万象和解の恩寵
                (2018年12月11日)
■はじめに          
 86歳の後期高齢者の目から見ると、街を歩いている人の半分は、孫とひ孫の世代です。いったいこの人たちに、どんな未来が待っているのだろうと、考えざるをえなくなります。今、京都の街は、外国の観光客で溢れています。物が豊かで、平和で、便利で、いろいろ面白い物がある現在の日本は、世界で最も善い国です。はたして、これからの世界と、これからの日本には、平和で明るい未来が待っているのだろうか? こう考えこむのです。
 さらにその上に、これからの世界のクリスチャンたち、とりわけ、日本のクリスチャンたち、そして、韓国や中国の東アジアのクリスチャンたちは、いったい何を信じて生きていくのだろう? そんな想いを抱きながら、これを書きます。だから、今の時点では、年寄りの戯れ言だと思って聞いてください。けれども、将来、これから私の言うことが、とても大切な意味を持つと分かる時が来るかもしれません。その時になって、想い出してくだされば幸いです。
■「宗教する人」の罪と救い
 「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)としての人類は、カトリックのキリスト教徒も、プロテスタントのキリスト教徒も、仏教徒も、儒教徒も、ヒンズー教徒も、イスラム教徒も、神道も、全く同じに「神の憐れみを必要とする」罪人です。宗教する人類は、何教の信者であれ、自分が偉いと思い上がるなら、まさにそのゆえに、神の憐れみからはずされて、罪人へ転落します。この点では、クリスチャンも例外でありません。新約聖書、とりわけパウロ系書簡では、「選民」意識という誤りとうぬぼれに対して厳しい警告が発せられています。「今度こそは、自分たちが、神からの契約の後継者となるのだ」という傲慢から来る過ちに西欧のキリスト教は気づいていない。これは、ドイツの哲学者ハイデガーの言葉です。
 仏教徒や神道やその他の諸宗教は、いまだに低次の宗教である。これに対して、キリスト教徒は、自分たちこそ救われて優位に立つ者であるという想いにとらわれる傾向があります。しかし、私たちが、イエス様の十字架の福音を伝えようとするのは、自分が憐れみを受けた罪業の宗教人だからにすぎません。だからこそ、他の宗教の人たちも、自分と全く同じに、憐れみを必要とする人間であると知るのです。このような「憐れみの御業」は、神の恩寵だけが実現できる創造の出来事です。人間が、自力でやろうとして、やれるものではありません。
 イエス様のこういう御霊の恩寵に照らして、日本を始め過去の人類の宗教的な営みを観るなら、どの宗教も、人間の苦しみと辛さ、とりわけ、「宗教する人間」にまとわりつく罪業の深さから救われようと、祈り求めて来た実態がそこから見えてきます。かつてイギリスに居た時、中世以来の古いカトリックの聖堂が、ピューリタン革命の際に無残に破壊された跡を幾つか見ました。過去の貴重な宗教遺産をこのようにしてはいけないという想いを抱いたのを覚えています。何時の日か、日本が、イエス様の御名によって護られる日が来れば、日本の多様な宗教の遺産を大切に保護して、これらを後世に伝えなければならないという想いを強くします。
■万象和解
 マルコ11章22〜26節では、からし種一粒の信仰が「山をも動かす」力となること、それが祈りの力であることが語られています。山をも動かすからし種一粒の信仰とは、人間の罪のまっただ中から、赦しの絶対恩寵を創造する神の絶大な力を悟る信仰のことです。福音の出来事とは、イエス様の御名によって私たちに与えられる聖霊の「ものすごい力と、赦しの愛と、霊的な知恵」(第二テモテ1章7節/同14節)の働きによる神の御業です。あるがままの罪業の自分を、主に委ねる。ただそれだけ。これが「からし種一粒」です。
 これは、人間の罪と弱さそれ自体を逆手にとって、これを逆転させる<絶対恩寵>の創造の働きです。「真理はイエスにあります」(エフェソ4章21節)。イエス・キリストにある赦しと和解をもたらす「絶対恩寵」による神の創造の絶大な力が、人類と地球を救うのです。万有引力(universal gravitation)ならぬ「万人贖罪力」(universal redemption)と「万象和解」(universal reconciliation)(コロサイ1章20節)の働きです。
■罪を憎んで
 説明の難しいところですが、ここで「ゆるす」というのは、人と自分の罪を「許す」ことではありません。罪と悪に対して無力なキリスト教は、「塩気のない塩」と同じで、踏みつけられるだけです。敵対する相手を理解するためには、相手を愛することが不可欠です。相手を愛するためには、相手を「赦す」ことが必要です。相手を赦すためには、自分が赦されていることを自覚する必要があります。だから、「罪を憎んで人を憎まず」という諺がそのまま当てはまります。「神は、憐れむために、すべての人を不従順という罪の内に閉じ込めた」(ローマ11章32節)とパウロが言うのがこれです。
 パウロが告げる「秘義」(ローマ11章33節)は、宗教する人をして、「その賢さによって神に取って代わろう」と仕向けるものではありません。「自己の賢さの限界を知って神に従う」ように仕向けるものです。イエス様の福音は、賢さを誇る「宗教する人」から、頭を垂れる「宗教する人」へ人間を変容させます。「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」です。神に取って代わろうとする自分の性(さが)を悔い改めて、神に従う宗教する人へ変容すること、人類の「進化」ということを考えるのであれば、これこそが、真の意味での「進化」です。新しい人間、新しい創造に与る変容を遂げるからです。この恩寵による進化のために福音の秘義が啓示されました。
■東アジアのキリスト教圏
 イエス様の福音を伝える業とは、どこまでいっても、「罪赦された人の演じる主の御業」です。日本人だけでなく、アメリカ人も、韓国人も、中国人も、このことを肝に銘じるべきです。そこから、日本と韓国と中国のエクレシアが手を携えて、東アジア・キリスト教圏を成立させるための祈りと確信が与えられるのです。
 イエス・キリストにある十字架の血の贖いから来る「罪過の赦し」(エフェソ1章19節)は、世界の創造以前から定められていたことです。この絶大が力によって(エフェソ1章4〜10節)、隔ての障害を取り除いていただき、二つのものを一つにするイエス様の御霊を信じて(同2章14〜17節)、一人の主、一つの御霊、一つのエクレシアを目指して歩み続けるのです(同4章2〜6節)。そうすれば、アジアの平和と、キリスト教圏の成立とが、必ず達成されます。
■多様の中の一致
 現在の日本には、日の丸君が代絶対反対のクリスチャンから、靖国神社に参拝するクリスチャンまで、千差万別の広範囲な選択領域があります。その領域の中では、実に様々なクリスチャンの信仰形態が可能になります。クリスチャンでも、神仏への供え物を食べる人あり、食べない人ありです。「食べる者は食べない者を侮るな。食べない者は食べる者を批判するな」(ローマ14章3節)とあり、相互に異なりながら、イエス様にある愛の一致を守りなさいとありますが、これが、日本とアジアの「クリスチャンの霊性の自由」です。これは、人の力ではとうてい達成できない「御霊にある自由」であり、「多様の中で一致する」御霊にある愛です。この自由と隣人愛こそ、迫害に耐えて、なおも広がり続け、ついに、ローマ帝国を支配するにいたったイエス様の御霊のお働きにほかなりません。 
■恩寵四則
(1)恩寵による畏れ:イエス様を通して啓示された秘義とは、「神の御子イエス・キリストの十字架の贖い」にあります。「イエス・キリストがこの世に来られたのは、罪人たちを救うためという御言葉は、真実であり、あらゆる体験で実証されています。私は、その罪人の最たる者です」(第一テモテ1章15節)。パウロは、生涯を通じてこの御言葉を身に体して忘れることなく、その信仰が、コロサイ1章14〜20節の「万象和解」を導き出しました。内村鑑三も、自分のような罪人が救われたのだから、万人が救われるという万人救済に到達しました。両者に共通するのは、罪ある自分に賜わる恩寵への畏れです。私たちは、己の罪を「見誤る」ことをしないよう留意しなければなりません。
(2)恩寵による力:宗教する人類を導く神の深い秘義とは、驚くべき神の恩寵の働きと、ものすごい霊能の力です。その秘義の深さと、神の御臨在の霊能の力は、私たちの不信仰も罪も、すべてを克服する力です。まさに、赦しの絶対恩寵から注がれる「十字架の霊能」です。だから、十字架の贖いの赦しをもって人に接する時、その霊能と霊性は、決して「無力なお人好し」の姿ではありません。反対に、驚くべき神の御力のお働きです。
  たとえ「小指に足りない一寸法師」のように無力であっても、罪の大鬼が現われても、からし種一粒の信仰を働かせて、祈りをこめて、小さな針の剣を抜いて立ち向かうなら、不思議や不思議、恩寵の「打ち出の小槌(こづち)」が顕われて、その一振りごとにパワーが働き、鬼は退散するのです。
(3)恩寵による自由:ローマ13〜14章には、イエス様を信じる人それぞれが、神から授与された御霊の導きに応じて、相互に異なりながらも、互いに愛し合うように、という勧めが来ます。そこには、人を裁くなとあり、「兄弟を躓かせるな」とあります。結びは、「どんな場合でも、御霊がその人に与える導きから発出しないことは、その人にとって罪になる」(ローマ14章22〜23節を参照)という驚くべき「信仰(良心)の自由への勧め」です。各自が、主様の御霊の導きに従いなさいというこの教えは、第一ヨハネの手紙2章20〜27節にも通じるものです。
 ここで言う「自由」とは、イエス・キリストの御霊にある自由のことですから、人が人との交わりの中にある時、個人が、「<正しく>宗教する人」として、全人格的に振る舞うことです。これが「信仰すなわち良心の自由」の大事なところです。こういう自由こそ、個人をして、その個性を最大限に発揮させます。国家にせよ、エクレシアにせよ、所属する組織体と個人とが接する時に、そこには協調だけでなく、場合によっては、組織と個人との接点に対立が現われるのは避けられません。とりわけ、個人と組織とが対立する場では、「正義とは何か?」が問われることになります。組織体が不正や腐敗に陥ることを防止するのは、こういう場合の個人の信仰に基づく個性です。組織が正しいか?個人が正しいか?という問いが提起される場では、そもそも「正義」とは何か?とその「正義」の本質が問われることになります。一例をあげるなら、現在の中国では、国家の命令によって、AI(人工知能)の軍事技術が開発されています。これに対して、アメリカでは、AIの技術は、民間の大企業に委ねられていますから、「アメリカの軍事技術に手を貸さない」技術者の自由が問題になっています【「朝日新聞」2018年12月28日号】。
(4)恩寵による裁き:人間には「自殺する自由」があるように、悲しいことに、人には、神の恩寵を頑なに拒み続ける自由があります。罪は、恩寵によって、死にいたらないものですが、残念ながら「死にいたる罪」があります。キエルケゴールが「死にいたる絶望」と呼んだものがこれです。神は、人の自殺する自由を奪うことが「できない」ように、恩寵を拒み続ける人の自由を奪うこともなさらないのです。人格的な愛と自由は表裏一体ですから、片方が失われるなら、もう片方も失われるからです。これが、人が自らに招く「裁き」です。恩寵が働くところに、このように「人が自ら招く裁き」もその半面で生じるのは避け難いのです。
                    時事告刻へ    三位一体への認識と働きへ