【注釈】(1)
■洗礼者の証しの編集
〔この箇所の特徴〕
1章19~34節は、語法的に見てもヨハネ福音書の典型的な特徴を示しています。それだけでなく、文献批評から見ても、この部分の構成は、ヨハネ福音書の編集過程を知る上で重要な箇所であり、同時にこの福音書の神学を探る上で興味深いところです〔キーナー『ヨハネ福音書』(1)〕。1章の洗礼者の記事には次の特徴を見ることができます。
(1)共観福音書と並行する箇所があります(23節/26節/27節/32節/33節)。しかし、これら以外の箇所に共観福音書と並行関係を認めることができません。したがって、この部分には、共観福音書からの伝承とそれ以外の伝承(資料)の二つが混淆している可能性があります。
(2)語りのつながり方において、不自然な箇所があります。19節は洗礼者による「ヨハネの証し」で始まります。しかし、イエスについての証しはすぐには始まらず、証言全体が2日にわたっています。洗礼者は21節でエリヤかと尋ねられて、これを否定しますから、そのまま25節の彼への問いかけにつながるほうが自然です。また26節の「水の洗礼」についての証しは、内容的に31節へつながるのが自然です。
(3)全体にわたって重複箇所が見られます。15節と30節「わたしより後に来る方はわたしより先にいた」。19節と24節の「遣わされた者」について。21節と25節「そこで彼らは彼に尋ねた」。29節と36節「見よ、神の小羊」。32節と33節の「聖霊が降る」〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
〔ブルトマンの復元〕
これらの特徴をブルトマンは次のように分析しました。ここには、ヨハネ福音書の作者ほんらいの語りと、これを訂正し編集した者がいます。この編集者は、原作に共観福音書と共通する部分を挿入したために、語りに不自然さと重複をもたらす結果になったと見ています。ブルトマンの説は納得できる印象を受けますが、この分析には問題があります。
彼は、原作を編集した人を、ヨハネ共同体とは異なる教会の人物、すなわち、いわゆる主流の教会に属する人だと見ています。この人物は、原作を共観福音書系の教会の教えに合致させるために、原作を「訂正」したり共観福音書からの引用を加えたりしたと見るのです(このような編集の仕方を原作に対して「非継承的な編集」と呼びます)。もしもこの分析が正しいとすれば、以下にあげる二つの疑問が浮かび上がってきます。
〔A〕一つは、原作を共観福音書の系統に合わせるのであれば、なぜヨハネ福音書と共観福音書との最も重大な違いである「イエスの洗礼」が抜けているのか? ということです。
〔B〕さらに、ヨハネ福音書の旧約からの引用が、用語的に見ると、マルコ福音書と共通するもの、マタイ福音書と共通するもの、ルカ福音書と共通するものなど、ばらばらで、共観福音書の伝承/資料とは別個の伝承から出ているとしか思えないことです。
〔C〕さらに、19~34節までが、19~28節と29~34節との二日にわたる出来事に均等に分けられていて、相互に重複しながらバランスを保つ構成がなされていることです〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
だから、現行のヨハネ福音書から見ると、原作の編集者は、同じヨハネ共同体内の人物であり、おそらくはその人が、ヨハネ福音書の原作とそのほんらいの伝承内容を伝えた始祖(イエスの愛する弟子)の証言を受けて、これを編集し補充したのであろうと考えることができます(このような編集を「継承的な編集」と呼びます)。
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