10章 み言の受容と拒否
                1章9〜13節
■1章
9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
13この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
                      
                【講話】
                【注釈】
■光のみ言
 ここでは、み言が光となって、すべての人を照らすとあります。すでに見たように、一切が、神のロゴスによって「成った」のですから、人間も森羅万象も、共にその方(神)の本性を宿しているはずです。だから、わたしたちを「照らす」創造者の啓示の光は、人間の自然な有り様を否定するものではなく、まして、歪めることではありません。宇宙を成り立たせる根源の生命が、創造のみ業として働くのですから。自然の有り様を歪めているのはむしろ人間のほうなのです。
 しかし、み言の光は、人間の言葉に「翻訳されて」働きますから不完全で、しかも、わたしたち人間の身の丈に合ったものにされています。それは超在する神からの賜でありながら、わたしたちの本性と深くつながることで内在するのです。ただし、み言の光の働きは「現実には」まだ完成していません。ロゴスは神と共にあって、今なお創造のみ業をたゆむことなく続けているからです。このお働きが、やがて「成就する」ときが来ます。だから、「この世」はいつか必ず「過ぎ去る」のです。この方によって、今の宇宙が「すっかり新しく」なり、「過ぎ行くこの世」は、このお方によって完全に「置き換えられる」。その時までみ言の働きは続くというのが、ここでのヨハネ福音書の意味です。
 クエーカー教徒と呼ばれる人たちは、どのような人間にも、その人の内面に、9節にある「まことの光」が宿ると信じています。だから、彼らは、いかなる理由があっても、人間が人間を殺すのは間違いだと信じる絶対平和主義を貫いています。かつてヴェトナム戦争の時に、アメリカ中がヴェトナムを敵視している中で、アメリカのクエーカー教徒たちが、アメリカの爆撃の下にいるヴェトナムの人たちに医療品を送っていることが報道されました。自分の国が戦争をしている、いわばその敵国の人々に、医薬品を送るというのは、ずいぶん勇気のいる仕事だろうと思います。この人たちは、ヨハネ福音書のこの9節を、このように解釈しています。それで9節は「クエーカーの聖句」"Quaker's Text"と呼ばれています。
■み言を拒む
 神からの啓示の光をわたしたちが「知る」ことができるのは、み言の光が、わたしたちの造り主から来るからです。ところが、わたしたちは、み言をすぐには理解できません。それは、その光が、わたしたちの造り主から来るというまさにその理由からです。なぜなら、わたしたちは、自分が「造られた」存在であることに気がつかないからです。わたしたちは、自分に与えられた精神や肉体が、自分の思うようになると思い込んでいます。造られたわたしたちの感覚や判断で、いくら自分の身体や心を探ってみても、造り主の存在をとらえることができません。創造主のお言葉は、啓示の光となって、わたしたちの感覚や思念の彼方から差してくるからです。これに聞くためには、自分が自分の主(ぬし)であるかのような振る舞いを改めなければならないのです。自分が「造られた」存在であることを認めなければならないのです。これが、み言の光が、わたしたちから遮られている理由です。
 これまでも、さまざまな時代を通じて、神の知恵、神の光を垣間見て、これを伝えてきた賢者や聖人たちがいました。神は長い人類の歴史の中で、これらの人たちを通じて、世界中の人たちに知恵の光を送り続けてくれました。いつの時代にも、彼らに耳を傾ける人たちがいなくはなかったのですが、真理の言葉が十分に行き渡ったとは言えませんでした。「世は彼によって成ったが、世は彼を認めなかった」(10節)のです。「まことの光」は、知られなかったのではない。さまざまな姿をとり、人々を照らしてきました。ところが人々は、感知しながらもこれを拒否し、分かっていながらこれに従わなかったのです。確かに、「光は世に来てすべての人を照らしています」(9節)。ところが、人々は、聞かされてもこれを実行しなかった。問題はわたしたちが正しいことを知るか知らないかではなく、これに従い、これを実行するかどうかです。正しいことが分かっていて、しかもこれに従わないことは、知っているよりはるかに危険が大きいと言えます。わたしたちは、まさにこのことが、歴史に現われたあのみ言にも起こったのを知ります。み言は、「自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」のです(11節)。イスラエルは知らなかったのではない。「受け入れなかった」のです。
 11節の「受け入れなかった」で、福音書の記者は、み言の受難、すなわちイエス・キリストの十字架を指しているのは明かです。「まことの光」であるお方は、もろもろの光の中の光、真理の中の真理、知恵の中の知恵としてこの世に来られた。まさにこのようなお方であるがゆえに、かつての知恵者や聖者たちが受けた悩みと苦しみをイエス様も受難の姿で体現されているのです。この意味で、み言の受難は、人類に与えられたすべての真理の光が受けた受難の「しるし」だと言えましょう。
■み言を受け入れる
 み言の受難を示唆した後で、「しかし、彼を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(12節)と語られます。み言が、ご自分の受難によって、人々に神の子となる資格をお与えになったように響きます。先にみ言を拒んだ人たちは、ここでの「だれでも受け入れた人」(原語直訳)に入るのでしょうか、入らないのでしょうか。「だれでも」とあり、「すべての人を照らす」とあるから入ると言えます。「受け入れた人」とあるから、そこには戸口があります。ヨハネ福音書は、ここ以外でも、「<だれも>その証しを受け入れない。その証しを受け入れた者は<だれでも>・・・・・」(3章32〜33節・私訳)のように言いますが、この表現はヨハネ福音書独特の言い回しです。わたしたちは、一人の例外もなく、この「だれでも」の内に入ります。その上で、「受け入れた者」となるように呼びかけられます。繰り返し、繰り返し、同じ人に向かって、呼びかけるヨハネ福音書独特の循環法です。
 「み言によって成った」「認めなかった」「民のところへ来た」「受け入れなかった」「しかし、受け入れた人には」という一連のつながりに注意してください。ここには、世界が光によって出来たこと、この光が闇の世に入り込んできたこと、それなのに世はこれを拒否した、つまり知ろうとしなかったこと、それでも光は、なおもこの世を照らして、み名を受け入れる者を造り出していく有り様を証ししています。この暗さと明るさの交錯の中で、決め手になるのは、「知ろうとする」ことです。知ることでなく、その一つ前の知ろうとするわたしたちの意思です。「世はこれによって成った」と「自分の所へ来た」との間に「世はみ言を認めなかった」という一句が挟まれています。もしも、わたしたちが、この一句を「世はみ言を知ろうとした」という句で入れ替えることができたなら、どんなに幸いでしょう。知ろうとしないなら「受け入れない」が起こります。「知ろうとする」なら12節の「しかし受け入れた人に」へつながります。だから、もしあなたが「その気になりさえすれば」、あなたは、神の言葉を知ろうと望むことが「できる」のです。
 たとえて言えば、父の神は、天の銀行に莫大な預金を持っておられます。しかし、父名義の預金を引き出すためには、「父の名義」によらなければなりません。父はそのご栄光の富という「預金の全額」を、その独り子イエス・キリストに委ねられました。それは、わたしたちが、父のお遣わしになったイエス・キリストの「み名(名義)を用いる」ことで、ご自分の栄光の富を引き出す「資格」が与えられるようになるためです。だから、わたしたちは、神の独り子であるイエス・キリストの「み名」によって、いわば父の預金を引き出すことができるのです。だれであっても、父の言われたとおりに主のみ名を呼び、み名によって祈り求めるなら、その人は、父と「その独り子の名を信じた」者となり、その栄光にあずかる道が啓(ひら)かれる。ヨハネ福音書はこう証しするのです。だれであっても、神の子となる資格が与えられるその資格は、「血筋によらず、人間の能力や欲望によらず、ただ神によって生まれます」(1章13節)。だから、み名を呼ぶ者は、だれでも、神を自分の父とすることができるのです。
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