14日(木曜日)が始まる夕刻の18時頃のことになります。イエス一行が、「夕方に」でかけて、食事を行なったのは、その後ですから、14日が始まった夜間(21時~23時?)のことになります。
■マタイ26章
[17]~[18]【除酵祭の第1日】マタイは、マルコの記事全体を大幅に切り詰め、17節の詳しい日付けも「除酵祭の第1日目に」と短くしています。正式に言えば、過越祭の初日は15日で、羊を屠る日は14日の午後ですから、この矛盾を避けるために、マルコの記述の後半を省いたのでしょう。ただし、マルコもマタイも、ユダヤ暦ではなく、ローマ式の暦に従って、1日を朝から翌朝まで(6時~6時)と数えたのなら、ユダヤ暦の14日の午後も15日の夜間(の過越の食事)も、ローマ暦では同一の日になります〔『マルコ福音書とマタイによる福音書』佐藤研訳。脚注72~73頁〕。
 マタイは、なぜ、マルコの「過越の小羊を屠る日」を意図的に省いたのでしょうか。
(1)両者の日付が、一般的に異なって理解されていることから、誤解を避けるためにマルコの記述の後半を省いた。
(2)マタイは、共観福音書の記者の中で、最も「ユダヤ的な」思想が強いことを考え併せると、最後の晩餐を除酵祭(=過越祭)の食事と関連づける「祭儀的な意図」から、ここで「除酵祭」を印象づけようとしている(W.D. Davies&D.C.Allison. Matthew 19--28. ICC. t&t Clark.1997.455--56.)。
(3)マタイは、マルコがここで用いているローマ様式の暦を採り込むことで、自分が祭儀的、律法的なユダヤ教徒では<ない>ことを明白にしている。この節では、最後の晩餐が、「除酵祭」、すなわち「種なしパン」の食事であることを強調している〔ウルリヒ・ルツ『マタイによる福音書』EKK新約聖書註解(1/4小河陽訳。教文館(2009年)105~108頁〕。
 ここで知っておきたいことがあります。ヨハネ福音書では、最後の晩餐は、過越の食事と無関係ですから、「種入りのパン」が用いられています。ところが、共観福音書では、最後の晩餐が、除酵祭、すなわち「種なしパン」の過越の食事と密接に関連づけられています。この違いから、教会史では、ギリシア・ロシアの東方教会においては、ヨハネ福音書の記述に従って、伝統的に聖体授与に「種入りのパン」が用いられており、一方、西方のラテン系のローマ教会では、共観福音書の記述を重んじて、聖体には「種なしパン」が用いられてきました〔ルツ『マタイによる福音書』112~114頁〕。
 筆者(私市)は、上記の(2)が、適切だと考えます。マタイは、マルコの記述の後半を省くことで、最後の晩餐が、(実際に羊の肉がなくても)、過越の食事と祭儀的に深く関わっていること強調しているのでしょう。マタイが、過越祭の日取りに、ユダヤ暦ではなく、ローマ暦を用いたとは考えがたいところがあります。あえて、想定するなら、マルコがローマ暦を用いたのに対して、マタイは、ユダヤ暦に従って、マルコの日付の後半を省いたとも考えられましょう。
【都のあの人】原語「デイナ」は、希な用語で、新約聖書でも七十人訳でも、ここだけです〔Nolland. The Gospel od Matthew. 1062.]。弟子たちが会う人のことを「あの人/例の人」と、弟子たちにも分かっている人のように述べています〔Nolland. The Gospel od Matthew. 1062.]〔France. The Gospel of Matthew.985--86.〕。「都のだれそれの所まで行って 」〔塚本訳〕。マタイは、読者がマルコの記事をすでに知っていることを前提にこのように言うと見る説もありますが、むしろ、この言い方は、イエスや当事者たちには分かっているが、伝承の語り手にはもはや誰だか分からないことから出ているのでしょう。
【わたしの時が近づいた】マルコは、食事の場所に関心を向けますが、マタイは、イエスの受難の時を重視しています。マタイ26章2節と対応させるためです。また、「お宅で」とあるだけで、マルコの場所への詳しい描写を避けています。「わたしの時が近づいた」は、受難が迫っていることを意味しますから(ヨハ7章6節/同13章1節参照)、この家の主人は、イエスの受難を察知していたのです。
[19]~[20] マタイは、マルコ14章16節の「イエスが言われたとおりだった」を大幅に変えて、「イエスが弟子たちに指図した(命じた))通りに行なった」としています。マタイは、「イエスの御言葉を忠実に実行する弟子の模範」を示そうとしています〔Nolland. The Gospel od Matthew. 1063.]。だから、19節は17節と対応します(21章6節をも参照)〔Davies&.Allison. Matthew19--28. .458〕。 マタイは、ここで、ユダヤの過越の祭儀そのものが、「主のご命令に従う」ことにあると明示しています(出エジプト記12章28節)。
■ルカ22章
 ルカもマルコを資料としていますが、ルカは、マルコとは異なり、先にイエスのほうから、ペトロとヨハネの特定の弟子に、過越の食事の準備を命じるよう取り計らっています。このため、最後の晩餐の手はずをイエス自身が、前もって整えていたという印象がいっそう強くなります。ルカは、イエスの命令が、その先見の明に基づくことを解き明かそうとしているのでしょう。ルカもまた、マタイと同じく、最後の晩餐が、15日の(犠牲の小羊の肉を伴う)過越の食事の祭儀性を具えていたことを明らかにしています〔I.Howard Marshall. The Gospel of Luke. NIGTC. The Paternoster Press (1978).789.〕。
[7]ルカは、マルコの「除酵祭の第1日目」から「第1日目」を省いています。また、マルコでは、「過越(の小羊)を屠る(日)」のように、動詞が無人称複数形の能動態ですが、ルカをこれを「過越の<小羊が屠られるよう定められた>時が来た」と犠牲の小羊に触れています。小羊は、ユダヤ暦で、14日の午後2時半から5時までに神殿で屠られるのが、「定められた時」になります。ところが、共観福音書では、だれもこの犠牲の祭儀の「正確な時刻」には注意を向けていません。「過越の食事」は繰り返されているのに、その羊にも肉にも、明確な言及がありません。共観福音書の作者たちは、こうすることで、「最後の晩餐」が、新たな意義を帯びる「過越」であることを印象づけようとしているのでしょう〔Fran?ois Bovon. Luke 3. Hermeneia.Fortress Press(2012).143.〕。
[8]ルカがペトロとヨハネを特定しているのは、この二人が、イエス復活以後のエルサレムの教会を指導する主要な使徒だからです(使徒言行録3章1節/同8章14節)。
[9]ルカは、「準備する」を四度も繰り返しています(8節/9節/12節/13節)。「準備する」は、神の御国がまだ成就の途上にあることを重視するルカにとって、重要な意味を持つ言葉です。とりわけ、ここでは、(教会が重視する)最後の晩餐への「枠組み」となるユダヤ教の過越の「準備」を指しますから、これが、キリスト教の祭儀の第一歩にあたります。この「準備」は、終末で、主イエスと共に与る「宴会」をも予測させています〔Bovon. Luke 3. .143-44.〕。ルカはここで、(小羊の肉を伴う)過越の食事のことを念頭に置いているのでしょう。
[10]ルカのイエスは、ここで二人に、「見よ!」とこれから起こる一連の出来事が、神の特別な取り計らいであることを示しています。なお、マルコの「家の主人」は、ギリシア語では一語「オイコデスポテース」ですが、ルカでは「その家の家長」です。ルカは、その「オイコス」(家)が、よほど大勢の人たちで構成されていたと考えたのでしょう。
[11]~[12]ルカは、マルコの「わたしの部屋」から「わたしの」を省いています。なお、日本語訳の「弟子たちと一緒に(食事する)」は、原文では、マルコでもルカでも「わたしの弟子たちと一緒に」です。
[13]~[14] ルカは、マルコの「夕方になったので」を「時が来たので」としています。また、マルコの「十二人と共に(そこに)行った」を「(教会の)十二使徒と共に、(食卓に)着いた」と書き改めています。ルカは、7節では、マルコに準じて、「過越の小羊が屠られるよう定められた」としていますが、14節では、食事の内容に一切触れていません。おそらく、ルカには、ユダヤ教の正式の過越の食事のことが念頭にあるのでしょう〔 Bovon. Luke 3. 140.〕。
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