11章 み言の受肉
                            1章14節
■1章
14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
                             【講話】
                              【注釈】
■受肉の秘義
 「言が肉となった」(14節)というのは、神の永遠のみ言が、肉体を具えた人間となって、わたしたちの自然界に入り込んできたことです。これを「受肉」(じゅにく)と呼びますが、この出来事は、パウロが言うとおり、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったこと」(第一コリント2章9節)であって、これを伝える聖書の証言がなかったなら、わたしたちにはとうてい信じることのできない不思議です。
 宇宙と人間を造られた神は、この自然界を超越した存在です。こういう超在の神が、その神性を宿したままの姿で、わたしたちの間に宿るのですから、これは自然界への内在になります。自然を超越する方が自然に内在するというのは矛盾です。けれども、福音の本質は、この出来事の神秘に深くかかわっています。わたしたちが福音を正しく理解するかどうかは、ここで語られている秘義をどこまで深く洞察するかにかかっているとさえ言えます。
 クリスマス物語は、み言の出来事を語るのに最もふさわしいでしょう。そこには、超在の神から遣わされた御子が、わたしたち人間の世界に入り込んでこられた不思議がみごとに表現されています。あのクリスマスの夜に、馬小屋の中で、神から遣わされた救い主が誕生したように、み言の光が、イエス様という一人の人間として、わたしたちの住む世界に差し込んできて、わたしたちに宿ってくださるのですから。このような出来事は、人知や血筋や人の欲求から出た営みとはとうてい思えません(1章13節)。それゆえ、わたしたちは、これを「神の神秘」として受け入れるのです。
 「言が肉となった」の「なった」は、原語では「生じた」「起こった」の意味で、「万物はこれによって成った」(1章3節)とあるのと同じ原語ですから、一つの出来事です。わたしたちが、地上に生まれ、結婚して死ぬ。これも、わたしたちに生じる出来事です。受肉もこれと同じく人間の歴史上の一つの出来事です。この「一つの出来事」は、人類史上、一度限りの出来事です。歴史上に一回限り生じた出来事が、実は、それ以後の多くの人に生じる出来事に転じるというのがヨハネ福音書の使信です。かつてのイエス様の時が、以後のすべての人類の時を創造するというこの「時の二重性」は、ヨハネ福音書の語りを理解する上でとても大切です。
■受肉と幕屋
 み言が「肉となってわたしたちの間に宿られた」のは、神が、かつてイスラエルの民にされたことを思い起こさせます。民が荒野を旅する間、神は彼らの間に張られた幕屋に雲のように降り、主の栄光が幕屋に「留まった/宿った」とあります(出エジプト40章34節)。幕屋はいつでもどこへでも持ち運びができる「神殿」ですが、人々がそこで主のみ名を呼ぶと、「主の栄光が幕屋に満ちた」のです。たとえ、仮住まいの幕屋でも、そこが「主のみ名」を呼び求める場であれば、神は御霊となってそこに宿ってくださるから、「御臨在の幕屋」と呼ばれます。この場で神は御霊となって民の代表と出会われた。この場で神は「憐れみ深く恵みに富み」「忍耐強く、慈しみとまことに満ち」「罪と背きと過ちを赦す」お方としてご自身を顕現されたのです(出エジプト34章6〜7節)。
 主の御霊が降るのは、「主がそのみ名を置くと仰せになった場」です。御霊の御臨在にこれ以外の場はなく、御霊の宿りにこれ以外の条件はありません。人が主のみ名を呼び求めるなら、そこが御臨在の幕屋になります。そこに、主の栄光が満ちるのです。この主が、今も、「み名を信じるすべての人」(1章12節)の肉体の幕屋に「宿って」くださる。こうヨハネ福音書は証しするのです。神の子のみ名を信じて、イエス様の十字架に贖われ、御霊を受けた者は、どんなに小さな一輪の花でも、「栄華を極めたソロモンでさえ、この花一つほどにも着飾ってはいなかった」(マタイ6章29節)のです。
 わたしたちは、いわば、肉体という「幕屋」に住みながら地上を歩んでいます。それは、もろくみすぼらしい「地上の幕屋」 にすぎませんが(第二コリント5章2節)、わたしたちが心から主のみ名を呼ぶなら、わたしたちのこの幕屋にも、「恵みと真理に満ちた」(1章14節)イエス様が降り、わたしたちは「そのご栄光を観る」ことができるのです。
■受肉の意義
 「肉となって宿られた」をもう少し洞察したいと思います。「受肉」は、神のロゴスが、わたしたちと同じ肉体と成られ、一人の人間として来られたことを指します。このことは、イエス様が、アマテラスやスサノオノミコトやジュピターのように、現実には存在しない神話的なキャラクター(人物)ではなく、歴史に実在した人物でありながら、その人物が神御自身を啓示したという意味です。日本の社会科の教科書には、「イエスが神を啓示された」とは書かれていません。せいぜいキリスト教の創始者として扱われる程度です。だから、歴史に実在した人物であることと神が宿られた出来事との間には、その出来事の解釈をめぐって、幅広い「解釈の領域」が存在しています。歴史的なイエスと永遠のロゴスを啓示された神の人イエス様との間には、まだ越えがたい溝が横たわっていると言ってもいいでしょう。わたしたちは、いわば、この溝を踏み越えて、イエス様の内に神のみ言(ロゴス)を観るように求められています。肉体的な有り様を「肉によるイエス」と呼ぶならば、神のみ言を宿すイエス様は「霊によるイエス」と呼ぶべきでしょう。溝を踏み越えるとは、肉によるイエスの内に霊によるイエス様を観ることです。
 それは、ただ、無限なお方が有限の時間に入り込んできたとか、人間の肉体に神の霊が宿ったということだけではありません。イエス様が、わたしたちと同じレベルの肉体的な存在となることによって初めて、わたしたちの罪を赦し、弱いわたしたちを助け慰めることができる方となられた。このことを意味するからです。こうして、わたしたちが、肉の存在にありながら、父なる神との交わりに入ることができるようにしてくださった。そうすることで、弱い存在であるわたしたちの肉体と、さらに弱く罪に陥りやすいわたしたちの心を、神が、そのみ言であるイエス・キリストを遣わされて、その弱さと罪深さとを<ご自分の問題として>背負ってくださった。受肉とはこういうことを意味します。
 だから、神が人間の肉体でイエス様をお遣わしになったのは、神の偉大さと優越性を人間に誇示するためではありません。そうではなく、神が、神の状態を捨てて己を無にし、わたしたちと同じ肉体を具えて地上を歩む者となられ、弱く傷つきやすい人間の肉体と、罪に陥りやすい魂とを、赦しと愛で包み、人間に奉仕するためなのです(フィリピ2章7節)。こうして、わたしたちが超えることのできない溝を神のほうから踏み越えられた。まさにこの意味で、イエス・キリストは、神から遣わされた「独特の」お方なのです。父の「独り子」とは、「かけがえのない大切な」という意味だけでなく、ほかと比べることができない「無比の/独特の」という意味です。神が人間と同じレベルの肉体的存在となられ、そうすることで、人間としてわたしたちが受けなければならない肉体にまつわるあらゆる苦悩を、イエス・キリストを通して、いわばご自分のものとされた。このような「人間の姿をしたまことの神」が、ここに啓示されたのです。
■み言の働き
 暗い部屋に差し込む光をわたしたちが「見る」ことができるのは、それが<適度の>強さだからです。人間が、自分の目で光を認めることができるのは、イエス様という「肉となった」神の光が、適度な明るさでわたしたちを照らしてくださるからです。だから、わたしたちは、人間でありながら、イエス様を通じて、神の栄光を「観る」ことができるのです。わたしたちに見えるその栄光はまだおぼろです。ぼんやりとしか見えません。しかし、これも、神の深い配慮によることをわたしたちは悟るのです。
 超在の神が、そのみ言を遣わして、わたしたちに内在してくださる。これは、一つの矛盾です。神が超越した存在としてとどまっている限りは、人間の歴史の中に、具体的な肉体となって現れることはありえません。もしも神が、この宇宙と自然に内在する存在ならば、それは絶えず繰り返し現れるはずですから、歴史上に一度限りということはありえません。しかし、本当の矛盾は、そのような哲学的な課題ではありません。福音の矛盾は、それが生じるわたしたちの存在が、いかにもみすぼらしく、いかにも醜く、いかにも汚れているにもかかわらず、このような大きな恵みが現実に生じるというまさにこのことにあるのです。これが、神の大きな憐れみと恵みの「しるし」だということにあるのです。この不思議が、み言であるイエス様の受難による贖いによってもたらされたことが、ヨハネ福音書でこれから語られます。
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