【注釈】
■1章
まことの光が存在していて、
世に来てすべての人を照らす。
み言は世にあった。
世は彼によって成ったが、
世は彼を認めなかった。
彼は、自分のところへ来たが、
自分の民は彼を受け入れなかった。
しかし、自分を受け入れた人、
そのみ名を信じる人々には
彼は神の子となる権能を与えた。
この人々は、血筋によらず、
肉欲によらず、
人の意欲にもよらず、
神によって生まれた。
〔私訳〕
[9]【まことの光】「まことの」とある原語「アレーシノス」(形容詞)は、一般に「真理」と訳されるギリシア語「アレーセイア」(名詞)と少し違います。「アレーシノス」は「ほんもの」であって、「偽物」「まがいもの」ではないという意味で、この語は人の意見や人物について多く用いられます(4章37節/7章28節/15章1節/19章35節など)。「アレーシノス」は、目に見えるものは「ほんもの」ではなく、「見える物」は、見えない「本物/実体」を映しているにすぎないと考えるヘレニズム思想から出ているという説もあります。しかし、ここの「アレーシノス」には、「唯一の真理」という意味だけでなく、「光」の性質上、様々な不完全な真理を「すべて完全に具えている」ことを含むという解釈があります。この啓示の光は、「すべての人」とあるように、それ以前の世界のあらゆる民、あらゆる国々を照らした光でもあったからでしょう。ヨハネ福音書はここで、このような「まことの光が(これまでも)存在してきた」(原語直訳)ことを言っているのです。
【世に来て】続いて、この光が(人の)世の中へ「入り込んで」(原語直訳)来たと告げます。それは、この光が、わたしたち人間存在の深みへと「入り込む」ことで、わたしたちに、真にあるべき姿を啓示するからです。この光に照らされて初めて、わたしたちは、人間ほんらいの「霊性」に目覚めます。人間は、ほんらい<神の似姿>にかたどって造られています(創世記1章27節)。それなのに現実の姿は、あるべき人間の原像にそぐわない醜いものになっています。だから「照らす」は、外から、わたしたちの内面へ「啓示する」ことです。なお、「世に来て」を「光」ではなく「すべての人たち」にかけて、「この世に生まれてくるすべての人たちを照らす光」〔NRSV欄外注〕という読み方もあります。
[10]【言は世にあった】10~11節はまとまっていて、世がみ言を受け入れなかったと言います。「<み言は>世にあった」とありますが、原文では主語がはっきりしません。すぐ前の「まことの光」ととることも可能です。続いて「世は<彼/これ>によって成った」とあります。主語が「み言」なら「彼」ですが、「光」なら「これ」です。原語の代名詞は、中性と男性のどちらにも採れます。続いて「世は<彼を>認めなかった」とあり、ここは男性代名詞ですから「み言」のことになります。
ここで「世にあった/いた」のは、いったい何時なのか?という疑問が生じます。この段階で「イエス・キリスト」はまだ語られていません。人類(世)を照らす「知恵の光」は、イエス以前の旧約聖書の時代にも、さらにさかのぼるあらゆる時代にも及んでいたのです。しかし、次の項にあるように、この世は、ソフィア(知恵:女性名詞)をも、ロゴス(理性の言葉:男性名詞)をも深く理解することができず、彼/彼女を拒否して耳を貸さなかったのです(箴言1章20~23節/シラ書24章28~29節)。この「知恵」は、最後にイスラエルに宿ります(シラ書24章6~12節/知恵の書9章8節)。
【世は彼を認めなかった】「世」(コスモス)は、(1)造られた世界全体(11章9節/17章5節/同24節)、(2)人間世界とそこに生じる出来事、(3)ユダヤ教と新約聖書では「今の時代」などを指しますが、さらに(4)「世」には、天上の世界から区別された地上の「罪の世」という含みもあります(8章23節/18章36節)。
ただし、10節後半のここの「世」は、続く11節の「自分の民」へとつながることで、ヨハネ福音書の言う「世」の重要な内容を予告しています。それは、生前のイエスの受難と結びつけられていて、宗教的指導者(ユダヤ教の大祭司など)と政治的支配者(ローマ帝国の支配者たち)が結託している「世の中/時勢」を表わす用語です。それだけでなく、ヨハネ共同体と対立するユダヤ教の指導者たち、さらに、彼らと結託してヨハネ共同体を苦しめるこの世の権力者たちをも指します。
[11]10~12節を通じて、「み言があった」→「世は彼によって成った」→「認めなかった」→「彼は来た」→「受け入れなかった」→「しかし彼を受け入れた者」のように、肯定と否定がつながりながら、互い違いになって、光と闇の狭間にある「この世」の姿を浮び上がらせます。これもヨハネ福音書の語り方の特徴です。
【自分のところ】原語は「自分のもの/ところ」(中性名詞複数)で、続く「自分の民」の原語は「自分の者たち」(男性名詞複数)です。だから、原文は「自分のところ・・・・・自分の者たち」です。「自分のところ」とは、ロゴスによって成り立つ自然界のことで、「自分のもの」とはそこに住む人間のことだという解釈があります〔ブルトマン『ヨハネによる福音書』〕。「自分のところ」は「自分の故郷/祖国」のイスラエルを指し、「自分の者たち」はそこに住むユダヤの民を指すという解釈もあります。ここでは、すでにユダヤ人の洗礼者が登場していますから、特に「イスラエル(ユダヤ)の民」を指すのでしょう。なお「来た」とあるのは、続く14節で語られる受肉の出来事を指します。これに対して、旧約の知恵文学では、「知恵」(ソフィア)が、彼女を受け入れるべき人たちから排除されて、「身を隠した」とあります(『バルク書』3章12節を参照)/『第一エノク書=エチオピア語エノク書』42章1~2節)。
【自分の民】これは第一義的に、イエスの当時の「ユダヤ人」を指します。イエスが「ユダヤ人」と呼ばれるのは、ヨハネ福音書全体でわずか3回だけで、サマリアの女からと(4章9節)、ピラトからの呼びかけと(18章33節)、イエス自身によるものです(4章22節)。2回は異邦人からの呼びかけですが、イエス自身が自分を「ユダヤ人」と呼んでいる箇所が特に注目されます。ヨハネ福音書で「ユダヤ人」は福音書の語り手によって用いられることが圧倒的に多く、その多くはイエスの敵対者についてです。ただし全部がそうではなく、時にはイエスをめぐって「分裂する」ユダヤ人が描かれます。だから、11節は、「イエスを受け入れるユダヤ人」と「拒否するユダヤ人」とに分かれることになります。次の12節では、「彼を受け入れる」人たちがでてきます。11節の拒否と12節の受容とのこのような対比は3章32~33節にも表われます。
[12]【受け入れた人】12~13節もひとつのまとまりをなしています。「しかし」とあるのは、前節を受けて、拒否する人たちがいる「と同時に」受け入れる人たちが出るという意味です。原文は「<だれでも>受け入れた人には」です。この「だれでも」は主語ですが、それが「み名を信じる<人たち>」へつながります。直前に述べた人のことをもう一度繰り返し説明するのがヨハネ福音書の特徴です。「自分の者」は13章1節にも出てきますが、そこではイエスが、「世にある自分の者たち」(十二弟子)を極みまで愛したとあります。今回の「彼を受け入れなかった自分の者たち」と、13章の「イエスが愛した自分の者たち」とが、際だった対照をなしています。
【その名を信じる】原文は「彼の名を信じ受け入れる」。「彼」は直前の「世に来臨したロゴス」のことです。「名は体(その人)を表わす」と言いますから、「その名を信じる」は「彼を信じる」と同じです(2章23節)。ただしここの「信じる」?には前置詞がついていて、「その名を信頼し、これに信託する」ことです。"those who put their trust in him"〔REB〕。ヨハネ福音書では、このように「信じ受け入れる」という言い方がしばしば用いられます。
【神の子となる資格】「資格を与える」は「力を与える」「権能を与える」ことですから、人に「能力/権能を授与する」ことです。「彼の名に信託する」人には、闇の中にあっても、その人の内へ浸透する彼(光)から来る「能力/権能」が働いて、その結果、その人に、「神の子」となる性質がとどまるのです。「(神の)子」は、ギリシア語「テクノン」“child”の複数形です。共観福音書もパウロも、「子/子孫」(ギリシア語「ヒュイオス」)“son/descendant”を用いていますが、ヨハネ系文書では、「子」(ヒュイオス)は「神の御子」としてのイエス・キリストだけに用いられて、キリスト者たちには「子供たち」が用いられます。
[13]【この人々は】原語は、前節の「み名を信じる人たち」を受ける関係代名詞です。この関係代名詞を複数から単数へ変えるなら「彼は」となります。この読み方だと、13節の内容が、イエスの処女降誕と結びつくことにもなります(最後の動詞の3人称複数形が問題ですが)。エイレナイオスやテルトゥリアヌスやオリゲネスたちは、この単数の読みを採りました。現代でもこの読みを採る説がありますが、ギリシア語原典を初め、一般には複数形の読みが採用されています〔新約原典テキスト批評〕。
【血筋に】原語は「血によらない」です。これは「血筋によらない」ことで、家系や人種的な血統を意味します。「肉の欲」は、ほんらい自然界の繁殖力のことですが、ここでは性的な欲望のことでしょう。ただしヨハネ福音書では、「肉」という言い方に、特に人間の罪性を重視する含みはありません。また「人の欲」とあるのは、「人=男」?“man”とすれば性の営みを意味しますが、ここはむしろ、人間の知恵や努力に頼ることです。「神の子ども」になるのは、人間の努力や営みによっては不可能な創造のみ業だからです。ヘレニズム世界でも、『ヘルメス文書』にあるように、「不死の神性が授与される」宗教が存在しました。しかし、これは人間の内にほんらい具わっている不死の霊魂が、その人の修行によって、現世を離脱して不死へと到達しようとするものです。?
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