【注釈】
■「受肉」思想の構成
 
今やロゴスは肉体と成り
わたしたちの間に宿った。
わたしたちは彼の栄光を観た。
父からの独り子の栄光で
恵みと真理に満ちていた。
            〔私訳〕
 この14節は、次のように1~9節と内容的に対応しています〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)を参考に筆者なりの仕方で〕。
 
 初めにみ言があった。
 み言は肉体となった。
 
み言は神と共にあった。
み言はわたしたちの間に宿られた。
 
暗闇は光を理解しなかった。
わたしたちはその栄光を観た。
 
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす。
それは父の独り子の栄光で、恵みと真理に満ちていた。
 
  これで分かるように、1節でロゴスは「存在」していたのが、14節ではロゴスが「成る/生起する」のです。1節ではロゴスは神と共にあったのが、ここでは「わたしたち」と共にいます。1節ではロゴスは「神であった」のが、ここでは「肉と成った」のです。「ある」から「成る」へ、存在から生起へ、永遠から歴史の「とき」へ入るのです。
 だから14節は、その前の1~13節を受けて、私訳にあるように「今こそ」ロゴスが新しい段階に入ったことを告げています。では14節は、13節までとどのように関連しているのでしょうか? 14節は13節までのロゴスが「肉」である人間になったことを伝えています。しかし、ここまでに「イエス・キリスト」のことは全くでてきません。したがって、14節だけを見るなら、ロゴスが「人間」になったことは語られていますが、その人間が「だれである」かは、語られていないのです。ここでは、ロゴスによる人間の「存在」と「救済」が語られますが、その救済者の名前はまだ明かされていません。
 したがって、14節では、ロゴスが受肉した「人間」が、ソクラテスであっても、釈迦牟尼であっても聖徳太子であってもかまわないのです。受肉した人間は特定されていないからです。しかし、14節をさかのぼって13節と結びつけるなら、「その名を信じる者」とありますから、「受肉」は、人間の存在論としてではなく、救済論的に理解されていることが分かります。
 さらに、受肉を11節へさかのぼらせるなら、ロゴスは「自分の民」のところへ来たことが語られています。ロゴスの受肉は、個人の出来事ではなく、部族や民族、さらには人類全体と関連づけられています。だから、受肉による救済は、個人の救済ではなく、「救済史」的な出来事であることが分かります。ただしこの段階では、それが「どの民の」救済史なのかは明かにされません。
 しかし受肉をさらに6節までさかのぼらせると、洗礼者がこれの証人とされていますから、受肉が「イスラエルの救済史」と関連することが分かります。ただし、ここでもまだ、受肉が起こったのは、イエスではなく洗礼者ヨハネである可能性が残りますから、「彼(洗礼者)は光ではない」と、その可能性をはっきり否定しています。このようにして初めて、受肉の出来事が、ナザレのイエスのことであると「間接的に」理解されるようになります。
 受肉がイエス・キリストのことであるのは、このように、それまで語られてきた「一連の組み合わせ」の中から浮かび上がってくるのであって、その名前は、終わりの17節まで特定されないのです。「分かる者には分かる」けれども「分からない者には分からない」この間接的な書き方が、ヨハネ福音書にはしばしば表われます。このために、叙述の「組み合わせ」を無視したり、叙述の構成を解体したりすれば、ヨハネ福音書が説くイエス・キリストは、いろいろな「違う」解釈を生じる恐れがあります。ヨハネ福音書が異端とされる読み方に道を開くのはこのような場合です。
■1章
[14]【言は肉となって】訳文にはありませんが、原文では、私訳のはじめの3行が「カイ」(そして)で始まります。特に14節冒頭の「カイ」は強い響きを持ちますから、「今や/今こそ」の意味になります(水垣渉氏の指摘による)。「肉」(ギリシア語「サルクス」)は、肉体を具えた人間を指す言い方です。パウロの言う「肉」は、弱く罪深い被造物としての人間を表わします。ヨハネ福音書にもパウロ的な意味が受け継がれていますが(6章63節)、パウロほど罪性を意識することがなく、特にここでは、「肉」は肉体を持つ「人間」それ自体のことです。
 ヘレニズムの哲学では、天には、すでに「真人(しんじん)」と呼ばれる人間の理想的原像が存在していて、この原像が「神人」として地上に降るという思想がありました。これはプラトン的な「イディア」思想から来ていると思われます。この思想は、2世紀に、人間の知性を重視するグノーシス思想に採り入れられることで、異端的な傾向を帯びるようになります。グノーシスでは、ロゴス・キリストは、天から降って、地上にいる間だけ「仮の姿」としての肉体をまとい、罪悪に染まった世界に教えをもたらし、秘義を通じて選ばれた人だけを悪の世界から天界へ導く救済者です。
 ヨハネ福音書にも、ロゴス・キリストが天から「降下した」とあります。しかし、14節のロゴスの「受肉」“incarnation”は、プラトン的な「真人」が、単に肉体を<まとった状態で>地上に降ったという思想とは異なることに注意してください。「受肉」とは、超越的な神性を帯びたロゴスが、そのままの状態でこの世に降ることですけれども、「神と共にあった」ロゴスが、どこまでもひとりの「人間として」地上に生まれ、この世の人間と交わりを持つことです。ヨハネ福音書が、あえて「肉体」とは言わず「肉となった」と言うのは、ロゴスが、歴史的な人間そのものである「イエス」となったからです。この意味で、ロゴスの受肉は、どこまでも、あるがままの人間を通じて父の神を啓示するためです。ロゴスの受肉が生じなければならなかったのは、これが、創造者が被造物と出会う唯一の道だからです。これは、驚くべき奇跡であり逆説です。ヨハネ福音書は、この神秘と奇跡をここで証しするのです。
 だから、ロゴスの受肉における「霊と肉」の関係は、グノーシス思想や仮現説(人間イエスは、地上でのロゴスの仮の姿にすぎないと見る)やストア哲学やヘレニズムの哲学とは異なっていて、むしろ、ローマ1章2~3節や同8章3~4節、またフィリピ2章6~7節と同じです。ロゴスは肉と「成った」のですから、これは超越的なロゴスが、人間の住む物質界から人を解放し己も解放されるためではなく、逆にロゴスが、生身の人間の歴史的な状況に結び付けられるのです。
【宿られた】「宿る」は、ほんらい「天幕に住む」ことで、そこから「一箇所に滞在する」「定住する」という意味になりました。かつてイスラエルの民が荒野を旅していたときに、神は、彼らの間に張られた幕屋に「宿られた」とあります(出エジプト40章34節を参照)。幕屋は、いつでもどこへでも持ち運びができるから、いわば仮の「神殿」にすぎません。ところが、神は、この幕屋を美しく飾り、モーセがそこで主のみ名を呼ぶと、「主の栄光が幕屋に満ちた」のです。たとえ、仮の幕屋であっても、そこが「主のみ名」を呼び求める所でさえあれば、神はその栄光を顕してくださいました。だから幕屋は、神が御霊となって臨んでくださる「御臨在の幕屋」と呼ばれています。
 「宿る」のヘブライ語は「シャーカーン」で、「御臨在」はこれの分詞形からでた「ミシュカーン」(宿り/幕屋/聖所/神殿)です。出エジプト記40章34節には「すると雲が出会いの場を覆い、主の栄光が幕屋(ミシュカーン)を満たした」(原文直訳)とあります。出エジプト記のこの節には、「人間と神との出会い」と「栄光」と「主の御臨在」と、それが「満ち満ちて」いる様子がはっきりと語られていて、そのままここ1章14節で用いられている言葉と一致しています。ヨハネ福音書は、出エジプト記40章のこの場面を受け継ぐ「御臨在」を証言しているのです。なお列王記上8章10~11節をも参照してください。
【その栄光を見た】「栄光」は、その前の「宿った」と密接に関係します。神が宿られたのは、幕屋が立派だったからではありません。ヨハネ福音書では、栄光が、イエスの御霊と関連づけられ(7章39節)、また人間的な苦しみ、特に「受難の栄光」として語られます(12章16節/13章31節)。ロゴス・イエスは、旧約の幕屋で証しされている主の御臨在と栄光に証しされながら、これに優って、地上の人間を救済する権能を具えている方として、臨在の幕屋に取って替わるのです。1章14節の栄光は、受肉したみ言という「この御臨在の幕屋」で、神と人が出会いひとつになる日が来ると告げるヨハネ黙示録へつながります(黙示録21章3節)。
【わたしたちは見た】「わたしたち」はここが初めてです。この「わたしたち」が、次に来る洗礼者を含むとすれば、そこには旧約の預言者たちも含まれることになります(アブラハムを始め預言者たちがイエスの到来を予見していたことについては8章56節を参照)。それだけでなく、同時に、ヨハネ共同体の人たちもこの「わたしたち」に入るのは明かです。だから、イエスの生前彼と共にいた使徒たちだけでなく、それ以前の父祖や預言者たち、それ以後のヨハネ共同体もが「わたしたち」に含まれます。
 しかし、イエスに宿るロゴスの受肉とその栄光を弟子たちがほんとうの意味で「観る」こと、すなわち霊的に悟ることができるのは、イエスの受難と復活、これに伴う聖霊授与の後になってからです(16章13~14節)。にもかかわらず、使徒たちを始め、イエスの弟子たちは、聖霊を受けたときに、「生前の」イエスが顕した栄光を「観た」と証言するのです(例えばヨハネ2章11節)。
 イエスの生前に、共にいた使徒たちがどこまでイエスの神性を洞察できたのかは必ずしも明らかでありません。マルコ福音書は、イエスのメシア性が人々の目から隠されていたことを示唆しています。しかし、イエスをメシアだと信じる人たちが多数いたことも事実ですから、イエスの栄光は、復活以後ほどではないにせよ弟子たち始め多くの人たちが目撃したと思われます。ヨハネ福音書で使徒たちは、すでに在世中に、イエスが「神の子」であると証ししています(1章49節)。ヨハネ福音書の使徒たちのこの証言は、ロゴス・イエスの栄光を「観た」のが、イエスの生前であったのか? それとも復活以後のことであったのか? こういう時間的な違いを超えて、一貫した霊的な視点で「観た」と言っているのです。この霊的な観点は、それ以後も教会に受け継がれて、ヨハネ共同体も御霊にあってイエスの栄光を観たと証しするのです(第一ヨハネ1章1節)。
【父の独り子】ここで初めて「神」が「父」に変わり、ロゴス・イエスが神の御子であることがはっきりと告げられます。原文は「父<からの>モノゲネース」です。この語は、「ただ一人の子/一人っ子」(ギリシア語「モノゲネートス」)とは少し違っていて、「独り子」(モノゲネース)は、「唯一の」を意味するだけでなく、他と比較できない「独特の」を意味していて、そこから父が「最も愛する子」を意味するようになります(創世記22章2節/マタイ3章17節/ヘブライ11章17節を参照)。知恵の書(7章22節)に「知恵(ソフィア)には理知に富む聖なる霊がある。この霊は単一(モノゲネース)であり・・・・・」とありますから、ヨハネ福音書の序の言葉にでてくる「ロゴス」には「ソフィア」の霊性も具わると言われています。最愛の「独り子」とあるように、父なる神と御子イエスとの深い交わりは、ヨハネ福音書の特徴です。
【恵みと真理】出エジプト記(34章6節)には、主の御臨在の様子が、「憐れみ深く恵みに富み、忍耐強く、慈しみとまことに満ち」とあります。この「慈しみとまこと」のヘブライ語「ヘセッド」(慈愛/善意/憐れみ)と「エメッツ」(誠実/不変不動/真実)が、ここでの「恵みと真理」に対応します。この組み合わせは14節と17節で二度繰り返されていますが(第二ヨハネ3節をも参照)、これは出エジプト記から来ていて、新約聖書ではここの二箇所だけです。ヨハネ福音書全体では、「恵み」はここ14節と16節と17節の3箇所だけですが、「真理」(アレーセイア)は18箇所ほどでてきます〔新共同訳〕。
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