森友学園問題と日本の右翼思想
                                 (2017年3月19日コイノニア大阪集会で) 
 最近、メディアで、森友学園のことがいろいろ取りざたされています。これについて、私が想うところを幾つかの項目に分けてお話しします。
(1)篭池理事長の話を聞いたり、教育勅語を唱える園児たちの姿を見ていると、60年以上前に、私が国民学校の生徒であった頃、そのままの姿を想い出します。全く変わっていない。このことは、彼が唱える右翼思想が、戦後の60年間、全く変化しなかったことを意味します。現在の私から見れば、あまりに稚拙で、北朝鮮のレベルに近い民族主義だという印象を受けます。篭池理事長のやっていることは、右翼教育のリヴァイヴァルでも復興でもない。これは「復元」です。復元は博物館でやるものです。政府が「戦中博物館」を建てて、その一角に戦中そのままの教室を設けて、そこで戦中のとおり、当時行なわれた教育を実演してみせる。小・中学生がこれを見物して、なるほど戦争時代の日本の教育とはこういうものだったのかと知る。これが復元です。これなら意味があると思います。ところが、なんと、博物館でやることを、今の日本の大阪府で、しかも文科省や右翼議員と安倍首相の後ろ楯を得て、いきなり現在の日本の教育の現場でやろうとしている。これが今起こっている出来事の核心となる意味です。戦後60年も経っているのに、全く進歩していない。博物館から始まって、日本の現在にふさわしい右翼教育へ到達するためには、後もう60年はかかるでしょう。いったい、その間、日本人はともかく、韓国や中国の人たちは、このような右翼思想を待ってくれるでしょうか? いったい右翼の人たちは、戦後の60年間、何をやってきたのでしょう? 右翼の指導者や神社本庁や日本会議の人たちは、先の敗戦と日本国の危機の中から、何も学び取ることをせず、何一つ反省もせず、まるで台風でも過ぎ去るように、ただじっと息を潜めて、かつての軍国日本の民族主義を守旧することだけを考えてきたのでしょうか。その稚拙さに驚きます。
(2)篭池理事長は、自分は「しっぽ」だと言っています。マスコミは「トカゲのしっぽ切り」をやっているとテレビの前で言いました。その通りです。彼の背後には、彼を支えている右翼の自民党代議士や文科省や近畿財務局や大阪府庁がいて、その頂点に安倍首相夫妻がいます。こういう裏事情がだんだん明らかになってきています。篭池理事長は、現在の日本の政治権力を笠に着て、政府関係者を自分の思い通りに動かして小学校の建設を推し進めてきたという、政治家がらみのその実態が明らかにされたのです。現在の日本の政治権力が、こんなレベルの低い右翼思想を日本人に押しつけようとしているのか、と驚くばかりです。
(3)戦前・戦中の右翼思想をどのように克服して、平和憲法と民主主義の日本において、これを活かすことができるのか? 戦後60年の間、これを求め実践してきた人たちがいます。昭和天皇と現在の天皇の指導の下にある日本の皇室です。このお二人の天皇は、平和憲法のもとでの「日本国の象徴としての天皇」とは何か? 皇室とはどうあるべきか?この問題を営々と努力し実践されてきたのです。戦後の皇室は、数多くの「行幸(ぎょうこう)」を通じて、民と「共に生きる」皇室の有り様を身をもって実践されてきました(これを見事に言い表す記事を見つけましたので、下記の「付記」とは別に【付論】として本論と並べて補充します)。ところが、先の退位問題で、その審議会のメンバーである右翼の学者たちの中には、「天皇は、国民の間を旅をしたりせず、何もしないで皇居の中でただじっとしていれば良い」と新聞で発言しているのです。彼らは60年間の皇室の努力を全く理解しない。お二人の天皇が築き上げてきた象徴天皇の実像それ自体を完全に無視するのです。おそらく天皇陛下は、こういう右翼の思想家たちに憤りを覚えておられると思います。
(4)教育勅語とこれを支える右翼思想の本質にあるのは、「皇運無窮/一死報国」です。天皇制は永遠であること、「この天皇国家のために日本人は喜んで死ね」というのが、右翼思想の根本理念です。こういう右翼思想を最初に表明したのが、三島由紀夫です。彼は、この右翼思想を教えるために、自衛隊の面前で割腹して、その思想を見事に体現して見せました。「海ゆかばみずく屍、山ゆかば草むす屍、大君の辺にこそ死なめ、かえりみはせじ」です。私と同年輩の人が、『朝日新聞』の声欄で、私と同じ意見をみごとに表明していますから「付記」でご覧ください。
(5)しかし、こういう「お国のために死ぬこと賛美」は、日本人ほんらいの宗教性から出ているものではありません。私の先祖は、交野の私市にある岩船神社と関わりがありますが、この神社は、仏教伝来以前の物部(もののべ)氏の神社でした。約5万年前から日本に住んでいた縄文時代から弥生時代の人たちは、現世の命を大事にする宗教性を具えていたのではないかと私は思っています。この意味で、日本人ほんらいの生死観は、現世的で、どちらかと言えば、旧約聖書の「生ける神ヤハウェ」に近いです。
(6)以上のことに付け加えるなら、私は、日本がアメリカとの戦争に負けた時、どうして日本は負けたのか? いったい何が原因なのか? これを知りたいと思い宣教師さんのもとで聖書を学び始めました。しかし、残念ながら、宣教師さんからは、私の答えを得ることができませんでした。だから、自分で聖書を学び、自分で考えるしか道がなかった。私の60年は、どうすればこの聖書の教えを、日本人の生き方に活かすことができるのか? そのために、聖書のキリスト教の何を守り、何を改善しなければならないのか? この問題を60年間かかって探り求めてきました。やっと、それらしいものに到達できたという思いがします。 
(7)その答えは、神の御子の十字架の贖いによって「罪赦されて生きる」ことです。イエス様を信じて、イエス様の十字架の罪の赦しを受け容れ、その十字架と共に「死んで生まれ変わる」ことによって、日本人として新しい命に生きることができる。これが、新約聖書が、現在の日本人に伝えるメッセージです。私たちの身体が消滅する死後の世界のことではなく、今現在、私たちが生きているこの時に、御復活の命にあずかることができる。これがイエス様の福音の根本的な霊性です。死ぬことではない。生きることです。聖書が、命の光であるイエス様を通じて、人類に与えてくれる新しい命のありようなのです。
                                【付記】
                         教育勅語の核すり替え賛美:
                          農業 吉田昭(福井県84)
 稲田朋美防衛相が、森友学園の教育に関する参院委員会質疑の答弁で、教育勅語について「親孝行だとか友達を大切にするとか、そういう核の部分は今も大切なもの」と強調した。私は今84歳。終戦の年に国民学校を卒業した。教育勅語そのままの教育を受け今もそらんじている。なるほど教育勅語では「父母ニ孝二兄弟二友二夫婦相和シ朋友相信ジ恭倹己レヲ持シ博愛衆二及ホシ」とあり、これに反対、異論はないかもしれない。だが教育勅語の「核」はこんなことではない。それは「一旦緩急アレハ義勇公二奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スへシ」であり、「斯ノ道ハ実二我カ皇祖皇宗ノ遺訓」「之ヲ古今ニ通シテ誤ラス中外ニ施シテ悖ラス」である。つまり「いったん戦争となれば命を捨てろ」「天皇の威光を世界中に広めよ」というのである。一部分をかいつまんで賛美する発言が、国会で現職大臣の口から出ようとは思わなかった。選挙区のある県民の一人として恥ずかしい。大臣が「核」と言うのは個人のしつけ、常識の類いであり、教育勅語の問題の本質をすり替えている。(『朝日新聞』2017年3月17日)
                     
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