12章 み言の御臨在
                      1章15〜18節
■1章
15ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
16わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
17律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
18いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
                          【講話】
                       【注釈】
■人間イエス様
 今回で、ヨハネ福音書の序の言葉が終わります。改めて全体を振り返ってみますと、14節の受肉を境に、受肉にいたる13節までと、それ以後18節までのロゴスの地上での御臨在と、全体が大きく二つに分かれているのが分かります。ヨハネ福音書の序の言葉は、2世紀以後において、キリスト教の教義論争に多大な影響を与えることになります。父なる神と御子であるイエス・キリスト、この両者の関係をめぐって論争が行なわれたからです。この問題は、325年の第一回ニカイア公会議で、父なる神とイエス様とが「同一の本質を有する」ことで、ひとまず決着します。以後、紆余曲折を経て、この信仰が、キリスト教の正統信仰になりました。この問題の最初の発端となったのが、ヨハネ福音書の序の言葉です。それはなぜでしょうか?
 パウロ書簡でも共観福音書でも、ナザレのイエス様が「人間」であることは、言わば自明のことでした。だから、地上におられたイエス様が、どのような意味で「メシア/キリスト」であり、神の御子なのか? ということにもっぱら関心が向けられていたのです。ところが、ヨハネ福音書の「序の言葉」において初めて、永遠のロゴスが受肉したイエス様とは、どのようなお方なのか? すなわち、神の御子としてのイエス様の「人間性」のほうに関心が向けられることになったのです。
 永遠の神と一つであるロゴス、このロゴスが地上に人間となって来られたことは、永遠と時間、神と人間、天の超在から地への降下のように、相反する要因が「人間イエス」において一つになることを意味します。これは、通常ではとうてい考えられない矛盾を孕む逆説です。パウロの言葉で言えば、「人の知恵では思い及ばない」ことです(第一コリント1章19〜21節/同2章9節)。キリスト教ではこの矛盾を「躓(つまず)き」と呼んでいます。
 マルコ福音書では、イエス様が神と一体であることが、「メシアの秘密」として、人の目から最後まで隠されています。イエス様が十字架で息絶えて初めて、「この人はほんとうに神の子だった」とローマの兵士がつぶやくのです(マルコ15章39節)。それまでは、弟子たちもイエス様の周囲の人たちも、イエス様のなさる癒しや不思議な業に驚きながらも、その「ほんとうのお姿」を洞察することができなかったとマルコ福音書は伝えています。マルコ福音書は「神の子イエス・キリストの福音」で始まりますが、イエス様が「キリスト」(救い主)であり「神の子」であることは、最後まで「隠されて」います。
 福音とは、天地創造の神が、イエス様という人間を通じて、地上の人間に御自身を顕されたことです。しかし、イエス様の神性は、一人の人間となることによって、逆に「隠されている」とも言うことができます。だから、「啓示する」(顕す)とは「隠す」ことだという逆説にもなります。キェルケゴールは、このようなイエス様と神との関係を「神の徴行(びこう)」と呼びました。「徴行」とは、身分の高い王様などが、庶民の姿をして「おしのびで」出歩くことです。マルコ福音書が描くイエス様は、神が人になって徴行している姿だとも言えましょう。
 これに対してヨハネ福音書は、最初の序の言葉から、イエス様が、永遠の神のみ言(ことば)の受肉したお姿であるとはっきり証ししています。1章1節から13節までは、受肉にいたる経過を語っていますが、14節から18節までは、受肉の出来事を言わば「解釈」しているのです。
 ヨハネ福音書では、父御自身が、イエス様の行なう数々の奇跡と不思議の業を通じて、その栄光を顕します。しかも、イエス様ご自身が「自分からは何一つすることができない」(5章19節)と言われるほど、ただ父なる神の導きのままにご自分をお委ねになることで、父の御栄光が顕れます。だから、ヨハネ福音書では、マルコ福音書と違って、神の御栄光が、イエス様のお言葉とその行動を通じて人々に啓示される「出来事」が描かれていることになります。
 マルコ福音書の描くのが躓きのイエス様なら、ヨハネ福音書のほうは顕現のイエス様です。「躓き」と「顕現」のこの二面性、人間イエス様のお姿が、神を隠す躓きと、逆にその言動を通じて神の栄光を顕す啓示と、この二面は表裏を成しています。これが、四つの福音書がわたしたちに伝えている父なる神が遣わされた御子としてのイエス様像だと言えましょう。
■躓きのイエス様
 イエス様が、ご自分のことを「神」であるとか、「神の子」であると主張されたことはありませんが、その周辺の人たちは、イエス様を「メシア」とか「神の聖者」と呼びました。それは、ナザレのイエス様を通して、神御自身が働かれたからにほかなりません。御自分の口で言わなくても、イエス様を通じて働く神の御霊の出来事それ自体が、「このこと」を語っていたからです。四福音書で語られるイエス様による不思議としるしの奇跡物語は、「この出来事」を表わすために誕生しました。奇跡は、神の聖霊が働かれた足跡にほかなりません。それは、神による創造の御業を表わそうとするものです。
 一人の人を通して神御自身が創造の業を顕現されたこと、言い換えると、創造の神御自身が一人の人間とひとつになられたこと、この出来事に潜む躓きのゆえに、イエス様は十字架にかけられたと言えます。造られた人間と創り主との出会いと断絶にこそ、イエス様の十字架がわたしたちに伝えようとしている真相が潜んでいます。
 人間イエス様を通じて、創造の神御自身が働かれたことが、イエス様の弟子たちを始め、その周辺の人たちを驚愕(きょうがく)させ、時のユダヤの指導者たちをしてイエス様の処刑へと追いやった理由です。これがイエス様に対する「躓き」の真相であり、パウロが「十字架の躓き」と呼んだのもこれです(第一コリント1章22〜25節)。ステファノが「聖霊に逆らっている」とユダヤの指導者たちを批判したのはこのためです(使徒言行録7章51節)。
 この真相に目を留めないと、イエス様の十字架は、当時の社会的・政治的な権力に刃向かった結果にすぎなかったことになり、「イエス革命運動家」という見方が生まれてくることにもなりましょう。イエス様は決して政治的・社会的な意味の「革命家」ではありません。彼はバラバではないのです。
■恵みと真理
 1章15節に登場する洗礼者は、共観福音書の場合とは違い、イエス様のただの先駆者ではありません。古代の教父たちは、15節の洗礼者の言葉が17節の終わりまで続くと考えました。17節でモーセとイエス様が比較対照されています。モーセに律法を与えたお方、モーセが拝した主御自身が、イエス様を通して顕れたのです。だからモーセとイエス様は、対照されますが対立することはありません。「モーセはわたしについて証ししている」(5章46節)からです。モーセ律法は、父なる神から授与された啓示であり、厳しく命じることによって、罪に走りがちな人間性を規制し、これを正しい方に向かわせようとするものでした。しかし、外からの働きかけでは達成できなかった「律法の諸行」は、イエス・キリストの受肉によって成就されるのです。神の御霊が人の内に宿ることで、人の心に全人格的に働きかけることによって、人を動かしてくださるからです。受肉した神であるイエス様の御霊に導かれて初めて、人は神のほんとうの「恵みと真理」を知ることができるのです。これは人間の努力によるのではありません。イエス様さえ、ご自分を無にして御霊に「導かれる」ままに歩まれました。「御霊に導かれる」とは人間の本性(nature)を否定することではありませんが、御霊は人の本性をそのままで肯定することもしません。単なる自己否定は人を殺し、単なる自己肯定は人を腐らせます。「自然」(nature)についても同じことが言えます。自然も人も、御霊に「導かれる」ことで初めて、正しく活かされる状態で保たれるのです。
                                   ヨハネ福音書講話(上)へ