【注釈】
■1章
[15]この節は、マルコ1章7節の洗礼者の言葉を受けています。編集者は、1章30節の洗礼者の言葉へのつなぎとして、この節をここへ挿入したと考えられます。
【証しを】この動詞は現在形で、続く「叫んだ」は完了形です。現在形が用いられているのは、洗礼者のこの言葉が、以後のケーリュグマ(宣教の定型句)となったからでしょう。また「叫んだ」とある完了形は、叫んだ時の状態が、今もなお持続していることを意味します。「声を張りあげた」洗礼者の証言はイエスの「叫び」にもつながります(7章28節/同37節/12章44節)。「今や、語られる。何故であるか。神の御言葉が語られた。それ故、人の言葉が語られる」〔バルト『ヨハネによる福音書』〕。このように、序の言葉は、後半になるにつれて、ロゴスの先在と創造性から、み言の歴史的な臨在とその栄光へと移っていきます。
【後から来られる】「わたしの後から来られる方」は、1章30節へつながります。この句はマタイ3章11節の「わたしの後から来る方」とほぼ一致していますが、マタイ3章11節も、マルコ1章7節の「わたしの後から来られる」を踏まえています。
【わたしよりも先に】マタイ=マルコ福音書では「わたしより優れている」とありますが、ヨハネ福音書では「わたしより先に」です。15節でやや唐突に洗礼者がでてくるのは、洗礼者が受肉の証人であり、永遠のロゴスが歴史の時間の内へ入り込んだことを証人の口を通して確認するためですが、同時に、洗礼者がキリストではないことをも示そうとしています。原文では「わたしの後」と「わたしより先」が対応し、「来る」が「出現する」と対応しています。なおこの節の関係代名詞に続く節を省いて「~とわたしが言ったのは、この方のことである」を不要として、「ヨハネは、この方について証しをし、叫んで言った。『わたしの後から来られる方がいる。彼はわたしより優れている。わたしよりも先におられたから』」という読み方もあります。
[16]15節が挿入であるのなら、16節はほんらい14節から続くと考えられます。16節の冒頭に来る接続詞は、「なぜなら」と「そして」のふたとおりの異読がありますが、どちらの読みをとるのか説が分かれます。「なぜなら」が原典であるのなら、14節から続けて「ロゴスは恵みと真理に満ちていた。<なぜなら>わたしたちは、恵みの上にさらに恵みを受けたからである」となります。
【満ちあふれる豊かさ】これの原語は「プレーローマ」で、「満たされた状態/充満/成就」など、欠けているところがない状態を指します。この言葉は、2世紀のグノーシス思想で宇宙の霊的な充満を表わす用語として用いられますが、新約聖書の段階では、まだ明確なグノーシス思想は現われません。「プレーローマ」は、ヨハネ福音書ではここだけですが、パウロ系の書簡で用いられる場合が多く(コロサイ1章19節/同2章9節/エフェソ1章23節/同3章19節/同4章13節)、どれもキリストの知恵と知識の豊かさに満ちている状態を言い表わしています。イエス・キリストには、知識も知恵も一切が含まれていて、「恵みと真理」が、余すところなく全体として体現されているものは、これ以外のどこにもないという意味です。なお、「わたしたち」とあるのは、「満ちあふれる中から受けた」のが、洗礼者だけでなく、ヨハネ共同体を含む「わたしたちすべて」でもあることです。
【恵みの上に、更に恵みを】原文は「恵みに代えて恵みを」とも読むことができるので、すでに与えられている「律法の恵み」に代わって「イエス・キリストの恵み」が与えられるという解釈もあります。確かに、17節では、モーセ律法とキリストの恵みとが対照されていますから、このような解釈も成り立つでしょう。しかしここは、新共同訳のように、恵みが次々と湧き出るように満ちあふれる様を表わすという解釈が一般的です。
[17]【律法はモーセを通して】モーセとイエス・キリストが互いに対立しているのではなく、ここでは、モーセの「律法」とイエス・キリストの「恵みと真理」が比較対照されていると見るべきでしょう。旧約聖書のモーセは第一の贖い主であり、新約のキリストは第二の贖い主だと見て、ここ17節には、モーセ律法とイエス・キリストが時代的に継続しているという解釈があります〔ビーズリー=マレー『ヨハネ福音書』〕。この観点から見れば、ロゴスであるイエス・キリストは、「第二のモーセ」として、人類に「第二の出エジプト」をもたらす方になります。
 モーセの律法とキリストの福音の関係は、決して単純ではありません。だから、律法と福音とをただ対立的に理解するだけでは、律法も福音も、その本質をとらえ損なう危険があります(ローマ3章21~22節を参照)。ビーズリー=マレーの比較的新しい解釈も、この辺の難しさを感じさせます。ここでは、モーセとキリストを対立させるのでも同一視するのでもなく、モーセの律法とキリストの福音とを「継承関係」において見ることで、イエスが「モーセにまさる」ことを言おうとしているのです(6章32節)。モーセは律法を神から受けました。しかし、そのモーセが伏し拝んだ「神御自身」が今来られたのです〔バルト『ヨハネによる福音書』〕。モーセとイエスとのつながりについては5章46~47節でも言及されますが、そこでもイエスとモーセとは、対立関係に置かれてはいません。モーセを含む預言者たちと福音のこの関係は、ヘブライ1章1~2節にも表わされています。なお、律法は「与えられた」とあるのに対して、恵みと真理は「現われた/起こった」とあって、律法が「教え」であるのに、福音は「出来事」であることに注意してください。
【恵みと真理】これについては14節の注釈を参照してください。「恵み」と「真理」にさらに「自由」(8章32節)を加えると、この組み合わせはパウロの福音に近くなります(ローマ5章20節/ガラテヤ2章4~5節/第二コリント3章17節)。エフェソはヨハネ共同体がその後半期を過ごした場所であると同時に、パウロともゆかりの深い場所でパウロ系の諸教会も存在していました。
[18]【神を見た者はいない】出エジプト記33章18~23節には、モーセが、神の「顔を見る」ことは許されなかったけれども、神の「後ろを」見ることができたとあります(なおシラ書43章31節参照)。おそらく、ここ1章18節は、このことを踏まえているのでしょう。旧約聖書では、神は「語る」けれども「見えない」方とされています(申命記4章12節)。モーセは神の背中を見て律法を授かったのです。ヨハネ福音書やヨハネの手紙でも、神は、直接見ることのできない存在とされています(第一ヨハネ4章12節)。だから、ここでの強調点は、見えない神が、イエス・キリストにおいて人類に顕れたこと、しかもイエス・キリストにおいてのみ顕れたことを伝えようとしているのです(14章8~9節)。
【父のふところにいる】「~のふところにいる」という言い方は、ユダヤでもヘレニズム世界でも、ほんらい夫婦の愛や、特に母と子との関係を言い表わすものです。ユダヤでは、「~のふところにいる」は、神あるいは神の人とイスラエルとの親しい関係を表わす用語です(ルカ16章22節「アブラハムのふところに」)。ヨハネ福音書では、最後の晩餐の席で、イエスの愛(まな)弟子が、イエスの<胸に寄り添って>尋ねています(13章25節)。なお、「父のふところにいる独り子の神」"the only God, who is in the bosom of"を「父のふところに<いるそのままの状態で>?」"the only God, while being in the bosom of"と読むこともできます。この読み方だと、ロゴスは、父のふところにいるそのままの状態を放棄することなく、地上のイエスとなって神を人々に啓示したという意味になりますから、ロゴスは、1節と14節と18節を通じて、終始一貫、父なる神との交わりを維持していることになります〔バルト『ヨハネによる福音書』〕〔キーナー『ヨハネ福音書』(1)〕。さらに今ひとつの読み方として、「父のふところに戻った(独り子の神)」という読み方もあります(原文の前置詞は"who is <to/into> the bosom of the Father")。これだと、地上での救いの業を終えた独り子が、今や父のふところにいて、そこからイエス・キリストの霊的な出来事を解き明かしてくださることになりましょう〔McHugh. John 1-4.ICC.71〕。
【独り子である神】原文では「モノゲネースな<神>」と「モノゲネースな<子>」のふた通りの読み方があります。「モノゲネースな子」という読みは、おそらく3章16節や第一ヨハネ4章9節の「御子、すなわち独り子」という言い方に合わせた後の書き換えであろうと思われます。論理的には「子」のほうが分かりやすく、「独り子である神が神を啓示する」という言い方はやや不自然です。だからこそ、こちらのほうがほんらいの読みだとされています(不自然な読みから自然な読みへ書き換えられるから)〔新約原典テキスト批評〕。ヨハネ福音書のこのような不自然な書き方は、「父のふところにいる独り子の神」が、内容的には1章1節の「(神の)特愛のロゴス」であることをこの一句によって示すことで序の初めの1~3節へ戻り、同時にここで序の言葉全体を締め括る意図からだと思われます。詳しくは、ヨハネ福音書補遺→「独り子について」を参照してください。「独り子である神」〔共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕。”It is God the only Son.”〔NRSV〕/"God's only Son"〔REB〕。
【神を示された】「示す」の原語「エクセーゲオマイ」は「詳しく説明する」「物語る」です。この語はほんらい、聖堂などの聖地を案内して、参拝する客にその神聖さを語り聞かせることを指しますから、ギリシア文学では、「神の神秘を解きあかす」ことを意味しました。このギリシア語は英語の「釈義」“exegesis”の語源です。すなわち神との「交わり」こそが、最も重要な「釈義」なのです〔バレット『ヨハネ福音書』〕。13節までは主としてロゴスについての出来事を語っていますが、14節の受肉を境にして、ヨハネ福音書は、ロゴスの受肉の出来事を「釈義」しているのです。
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